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ファストノベルの記事 (11)

自遊時閑 2023/11/08 15:13

[江戸川乱歩] D坂の殺人事件 ファストノベル

事実

 それは大正――九月初旬のある蒸し暑い晩のことだった。
 私は、D坂の大通り中程にある、白梅軒《はくばいけん》というカフェでコーヒーをすすっていた。
 当時、私はまだこれという職業もなく、金のかからないカフェ巡りをするのが日課だった。
 私はその晩も、いつものテーブルに陣取って、窓の外を眺めていた。

 白梅軒の真向かいに、一軒の古本屋がある。
 実は、ちょっと特別な興味があり、その店を眺めていたのだ。
 というのは、近頃知り合った妙な男――名前は明智小五郎というのだが、その男の幼馴染が古本屋の奥さんになっているということを聞いていたからだった。
 彼女はいつも店番をしているから、今晩もいるに違いないと、私はじっと目を向けて待っていた。

 だが、なかなか出てこない。
 で、目を移そうとした時、店と奥の間を仕切る障子の格子戸が閉じるのを見かけた。
 その障子は、縦の二重の格子になっていて、それが開閉できるのだが……変なこともあるものだ。古本屋というのは万引きされやすい商売だから、障子の隙間から見張っているものなのに、その隙間を塞いでしまうというのはおかしい。

 古本屋のご夫人といえば、カフェのウェイトレスたちが、妙な噂をしているのを聞いたことがある。
「あの奥さんは、身体中傷だらけだわ。別に夫婦仲が悪くもないようなのに」
「蕎麦屋の旭屋《あさひや》の奥さんだって、よく傷をしているわ」
 ……で、それはともかく、私は三十分ほど同じ所を見つめていた。
 その時、明智がいつもの荒い縦縞の浴衣を着て、窓の外を通りかかった。
 彼は私に気づくと中へ入ってきたが、私と同じように窓を向いて、同じ方を凝視しだしたのである。

 ある瞬間、私たちは言い合せたように、黙り込んでしまった。向こうの古本屋に、ある面白い事件が発生していたのだ。
「君も気づいているようですね」
 と私がささやくと、彼は即座に答えた。
「本泥棒でしょう? これで四人目ですね」
「三十分に四人も……少しおかしいですね」
「家の人が出ていったんじゃないですか」
「三十分も人がいないなんて変ですよ。――行ってみましょうか」
「そうですね。家の中に異常がないとしても、外でなにかあったのかもしれませんから」
 私はこれが事件でもあってくれれば面白いと思いながらカフェを出た。

 古本屋はよくある形で、いつもは、障子の前の所に、主人かご夫人が座って店番をしている。
 明智と私は、そこまでいって、大声で呼んでみたものの、なんの返事もない。
 奥の間を覗いてみると、中は真っ暗だが、人らしいものが部屋のすみに倒れている様子だ。
「構わない、上がってみましょうか」
 二人でドカドカ奥へ上り込んでいった。
 明智の手で電灯のスイッチがひねられた。と同時に、私たちはアッと声を立てた。死体が横わっていたのだ。
「ここのご夫人ですね」
「首を絞められているようです。早く警察へ知らせなきゃ。君は見張りをしててください」
 彼はこう命令的に言い残して、自動電話へ飛んで行った。
 私は、なるべく犯行当時の模様を乱すまいと、呆然とたたずんでいた。
 女は仰向けに倒れている。抵抗した様子は特にない。
「すぐ来るそうですよ」
 明智が息を切らして帰ってきた。

 間もなく、制服の警官と背広の男がやって来た。制服のほうは司法主任で、もう一人は警察医だ。
 私たちは最初からの事情を説明した。
「この障子の格子が閉まったのは、八時頃だったと思います。その時には電灯がついてました」
 警察医は私たちの言葉の途切れるのを待って言った。
「絞殺ですね。おそらく死後一時間以上はたっていないでしょう」
「上から押えつけたんですね」
 司法主任が考えを言った。
「抵抗した様子がないが……おそらく手際よくやったんでしょうね」
 彼は私たちに、この家の主人はどうしたのだと尋ねた。無論私たちが知っているはずはない。
 そこで、明智は気を利かして、隣家の時計屋の主人を呼んできた。

 司法主任と時計屋の問答は次のようなものだった。
「主人はどこへ行ったのかね」
「ここの主人は、毎晩古本の夜店を出しますんで、いつも十二時頃でなきゃ帰ってきません」
「一時間ばかり前に、なにか物音を聞かなかったかね」
「これという物音は聞きませんでしたが」
 この間、近所の人たちは、古本屋の主人の所へ使いを走らせた様子だった。

