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2014年 09月の記事 (13)

ナントカ堂 2014/09/30 21:06

明代の名門(13)

明代において宦官が跳梁跋扈したのは有名な話です。
ただし宦官の地位は皇帝の恩寵によるものであり、皇帝の代変わりで失脚したり、魏忠賢や曹吉祥のように増長して族滅されることもありました。
宦官が権力を握ったことで一族が爵位を受けても、その権勢の時が短いので大概が一代限りのはかない夢でした。
その例外といえるのが劉永誠の甥の劉聚の家系です。
以下これに関連した記事を載せます。

『明史』巻三百四「宦官伝」一

曹吉祥とともに兀良哈を討伐した劉永誠は、かつて永楽帝の時代に偏将として北征に従軍した。宣徳、正統年間(1426~1449)に再び兀良哈を討った。後に監軍として甘・涼に駐留し、沙漠で戦って功があった。景泰の末(1457)に団営を掌握した。英宗が復辟したとき、兵を纏めてこれに従った。官はその子の聚が継ぎ、成化年間になってから(1464~1487)永誠は卒去した。

『万暦野獲編』巻六

成化七年(1471)、太監の劉永誠の延綏遠征の功により、甥の聚を寧晋伯に封じた。のち再び功により世襲を許された。嘉靖の初年(1522)、太監・張永の兄の泰安伯・富、永の弟の安定伯・容、太監・谷大用の兄の高平伯・大寬、弟の永清伯・大亮、太監・馬永成の甥の平涼伯・山、太監・魏彬の弟の鎮安伯・英、太監・陸誾の甥の鎮平伯・永、太監・裴□の義子の永寿伯・朱徳など宦官の子弟で恩沢により拝命したものをすべて爵位没収とし、ただ劉聚のみが存続を許された。成化帝より今まで百四十年、爵位を伝えて十代、代々絶えずに兵権を握り、枢府を掌ってきた。どのような功績があって十代も続いていられたのであろうか?今、都の多くの有力者の家の壁には、劉永誠の西征のことが描かれた絵が飾られている。劉永誠が自ら志願して宮廷に入り、実績を挙げて帝にお目見えが叶い、中使に任命されて、御馬太監にまで至った。遠征に従軍して、付け髭を付けて奮闘し、凱旋して恩賞を受けた。その諸々が詳しく描かれているが、どこまでが真実なのかは分からない。劉永誠が死ぬと、帝は特にその祠に「褒功」の額を賜ってこれを労わった。英宗が土木の変で捕らえられる前、王振は生前に自らの祠に「旌忠」の額を賜ったが、同じく祠に額を賜ったとはいえ、こちらは称えるには及ばない。劉永誠は小名を馬児といったが、都の人は今に至るまで、なおもこれを賞賛している。

『明史』巻百五十五「劉聚伝」

劉聚は太監の永誠の従子である。金吾指揮同知となり、奪門の変の功により都指揮僉事となり、さらに特別に抜擢されて都督同知となった。共同して曹欽を討伐して右都督に昇進した。

成化六年(1470)、右副総兵として朱永が延綏に赴くのに従った。賊を黄草梁まで追撃し、激戦によりあごを負傷し、麾下が奮闘して賊を防いだので、どうにか命は助かった。まもなく都督の范瑾らとともに青草溝で賊と戦い撃ち破った。朱永らは賊を牛家寨まで追撃し、聚もまた南山に拠って果敢に攻めた。賊は大敗して、延綏から逃げた。論功により左都督に昇進し、永誠の働きかけもあって特に寧晋伯に封ぜられた。

八年(1472)冬、趙輔に代わって将軍となり、陜西の諸鎮の兵を束ねた。賊が花馬池に侵入すると、副総兵の孫鉞、遊撃将軍の王璽らを率いて撃退した。高家堡まで引き揚げると、賊がまた侵入したので、これを撃ち破った。そして漫天嶺まで追撃すると、伏兵が起こって挟み撃ちにしたので、これもまた撃ち破った。孫鉞と王璽もまた別に井油山で賊を撃ち破った。この戦勝報告がなされ、世券を与えられた。

その冬、孛羅忽、満都魯、イン加思蘭が共同して領内深くまで侵入し、秦州・安定・会寧の諸州県まで入って、数千里にわたり縦横無尽に行動した。賊が撤退した後、王越は紅塩池から帰還する際に、誇大な戦勝報告をして、璽書により慰労された。まもなく、兵部員外郎の張謹が軍功を調べて、聚と総兵官の范瑾ら六将が民を殺し略奪し、ありもしない軍功を報告したと弾劾し、兵部省と御史から弾劾の奏上が出された。詔により、給事中の韓文が行って調査し、戻ってきて張謹の奏上の通りだと言い、百五十の首を取る軍功が、実際にはわずか十九であったと報告した。帝は賊が既に逃亡していたことをもって、これを不問に付した。まもなく聚は卒去し、侯を追贈されて、威勇と諡された。

爵位を子の禄と福と伝え、福は弘治年間(1488~1505)に三千営を統括して、太子太保を加えられた。卒去して、子の岳が嗣ぎ、岳が卒去して、従子の文が爵位を嗣ぐことを願い出た。吏部は、聚には大功が無く、これ以上は子孫に継承させるべきではないと言ったが、嘉靖帝は吏部の意見を却下して、文に爵位を嗣ぐよう命じた。こうしてさらに爵位を伝えて明が亡ぶに及んで絶えた。

こうして見たところ、劉聚にはある程度軍功はあれど、世襲の伯爵を授けるほどの大功とは思われず、もっぱら劉永誠の功績によるものでしょう。ただ、宦官が大功を立てたというのは文人には認めがたいので詳細は書き残されず、今となっては『万暦野獲編』の記述からわずかに窺い知るだけです。

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ナントカ堂 2014/09/22 01:24

明代の名門(12)

ここでは蒙古人や西域人で爵位を受けた人について記しましょう。

『明史』巻百五十六「呉允誠伝」

呉允誠は蒙古人である。名は把都帖木児で、甘粛の塞外の塔溝の地に住み、官職まで平章となった。>永楽三年(1370)、仲間の倫都児灰とともに妻子及び部落五千、馬やラクダ一万六千を率いて、宋晟の仲介で来帰した。蒙古人が同じ名の者が多かったため、帝は姓を賜って区別していた。尚書の劉儁が洪武の故事に倣うよう進言したので、官庁から物資が支給されるよう割符が与えられた。呉允誠は姓名を賜って右軍都督僉事を授けられ、倫都児灰もまた柴秉誠の姓名を賜って後軍都督僉事を授けられ、その他の者にも官を授け冠と官服を賜り、地位に応じて家畜や紙幣などを賜った。允誠は配下とともに涼州に住んで農耕・牧畜を行うこととなった。宋晟は呉允誠らを来帰させた功績により、西寧侯に封ぜられた。これより降附する者が増え、辺境は日に日に安泰となった。これは允誠より始まったことである。
七年(1374)に亦集乃へ敵情視察をして、哈剌ら二十人あまりを捕らえ、都督同知に昇進した。翌年、帝が長城を越えて出征するのに従い、本雅失里を破り、右都督に昇進し、まもなく左都督に進んだ。宦官の王安とともに闊脱赤を追撃し、把力河でこれを捕らえ、恭順伯に封ぜられ、食禄は千二百石、世券を与えられた。
允誠には三子がいた。答蘭・管者・克勤である。允誠は二子とともに従軍し、妻と管者は涼州に留めた。蕃人の虎保らが允誠の麾下を利で誘ったり脅迫して、叛き去ろうとした。允誠の妻は管者と謀って、配下の将で都指揮の保住、卜顔不花らを呼び出してその一党を捕らえて誅殺した。帝はこれを喜び、敕を下して褒め称え、練り絹・紙幣・羊・米などを大量に賜り、管者に指揮僉事を賜った。保住には楊効誠の姓名を賜り、指揮僉事を授けた。韃靼可汗が鬼力赤に弑され、その麾下の民は四散した。答蘭は別立哥とともに、自分たちが長城を越えて四散した者たちを助ける許可を求め、出征して軍功を立てた。別立哥は柴秉誠の子である。
帝が瓦剌に遠征したとき、允誠父子は皆これに従軍した。軍が帰還すると、涼州に居住して辺境を警備するよう命じられた。允誠が卒去すると、国公を追贈され、忠壮と諡された。
允誠の没後、答蘭は克忠と名を改めるよう命じられ、爵位を継いだ。克忠は阿魯台への二度目の遠征に従軍し、三度目の遠征にもまた従軍した。兄弟はみな軍功を立てた。洪熙元年(1425)、妹が永楽帝の妃であったので、克忠は侯に昇進した。このとき管者はすでに功を積んで都指揮同知となり、広義伯に封ぜられていた。克忠はかつて副総兵巡辺の官職に就けられていたが、正統九年(1444)、兵を束ねて喜峰口から出て、兀良哈に遠征して功があり、太子太保を加えられた。
土木の変で、克忠は弟の克勤の子で都督の瑾とともに後方を守備した。敵が突撃してくると数度に渡り戦ったが勝てなかった。敵兵は山上に拠り、矢や石を雨の如く飛ばしたので、官軍は多くの死傷者を出していままさに全滅しそうであった。そこで克忠は馬を下りて矢を射、矢が尽きてもなお数人を殺し、克勤とともに陣中で戦死した。フン国公を追贈され、忠勇と諡された。克勤は遵化伯を追贈され、僖敏と諡された。
瑾は捕らえられ、のちに逃げ帰り、侯を嗣いだ。正統帝はかつて瑾に甘粛を守らせようとしたが、瑾は「臣は外人です。もし臣を辺境守備に用いれば、外国は中国を軽んじるでしょう。」と言って辞退した。帝はその言葉をよしとして取りやめた。曹欽が謀叛を起こすと、瑾は従弟の琮とともに異変を聞きつけ、長安門を叩いて帝に報せた。長安門が閉ざされたので、曹欽は侵入することができず放火した。瑾は五、六人の騎兵を率いて曹欽と戦って戦死し、涼国公を追贈され、忠壮と諡されて、世券を与えられた。
三代後が曾孫の継爵であり、南京の守備となった。子の汝胤、孫の惟英と爵位を継ぎ、継爵とともに三代揃って京営の軍政を統括した。崇禎の末、都城が陥落し、汝胤の弟で勲衛の汝徴は妻と娘と共に首を吊って自害した。

管者が卒去すると、子のキが嗣いだ。管者の妻の早奴もまた知略があり、かつて自ら入朝して良馬を献上したことがあり、朝廷ではその忠誠が篤いと認めていた。キが卒去すると、管者の弟の克勤の子である琮が嗣いで、寧夏の鎮守となった。成化四年(1468)、満四が反乱を起こした。琮はこの乱に連座し、かつ戦いに臨んで先に退却したので、投獄されて死罪を検討されたが、辺境守備兵に左遷され、爵位を取り上げられた。

