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ナントカ堂 2024/07/02 00:02

金から高麗への国書

『訳本『金史』世紀』はレビューを二つもいただき大変うれしく思います。
そこで今回は本作に関連して金の高麗への態度の変遷を『高麗史』の記事から見ていきたいと思います。
まずはちょっと長くなりますが、睿宗四年六月庚子条から


睿宗が宣政殿の南門で、褭弗や史顕ら六人を引見した。来意を問うと、褭弗らはこう言った。
「その昔、我らが太師の盈歌はこう言いました。
『我が祖宗の出自は大邦(高麗)である。子孫に至るまで、義として帰附すべし。』と。
今、太師の烏雅束もまた大邦を父母の国と考えています。
甲申年に弓漢村の人が太師の指導に従わなかったので、我らは懲罰のために出兵しました。国朝は我らが国境を侵犯したと考えて出兵し、戦いの後に再び修好を許しました。故に我らはこれを信じ、絶えず朝貢を続けました。
それが去年、理由も無く大軍が侵攻して、我が方の老人・子供を殺し、九城を置いたため、土地を追われた者は帰るところを失ったのです。故に太師は我らを遣わして以前に居た土地を求めたのです。もし九城のある地に戻り安心して生活できるようになったなら、我らは天に誓って、子々孫々に至るまで、謹んで朝貢いたしましょう。また敢えて国境の向こうに瓦礫を投げ込むようなことは致しません。」
王は慰諭し、酒食を賜った。


 アグダ挙兵は睿宗十年ですが、十二年三月癸丑条にはこうあります。


 金主阿骨打が阿只ら五人を遣わしてこのような書状を送った。
 「兄・大女真金国皇帝、書を弟・高麗国王に致す。
 我が祖父も父も一地方に居て、契丹を大国と言っていたが、高麗は父母の国と言って心を尽くして仕えた。
 契丹は無道で、我が領土を侵犯し、我が人民を奴○として、たびたび大義名分の無い兵を興した。我は止むを得ずこれを防ぎ、天の助けを得て殲滅した。
 ここに高麗国王に、我との和親を許す。契りを結んで兄弟となり、代々尽きることなく友好を結ぼう。」
 そして良馬一頭を贈った。


 そして十四年二月丁酉条になるとこのようになります。


 金主が使者を遣わして礼物を贈り、このような書状を送った。
「高麗国王に詔諭する。朕は遼討伐の兵を興し、天の助けを得てたびたび敵兵を破った。北は上京から南は海に至るまで、部族人民は全て慰撫平定した。
 今、孛菫术孛を遣わして告諭する。馬一頭を賜るので、到着したら受け取るように。」

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ナントカ堂 2024/06/01 12:00

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ナントカ堂 2024/05/21 23:26

梁子美

 梅原郁氏の「宋代の恩蔭制度」の「おわりに」には
 「宋代の宰相には、なるほど、呂蒙正、李迪、王曾らの状元出身者をはじめとして科挙の上位出身者が少なくない。しかし目を転ずれば、賈昌朝、陳執中、梁適など、恩蔭出身者も混じっており、執政クラスにもそれが稀ではない。」
 とあります。
 賈昌朝と陳執中の子は恩蔭かどうかは分かりませんが、梁適の孫の梁子美は恩蔭により出仕して、これも執政クラスに昇進しています。(『万姓統譜』には徽宗が梁子美に対して「卿は四代続けて京尹となった。士大夫の間でも光栄なことだ」と言ったと記されています)
 ここでは『東都事略』巻六十六よりその伝を見ていきましょう。