 そこへ、裁判所の連中と、警察署長、名探偵と噂の小林刑事が入ってきた。
 先着の司法主任は、今までの状況を説明した。
「表の戸を閉めましょう」
 突然、下働きの会社員みたいな男が、さっさと戸を閉め出した。これが小林刑事だった。
 彼は第一に死体を調べた。
「この首の周りにある指の痕には別に特徴がありません」
 次に彼は一度死体を裸体にしてみると言い出した。
 そこで、私たちは店の間へ追い出されなければならなかった。
 だから、その間にどういう発見があったか、よくわからないが、彼らは死体に沢山の生傷のあることに注目したに違いない。

 まず、死体のあった奥の間の捜索が行われたが、遺留品も、足跡も、その他調査の目に触れるものはなかった様子だ。
 それから、刑事は路地を調べるといって出ていった。それが十分もかかったろうか、彼は一人の男を連れて帰ってきた。
「これは、この裏の路地を出た所の角に店を出していたアイス屋ですが、もし犯人が裏口から逃げたとすれば、必ずこの男の目についたはずです」
 そこで問答が行われた。
「今晩八時前後に、この路地を出入りしたものはないかね」
「一人もいません」
「君の店のお客で路地の中へ入ったものはないかね」
「それも御座いません」

 犯人はこの家の裏口から逃げたとしても、唯一の通路である路地には出なかったことになる。だからといって、表の方から出なかったことも間違いない。
 小林刑事の考えによれば、犯人がこの路地のどこかの家に潜伏しているか、それとも借家人の中に犯人がいるのかどちらかだろうと言うのだ。
 犯人はどこから入って、どこから逃げたのか? 不思議はそればかりでない。小林刑事が、連れてきた二人の学生が、実に妙なことを証言したのだ。

 彼らは概ね次のように答えた。
「僕は八時頃に雑誌を見ていたんです。すると、奥で物音がしたので障子の方を見ました。格子のようになった所が開いていたので、そのすき間に男が立っているのが見えました」
「で、他に気がついた点はありませんか?」
「背恰好はちょっとわかりませんが、着物は黒いものでした。目を上げるのと、その男がこの格子を閉めるのとほとんど同時でしたから、詳しいことはわかりません」
「僕も一緒に本を見ていたんです」
 ともう一方の学生
「同じように格子が閉まるのを見ました。ですが、その男は白い着物を着ていました」
 この二人の学生の不思議な証言は何を意味するか? 実はこの時、私はあることに気がついていた。

 間もなく、被害者の夫が帰ってきた。彼は妻の死体を見ると涙をこぼしていた。
 小林刑事は、彼が落ち着くのを待って、質問を始めた。
 だが、主人は全然犯人の心当りがないというのだ。
 最後に死体の生傷について刑事から質問があった。
 主人は躊躇していったが、やっと自分がつけたのだと答えた。ところが、その理由については明白な答えは返ってこなかった。
 しかし、彼はずっと夜店を出していたことがわかっているのだから、殺害の疑いはかからないはずだ。刑事も深く詮索はしなかった。

 そうして、その夜の取り調べはひとまず終わった。
 もし警察の捜索に手抜かりがなく、また証人たちも嘘を言わなかったとすれば、これは実に不可解な事件だ。
 少なくとも、小林刑事が、全力を尽して捜索した限りでは、この事件は不可解と結論する他なかった。

 明智と私とは、その夜帰途につきながら、興奮して色々と話し合った。
「君はパリのローズ・デラクール事件を知っているでしょう。僕はあれを思い出したんですよ。今夜の事件も犯人の立ち去った跡のないところは、どうやら、あれに似ているじゃないですか」
 と明智。
「そうですね。僕はなんだか、この事件を推理してみたい気がします」
 そうして、私たちはある横町で別れを告げた。その時私は、独特の肩を振る歩き方で、帰って行く明智の後姿が、その派手な縦縞の浴衣によって暗闇の中にくっきりと浮かびだしていたのを覚えている。


推理

 殺人事件から十日ほどたったある日、私は明智小五郎の宿を訪ねた。
「よく訪ねてきましたね。例のD坂の事件はどうです?」
 明智はモジャモジャした頭を掻き回しながら、私の顔を眺めて言う。
「今日はそのことで少し話があって来たんです。僕はあれから、一つの結論に達したんですよ。それを君にご報告しようと思って……」
「ほう。詳しく聞きたいものです」
 私は、そういう彼の目つきに、何がわかるものかというような、軽蔑と安心の色が浮んでいるのを見逃さなかった。
 そして、私は勢いよく話し始めた。