『明史』巻百五十六「薛斌伝」

薛斌は蒙古人で、本名は脱歓喜である。父の薛台は、洪武年間(1368~1398)に帰附して薛の姓を賜り、累進して燕山右護衛指揮僉事となった。斌はその職を嗣いで、永楽帝の挙兵に従い、累進して都督僉事となった。北征に従って功があり、都督同知に昇進した。永楽十八年(1420)、永順伯に封ぜられ、禄は九百石で、世襲の指揮使となった。
斌が卒去したとき、子の寿童は五歳であったので、従父の貴が寿童を連れて洪熙帝に謁見し、洪熙帝の命により伯を嗣ぎ、名綬を賜った。寿童は成長すると勇猛で戦いを得意とした。正統十四年(1449)秋、成国公の朱勇らとともに鷂児嶺で敵と遭遇した。戦い敗れ、弦は切れて矢が尽きてもなお手で矢を投げて敵を討った。敵は怒り、手足をばらばらにして殺した。殺してから敵は斌がもとは蒙古人であったことを知り、「この者はわが同類である。勇気と強さはこのようでなくてはならぬ。」と言うと互いに泣き合った。寿童は武毅と諡された。子の輔、孫の勲は続けて伯を嗣ぐことを許され、勲の子の璽は与えられていた券文の通り指揮使を嗣いだ。

貴、もとの名は脱火赤、斌の弟である。舎人として燕王の旗揚げに従い、何度も燕王を危機から救い、。累進して都指揮使となった。二度北征に従軍して都督僉事となり、永楽二十年(1422)に安順伯に封ぜられ、禄は九百石とされた。宣徳元年(1426)、侯に進み、禄三百石を加えられて、世券を与えられた。卒去して、濱国公を追贈され、忠勇と諡された。子が無く、従子の山が指揮使を継いだ。天順に改元された際、復辟に功績があったので、山の子の忠に伯を嗣ぐよう命じた。卒去して、子の瑤が嗣いだ。弘治年間に瑤が卒去して、子の昂が降襲して指揮使となった。

『明史』巻百五十六「毛勝伝」

毛勝、字は用欽、初名は福寿、元の右丞相の伯卜花の孫である。伯父の那海は洪武年間(1368~1398)に帰附し、靖難の功により都指揮同知となった。子が無く、勝の父の安太が跡を嗣いで羽林指揮使となった。子の済が嗣いだが、子が無く、勝が嗣いだ。済の北方征伐時の軍功が評価され、都指揮使に昇進した。勝はかつて長城の外に逃げ帰っていたが、まもなく自分から帰ってきた。
正統七年(1442)、麓川遠征の功により、都督僉事に抜擢された。靖遠伯の王驥が、在京の番将・舎人から選抜して、雲南の苗人を捕らえることを求めた。そこで勝に命じて、都督の冉保とともに六百人を指揮させ向かわせた。その後、再度麓川遠征が行われると、二人を左右の参将に任命した。賊が平定され都督同知に昇進した。
十四年(1449)夏、也先が中国に攻め込もうと謀った。勝は平郷伯の陳懐らとともに京軍三万を率いて大同に駐留した。陳懐は敵と遭遇して戦死し、勝は危機を脱して帰還した。武清伯の石亨の推薦により、景泰帝は勝を左都督に昇進させ、三千営の訓練の指揮官とした。
貴州の苗人が叛乱を起こし、詔により勝が討伐に行くこととなった。まだ出発しないうちに也先の軍が都に逼った。勝は彰義門の北で守備し、撃退した。二日後、兵を率いて西直門外に行き、都督の孫トウを包囲していた敵を打ち破った。翌日、都督の武興が彰義門で戦死すると、敵は勝ちに乗じて兵を進めた。勝は都御史の王竑とともに速やかに救援したので、敵はついに引き下がった。勝はこれを紫荊関まで追撃し、多くを斬ったり捕虜とした。戦闘が終わると、勝は左副総兵として河間と東昌の降夷を率いて貴州に赴くよう命じられた。賊の首領の韋同烈は香ロ山で乱を起こした。勝は総兵の梁カン、右副総兵の方瑛らとともに、総督の王来に従って道に分かれて進み挟み撃ちにすることとなり、勝は重安江から進んで賊を大破した。山の下で軍を合流させ、四方を取り囲んで攻めたので、賊は追い詰められ、韋同烈を縛って降伏した。
軍を引き返して湖広の巴馬など諸所の叛乱を起こした賊を討ち、二十以上の寨を攻め落とし、賊の首領の呉奉先ら百四十人を捕らえ、千以上の首を斬った。このため南寧伯に封ぜられ、世券を与えられた。また名を改めると願い出たので許可した。その後、勝は騰衝に異動して守備した。金歯の芒市の長官である刀放革は密かに麓川の賊の遺児の思卜発と結んで変を起こそうとしていた。勝は計略によりこれを捕らえた。
巡按御史の牟俸が勝の暴虐不法数十件を弾劾し、その上、「勝はもともと降人であり、狡猾で制しがたく、今またいくつかの外夷と通じているので、放置すれば後々辺境で害をなす。」と言上した。巡撫に詔を下し真相を調べさせたが、結局は不問に付された。天順二年(1458)に卒去し、侯を追贈され、荘毅と諡された。
子の栄が嗣いだ。石亨の一党として罪に問われ、罰の代わりに広西で軍功を立てるよう命じられた。成化の初め(1465)、貴州に異動して守備し、まもなく両広に移った。卒去して子の文が嗣いだ。弘治の初め(1488)に共同で南京の守備に就いた。爵位を伝え、明が亡んで断絶した。

『明史』巻百五十六「焦礼伝」

焦礼、字は尚節、蒙古人である。父の把思台は洪武年間(1368~1398)帰附して通州衛指揮僉事となった。子の勝が嗣ぎ、義栄の代になって子が無かったため、勝の弟の謙が嗣いだ。謙は功を重ねて都指揮同知となった。卒去したとき、子の管失奴が幼かったので、謙の弟の礼が仮にその職を継いで遼東を守備した。
宣徳の初め(1426)、礼が職を管失奴に返還しようとしたとき、宣徳は礼が辺境守備に尽くした功労を思い、もとの官職に留まるよう命じ、管失奴には別に指揮使を授けた。礼はまもなく長年の功労により都指揮同知に昇進した。正統年間(1426~1449)、功を重ねて右都督となった。正統帝が土木の変で捕らえられると、景泰帝は礼を左副総兵に任じて寧遠を守らせた。まもなく也先が都まで逼ると、詔により礼は寧遠の兵を率いて都に駆けつけた。也先が引き揚げると礼は寧遠に戻って守備した。景泰四年(1453)、賊二千騎あまりが興水堡に攻め込んだ。礼はこれを討って敗走させた。璽書により褒め称えられ、左都督に昇進した。
天順帝が復辟すると、礼は辺境を守備して功があるとして、都に召されて拝謁し、東寧伯に封ぜられ、世襲とされ、多くの物を賜って、任地に戻された。兵部は礼の年齢が八十になろうとしているので単独で職務を果たすのに無理があるとして、奏上して都指揮の鄧鐸を寧遠に遣わし協同で守備することとした。まもなく礼は、鄧鐸が自分を欺き侮るとして交代させるよう奏上した。そこで都指揮の張俊を鄧鐸と交代させた。天順七年(1463)、寧遠に駐屯したまま卒去した。侯を追贈され、襄毅と諡された。
礼は度胸も知略もあり、騎射を得意として、少ない手勢でよく多くの敵を討った。寧遠を守備すること三十年あまり、士卒は礼に用いられることを楽しみ、辺境は安寧・静謐であった。
孫の寿が爵位を嗣ぎ、卒去して子が無く、弟の俊が嗣いだ。成化の末(1487)に、甘粛や寧夏などに異動し、弘治年間(1488~1505)、南京前府を統括し、長江の提督を兼ね、出向して貴州・湖広に駐屯した。俊は若い頃商売をしていたので、高貴な身分になっても士にへりくだることができたが、交渉はまるで下手であった。俊が卒去すると、子の淇が嗣いだ。淇は京営を分担して統括したが、正徳年間(1506~1521)、劉瑾に賄賂を贈ったので、両広に出されて駐留した。翌年卒去して、弟の洵が嗣いだ。洵は爵位を嗣いだとはいえ、財産は全て淇の妻が所有した。生母が卒去して葬儀を出せず、悲しみと憤りのため病気となって卒去した。子が無く、またいとこの棟が嗣いだ。嘉靖年間(1522~1566)、五軍営の提督となり、中府の統括を兼ねた。十年勤めて、湖広の総兵に改められた。卒去して太子太保を追贈され、荘僖と諡された。爵位を伝え、明が亡んで断絶した。

