環境に従ういきもの
前回の記事の続き。
『コンシューマとソシャゲを例に、脳内キャッシュの切り替え・圧迫の違いを書いてみた。』みたいな内容だったかと思います。
この脳内キャッシュが常に頭に居座ると、主体が自己でなくなるかもというお話です。
無意識に「真逆」に
ソシャゲやSNSで発生しがちな「常在脳内キャッシュ」は、「習慣」や「日常」に言い換えられる。
習慣をこなすことに深い理由は無いので、無意識にその行動を起こすようになる。
すると、行動を起こすキッカケが自らの意思で行う「能動的」なものではなく、「受動的」なものになっていく。
そうした習慣によって、与えられる刺激に「反応」で行動が止まる状態の方が当たり前だと思うようになってしまう。
するとどうなるか。
自我が薄まる
こう一言で言っちゃうと言葉が強く感じるが、ほんとに地味~に減る。というのも、能動的に行動を起こした際に得ている、ほんのわずかな「自己肯定・自己確認」をしなくなっていくからだと思っている。
加えて、行動や考えを起こす際の起点が「自己」ではなく「他者・周囲」になっている場合もある。
例えば、「自分が面白そうだと思ったからAというゲームをやる」のではなく、「周りのみんながAをやってるから自分もやる」といった具合である。
この例単体では「遊ぶキッカケが増えてるし、それで面白いゲームが遊べたら別にええやろ」と思う。が、性質としては受動の選択。こうした受動の選択の頻度が増えて、深度が深まるとどんな行動を起こすにも「他者・周囲」などの「外的要因」が自身よりも先に来ることに抵抗が無くなる。
これの厄介なところは、「"外的要因"を主体に決めた選択を、"自分"で決めた選択だと勘違いしている」ことかと思う。
自分が決めた選択なら、良くも悪くも「納得できる」。
ところが外的要因が主体だと、自分で把握できない領域があるので、「納得できない」こともある。
なのに、自己が主体だと勘違いしているので、うまくいかなかった時に100%自分のせいだと考えてしまう。
「目に入る」力の強さ
自分の経験だと、ツイッターのタイムラインがあった。
以前使っていたツイッター垢は、個人・法人を問わず、気になる垢をフォローするフツーの使い方をしていた。タイムラインを見れば、企業や公式の告知や一個人のつぶやきが雑然と流れてくるという状況だった。
すると当然、自分がフォローしていない垢のツイートがRTによって回ってくる。時には、自分にとっては好ましくない、合わないと感じるものが流れてくることもある。
それでも目に入ってしまった以上、その事柄に関して考えを巡らせるなど、何かしらの「反応」が起きるのは避けられない。
反応で生じたもやもやを発散することは基本的にできないので、もやもやが残ったままになる。
ついでに「自己防衛が足りてなかった」だとか、「もやもやするのはスルースキルが足りないから」とか、要らんことまで考えていた。
でも他者の感情はもちろん、RTまでをも予想したり、ましてやそれら完全に防ぐのはエスパーじゃない限り不可能で。エスパーでも無理では?
ネットは「自己防衛が基本」と言っても、それも限界がある。もしくはシンプルに自己防衛機会が増える環境に変化して、防衛したところでキリがないところまで来たのかもしれない。
そんな具合に、唐突に現れる「予測不能な外的要因」によるもやもやを「自分のせい」だと勘違いしていたパターンだったが、それを踏まえつつ「予測不能」な部分を思い切って無くしたら、だいぶ快適になった。
そもそも「自己防衛が基本」という前提が自分の中にあったのも、ネット上でそうした発言をよく見る「環境」によって思いこんでいたことも要因にあった。
環境に左右される
どれだけ気をつけているつもりでも自身の行動は「外的要因」、身を置いている「環境」によって変化している。それも常在すると「習慣・日常」として内側に入って、「外的要因」だと認識しづらくなる。
変化するのは当たり前だが、そこで自己を主体に行動を起こしているか否かで大きく差があるなと感じた。
先程のツイッターの例も、アナログなら「ファミレスで好ましくない会話が聞こえてしまった」と例えられると思う。それでもアナログなら物理的に空間が分けられているので、「その場であった出来事」だと自然に思考を切り替えて、家に帰る頃にはすっかり忘れるか、考えることをやめてるんじゃないかなと。それならずるずる引きずることもないはず。
職種によっては仕事もほぼリモートになったり、SNSが世の中に浸透して、使い方によってはプライベートをひっくるめた「日常」までも物理的な境界が曖昧になってる時代。
自分でルールや区切りを設定するのがめちゃくちゃ大事だし、めちゃくちゃ大変だな~という振り返りでした。