「僕の友達に小林刑事と親しい記者がいましてね、その記者を通じて、警察の様子を詳しく知ることができました。どうも捜査方針が立たないらしいんです。警察が困っていることを知って、僕は一層熱心に調べてみる気になりました。そこで僕が到達した結論というのは、どんなものだと思います? そして、君のところへ話しに来たのはなんのためだと思いますか?」
 問いかけながらも彼が口を挟む間も与えず、私は話を続ける。
「二人の学生がまるで違った証言をしたことについて、僕はあることに気づいたんですよ。二人の話は両方とも正しいと思うんです。あれは、犯人が白と黒の縞状の着物を着ていたんですよ。太い黒の縦縞の浴衣なんかですね。彼らは障子の格子のすき間から見たわけだから、丁度、一人の目が格子のすき間と着物の白地の部分と一致して見える位置にあり、もう一人の目が黒地の部分と一致して見える位置にあったんです」
 と、ここまでが私の気づいたことだ。
「――僕はこういうふうに考えたんですよ。荒い縦縞の着物を着た男が、主人が留守の間に女を襲ったのです。で、目的を果した男は、電灯を消して立ち去った。それから、一旦外へ出ましたが、ふと気がついたのは、スイッチに指紋が残ったということです。これはどうしても消さなければなりません。そこで、男は一つの妙案を思いつきました。それは、自らから殺人事件の発見者になり、電灯を点けることです。そうすれば、少しの不自然さもなく、指紋に対する疑いをなくしてしまうことができますからね」
 私は、おそらく話の途中で、なにか変わった表情をするだろうと予想していた。ところが、驚いたことに、彼の顔にはなんの表情も現れないのだ。私は、最後の点に話を進めた。
「君はきっと『犯人はどこから入って、どこから逃げたんだ?』と質問するでしょう。でも、それも探り出したんです。僕はこう思ったのです。犯人は、なにか人目にふれても、それが犯人だとは気づかれないような方法で通ったのではないだろうか? とね。そこで、僕が目をつけたのは、旭屋という蕎麦屋です」
 古本屋の右へ時計屋、菓子屋と並び、左へ足袋屋、蕎麦屋と並んでいるのだ。
「僕はあそこへ行って、事件の夜八時頃に、便所を借りていった男はないか? と聞いてみたんです。旭屋は裏口のすぐそばに便所がありますから、便所を借りるように見せかけて出ていって、また入ってくるのは訳もありません。例のアイス屋は路地を出た角に店を出していましたから、見つかることもない。そして、案の定、便所を借りた客がいたんです」
 私は少し言葉を切って、明智に発言する余裕を与えた。ところが、彼は相変らず頭を掻き回しながら、すまし顔をしているのだ。
「明智君、僕の言う意味がわかるでしょう。動かぬ証拠が君を指さしているんですよ。指紋のトリックにしても、便所を借りるというトリックにしても、君のような犯罪学者でなければ、ちょっと真似できない芸当です。明智君、僕の言うことが間違っていますか?
 私がこういって詰めよると、彼はいきなりゲラゲラと笑い出した。

「いや失敬失敬、君があまりにも真面目なもんだから」
 明智は弁解するようにいった。
「君の推理はあまりにも外面的、そして物質的ですよ。例えばですね。僕と彼女の関係についても、僕たちがどんな幼馴染だったかということを、内面的、心理的に調べてみましたか? 現に彼女を恨んでいるかどうかは? 実は、僕も事件について色々とやったんですよ。特に、あの古本屋へはよく行きました。そして主人をつかまえて色々探ったんです。それから、犯人の着物の色のことですが、これは僕が説明するよりも……」
 彼はそういって、一冊の古ぼけた洋書を掘りだしてきた。
「ミュンスターベルクの『心理学と犯罪』という本ですが、この『錯覚』という章の冒頭を十行ほど読んでみてください」
 私は、言われるままにその書物を受け取って、読んでみた。


一つの自動車犯罪事件があった。証人の一人は、道路は完全に乾燥していてほこり立っていたと主張し、もう一人の証人は、雨降りの後で、道路はぬかるんでいたと証言した。この両人は、共に尊敬すべき紳士で、事実を捻じ曲げてもなんの利益もない人々だった。