『明史』巻百五十六「毛忠伝」

毛忠、字は允誠、初名は哈喇で、西陲人である。曽祖父の哈喇歹は洪武の初め(1368)に帰附し、歩兵から身を起こして千戸となり戦死した。祖父の拝都は哈密遠征に従い、これもまた戦死した。父の宝は驍勇をもって総旗に官職を得て、永昌百戸になった。
忠は官職を継いだとき二十歳であった。膂力は人より優れ騎射を得意とした。永楽帝の北征に常に従い、宣徳五年(1430)、曲先の叛徒討伐で功があった。八年(1433)、亦不剌山征伐で、偽少師知院を捕らえた。九年の脱歓喜山、十年の黒山の賊の討伐で、ともに酋長を捕らえ、それぞれ一階級昇進し、指揮同知を歴任した。
正統三年(1438)、都督の蒋貴が朶児只伯を討伐するのに従い、先頭に立って敵陣を攻め落とし、多くの戦果を挙げたので、都指揮僉事に抜擢された。十年(1445)、辺境守備の功労により、同知に昇進して、このときになって毛姓を賜った。翌年、総兵官の任礼に従って、沙洲衛都督の喃哥の部落民を捕らえ、長城の内側に移住させた。この功により都指揮使に昇進した。十三年(1448)、兵を率いて罕東に行き、喃哥の弟で祁王を僭称していた鎖南奔とその配下の部族生け捕りにしたため、都督僉事に抜擢され、このときになって忠という名を賜った。まもなく右参将に任命され、共同で甘粛を守った。
景泰の初め(1450)、侍郎の李実が漠北に使者として赴き、帰還して、忠がしばしば瓦剌に使者を送って通じていると報告した。詔により忠は捕らえられ京に送られた。都に着くと、兵部はその罪を検討して極刑にするよう帝に進言した。景泰帝はそれを許さず。降格して、処罰の代わりに福建で功を立てることとした。こうして福建に遣わされたが俸禄はいぜんのままであった。甘粛の守臣に命じて忠の家族を都に移住させた。これ以前のこと、忠が沙漠に遠征したとき、番僧の加失領真を捕らえて正統帝に献じたが、帝はこれを赦して誅殺しなかった。後に加失領真は瓦剌に逃亡して也先に登用された。忠は加失領真を憎んでいたので、加失領真は自分に害が及ぶ前に落としいれようと、ついには忠が也先と内通しているとの噂を流したのである。朝廷ではこのことに気づかなかったが。正統帝だけは也先のもとにいたのでこのことを知っていた。このため正統帝が復辟すると、忠は都に呼び戻された、そして忠が福建でたびたび賊を討ち取る功を挙げていたので、都督同知に抜擢し左副総兵に任命して、甘粛を鎮守させることとした。忠が謁見したとき帝は最大限慰め、玉帯と金糸で織った蟒衣を賜った。
天順二年(1458)、賊が大挙して甘粛に攻め込んだ。巡撫のゼイ釗が諸将の失態の罪を弾劾した。兵部で協議した結果、忠の今までの功績は罪を償うに足るとして不問とされた。三年(1459)、番を鎮圧し賊を破った功により、左都督に昇進した。五年(1461)、孛来が数万騎を西寧・荘浪・甘粛の諸道に分けて攻略させ、涼州に入った。忠は一昼夜全力で戦い、矢が尽き疲労困憊した。賊はますます数を増してきたので、軍中はみな顔色を失った。忠はますます意気を上げて将士を激励したので、再び死力を尽くして戦った。賊は結局勝てないと判断し、しかも明の援軍が到着したので、包囲を解いて退却した。忠はついに全軍がまとまった状態で帰還した。七年(1463)、永昌・涼州・荘浪の塞外の諸番がしばしば国境を侵犯したので、忠は総兵官の衛穎とともに分担して討伐した。忠はまず破巴哇の諸大族を撃ち破り、サンサや馬吉思などの諸族で、他の将が撃ち破れないものを、忠がまた行って撃ち破った。論功があって、忠は禄を百石増やされただけで、衛穎は世券を得た。忠は不服を申し立て、結局、伏羌伯に封ぜられた。
成化四年(1478)、固原の賊の満四が石城に拠って叛いた。詔により忠は兵を引き連れて移動し討伐することとなった。忠は総督の項忠らと賊の巣窟を挟み撃ちにした。忠は木頭溝からそのまま炮架山の下を攻撃し、多くの場所で敵を斬ったり捕らえたりした。このため賊はやや退いた。忠は矢や石が飛んでくるのをものともせず山北・山西の両峰を立て続けに奪取した。項忠らの軍もまた山の東の峰を占拠した。官軍が石城の東と西の二門までたどり着くと、賊は大いに追い詰められ、お互いに泣きあった。そこへ突如深い霧がたちこめ、他の官軍はこれを軍を動かさないようにとの合図ののろしだと判断した。そこで賊は力を合わせて忠を攻めた。忠はとめどなく力戦したが、流れ矢に当たって卒去した。享年七十五。従子の海、孫の鎧も忠を救おうとして前に出てまた戦死した。
忠は将として紀律に厳しかったがよく兵士を慰撫した。卒去すると、西陲人は弔問する者が列を成した。帝は戦死したことを聞くと、侯を追贈して、武勇と諡し、世券を与えた。弘治年間(1488~1505)、担当官の進言に従い、蘭州に忠義坊を設置して、忠の郷里でその功労を表彰した。また巡撫の許進の進言に従い、甘州城の東に武勇祠を建て、春秋に祭礼を行わせた。
孫の鋭が伯爵を継いだ。成化年間(1465~1487)、南京の共同守備役となり、弘治の初め(1488)、湖広に出向して鎮守し、両広に転任となった。蛮賊を平定して功を重ね、全てにおいて璽書により賞賛された。九年(1496)、広西で賊を打ち破り、毎年の禄を二百石を増やされた。言官が、鋭が広州に邸宅を築き、私に大船を建造して異国の商人と通商していると弾劾した。帝はこれを不問に付した。思恩の土官の岑濬が叛いたので、鋭は総督の潘蕃とともに討伐して平定した。その後さらに平賀県の僮人の賊を討伐し、官を加えられて太子太傅となった。正徳三年(1508)、劉瑾が尚書の劉大夏を殺そうとして、劉大夏が田州で起こった反乱に対して処置を誤ったと弾劾した。このため田州鎮圧に従軍した鋭も詔により投獄された。罪状が確定して、鋭は加官ならびに毎年の禄五百石を取り上げられた。その後、鋭は劉瑾に賄賂を贈って漕運の総督に起用された。翌年、劉瑾が誅殺されると、鋭も弾劾されて罷免された。六年(1511)、群盗の劉宸らが畿内を荒らしまわった。朝廷では鋭に宦官の谷大用とともに賊を討つよう命じたしかし率いた京軍はみな驕惰で戦いに不慣れであった。翌年正月、長垣で賊と遭遇し、戦って大敗し、鋭は負傷して将の印をなくし、ちょうど許泰の援軍が到着したので、どうにかその場を免れた。言官が交々弾劾したので召還されたが、谷大用が同じ罪に当たるので、結局処罰されなかった。嘉靖帝が即位すると再び起用されて湖広を鎮守し、任地に三年いて卒去した。太傅を追贈され、威襄と諡された。
子の江、漢が跡を継ぎ、漢は嘉靖年間(1522~1566)に南京左府を統括し長江の提督となった。漕運の総督に改められたが、まだ赴任しないうちに、給事中の楊上林が漢の汚職を弾劾したため、詔により官職を取り上げられ喚問された。卒去して子が無く、従子の桓が嗣いだ。桓が卒去して、子の登が嗣いだ。万暦年間(1573~1620)、中軍府の政務を二十年にも渡り取り仕切った。さらに子孫に爵位を伝え、明が亡ぶ前で続いた。

『明史』巻百六十六「陳友伝」

陳友、その先祖は西域より入り、全椒に定住した。正統の初め(1436)に千戸の官職に就き、累進して都指揮僉事となった。連年瓦剌への使者となった功労により、また昇進して都指揮使となった。九年(1444)に寧夏遊撃将軍に任命されて、総兵官の黄真とともに兀良哈を攻撃して、多大な戦果を上げ、都督僉事に昇進した。まもなく長城を出て招諭したので答哈卜ら四百人が来帰した。
景泰帝が即位(1450)すると、都督同知に昇進し、湖広や貴州の苗族を討伐した。まもなく左参将に任命されて、靖州を守備した。景泰二年(1450)、王来らとともに香爐山の賊を攻撃し、万潮山から入って大いに破り、湖広に留まって守備した。論功により、右都督に昇進した。四年春、苗族五百人あまりの首を斬ったと朝廷に報告し、五年にはさらに三百人あまりの首を斬ったと報告した。しかし都指揮の戚安ら八人が戦死したので、兵部省は首を斬った功が虚偽ではないかと疑い、指揮の蔡昇もまた友の報告が虚偽であると奏上した。そこで総督の石璞に調査を命じたところ、斬ったり捕らえたりした者がわずか三、四十人で、将士千四百人を失ったとして、処罰すべきであると報告した。詔を下して、友は賊を殺して償うよう命じられた。
天順元年(1457)、方瑛が天堂の諸苗を討伐するのに従い、大いに戦果を上げた。左副総兵に任命されて湖広を鎮守するよう命じられた。その後、また方瑛とともに蒙能の残党を破り、都に呼び出されて、武平伯に封ぜられ、世券を与えられた。孛来が辺境を脅かすと、遊撃将軍に任命され、安遠侯の柳溥らに従って防衛した。そして都指揮の趙瑛らを率いて戦い、敵を破って敗走させた。敵が鎮番に再び侵入してくると、また撃退し、百六十人を捕らえた。まもなく将軍の印を与えられて総兵官に任命され、寧夏の賊を討伐した。これ以前のこと、賊が大挙して甘・涼に侵入し、柳溥と総兵の衛穎らは防ぎきれず、ただ友だけが多少の戦果を収めた。ここに至り、巡撫のゼイ釗が諸将の失態を列挙した報告書を送った。兵部省は友の免罪を願い出た。詔により、友は柳溥らとともに許され、呼び戻されて侯に昇進し、のちに卒去した。
爵位を子に伝え、孫の綱の代の弘治年間(1488~1505)に、友に諡を追贈することを願い出た。そこで詔によりベン国公を追贈され、武僖と諡された。綱は爵位を子の勲と熹に伝えた。嘉靖年間(1522~1566)、吏部が、友の苗討伐の功は多くがでたらめであるので、爵位継承を停止するよう求めたが、帝は聞き入れなかった。熹の子の大策がまた侯を嗣ぐことができ、明が亡ぶに至り断絶した。

『明史』巻百七十三「施聚伝」

施聚、その先祖は沙漠の人で、順天の通州に住んだ。父の忠は金吾右衛指揮使となり、北征に従軍して陣没し、聚がその職を継いだ。宣徳年間(1426~1435)、遼東の防衛の備えをし、累進して都指揮同知となった。曹義の推薦により、都指揮使に昇進した。曹義は兀良哈と戦ったが、聚はその全てに従軍した。也先が都に迫ると、景泰帝は詔を出して聚と焦礼に都に来て側近くで守るよう命じた。聚は慟哭し、即日兵を率いて西に向かった。部下が牛肉と酒を勧めると、聚はそれを振り払ってこう言った。「天子の安否が不明なのだ。ご馳走を食べる気分ではない。」賊が撃退されると遼東に戻った。聚の勇敢さが称えられて左都督になった。正統帝を復辟させた恩賞として伯に封ぜられた。曹義の死後二年(1462)で卒去した。侯を追贈され、威靖と諡された。曹義から三代を経て棟の代になり、聚より四代を経て瑾の代になった。吏部はともに爵位を継承させるのは適当ではないと言ったが、嘉靖帝は特別に継承を許し、爵位を伝えて明が亡ぶまで至った。

ここに挙げたのは世襲の爵位を持った家系のみです。世襲の爵位を持っているものは漢人も全て含めて数十人で、この他に蒙古系で世襲武官となり各地の衛所で地位を得ていた者は数多くいました。大元を継承する世界帝国を自認していた大明帝国は、当時知られていた世界全てを包含するものであり、さまざまな民族を取り込み漢化して吸収する国家であったのです。

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ナントカ堂 2014/09/21 21:26

明代の名門(11)

前回は武人を良さ気に書いていたので、今回は反対にろくでもない人を訳します。
父親の王真は良い人なのですが、とりあえずここから語り起こします。

『明史』列伝第三十三「王真伝」

王真は咸寧の人である。洪武年間(1368~1398)、兵卒より身を起こし、功を重ねて燕山右護衛百戸となった。燕軍が挙兵すると九門を攻めた。永平・真定で戦い、広昌を降して、雁門の戦いに従軍した。滄州を攻め落とすのに従い、南軍を滑口まで追って、捕虜七千人以上を得て、累進して都指揮使となった。
ラン河の戦いで、真は白義・劉江とともに各々百騎を率いて平安の軍をおびき出し、草を縛って袋に入れ、絹布の束に見せかけ、平安がこれを追撃すると、真らは偽って袋を捨てた。平安軍の兵士は争ってこの袋を取り合い、ここで伏兵が現れ、両軍死闘となった。真は壮士を率いて前に進み、数え切れないほどの首を斬った。後からの軍が続かず、真は平安軍に何重にも包囲された。真は重傷を負いながらも続けざまに数十人を殴り殺し、側近を振り向いて「私は敵の手で殺されないことを信条としている。」と言って自刎した。永楽帝が即位すると、金郷侯に追封され、忠壮と諡された。
真は勇猛にして知略あり、永楽帝は追悼の曰が来るたびに「王真のように奮闘すれば何でもできる。死ななければ、その功は諸将の筆頭となったであろう。」と言った。洪熙帝の時代に、寧国公を追封され、効忠の称号を加えられた。子の通には自身の伝がある。

