自遊時閑 2023/12/02 22:42

[芥川龍之介] トロッコ ファストノベル

 小田原―熱海《あたみ》間に、軽便鉄道建設の工事が始まったのは、良平が八つの時だった。良平は毎日のように村外れへ、その工事を見物しに行った。
 トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走ってくる。舞い上がるように車台が動いたり、土工の半纏《はんてん》の裾がひらついたり――良平はそんな景色を眺めながら、土工になりたいと思うことがある。せめて、トロッコへ乗りたいと思うこともある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然とそこに止まってしまう。と同時に土工たちは、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押すことさえできたらと思うのである。

 ある夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは薄明るい中に並んでいる。が、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力がそろうと、突然ごろりと車輪をまわした。ごろり、ごろり、――トロッコはそういう音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登っていった。
 それから十八メートルほど来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコもいくら押しても動かなくなった。良平はもう良しと思ったから、年下の二人に合図をした。
「さあ、乗ろう!」
 彼らは一度に手を離すと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初緩やかに、それから勢いよく、一気に線路を下り出した。顔に当たる薄暮夕暮れの風、足の下に躍るトロッコの動揺、――良平はほとんど有頂天になった。
 しかしトロッコは二三分ののち、もう元の終点に止まっていた。
「さあ、もう一度押すじゃあ」
 良平は年下の二人と一緒に、またトロッコを押し上げにかかった。が、突然彼らの後ろには、誰かの足音が聞えだした。のみならずそれは聞えだしたかと思うと、急にこう言う怒鳴り声に変わった。
「この野郎! 誰に断ってトロに触った!」
 そこには季節外れの麦わら帽子をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。――そういう姿が目に入った時、良平は二人と一緒に、もう十メートルほど逃げ出していた。

 その後、十日あまり経ってから、良平はまた一人、トロッコが来るのを眺めていた。すると、線路へ敷く枕木《まくらぎ》を積んだトロッコが一両、太い線路を登ってきた。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は、トロッコのそばへ駆けて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
 その中の一人は、うつむきトロッコを押したまま、思った通り心良く返事をした。
「おお、押してくれい
 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
われはなかなか力があるな」
 他の一人、――耳に煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。
 その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。
 六百メートルあまり押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。そこには両側のみかん畑に、黄色い実がいくつも日差しを受けている。
 みかん畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と言った。良平はすぐに飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、ひた滑りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと良い」――良平は羽織に風を受けながら、当り前のことを考えた。
 竹やぶのある所へ来ると、トロッコは静かに走るのをやめた。三人はまた重いトロッコを押し始めた。竹やぶはいつか雑木林になった。その道をやっと登りきったら、今度は高い崖の向こうに、広々と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、あまり遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。

 三人はまたトロッコへ乗った。車は雑木の下を走っていった。しかし良平はさっきのように、面白い気持ちにはなれなかった。
 その次に車の止まったのは、わら屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へ入ると、おかみさんを相手に、悠々と茶などを飲み始めた。良平は独りイライラしながら、トロッコの周りを回ってみた。
 しばらく後茶店を出てくると、煙草を耳に挟んだ男は、良平に駄菓子をくれた。良平は冷淡に「ありがとう」と言った。が、すぐに冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。
 三人はトロッコを押しながらゆるい傾斜を登っていった。良平は車に手をかけていても、心は他のことを考えていた。
 その坂を向こうへ下りきると、また同じような茶店があった。土工たちがその中へ入った後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰ることばかり気にしていた。
 ところが土工たちは出てくると、無造作に彼にこう言った。
われはもう帰んな。俺たちは今日は向こう泊まりだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら
 良平は一瞬呆気に取られた。もうすぐ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の距離はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そういう事が一気に分かったのである。良平はほとんど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。彼は若い二人の土工に、取って付けたようなお辞儀をすると、どんどん線路沿いに走り出した。

 良平はしばらく無我夢中で線路のそばを走り続けた。彼は左に海を感じながら、急な坂道を駆け登った。時々涙がこみ上げてくると、自然に顔が歪んでくる。
 竹やぶのそばを駆け抜けると、夕焼けのした日金山《ひがねやま》の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、いよいよ気が気でなかった。
 みかん畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、滑ってもつまずいても走って行った。
 やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。

 彼の村へ入ってみると、もう両側の家々には、電灯の光が差しあっていた。彼は無言のまま、明るい家の前を走り過ぎた。
 彼の家へ駆けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周りへ、一気に父や母を集まらせた。父母は彼の泣く訳を尋ねた。しかし彼はなんと言われても泣き立てるより他に仕方がなかった。あの遠い道を駆け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気持ちに迫られながら…………

 良平は二十六の年、妻子と一緒に東京へ出てきた。今ではある雑誌社の二階に、校正の筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然なんの理由もないのに、その時の彼を思い出すことがある。――世俗の煩わしさに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い竹やぶや坂のある道が、ほそぼそと一筋断続している…………

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