自遊時閑 2023/12/04 21:51

[芥川龍之介] トロッコ ソフトノベル

 小田原―熱海《あたみ》間に、軽便鉄道建設の工事が始まったのは、良平が八つの時だった。良平は毎日のように村外れへ、その工事を見物しに行った。工事を――というより、ただトロッコで土を運搬する――それが面白くて見に行ったのである。
 トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走ってくる。舞い上がるように車台が動いたり、土工の半纏《はんてん》の裾がひらついたり、細い線路がしなったり――良平はそんな景色を眺めながら、土工になりたいと思うことがある。せめては一度でも土工と一緒に、トロッコへ乗りたいと思うこともある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然とそこに止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押すことさえできたらと思うのである。

 ある夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その他はどこを見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力がそろうと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、――トロッコはそういう音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登っていった。
 それからかれこれ十八メートルほど来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。ともすれば車と一緒に、押し戻されそうにもなる。良平はもう良しと思ったから、年下の二人に合図をした。
「さあ、乗ろう!」
 彼らは一度に手を離すと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初緩やかに、それから見る見る勢いよく、一気に線路を下り出した。その途端、突き当たりの風景は、たちまち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開してくる。顔に当たる薄暮夕暮れの風、足の下に躍るトロッコの動揺、――良平はほとんど有頂天になった。
 しかしトロッコは二三分ののち、もう元の終点に止まっていた。
「さあ、もう一度押すじゃあ」
 良平は年下の二人と一緒に、またトロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼らの後ろには、誰かの足音が聞えだした。のみならずそれは聞えだしたかと思うと、急にこう言う怒鳴り声に変わった。
「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」
 そこには古い印半纏《しるしばんてん》に、季節外れの麦わら帽子をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。――そういう姿が目に入った時、良平は年下の二人と一緒に、もう九か十メートルほど逃げ出していた。――それっきり良平はお使いの帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗ってみようと思ったことはない。ただその時の土工の姿は、今でも良平の頭のどこかに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中ほのかに見えた、小さい黄色の麦わら帽、――しかしその記憶さえも、年ごとに色彩は薄れるらしい。

 その後、十日あまり経ってから、良平はまたたった一人、昼過ぎの工事場に佇みながら、トロッコが来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの他に、線路へ敷く枕木《まくらぎ》を積んだトロッコが一両、これは本線になるはずの、太い線路を登ってきた。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼らを見た時から、なんだか親しみやすいような気がした。
「この人たちならば叱られない」――彼はそう思いながら、トロッコのそばへ駆けて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
 その中の一人、――縞のシャツを着ている男は、うつむきトロッコを押したまま、思った通り心良く返事をした。
「おお、押してくれい
 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
われはなかなか力があるな」
 他の一人、――耳に煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。
 その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも良い」――良平は今にも言われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したきり、黙々と車を押し続けていた。良平はとうとう堪えきれずに、おずおずこんなことを尋ねてみた。
「いつまでも押していて良い?」
「良いとも」
 二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。
 六百メートルあまり押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。そこには両側のみかん畑に、黄色い実がいくつも日差しを受けている。
「登り道のほうが良い、いつまでも押させてくれるから」――良平はそんなことを考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
 みかん畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と言った。良平はすぐに飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、みかん畑の匂いを煽《あお》りながら、ひた滑りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと良い」――良平は羽織に風を受けながら、当り前のことを考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りにまた乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。
 竹やぶのある所へ来ると、トロッコは静かに走るのをやめた。三人はまた前のように、重いトロッコを押し始めた。竹やぶはいつか雑木林になった。爪先上りの所々には、赤さびの線路も見えないほど、落ち葉の溜まっている場所もあった。その道をやっと登りきったら、今度は高い崖の向こうに、広々と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、あまり遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。

 三人はまたトロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気持ちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば良い」――彼はそうも念じてみた。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼らも帰れないことは、もちろん彼にも分かりきっていた。
 その次に車の止まったのは、切り崩した山を背負っている、わら屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へ入ると、乳児をおぶったおかみさんを相手に、悠々と茶などを飲み始めた。良平は独りイライラしながら、トロッコの周りを回ってみた。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。
 しばらく後茶店を出てくると、煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコのそばにいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「ありがとう」と言った。が、すぐに冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匂いが染みついていた。
 三人はトロッコを押しながらゆるい傾斜を登っていった。良平は車に手をかけていても、心は他のことを考えていた。
 その坂を向こうへ下りきると、また同じような茶店があった。土工たちがその中へ入った後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰ることばかり気にしていた。茶店の前には花の咲いた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴ってみたり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押してみたり、――そんなことで気持ちを紛らせていた。
 ところが土工たちは出てくると、車の上の枕木《まくらぎ》に手をかけながら、無造作に彼にこう言った。
われはもう帰んな。俺たちは今日は向こう泊まりだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら
 良平は一瞬呆気に取られた。もうすぐ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の距離はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そういう事が一気に分かったのである。良平はほとんど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って付けたようなお辞儀をすると、どんどん線路沿いに走り出した。

 良平はしばらく無我夢中で線路のそばを走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを道ばたへ放り出すついでに、板草履もそこへ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋の裏へ直に小石が食いこんだが、足だけは遥かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂道を駆け登った。時々涙がこみ上げてくると、自然に顔が歪んでくる。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
 竹やぶのそばを駆け抜けると、夕焼けのした日金山《ひがねやま》の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、いよいよ気が気でなかった。行きと帰りと変わるせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗で濡れとおったのが気になったから、やはり必死に駆け続けながら、羽織を道ばたへ脱いで捨てた。
 みかん畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、滑ってもつまずいても走って行った。
 やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駆け続けた。

 彼の村へ入ってみると、もう両側の家々には、電灯の光が差しあっていた。良平はその電灯の光に、頭から汗の湯気が立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰ってくる男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
 彼の家の門口へ駆けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周りへ、一気に父や母を集まらせた。特に母はなんとか言いながら、良平の体を抱きかかえるようにした。が、良平は手足をもがきながら、すすり泣き続けた。その声があまり激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集ってきた。父母はもちろんその人たちは、口々に彼の泣く訳を尋ねた。しかし彼はなんと言われても泣き立てるより他に仕方がなかった。あの遠い道を駆け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気持ちに迫られながら…………

 良平は二十六の年、妻子と一緒に東京へ出てきた。今ではある雑誌社の二階に、校正の朱筆《しゅふで》を握っている。が、彼はどうかすると、全然なんの理由もないのに、その時の彼を思い出すことがある。全然なんの理由もないのに?――世俗の煩わしさに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い竹やぶや坂のある道が、ほそぼそと一筋断続している…………

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