『明史』巻百五十四「王通伝」

王通は咸寧の人で、金郷侯の真の子である。父の官を嗣いで都指揮使となり、父の兵を率いて転戦し、軍功を挙げて、累進して都督僉事となった。本人の功と父の戦死の功を合わせて、武義伯に封ぜられ、禄は千石で、世券を与えられた。永楽七年(1409)長陵造営の監督となり、十一年(1413)成山侯に進封され、禄二百石を加えられた。翌年、北征に従い左掖を指揮した。二十年長城を越えての遠征に従い、大軍で殿となった。以後北方遠征の際には、右掖も合わせて指揮した。洪熙帝が即位すると、後府の統括を命じられ、太子太保を加えられた。
これ以前に交阯総兵官で豊城侯の李彬が卒去したため、栄昌伯の陳智と都督の方政が参将として代わりに鎮守していたが、互いに協力しなかった。黎利は勢力を拡大して、何度も郡邑を攻め落として将や官吏を殺した。陳智はたびたび兵を出したが敗れた。宣徳帝は陳智の爵位を取り上げ、王通に征夷将軍の印を帯びさせて、兵を指揮して討伐に向かうよう命じた。黎利の弟の黎善が交州城を攻めた。都督の陳濬らがこれを撃退し、ちょうどここへ王通が到着したので、道に分かれて出撃した。参将の馬瑛は石室県で賊を破った。王通は兵を率いて馬瑛軍と合流し、応平の寧橋まで来ると伏兵に攻撃され、王通軍は総崩れとなり、死者が二、三万人出て、尚書の陳洽が戦死し、王通は負傷して交州に戻った。黎利が乂安にいると聞くと、王通は自ら精鋭を率いて東関を包囲した。王通はやる気が無くなっていたので、朝廷に密かに使者を出して、黎利にこの地で封爵を授けるよう願い、黎利には清化以南を割譲するともちかけた。按察使の楊時習がこれを察知して不可としたので、王通は声を荒げて責めた。清化守の羅通もまた城を棄てることに反対して、指揮の打忠とともに守りを固めた。朝廷では援軍として柳升らを遣わした。
柳升が到着する前の二年二月、黎利が清化城を攻めた。王通が屈強な兵五千で賊の不意を突いて陣を攻め破り、賊の司空の丁礼以下一万以上の首を斬った。黎利は恐怖のあまり逃亡しようとした。諸将が勝ちに乗じて速やかに攻撃することを求めたが、王通は三日の猶予を設けて出撃しなかった。このため賊は勢いを盛り返し、柵を立て塹壕を掘って、四方に兵を出し、別働隊が昌江・諒江を攻め落として、清化の包囲はますます逼ってきた。王通は兵を纏めて出撃しなかった。ここで黎利が和を求めてきたので、王通はこれを朝廷に報告した。このとき柳升が戦死し、沐晟の軍は水尾県まで来て前進できなくなっていた。王通はますます懼れ、さらに利で黎利を釣り、黎利が謝罪の上表を出すようにした。
その年の十月、官吏・兵・民を全て集めて城から出て、壇を立てて黎利と盟約を結び、撤退を約束した。黎利が開いた宴会で、王通は錦綺を贈り、黎利からもまた返礼として宝物が贈られた。十二月、王通は太監の山寿に命じて陳智らとともに水路を通って欽州に帰らせ、自らは歩兵・騎兵を率いて広西に帰った。そして南寧まで来たところで初めて朝廷に報告した。朝議が開かれ、これ以上の戦争は止めることに決定し、ついに交阯は放棄された。交阯が中華に属すること二十年あまり、その間に数十万の兵と、百万以上の兵糧、莫大な輸送費が費やされ、ここに至って放棄されたのである。官吏・兵・民で引き揚げてきた者は八万六千人あまり、賊の手に落ち賊に殺されたものは数え切れないほどである。土官で明の道案内を務めた陶季容や陳汀などは、各々自らの土地を捨てて来帰した。
翌年、王通が都に戻ると、群臣は相次いで弾劾し、死刑が検討されて投獄され、世券を剥奪されて家を没収された。正統四年(1439)、特別に死罪を赦されて民の身分とされ、景泰帝が即位すると、都督僉事に起用されて京城を守った。也先を防ぐのに功があり、都督同知に昇進して天寿山の守備に就き、家産を返還された。景泰三年(1452)に卒去した。天順元年(1457)、詔により王通の子の琮が成山伯を嗣いだ。琮の子の鏞のときに成化帝より元通りに世券を賜り明が亡ぶまで爵位を伝えた。

上記の陳洽は同じく『明史』巻百五十四に伝があります。ここで戦死するあたりを抜書きしてみます。

成山侯の王通に征夷将軍の印を持たせて討伐に向かわせ、陳洽はその軍の補佐となった。宣徳元年九月、王通が交阯に到着し。十一月に応平に進軍、寧橋に至った。陳洽と諸将は、地形が険阻で悪く、伏兵がいる恐れがあるといって、ここで軍を留めて敵を偵察すべきだといった。王通は聞き入れず、兵を率いて川を渡り、ぬかるみにはまった。ここに伏兵が立ち上がり、官軍は大敗した。陳洽は馬を走らせ敵陣に突っ込み、深手を負って馬から落ちた。側仕えの者が助け起こして戻ろうとすると、陳洽は目を見開いてこう叱りつけた。「私は国家の重心として、四十年も禄を食んでいる。国に報いるのは今日このときである。義により生きていられようか。」そうして刀を振るうと敵を数人殺し、自刎して死んだ。このことが報告されると、帝はこう言って嘆いた。「重臣の身で国のために殉じる者は、一代にどれほどいようか。」そして少保を追贈し、諡を節ビンとして、その子の枢を刑科給事中とした。

明代は武官が強いから、相手が侯爵で将軍だと、文官だと軍政トップの兵部尚書でも制止できなくてどうしようもないんですよね。しかもこの後もグダグダなのに大した処分を食らってないし。
それにしても文官が地形や伏兵の有無を判断してるのに、武官が気にせず進んで、文官が奮戦して戦死しているのに、武官が逃げ出して、あべこべじゃないか(笑)

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ナントカ堂 2014/09/21 20:47

明代の名門(10)

正統帝時代の元老に張輔と陳懋がいました。
張輔は張玉の子で、張玉はwikiに略伝があるので、その子供たちの附伝と張輔の伝を訳します。

『明史』巻百四十五「張玉伝」
子は三人いて、長子は輔、次子はゲイ(車偏に兒)。三子は軏、従子は信である。輔には別に伝がある。

ゲイは功臣の子として神策衛指揮使となった。正統五年(1440)、英国公で兄の輔が、ゲイが墳墓を守る者を殴り、先代の玉に対してまで多くの不敬な言葉を吐いたと訴えた。帝は錦衣衛に命じて事実を調査させ、ゲイを拘禁したが、まもなく釈放された。三度昇進して中府右都督となり宿衛を統括した。景泰三年(1452)、太子太保を加えられた。正統帝が復位すると、軏が帝を擁立した功により、ゲイもあわせて文安伯に封ぜられ、食禄を千二百石とされた。天順六年(1462)に卒去。侯を追贈され、忠僖と諡された。子の斌が嗣いだが、呪詛の罪に問われ爵位を剥奪された。
軏、永楽年間(1403~1424)に宿衛に入り、錦衣衛指揮僉事となった。宣徳帝が高煦を討伐するのに従い、また成国公の朱勇が長城を越えて氈帽山に行ったのに従った。正統十三年(1448)、副総兵として麓川を討伐し、帰還してからまた貴州の叛逆した苗を討った。功を重ねて前府右都督となり、京営の兵を束ねた。景泰二年(1451)、驕慢で放蕩に耽ったので投獄され、まもなく釈放された。景泰帝が危篤になると、石亨・曹吉祥とともに南城で上皇を出迎えた。太平侯に封ぜられ、食禄は二千石とされた。于謙・王文・范広の死には、軏が強く推し進めたことである。賄賂を受けて政治を乱し、権勢は石亨に次いだ。天順二年(1458)に卒去して、裕国公を追贈され、勇襄と諡され、子の瑾が嗣いだ。成化元年(1465)、「奪門」の功が再検討され、侯を取り上げられて指揮使を授けられた。

信は建文二年(1400)に郷試第一に挙げられた。永楽年間(1403~1424)に刑科都給事中を歴任し、たびたび献言を行った。工部右侍郎に抜擢されて、開封における黄河決壊の視察を命じられ、魚王口から中ラン故道までの二十里ほどを開削するよう進言した。詔により協議したことが「宋礼伝」に詳しい。浙江の防波堤を作るため遣わされ、あることが罪に問われて交阯に流された。洪熙の初め(1425)、都に呼び戻されて兵部左侍郎となった。帝はかつて英国公の輔に「兄弟で恩典を加えるべき者がいるか?」と尋ねた。輔はひれ伏してこう言った。「ゲイと軏は陛下の恩をこうむって近侍となり、ともに身に過ぎた贅沢をしております。ただ従兄で侍郎の信は賢明にしてお使いいただけるかと存じます。」帝は信を召しだして会ってみると「これが英国公の兄か。」と言い、武官の冠を被らせて、錦衣衛指揮同知に改め、世襲とした。このころは建国からまだ年月が経っていなかったので、武官の官位が高かったためにそうしたのである。信は官職に就いている間、寛大さで賞賛された。宣徳六年(1431)、四川都指揮僉事に異動となり、蜀にいること十五年で致仕した。