 梁子美、字は才甫、蔭位に拠り出仕し、紹聖の初めに梓州路常平となった。湖南路に異動となって提点刑獄に昇進し、徽宗が即位すると河北転運使となった。
 梁子美は水上輸送で得た利益を上納し、遂には三百万緡で北珠を買って進上した。北珠とは敵地(契丹)から来るもので、敵は初め輸出禁止にしようとしていたが、群臣が協議してこのように言った。
「中国は府庫を傾けて無用の物を買う。これは我らの利となり中国は困窮するであろう。」
 崇寧年間に各地の漕臣が羨余を進上するのは、梁子美より始まる。
 枢密直学士から戸部尚書兼開封尹となった。
 梁子美は府の政務を執るに当たり、大小と無く全て自ら決裁したため、胥吏が賄賂を受けることができなかった。このため共謀して文書を路上で受け渡していたが、発覚すると路上に棄てて逃げた。梁子美はこの書状を焼くよう命じた。徽宗が焼いた理由を問うと、梁子美は「事が大事であれば改めて訴えざるを得ません。小事であれば放置しても良いでしょう。」と答え、徽宗は納得した。
 尚書右丞を拝命し、左丞となり中書侍郎に昇進して資政殿学士・定州知州となった。大名府知府に異動し大学士に昇進した。ある罪で単州に流されたが青州知州として復帰し、観文殿学士に昇進して寧遠軍節度使を拝命した。病のため引退を願い出て、開府儀同三司・提挙崇福宫を拝命し、まもなく致仕した。七十八歳で卒去して少師を追贈された。
 梁子美は地方官の時代に、贅沢で残虐であったが、実務能力があったため、赴任する先々で実績を挙げたという。


 『東都事略』と『宋史』の両方に伝があると、大体同じ内容だと思われがちですが、視点が結構異なってきます。次に『宋史』巻二百八十五の伝を見てみましょう。


 梁子美は紹聖年間に提挙湖南常平となった。このころ新たに「復役法」が施行され、梁子美は真っ先に諸路の賦役を纏めて記し、提点刑獄に昇進した。
 建中靖国の初めに尚書郎中となったが、中書舎人の鄒浩の反対に拠り、京西転運副使に改められた。諫議大夫の陳次升は更にこう言った。
 「梁子美は章惇の姻戚に当たり、たびたび湖南に赴任したのは、章惇の意向に拠るものです。鄒浩の反対に拠り左遷しましたが、後々鄒浩が迫害される恐れがあり、梁子美を都の近くに赴任させるべきではありません。」
 そして成都路に異動となった。
 その後、累進して直龍図閣・河北都転運使になると、転運で得た利益を上納し、緡銭三百万で北珠を買って進上するに至った。崇寧年間に諸路の転運使が羨余を進上するのは、梁子美より始まった。
 北珠は女真の地より産出し、梁子美は契丹から買っていた。契丹は利益を求めて、女真を虐げ海東青を捕え北珠を求めた。遼宋両国の災いはここに端を発する。梁子美はこれを用いて高位高官に至った。
 宣和四年に病のため、開府儀同三司・提挙嵩山崇福宮として致仕し、卒去して少保を追贈された。
 梁子美は地方官の時代に、贅沢で残虐であったが、実務能力があったため、赴任する先々で実績を挙げたという。

 最後の一行だけは一字一句合っているので、『宋史』編纂者が『東都事略』を見ながら記事を取捨したのでしょう。

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ナントカ堂 2024/05/15 12:00

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ナントカ堂 2024/04/21 14:06

李重進

 後周の太祖は妻の甥を後継ぎにしましたが、何故血の繋がった姉の子の李重進に継がせなかったのか甚だ疑問です。今回はこの李重進について『宋史』巻四百八十四の伝を見ていきましょう。ただし李重進の伝は戦闘の描写が多く煩雑となるため、多少省略します。


郭簡
┣━━━━━━━━━━━━┓
┃  □         ┃ 
┃  ┣━━━━┓    ┃
郭威=柴氏  柴守礼  福慶長公主
┃       ┃    ┃
女=張永徳  世宗    李重進


李重進(『宋史』巻四百八十四)

 李重進は先祖が滄州の人で、郭威(後周の太祖)の甥、福慶長公主の子で、太原で生まれた。
 後晋の天福年間に出仕して殿直となり、後漢の初めに郭威に従って河中に遠征した。広順の初め(951)に内殿直都知に昇進して泗州刺史を領し、小底都指揮使に改められた。
 二年に大内都点検・権侍衛馬歩軍都軍頭に改められて恩州団練使を領し、殿前都指揮使に昇進した。三年に泗州防禦使を加領となり、顕徳の初め(954)に武信軍節度使を領した。