 私がそれを読み終わるのを待って明智は言った。
「今度は、この『証人の記憶』という章があるでしょう。丁度着物の色のことが出てますから、まぁちょっと読んでみてください」
 それは次のような記事であった。


法律家、心理学者、物理学者による、学術上の集会が催された。この会合に、突然、派手な衣装をつけた一人の道化が飛び込んできた。さらに、その後から黒人がピストルを持って追いかけてくるのだ。そして、ピストルの音がした。すると、たちまち彼らはでていってしまった。で、後日、会員各自に正確な記録を書くことを頼んだ。黒人が頭になにも被っていなかったことを言い当てたのは、四十人の内でたった四人だけだった。着物についても、様々な色合いが説明された。ところが実際は、白ズボンに黒の上衣を着て、赤のネクタイを結んでいたのだ。


「人間の観察や記憶なんて頼りないものですよ。あの晩の学生たちは着物の色を見違えたと考えるのは無理でしょうか。格子の隙間から縦縞の浴衣を思いついた君の着眼は面白いには面白いですが、そんな偶然の一致を信じるよりは、僕の潔白を信じてくれるわけにはいかないでしょうか? さて最後に、蕎麦屋の便所を借りた男のことですがね。君と正反対の結論に達したのです。実際は便所を借りた男なんてなかったんですよ」
 明智はこうして、目撃者の証言を否定し、犯人の通路を否定して、自分の無罪を立証としている。
「で、君は犯人の見当がついているんですか?」
「ついていますよ」
 彼は頭をモジャモジャやりながら答えた。
「一番いい推理方法は、人の心の奥底を見抜くことです。僕の注意を惹いたのは、古本屋の奥さんの身体中に生傷があったことです。それから、蕎麦屋の奥さんの身体にも同じような生傷があることを聞き込みました。僕はそこに秘密が隠されているのではないかと疑わずにはいられなかったのです。で、僕はまず古本屋の主人をとらえて、彼の口からその秘密を探り出そうとしました。そして、ある変な事実を聞き出すことができたんです。今度は蕎麦屋の主人ですが、探り出すのにかなり骨が折れましたよ。でも、僕はある方法によって、うまく成功したんです」
「ある方法?」
「蕎麦屋の主人に対して、一種の連想診断を試したんです。僕は彼に色々な話をしました。そして、彼の反応を研究したんです。その結果、僕は一つの確信に到達しました。つまり犯人を見つけたんです」
 そこで一旦言葉を切り、今度は困ったとでもいうように頭を掻き回しながら彼は続けた。
「しかし、物的証拠というものが一つもないんです。それと、僕が手をこまねいてるもう一つの理由は、この犯罪には少しも悪意がなかったという点です。この殺人事件は、犯人と被害者と同意の上で行われたのです」
 私はどうにも彼の考えていることがわかりかねた。
「で、僕の考えを言いますとね、殺人者は旭屋の主人なんです。彼は捜査の目をくらますため、便所を借りた男のことを言ったんですよ。では、彼はなぜに殺人罪を犯したか。……僕はこの事件によって、うわべでは極めて平和なこの世に、どんな陰惨で意外な秘密が隠されているかということを、まざまざと見せつけられたような気がします」
 私は自身の失敗を恥じることも忘れて、彼のこの奇怪な推理に耳を傾けた。
「実は、旭屋の主人というのはひどい加虐性愛者で、古本屋の奥さんは彼に劣らぬ被虐性愛者だったんです。そして、誰にも見つけられずに不倫していたんです。彼らは最近まで、それぞれ本当の夫や妻によって、その欲望をかろうじて満たしていました。古本屋の奥さんにも、旭屋の奥さんにも、同じような生傷があったのがその証拠です。しかし、彼らがそれに満足しなかったのは言うまでもありません。ですから目と鼻の近所に、お互いの探し求めている人間を発見した時、運命のいたずらが過ぎたんです。ついにあの夜、彼らとしても決して願わなかった事件をひき起してしまったわけです……」
 私は、明智のこの異様な結論を聞いて、思わず身震いした。これはまあ、なんという事件だ!

 そこへ、下の煙草屋のおかみさんが、夕刊を持ってきた。明智はこれを受け取って、社会面を見ていたが、やがて、そっと溜息をついて言った。
「ああ、とうとう耐え切れなくなったと自首しましたよ。妙な偶然ですね。丁度そのことを話していた時に、こんな報道に触れることになるとは」
 私は彼の指さす所を見た。そこには、小さい見出しで、十行ばかり、蕎麦屋の主人の自首した旨が記されてあった。

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