次は『明史』巻百五十四「張輔伝」

張輔、字は文弼、河間王の玉の長子である。靖難の変が起こると、父に従って力戦し、指揮同知となった。玉が東昌で戦死すると、輔がその職を嗣いだ。夾河・藁城・彰徳・霊璧の戦いに従軍し、全てにおいて軍功を挙げた。永楽帝が都に入るのに従い、信安伯に封ぜられ、禄は千石とされ、世券を与えられ、妹は帝の妃となった。丘福と朱能は、輔の父子はともに功績が多大であり、帝妃の一族ということで故意に恩賞を薄くするべきではないと言った。永楽三年(1405)、新城侯に進封され、禄三百石を加えられた。
このとき安南の黎季リがその主を弑して、自らを太上皇と称し、子の蒼を帝に立てた。このため殺された王の孫の陳天平がラオスから逃げて来た。黎季リは偽って帰国するよう願い出たので、帝は都督の黄中に兵五千を指揮させて陳天平を送り、前大理卿の薛ソウを補佐とした。黎季リは芹站に伏兵を置いて陳天平を殺し、薛ソウもまた死んだ。帝は激怒し、成国公の朱能を征夷将軍、輔を右副将軍とし、豊城侯の李彬ら十八人の将軍、兵八十万を指揮させた。そして左副将軍・西平侯の沐晟と合流して、道を分かれて進軍し討伐に向かった。兵部尚書の劉俊が参謀となり、行部尚書の黄福と大理寺卿の陳洽が兵糧輸送を担当した。
四年(1406)十月、朱能が陣中で卒去したため、輔が代わりに軍を指揮した。憑祥から進軍し、坡塁関を越え、国境から安南の山川を遥拝した。そして黎季リの二十の罪を問う文書を安南に送り、進軍して隘留・鶏陵の二関を破り、芹站に進んでそこにいた伏兵を敗走させて新福に到着した。沐晟軍もまた雲南から来て白鶴に陣を敷いた。安南には東西二都があり、宣・トウ・タ・富良の四江の天険を恃みとしていた。賊は江南北岸に柵を立て、その中に船を集めていた。多邦隘に築城し、城柵の間に橋のように艦船を九百里以上連ね、その兵力は七百万で、天険により、疲弊した輔の軍を破ろうとしていた。輔は新福から三帯州に軍を移し、船を造って進軍し攻め落とそうとした。このとき帝のもとに朱能が卒去した報せが届き、敕により輔を将軍に任じ、別に帝よりの言葉として、李文忠が開平王の常遇春に代わって指揮を執った故事に倣うこと、冬でまだ瘴気が盛んにならないうちに賊を滅ぼすことを伝えた。十二月、輔の軍は富良江の北に着いた。驃騎将軍の朱栄を遣わして嘉林江の賊を破り、沐晟の軍と合流して進軍し多邦城を攻めた。このとき他の城を攻めようとしているそぶりをして賊を油断させ、都督の黄中らに決死の士を指揮させて、各人にかがり火と銅製のラッパを持たせ、夜四鼓(午前3時ごろ)に何重もの堀を越えて、雲梯を城壁に架けた。都指揮の蔡福が先頭に立って登り、兵士が蟻のように城壁について城壁の上に上がって、ラッパを吹き、一万のかがり火を一斉に挙げ、城壁の下にいた兵が騒ぎ立ててこれに続いて進軍して城に入った。賊は象を駆り立てて応戦した。輔は獅子を描いたものを馬に被せて象を抑え、左右から神機火器を発した。象はみな反転して逃げ走り、賊は壊滅した。そこで賊の主将二人を斬って傘圓山まで追撃し、江に沿って設置されていた木柵を全て焼いた。捕らえて斬ったものは数知れなかった。進軍して東都を落とし、下級役人や民を集め、投降した者を慰撫したので、来帰する者は日に一万を数えた。別将の李彬と陳旭を遣わして西都を取り、さらに兵を分けて賊の援軍を破った。黎季リは宮殿や倉庫に火をかけて海上に逃亡した。三江の州県はみな風になびくように降伏した。
翌年春、輔は清遠伯の王友らに注江を渡らせ、籌江・困枚・万劫・普賴の諸寨をことごとく攻略させ、三万七千以上の首を斬った。賊将の胡杜は盤灘江で船を集めた。輔は降将の陳封にこれを襲わせて敗走させ、全ての船を獲得した。ここに東潮・諒江の諸府州は平定された。続いて黎季リの水軍を木丸江で撃破し、一万の首を斬り、将校百人以上を捕らえ、溺死者は数え切れないほどであった。さらに膠水県の悶海口まで追撃して帰還した。そして鹹子関に城を築き、都督の柳升にこれを守らせた。その後、賊は富良江から入ったので、輔は沐晟とともに両岸から迎え撃ち、柳升らが水軍で側面を突いたので、賊を大いに破り、数万の首を斬って、江の水は赤くなった。勝に乗じて賊を追い詰めた。このとき雨が降らなかったので水が浅く、賊は船を棄てて陸を逃走した。官軍が至ると、突如大雨が降って水位が上がったので、河を渡ることができた。五月に奇羅海口に到着し、黎季リとその子の蒼、並びに偽太子・諸王・将相・大臣らを捕らえ、檻に入れて都に送った。安南は平定され、府州四十八、県百八十、戸三百十二万を得た。陳氏の末裔を求めたが得られなかったので、結局、交阯布政司を設置し、その地を内地に属した。唐が亡びてより、交阯は蛮族の手に落ちて四百年以上、ここに至り再び版図に入った。帝は詔により天下にこのことを告げ、諸王・百官は表を奉じて祝賀した。
六年(1408)夏、輔は展開した軍を纏めて都に戻った。奉天殿で二度帝による宴が催され、帝は『平安南歌』の賦を作った。輔は英国公に進封となり、毎年の禄を三千石として、世券を与えられた。その年冬、陳氏の旧臣の簡定が叛旗を翻した。帝は沐晟に討伐を命じたが、生厥江で連敗した。翌年春、再び輔に征虜将軍の印を帯びさせ、軍を指揮させて討伐に向かわせた。このとき簡定はすでに越上皇を僭称して、別に陳季拡を皇として立て、その勢力は多大なものであった。輔は叱覧山に着くと木を切って船を造り、あわせて諒江の北にいた避難民を呼んで生業に復帰させた。そして慈廉州に進軍し、喝門江を破り、広威州の孔目柵を攻め落とし、鹹子関まで行くと賊と遭遇した。賊は六百以上の船で、江東の南岸を有していた。輔は陳旭らを率いて小舟で戦った。風向きに乗って火を放ち、賊帥二百人以上を捕らえ、全ての船を得た。そこから太平海口まで追撃すると、賊将の阮景異が三百艘で迎え撃ったので、これもまた大いに破った。このときになって陳季拡は自らを陳氏の子孫であると言い、使者を遣わして安南王の位を継ぐことを認めてもらえるよう求めた。輔は言った。「以前に安南全土で陳王の子孫を捜し求めたがこれに応じるものはいなかった。今そのように言うのは偽りであろう。私は命を奉じて賊を討つのであり、その他のことは知らぬ。」そして朱栄、蔡福らに歩兵と騎兵で先に進ませ、輔は船団を率いてこれに続いた。黄江から神投海に着き、清化で合流してから、道を分かれて磊江に入り、美良山中で簡定を捕らえた。そしてその一党とともに都に送った。八年(1410)正月、軍を進めて賊の残党を討ち、数千人を斬って、京観(死体の山)を築いた。このとき陳季拡はまだ捕らえていなかった。帝は沐晟を留めて陳季拡を討たせることとし、輔は軍と共に帰還させた。輔は興和で帝と謁見し、帝は宣府・万全の兵の訓練と、北征の物資輸送の監督を命じた。
このとき陳季拡は降伏を願い出ていたが、実際には悔い改める心無く、輔が帰ったのに乗じて土地を攻め取り元のようにしてしまった。沐晟はこれを抑えることができなかった。このころ交阯人は中国の圧制に苦しめられ、下級役人や兵が交阯人の生活に介入してかき乱していたので、続々と立ち上がり賊に味方し、様子を見ては服従したり叛逆したりしたので、将帥はますます消極的な戦い方をするようになっていった。九年(1411)正月、輔に、沐晟と協力して討伐するよう命じた。輔は到着すると自分の指揮に従うよう宣言した。都督の黄中はもともと驕慢で軍律を破っていた。輔がそのことで黄中を責めると不遜な態度であったので、軍律により斬った。将士は恐怖で息がせわしなくなり、以後あえて命令を聞かないような者はいなくなった。その年七月、賊帥の阮景異を月常江で破り、船百以上を獲得し、偽元帥の鄧宗稷らを生け捕りにして、さらに阮景異には属さない賊の首領数人を斬った。ここで瘴気が激しくなったので兵を休ませた。翌年八月、賊を神投海で討った。このとき賊は四百艘以上で三隊に分かれて勢いづいて攻め寄せた。輔はその中核を突いたので、中央の賊は退いた。左右の隊はそのまま進み、官軍と絡み合うようにして死を賭して戦った。卯の刻から巳の刻(午前6時~10時)まで戦って賊を大いに破り、渠帥七十五人を捕らえた。乂安府に進軍すると、賊将で降伏する者が相次いだ。
十一年(1413)冬、輔は沐晟と順州で合流し、愛子江で戦った。賊は象を前面に駆り立てた。輔は兵に、一本目の矢は象使いに当て、二本目の矢は象の鼻に当てるよう命じた。象は自陣に逃げ帰り、味方を踏みにじった。裨将の楊鴻、韓広、薛聚らがその勢いに乗じて続いて進み、矢を雨のように降らせたので、賊は大敗し、その帥五十六人を捕らえた。愛母江まで追撃すると賊軍は全て降伏した。翌年正月、政平州まで進むと、賊が暹蛮・昆蒲の諸柵に駐屯しているとの報せが入った。そこで輔は兵を率いてそちらに向かった。そこは崖に沿った小道しかなく、騎兵では進むことができなかった。輔は将校とともに山中の竹林を進んだ。夜四鼓(午前3時ごろ)に賊の巣窟にたどり着き、阮景異、鄧容らをことごとく捕らえた。陳季拡はラオスに逃亡したので、指揮の師祐に兵を指揮させて捜索させた。師祐は三関を破り、ついに陳季拡とその妻子を捕らえて都に送った。賊は平定され、将としての権限により、賊から取り上げた占領地に、升・華・思・義の四州を設置し、衛所を増設して、降伏した者を官職に就け、軍を留まらせて守らせ、自身は帰還した。十三年(1415)春に都の到着すると。交阯に戻って交阯総兵官として鎮守するよう命じられた。賊の残党の陳月湖らがまた乱を起こしたので、輔はことごとくこれらを討ち平らげた。十四年冬に都に呼び戻された。
輔はおよそ四回交阯に赴き、その間に郡邑を設置し、駅伝と運搬の地点を増設して、行政は大いに整備された。交阯人はただ輔のみを畏れた。輔が帰還して一年にして黎利は反し、数度に渡り将が遣わされて討伐したが戦果がなかった。宣徳帝の代になって、柳升が戦死し、王通が賊と結びついてあわただしく引き揚げてきた。朝廷では交阯を放棄することが協議で決まり、輔はこれに反対したが聞き入れられなかった。
洪熙帝が即位すると、輔は中軍都督府の政務を執り、太師に昇進して、両方の俸禄を支給された。まもなく輔の太師の俸禄は北京の倉から支給することとなった。このころ百官の俸禄米はみな南京で支給されていたので、このことは特別な恩典であった。永楽帝の喪の満二十七日の日、帝は素冠と麻衣で朝廷に現れた。群臣はみな礼服を着ており、輔と学士の楊士奇の服だけが帝と同じであった。帝は「輔は武臣であるのに、六卿よりも礼を知っている。」と言って嘆き、輔をますます信任するようになった。まもなく知経筵事を命じられ、『明太宗実録』を監修した。
宣徳元年(1426)、漢王の高煦が謀叛を謀り、諸功臣に内応を誘った。そして密かに夜中に輔の元へ人を遣わした。輔はこれを捕らえて帝に報告したので、謀叛の計画がすべて判明した。そこで輔は兵を率いてこれを討つことを申し出た。帝は自ら兵を率いて討伐することを決め、輔には側近くに同行するよう命じた。謀叛が平らげられてから、輔は禄三百石を加えられた。輔の威名はますます盛んになり、それ以後長らく兵権を握った。四年(1429)、都御史の顧佐が、功臣が政変に巻き込まれること無く子孫に至るまで安泰であるよう進言したので、詔により輔の府の政務を解いて、朝夕に側近くに侍らせ、軍と国政の重大事についてともに協議した。そして光禄大夫・左柱国・朝朔望に位階を進められた。正統帝が即位すると、翊連佐理の称号が加えられ、知経筵として今まで通りに『実録』を監修した。
輔は武勇に長け謹厳で、軍を統率すると整然となった。その様はそびえる山のようであった。三度交南を平定し、その威名は海の外にも聞こえた。四朝に仕えて帝室と婚姻により結びついたが、細心の注意を払って帝を敬い慎み深く、蹇義・夏元吉・三楊(楊士奇・楊栄・楊溥)とともに心を合わせて政治を補佐した。二十年以上に渡り世の中が安泰であったのは、輔の力があったからである。王振が権力をほしいままにすると、文武の大臣は王振の機嫌を窺ってひれ伏し、ただ輔のみが対等の礼を行った。也先が攻め込んでくると、王振が正統帝の親征を主導した。輔はこれに随行したが、王振は輔に軍政に関与させなかった。輔は老いていたので、黙々としてあえて何も言うことは無かった。土木に至り難に遭って死んだ。享年七十五。定興王に追封され、忠烈と諡された。
子の懋は九歳で公を嗣いだ。成化帝が西苑で騎射を閲覧したとき、懋は三発続けて的に当てたので、金帯を賜った。営府の統括を歴任し、累進して太師を加えられた。辺境防衛についての改良すべき点を進言し、京営の兵を使って圓通寺を建造させることを諌めて中止させた。弘治年間(1488~1505)、御史の李興と彭程が投獄されたので、懋は無罪を説いて両名を救った。また真武観の造営中止や、宦官で機織をさせられている者に役の免除して元の職務に戻らせることなどを願い出た。正徳帝が即位すると、帝はつまらぬ者たちと遊んでいたので、懋は文武の大臣を率いて諌めた。その言葉はみな切実で誠実なものであった。しかし懋の性格は派手好みであり、また兵士の数を大幅に減らしたのでしばしば糾弾された。公を嗣いで六十六年、兵権を握って四十年、帝からの寵遇は勲臣の筆頭であった。正徳十年(1515)に卒去した。父と同じ享年七十五であった。寧陽王を追贈され、恭靖と諡された。万暦十一年(1583)朱希忠とともに」王号を削られた。孫の侖が嗣ぎ、爵位を伝えて世沢の代になり、流賊が都を落としたときに殺害された。