 李重進は世宗より年上で、郭威が病の床に就くと、召されて後事を託され、世宗に拝礼するよう命じられて、君臣の分を定めた。
 世宗が帝位を継ぐと、李重進は侍衛親軍馬歩軍都虞候となった。
(中略)
 張永徳が下蔡に駐留していた頃、李重進と不仲であった。張永徳は将吏と宴会を開くたびに、李重進の短所を暴露し、後には酔いに乗じて「李重進は陰謀を企てている」と言ったため、将吏はみな驚愕した。張永徳は密かに信頼する者を遣わして進言したが、世宗はその話を信じず意に介さなかった。二将が共に大軍を指揮していたため、人々は益々憂慮した。
 遂には李重進は寿陽から単騎で張永徳の陣に出向き、酒の席を設けさせる、自ら張永徳に酌をして言った。
 「私と貴公とは共に国家の肺腑であり、互いに力を尽くして国を盛り立てて行かなくてはならない。貴公は何故、私を深く疑うのか。」
 張永徳は和解し、二軍は共に落ち着いた。
 李景はこれを知ると、人を遣わして李重進に密書を送り、多大な利で勧誘した。李重進はこれを世宗に報告した。
 このころ行濠州刺史の斉蔵珍も李重進に謀叛を勧め、これを知った世宗は、他事にかこつけて斉蔵珍を誅した。
(中略)
 宋の太祖が即位すると、韓令坤が李重進に代わって侍衛都指揮使となり、李重進は中書令を加えられた。その後、青州に移鎮となって開府の資格を加えられた。
 李重進は太祖と共に後周に仕え、各々軍権を握っていたが、常に心の中で太祖を嫌っていた。太祖が皇帝になると益々不安になり、移鎮になるに及び、謀叛の志を懐くようになった。太祖はこれを知ると、安心させようと六宅使の陳思誨を遣わして鉄券を賜った。
 李重進は十分な備えをした状態で陳思誨と共に入朝しようと考えたが、側近に惑わされて決断できなかった。また後周の王室の近親であったため、いずれは滅ぼされるであろうと恐れ、遂には陳思誨を拘束して城壁を改修し武器を揃え、人を遣わして李景に援軍を求めた。李景は恐れて拒み、太祖に報せた。
 監軍の安友規は常日頃から李重進に嫌われていたが、ここに至り親しい者数人と共に城門を壊して出ようとした。兵たちに防がれ、ようやく城壁を越えて逃げることができた。李重進は軍校で自分に味方しない者数十人を捕えて皆殺しにした。

 太祖は、石守信・王審琦・李処耘・宋偓の四将に禁軍を指揮させて李重進討伐に向かわせた。このときちょうど安友規が都に到着したため、襲衣・金帯・器幣・鞍馬を賜り滁州刺史に任じて、前軍の監軍とした。
 太祖は側近に「朕は後周の旧臣を疑ったことは無い。しかし李重進は朕の心を理解せず、自ら謀叛の志を懐いた。今、六つの軍が地方に居る。まさに行って慰撫するのみ。」と言うと、遂には親征した。
 大儀鎮に布陣すると、石守信から使者が来て「揚州はまもなく落とせます。陛下直々その場面をご覧ください。」と伝えた。太祖が揚州城に行くと、即日陥落した。
 城がまさに落ちようとしたとき、側近が李重進に陳思誨を殺すよう勧めた。李重進は「私は今、一族挙げて火に身を投じ死のうとしている。陳思誨を殺して何の益があろうか。」と言うと、火を放って焼身自殺した。陳思誨も李重進の一党に殺された。
 太祖は城の西南に布陣すると、逆賊の一党数百人を見て全員殺した。李重進の兄で深州刺史の李重興は、李重進が叛いたと聞くと、自殺した。弟で解州刺史の李重賛と、子で尚食使の李延福は共に市場で処刑された。

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