『明史』巻百四十五「陳亨伝」

陳亨は寿州の人である。元末に揚州の万戸となり、濠で太祖に従って、鉄甲長となり千戸にされた。大将軍の徐達の北征に従って東昌を守った。敵数万に包囲されると、亨は固く守り、遊撃隊を出して敵を誘い破った。また降伏していない諸城を降らせるのにも従軍し、洪武二年(1369)に大同を守備し、功を重ねて燕山左衛指揮僉事となった。数度長城を越えての遠征に従い、北平都指揮使に昇進した。建文帝が即位すると、都督僉事に抜擢された。
靖難の変が起こると、亨は劉真・卜万とともに大寧を守った。のちに松亭関から出て沙河に駐留し、遵化を攻撃しようと計画したが、燕軍が来ると松亭関まで下がって守った。このとき李景隆の率いる五十万の軍がまさに北平を攻めようとしていた。北平の勢いは弱く、大寧行都司所は興州・営州の二十以上の衛を従えて、これらの衛はみな西北の精鋭であり、朶顔・泰寧・福余の三衛は元の降将が率いる蒙古の騎兵でもっとも驍勇なものであった。そして卜万は李景隆と合流しようとしていた。永楽帝はこれを懼れて、(卜万が燕と内通しているとの偽の書状で)亨を騙し、亨は卜万を牢に入れた。永楽帝はその間に劉家口から間道を抜けて速やかに大寧を攻めた。亨と劉真は松亭関から引き返して救援に向かったが、その途中で大寧が陥落したとの報せが届いた。そこで指揮の徐理、陳文らと燕に降ることを計画し、夜二鼓(10時頃)に劉真の陣を襲撃した。劉真は単騎で広寧まで逃亡し、亨は麾下の兵を率いて降伏した。永楽帝は諸軍及び三衛の騎兵をことごとく味方につけ、寧王を連れて帰った。これより多くの場面で三衛の兵が敵陣を突き攻め落とした。永楽帝が天下を取れたのは、大寧の勝利から始まったことである。
亨と徐理は燕軍に降ると、各地で南軍を破るのに従った。白溝河の戦いでは亨は瀕死の重傷を負った。その後、済南を攻め、ホウ山で平安と戦い大いに破った。傷が悪化したため、輿で北平に戻り、都督同知に昇進した。永楽帝は北平に戻ると、自ら亨を見舞い労わった。その年の十月に亨は卒去し、永楽帝は自ら祭文を作って弔った。そして即位すると、涇国公に追封し、襄敏と諡した。長子の恭が都督同知を嗣いだ。

末の子の懋は初め舎人として従軍し、功を立てて指揮僉事となった。亨の兵を指揮して功が多く、累進して右都督となった。永楽元年(1403)、寧陽伯に封ぜられ、禄は千石とされた。六年(1408)三月、征西将軍の印を帯び、寧夏に鎮守して、よく投降してきた兵を慰撫した。翌年秋、故元の丞相のサン卜及び平章・司徒・国公・知院の十人あまりが、各々の麾下を率いて相次いで来降した。その後、平章の都連らが叛いて去り、懋はこれを黒山まで追って捕らえ、その麾下の人や家畜を取り上げた。このため侯に昇進し、禄二百石を増やされた。八年(1410)北征に従い、左掖を統率した。十一年(1413)、寧夏の辺境を巡察し、まもなく山西・陜西の二都司と鞏昌・平涼の諸衛兵を率いて宣府に駐屯するよう命じられた。翌年、北征に従い、左哨を統率した。忽失温と戦い、成山侯の王通と先陣を争い、都督の朱崇らがその勢いに乗って、大勝利を収めた。翌年、また寧夏に鎮守した。二十年(1422)、北征に従い、御前精騎を率いて、屈裂河で敵を破った。さらに別働隊五千騎を率いて河に沿って東北に行き、敵の残党を捕らえて、山沢に隠れる敵を掃討した。帰還して、武安侯の鄭亨が率いる輜重が先行し、懋は隘路で伏兵となって待ち伏せた。敵は輜重隊の跡をつけてくると、伏兵が立ち上がって縦横無尽に討ち、敵の過半が死んだ。都に戻って、龍衣玉帯を賜り、懋の娘を冊立して麗妃とした。翌年、陜西・寧夏・甘粛の三鎮の兵を率いて、阿魯台討伐に従軍し先鋒となった。さらに翌年、また先鋒となり、北征に従った。
永楽帝が楡木川で崩御したとき、六軍は外にあって都の守備が弱かったので、洪熙帝は懋と陽武侯の薛禄を召して、精鋭三千騎で急ぎ戻らせ都を守らせた。太保を加えられ世襲の侯とされた。
宣徳元年(1426)、楽安討伐に従軍し、帰還して寧夏を鎮守した。三年(1428)、奏上して霊州城に移り、ここで黒と白の二匹の兎を得て献上した。宣徳帝はこれを喜び、自ら描いた馬の絵を賜った。懋は鎮所にあること久しく、その威名は漠北にとどろいていた。恩寵を恃んで勝手に振る舞い、膨大な財を民から搾り取った。しばしば弾劾されたが、帝はこれを曲げてこれを赦し、担当官にその不当に得た財の没収を命じたが、懋自身がすでに使い果たしてしまったと説明したため、詔により将来手柄を立てて償うことにして赦した。
正統帝が即位すると、張輔とともに朝廷の会議に加わり政治を行うよう命じられた。のちに平羌将軍として甘粛に出向して鎮守した。その冬、敵が鎮番に攻め込んだ。懋は兵を出して救援し、敵は囲みを解いて去った。懋は斬った敵と戦利品の数を帝に報告した。このとき参賛侍郎の柴車は、懋が軍律を破ったため敵の進攻を招いたこと、報告した捕虜の数に老人や子供が含まれていること、都指揮の馬亮らの手柄を横取りして恩賞を得ようとしたことを弾劾して、懋を斬罪にするよう進言した。詔により死を免じて禄を取り上げることにした。しばらくして禄は戻され、朝廷の行事への参加も許された。十三年(1448)、福建の賊の鄧茂七が反乱を起こした。都御史の張楷が討伐したが戦果が無く、詔により、懋に征南将軍の印を帯びさせ、総兵官に任じて、京営と江浙の兵を指揮させ討伐に向かわせた。浙江まで来ると、兵を分けて海への出口を押さえようと言う者がいた。懋は「それは賊にわれらを死に至らしめるようなものだ。」と言った。翌年、建寧を攻めた。鄧茂七はすでに死んでおり、賊の残党は尤渓と沙県に集まっていた。諸将は皆殺しにしようとしたが、懋は「それでは賊は決死の覚悟をしてしまう。」と言い、招撫するよう命じたので、賊の残党は多くが降伏し、残った者を道に分かれて追捕したので、ことごとく平定された。その後、沙県の賊は再び火の手の如く広まり、長らく収まらなかった。このころ正統帝で北で捕らえられ、景泰帝が立って、軍を率いて戻るよう詔があった。このとき言官により弾劾されたが、賊平定の功により不問に付された。太保を加えられて中府を統括し、宗人府の政務もともにみた。正統帝が復位すると禄二百石を増やされた。天順七年(1463)に卒去した。享年八十四。濬国公を追贈され、武靖と諡された。
懋はひげが整い偉大な風貌で、声は大鐘のように響いた。度量が広く、士大夫を敬い礼した。「靖難」の功臣で天順まで生きていた者は他に無く、ただ懋のみが久しく禄位を得ていた。何度も廃されては復帰し、最終的に功名を得たまま終わった。
長子の晟は罪を犯したので、弟の潤が嗣いだ。潤に卒去し、弟の瑛が嗣ぎ、禄を半減されて侯を嗣いだ。十六年経って晟の子の輔がすでに成長したため、輔に爵位を嗣がせるよう命じられ、瑛は代わりに勲衛となった。輔はのちに事件を起こして侯を失い、卒去して子がいなかった。このため瑛の孫の継祖に侯を継がせ、爵位を伝えて明が亡ぶまで続いた。

土木の変も過ぎた頃になると、靖難の変で自ら命がけで戦った経験の有る重臣が消え去り、工部尚書の李友直や、兵部尚書の徐晞、蘇州知府の況鍾のような吏員出身者も高官になることが無くなり、廟堂は、現場を経験せずに勉強に集中してきた科挙合格者で固められるようになり、明朝の気風もこのあたりから変わって行ったように思われます。

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ナントカ堂 2014/09/21 01:47

明代の名門(9)

武将として優れているだけでなく、内政も任されたのが顧成や陳セン(玉偏に宣)の一族です。

『明史』巻百四十四「顧成伝」

顧成、字は景韶、その先祖は湘潭の人である。祖父は操舟を生業とし、長江・淮河間を往来して江都に居を定めた。成は小さな頃から立派な体格で、並外れて膂力もあり、馬上で槍を操るのを得意とし、いれずみをして周囲と異なっていた。太祖が長江を渡ると来帰し、武勇をもって帳前の親兵に選ばれ、太祖が外出するときには日傘を捧げ持った。太祖に付き従っていたとき、太祖の舟が浅瀬に乗り上げたので、成が舟を担ぎ上げて進んだ。鎮江攻略に従ったとき、勇士十人とともに転戦し鎮江城に入ったところを捕らえられた。十人は皆殺されたが、成は暴れまわって縄を千切り、刀を持っていた者を殺してその場を抜けて帰ってきた。そして味方の先導となって城を攻め、勝利して百戸を授けられた。大小数十戦、皆功あり、堅城衛指揮僉事に昇進した。蜀討伐に従い、羅江を攻め、元帥以下二十人あまりを捕らえ、進軍して漢州を降した。蜀が平定されると成都後衛に改められた。洪武六年(1373)、重慶の妖賊の王元保を捕らえ、八年に貴州の守備となった。このころ群蛮は叛服常無く、成は毎年出兵してことごとく平定した。その後、潁川侯の傅友徳が雲南に遠征するのに従い先鋒となり、普定を攻め落としたとき一番の手柄を上げた。成はそこに留められ柵を立てて守備した。そこへ蛮が数万で来攻し、成は柵から出て、自ら数十から百人ほど殺し、賊を敗走させた。賊の残党はまだ城の南に残っていた。成は捕虜を斬るときそのうちの一人だけを「私は夜二鼓(10時頃)にそちらに行きお前たちを殺す。」と言って解き放った。夜二鼓になって、角笛を吹き炮を打ち鳴らすと、賊はこれを聞いてみな走り去り、兵器やよろいなど数え切れないほど獲得した。こうして成は指揮使に昇進した。諸蛮で普定の管轄区域にいた者はことごとく平定された。十七年(1384)、阿黒、螺??などの十以上の寨を平定した。翌年、成の奏上により、普定府は廃止され、その管轄区域は三州、六長官司に分割されて、成は貴州都指揮同知に昇進した。太祖は成に、賄賂を受けたり天子が使うべき玉器を勝手に使っているようだが、長年の功労により不問とすると諭した。二十九年(1396)右軍都督僉事に昇進し、征南将軍の印を帯びた。何福が水西蛮を討伐したので、成は水西の酋長の居宗必登を斬った。翌年、西堡、滄浪の諸寨の蛮が乱を起こしたので、成は指揮の陸秉とその子の陸統に命じて二道に分かれて討伐させ平定した。成は貴州にいることおよそ十年以上、討ち平らげた諸苗の洞寨は百数箇所、全てにおいてその首魁を誅殺し、その麾下を慰撫した。その恩恵と信頼は大いに広がっていったので、蛮人はこれに懐き服従した。その年の二月、都に召還された。
建文元年(1399)、左軍都督となり、耿炳文が燕軍を防ぐのに従い、真定で戦って捕らえられた。燕王はその縛めを解くと「これは天がなんじをわれに授けたもうたのだ。」と言って北平に送り、世子を補佐させて留守を守らせた。南軍が城を包囲すると、防衛及び兵の配備は全て成が決定した。燕王が即位すると、論功により、鎮遠侯に封ぜられ、食禄は千五百石、世券を与えられた。そして貴州を鎮守するよう命じられた。
永楽元年、成は上書して、西北の国境警備を厳重にすることと、早めに皇太子を決めることを乞うた。帝はこのことを褒めて返信した。六年(1408)三月、都に呼び出され、金帛を賜り貴州に戻った。思州宣慰使の田チンが思南宣慰使の田宗鼎とともに挙兵した。詔により、成は兵五万でこれを鎮圧し、田チンらを捕らえた。ここにおいて思州・思南は分割されて州県が設置され、貴州布政司が設けられた。その年の八月、台羅苗の普亮らが乱を起こした。詔により、成は二都司三衛の兵を率いて討ち平らげた。
成はひととなり忠謹で、書や史を渉猟した。北平に到着すると、多くの作戦を立てたが、兵を指揮することはついには引き受けること無く、兵器を渡されても受け取らなかった。再び貴州を鎮守し、しばしば播州・都インの叛逆した諸蛮を平定し、その威により南中を鎮めたので、地元民は生祠を建てて成を祀った。都に呼び出されると、太子を補佐して国政を監督するよう命じられた。成はひれ伏してこう言った。「太子は仁愛と聡明さを兼ね備え、廷臣はみな賢者です。太子を助け導くことは愚かなる臣の及ぶところではありません。任地に戻り蛮に備えることをお許しください。」このころ跡継ぎの地位を巡って群小の謀があり、太子は不安に思っていた。成は文華殿に行き、太子に挨拶した機会にこう言った。「殿下はただひたすらに陛下を敬い、民に心を配られますように。全ては天が決めることで、小人が何をしようと気にするほどのことではありません。」十二年(1414)五月に卒去した。享年八十五。夏国公を追贈され、武毅と諡された。
成には八子がいた。長子の統は普定衛指揮となり、成が燕に降ったため誅殺された。
統の子の興祖が侯を嗣いだ。洪熙帝が即位すると、広西の蛮が叛いた。詔により、興祖が総兵官となって討伐することとなった。潯州・平楽・思恩・宜山の諸苗を立て続けに討伐し、降附する者がはなはだ多かった。宣徳年間(1426~1435)、交阯の黎利がまた叛き、隘留関を攻め落として丘温を包囲した。このとき興祖は南寧にいて、兵を擁しながら救援に向かわなかった。このため呼び出されて錦衣衛の獄に入れられた。翌年になって釈放された。正統の末(1449)、北征に従い、土木の変に遭って、脱出して帰ってきて、死刑を検討された。也先が都城まで逼ると、地位を戻されて、副総兵に任命され、城外で敵を防いだ。都督同知を授けられ、紫荊関を守備した。景泰三年(1452)、賄賂を受けたことが罪に問われてまた投獄されたが、まもなく釈放された。皇太子擁立の恩賞として伯爵を与えられ、天順の初め(1457)に侯に戻されて、南京の守備となった。卒去して孫の淳が嗣いだ。孫は卒去して、子がいなかった。

従弟の溥が嗣いで、五軍右掖を統括した。弘治二年(1489)、平蛮将軍を拝命して湖広に鎮守した。着任すると、苗人の中の悪党の首魁を捕らえて斬った。五年(1492)十月、貴州の都イン苗のメ富架が乱を起こして、自らを都順王と称し、テンと蜀の道を封鎖した。詔により、溥が総兵官となり、兵八万を率いて討伐することとなった。五路に分かれ日時を決めて同時に進軍し、メ富架父子を誅殺して、一万ほどの首を斬った。太子太保を加えられ、禄を二百石増やされた。都に呼び出されて団営の提督となり、前軍都督府の政務を執った。十六年(1503)に卒去し、襄恪と諡された。溥は清廉で法を遵守した。卒去した日、いつも持っていた袋の他は何も財産を持っていなかったので、英国公の張懋が金を出して棺を買った。
子の仕隆が爵位を嗣いで、管神機営左哨となった。仕隆はそこで兵士の心を掴んだ。正徳の初め(1506)、漕運総兵として出向し、たびたび兵士の給与を増やすよう願い出た。淮安を鎮守すること十年以上、清廉潔白で評判となった。正徳帝が南巡すると、江彬の横暴がはなはだしく、役人たちは辱められたが、ただ仕隆だけは江彬に屈しなかった。嘉靖の初め(1522)、湖広に移鎮となり、まもなく都に呼び戻され、南巡のときの帝の警護の功績により、太子太傅を加えられ、中軍都督府の政務を司った。錦衣千戸の王邦奇なる者が、大学士の楊廷和と兵部尚書のを怨んで、「哈密での失策はこの両人が原因です。」と上疏した。帝は怒り、楊廷和の子供たちや婿を逮捕させた。このとき給事中の楊言が上疏してこれを救ったが、勅命に逆らったとして五府九卿で審議された。仕隆はこう言った。「廷和は国の根本を守った功績があります。邦奇は小人にして、辺境のことにかこつけて陛下を惑わし、国体を傷つけました。」詔により仕隆は叱責され、病を理由に営務を解かれた。卒去して、太傅を追贈され、栄靖と諡された。
子の寰が嗣ぎ南京の守備となった。詔を奉じて裁判を行い、冤罪が晴らされることが多かった。十七年(1538)漕運総兵官となり、翌年、献皇后を埋葬するための葬列が承天に向かい、この葬列を避けるために漕舟の期限に遅れた者が三千人いた。その上、長江の南北で災害が多かったため、寰は、被災地の漕運を一年間停止し、都の官人には禄米の代わりに銀を支給することを願い出たので、軍民ともに助かった。さらに漕政における問題を七箇条上書して、あわせて施行された。漕運にたかる害虫どもは寰を邪魔に思い、ついには悪い噂を広めたので、給事中の王交に弾劾された。調査したところ無実であることが分かり、再び淮安に鎮守することとなった。このときちょうど安南で騒乱が起こり、両広に移鎮となった。
莫宏ヨクは安南都統使の莫福海の子である。福海が死んだとき、莫宏ヨクは幼は幼かったので、その権臣の阮敬と一族の莫正中が交戦して、国内は乱れ、莫正中は欽州に逃げてきた。このとき隙に乗じて安南を取ろうという話が持ち上がり、寰と提督侍郎の周延が作戦を立てて朝廷に願い出た。そこで宏?に都統使を継ぐよう命じ、安南は遂に平定された。嘉靖三十年(1551)のことである。続いて桂林・平楽の叛いた瑤人を討ち平らげた。寰はまた淮を鎮守するよう命じられ、倭寇を防ぐのに功があった。都に戻って総京営となり、太子太保を加えられた。再び漕運の提督として出向し、呼び戻されると、高齢を理由に辞任を願い出た。隆慶五年(1571)、特に京営総督を授けられたが、まもなく休職を願い出た。万暦帝が即位すると、左府の統括を命じられた。しばらくして致仕し、少保を加えられた。万暦九年(1581)に卒去し、太傅を追贈され、栄僖と諡された。
溥から寰に至るまでの三代は、みな寛大で清廉、慎み深く文芸に明るかった。仕隆と寰の二代は漕運の総督としてともに職務に励んだ。三代経って孫の肇跡の代になって、都が陥落し、賊に殺された。

『明史』巻百五十三「陳セン伝」

陳セン、字は彦純、合肥の人である。父の聞は義兵千戸として太祖に帰順し、累進して都指揮同知となった。センは父の職を代行し、父が罪を問われて遼陽の守備兵に左遷されると、センは宮殿まで出向いてひれ伏し父の代わりとなることを願い出た。このため詔により父子ともども許した。センは若い頃から大将軍の徐達に従って陣中におり、雁を射て賞賛された。しばしば南蛮遠征に従軍し、さらに越ケイ遠征にも従って、建昌の叛逆した蛮の月魯帖木児を討ち、梁山を越えて天星寨を平定し、寧番の諸蛮を破った。また塩井を征し、卜水瓦寨に進攻した。このとき賊の勢いは盛んであり、センは中軍の将であったが、賊に数重に包囲された。センは馬を下りて賊を射た。足を負傷し、傷を布で巻いて戦い、巳の刻から酉の刻(10時~18時)まで持ちこたえ、陣形を保ちつつ帰還した。さらに賈哈剌討伐に従軍し、敵の隙を突いて打沖河を渡り、間道を見つけ、浮橋を作って軍を渡した。渡り終えると浮き橋を撤去し、兵士にもはや引き返せ無いことを示し、連戦して賊を破った。さらに雲南の兵と合流して百夷を征伐して功があり、四川行都司都指揮同知に昇進した。
建文の末(1402)、右軍都督僉事に昇進し、燕軍が逼ると、水軍の総指揮を命じられて長江上で防衛した。燕軍が浦口まで来ると、センは水軍ごとで迎えて降伏した。こうして永楽帝は長江を渡った。帝が即位すると、平江伯に封ぜられ、食禄は千石とされて、誥券を賜り、世襲の指揮使とされた。
永楽元年(1403)、センは総兵官に任命されて、海運の総督となった。粟四十九万石以上を北京と遼東に輸送し、直沽に百万倉を建設し、天津衛を築いた。これ以前は、漕船が海上を進むと、島民は漕運の兵を恐れて多くの者が物資を隠していたが、センは島民に交易を呼びかけ公平に取引を行ったので、人々の交易が便利になった。漕船が帰還する途中、沙門島で倭寇に遭遇したので、金州の白山島まで追いかけてその船をことごとく焼き尽くした。
九年(1411)、センは豊城侯の李彬とともに浙・ビンの兵を統率して海賊を捕らえるよう命じられた。このとき高波のため、海門から塩城までのおよそ百三十里の防波堤が破損していたため、センに命じて四十万の兵で堤防を修築させた。このため防波堤は一万八千丈以上になった。翌年、センはこう進言した。「嘉定は海が迫った地であり、長江の流れがぶつかる場所です。海船はここに停泊しますが、拠るべき高い山も広い丘もありません。青浦に百丈四方、高さ三十丈以上の土山を築き、航海の目印とするよう願います。」完成すると、宝山の名を賜り、帝自らその文を書き記した。
宋礼が会通河を開削すると、朝廷では海上輸送を停止して運河で輸送することが決定された。そこでセンに漕運の管理が任された。朝議により運河用の小船二千艘あまりが建造され、初めは二百万石を輸送し、漸次五百万石に増やされて、国家の需要を満たした。このころ江南の漕船は、淮安まで来ると陸に荷物を陸揚げして大きな土手を上がり、淮を越えて清河で下ろしていたため、この労賃が巨額に上っていた。十三年(1415)、センは故老の言を採用して、淮安城から西の管家湖まで二十里を開削して清江浦とし、湖水を淮まで導き、間に四箇所水門を作って合図と共に開けて水を流した。さらに湖の周囲十里に、陸から縄で船を引っ張るための堤を築いた。これにより漕船は直接黄河まで達するようになり、費用が省かれ問題が無くなった。その後、センは徐州から済寧河までを浚った。さらに呂梁洪で水の流れが悪かったので、西にもう一つ水路を掘り、二箇所水門を作って水を溜め、船が通れるようにした。さらに沛県のハ陽湖、済寧の南旺湖に長い堤を築き、泰州の白塔河を大江に流れるようにした。また高郵湖に堤を築き、堤の内部に四十里の水路を掘って、漕船が風や波を避けられるようにした。また淮から臨清まで、水の勢いに合わせて四十七の水門を作り、淮河沿いに四十区画の常備用の倉庫を作り、徐州・臨清・通州にまで倉庫が設置されて、輸送に便利となった。漕船が浅瀬に乗り上げないよう、淮から通州まで五百六十八の宿舎を置いて兵を常駐させ、船を導いて浅瀬を避けるようにした。また河の堤に沿って井戸を掘り木を植えて、行きかう人の利便を図った。センが計画したことは全て緻密で将来を見通したものであり、運送と河の管理を担当して三十年、遣り残したことがなかった。
洪熙帝が即位した九月、センは上疏して七事を述べた。一つ目は、南京は国家の根本であるので守備を厳格にすることを願うということ。二つ目は、登用するに当たっては地位にこだわらず実力に拠るべきで、朝臣より公正な者を選んで国内を巡察させるべきこと。三つ目は、国家の食糧輸送において、湖広・江西・浙江や蘇・松の諸府はともに北京から遠く、往復すれば翌年になってしまい、上においては公租がなかなか届かず、下においては農事の妨げになるので、淮・徐などの地点から先は官の兵に命じて都まで輸送するように命じ、また快船や馬船の積載量は五、六十石以下とし、軍用船のみを使う。担当官で軍と民の受け渡しをごまかし、民を集めて使い、飢え凍えるような事態に至らしめたものは罷免としていただきたいということ。四つ目は、教職の多くにふさわしくない者がいるので、選考して不適格な者を斥け、優秀な者を選んで生員に補充し、また軍中の子弟にも学校に入るよう命じていただきたいということ。五つ目は、軍隊内で逃亡者がいるので、老齢や病気の者は子弟がこれに代わり、逃亡者は捜査して捕らえ、家が断絶したものは調査して除籍すること。六つ目は開平などは辺境防衛の要地で、兵糧が不足しがちであるので、精鋭だけを選び出して守備の任務に就かせること。七つ目は、漕運を担当する兵は、毎年北上して、帰ってくるとすぐに船を修理しなければならず、一年中苦労が絶えないので、当該の衛所では余裕を持たせ、それ以上の雑役を課して苦しめないようにすることを、帝の直々の命として禁止していただきたいということ。帝はこの奏上をご覧になって「センのいうことは全て的を射たものである。」と言い、担当官に速やかに実行するよう命じた。そして敕が下されて褒め称えられ、続いて券を賜り、世襲の平江伯とされた。
宣徳帝が即位すると、淮安の守備を命じられ、漕運の監督は元のままとされた。宣徳四年(1429)にセンはこう言上した。「済寧以北、長溝から棗林までの水路が詰まっております。十二万人で底を浚えば、半月で処理ができます。」帝はセンに長年苦労かけたことを思い、尚書の黄福を派遣して共同で処理させた。六年(1431)、センはこう進言した。「毎年の食糧輸送に軍から十二万人出ておりますがこれが連年の労苦となっております。そこで蘇・松の諸郡と江西・浙江・湖広から別に民を選び出し、また各地の衛所から兵を選び出して、合わせて二十四万人で分担して区域ごとに順次受け渡して輸送するさせるよう願います。また江南の民は臨清・淮安・徐州まで食糧を輸送すると往復で一年かかり、農業ができなくなります。一方で、湖広・江西・浙江および蘇・松・安慶の兵士は、毎年空船で淮安まで行って食糧を積みます。もし江南の民に食糧を集めさせて付近の衛所に納めさせ、軍でこれを船に積んで都まで輸送させ、輸送時の損耗のために民が割り増しで納めていた米と運搬の費用を兵に与えれば、兵にも民にも利益となるでしょう。」帝は黄福と侍郎の王佐に協議させてこれを行わせた。民が輸送していたものを、兵が労賃を受けて運ぶ方式はここから始まったのである。センは八年(1433)十月に在任中に卒去した。享年六十九。平江侯に追封され、太保を追贈されて、恭襄と諡された。
生前のこと、センが黄河を工事したこと感謝して、民が清河県に祠を建てた。正統年間(1436~1449)、担当官に命じて春秋に祭祀を行わせた。
孫の予は字を立卿といい、書を読み身を慎む人物であった。正統の末(1449)、福建の沙県で賊が蜂起し、予は副総兵として、寧陽侯の陳懋に従って二手に分かれて討伐して平らげ、侯に進封された。也先が進攻すると、臨清に出て守備し、出城を作って、兵を訓練し民を安心させたので混乱は起こらなかった。翌年、都に呼び戻されると、父老が宮殿まで来て留任を願ったので、これを聞き届けた。景泰五年(1454)、山東で飢饉が起こると、詔を奉じて救済した。まもなく南京の守備となり、天順元年(1457)に都に呼び戻されて、毎年の禄を百石増やされた。七年(1463)に卒去。イ国公を追贈され、荘敏と諡された。
子の鋭が伯を嗣いだ。成化の初め(1465)、三千営と団営を分担して管理した。まもなく平蛮将軍の印を帯びて、両広の総指揮官となった。淮陽に移鎮して、漕運の総督となり、淮河の河口に石造りの水門を、済寧に淮河を南北に分ける二つに水門を造った。堤防を築き泉を掘り、直すべきを直し廃すべきを廃した。総漕の任にあること十四年、その間に数十回上奏を行った。日本の貢使が民の男女数人を買って連れ帰ろうとして淮安を通った。鋭はこれを留めて貢使に渡さず、金を払って買い戻し家に帰した。淮・揚で飢饉と疫病が発生したとき、かゆを炊いて薬を施したので、多くの者が生き残ることができた。弘治六年(1493)、張秋で黄河が決壊したので、敕を奉じて堤防を修復し、都に戻って、禄二百石を増やされ、累進して太傅兼太子太傅を加えられた。十三年(1500)、火篩が大同に攻め込んだ。鋭は総兵官として将軍の印を帯びて救援に向かった。撃退した後に兵を擁してその地に勢力を張っていたため、給事中や御史の弾劾を受けて、禄を取り上げられて隠居した。その年のうちに卒去した。
子の熊が嗣いだ。正徳三年(1508)、漕運の総督として出向した。劉瑾が賄賂を求めたとき、熊はこれに応じなかった。劉瑾はこれを根に持ち、熊を罪に陥れて詔により投獄し、海南衛の守備兵として流し、誥券を没収した。熊は金に汚かったので、淮南にあって大いに民の災いとなり、劉瑾に陥れられたのに、同情する人はいなかった。劉瑾が誅殺されると、赦免されて都に戻り爵位を戻された。卒去して、子がいなかった。
再従子の圭が嗣いだ。推薦されて両広を鎮守した。封川の賊が蜂起すると、圭は諸将を率いて討伐し、首領を捕らえて、数千人を捕らえたり斬ったりしたので、太子太保を加えられた。また柳慶と賀連山の賊を平らげたので、太保を加えられ、一子に蔭位が与えられることとなった。安南の范子儀らが欽・廉に攻め込み、黎岐の賊が瓊厓に攻め込んで、互いに連携して攻め寄せた。圭は書状を安南に送って利害を説き、范子儀を捕縛させ、速やかに兵を出して黎岐を攻め、敗走させた。論功によりさらに一子に蔭位が与えられることとなり、毎年の禄を四十石増やされた。圭はよく士卒と苦楽をともにし、賊の所在がわかると、速やかによろいを身につけ先頭に立って城壁を登った。深い森も急な崖も、瘴気に当てられてもものともしなかったため向かうところ敵なしであった。エツにあること十年、群小の賊を殲滅して数え切れないほどの勝利を収めた。都に呼び戻されると後軍府を統括した。圭の妻の仇氏は、咸寧侯の仇鸞の妹であったが、圭は仇鸞を深く憎んでいた。このため仇鸞は嘉靖帝に圭の欠点を訴えたので、あやうく罪に落とされるところであった。仇鸞が失脚して帝はますます圭を重用し、京営の兵の統括を命じた。紫荊関に蒙古軍が攻め込むと、圭は出撃を申し出て盧溝に陣を張り、賊を撃退して盧溝に留まった。翌年、賊がまた古北口に入った。会議である者が、九つの門に陣を置いて備えるべきだと言ったが、圭はいたずらにこちらを弱く見せるため無意味だとして、また出撃して賊を退けた。都の外城建築の監督となり、太子太傅を加えられた。卒去して、太傅を追贈され、武襄と諡された。
子の王謨が嗣いだ。僉書後軍となり、両広に出向して鎮守した。賊の張璉が乱を起こして、数郡を奪い皆殺しにした。王謨は提督の張?討とともに平定し、三万以上を捕らえ斬ったので、論功により太子太保を加えられ、もう一子に蔭位が与えられることとなった。万暦年間(1573~1620)淮安に出向して鎮守し、漕運を統括し、のちに都に戻って前軍府の政務を執った。卒去して、少保を追贈され、武靖と諡された。明末まで爵位を伝えて、明が亡ぶと爵位は絶えた。

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