自遊時閑 2023/11/25 22:10

[中島敦] 山月記 ファストノベル

 隴西《ろうさい》の李徴《りちょう》は博識で知性に優れていた。天宝の最後の年、彼は若くして官僚に名を連ねた。ただ、彼は頑固で人と打ち解けず、己の才覚を過信していたため、低い地位に甘んずることを良しとしてはいなかった。
 ほどなく官職を退いた後は、故郷に帰り、人との交流を絶って、ひたすら詩を作ることに明け暮れた。地位の低い役人として俗悪な高官の前に膝を屈するよりは、詩人としての名を後世に残そうとしたのである。
 しかし、詩人としての名は上がらず、生活は日を追って苦しくなる。数年後、貧窮に耐えられず、妻子のために信念を曲げ、地方の役人の職につくことになった。
 一方、これは、自身の詩人としての生業《なりわい》に半ば絶望したためでもある。彼が昔、愚鈍と断じた同輩たちは、すでに遥か高みに進んでいた。その連中から命令を受けることが、李徴の自尊心をどれほど傷つけたかは、想像に難くない。
 一年後、公用で汝水《じょすい》の近くに泊まった時、ついに発狂した。夜中、急に寝床から起き上がると、訳の分からないことを叫びつつ、闇の中へ駆け出した。その後、彼がどうなったかを知る者は、誰もなかった。

 翌年、袁傪《えんさん》という者が、勅命を受け嶺南《れいなん》に向かう途中、商於《しょうお》の地に泊まった。次の朝、まだ暗いうちに出発しようとしたところ、宿場の役人がこう言った。
「ここから先に人喰い虎が出るので、昼間でなければ通せない。少し待たれたほうがよろしいでしょう」
 しかし袁傪は、同行者が多勢いることを頼りに、役人の言葉を気にせず出発した。林の中を通っていった時、一匹の虎が草むらから飛び出した。虎は、危うく袁傪に飛びかかるかと思えたが、即座にその身を返して、元の草むらに隠れた。すると、中から「危ないところだった」と呟くのが聞えた。その声に袁傪は聞き覚えがあった。彼は咄嗟に思い当たって、叫んだ。
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
 袁傪は友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。
 暫くして、低い声が答えた。
「いかにも、自分は隴西の李徴である」
 袁傪は恐怖を忘れ、久方ぶりの挨拶をした。そして、何故出てこないのかと問いかけた。
「自分は今や異形となっている。どうして、恥ずかしげもなくこの姿を晒せようか。しかし、今、図らずも友に会えて、恥も忘れるほどに懐かしい。ほんの少しでいい、言葉を交わしてくれないだろうか」
 彼は見えざる声と対談した。都の噂、旧友の消息、袁傪の現在の地位、それに対する祝辞。それらが語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを尋ねた。
 今から一年程前、汝水の近くに泊まった夜のこと、ふと目を覚ますと、外で誰かが名を呼んでいる。外へ出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招く。
 自分は声を追って走り出した。いつしか道は山林に入り、知らぬ間に自分は両手で地を掴んで走っていた。気が付くと、手先や肘のあたりに毛を生じているらしい。
 少し明るくなってから、川に姿を映してみると、すでに虎となっていた。自分は直ぐに死を想った。しかし、その時、目の前を一匹の兎が駆け抜けるのを見た途端に、自分の中の〝人間〟は姿を消した。再び自分の中の〝人間〟が目を覚ました時、自分の口は兎の血にまみれていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行を続けてきたか、それは到底この口からは語れない。
 ただ、一日の中で数時間は、人間の心が還《かえ》ってくる。しかし、その人間に還る時間も、日を追うごとに短くなっていく。もう少したてば、俺の中の人間の心は、獣の習慣の中に埋れて消えてしまうだろう。そうすれば、最後には自分の過去も忘れ果て、今日のように道で君と出会っても友と認めることなく、君を引き裂き喰ってなんの悔も感じないだろう。
 俺の中の人間が全て消えてしまえば、おそらく、そのほうが、俺は〝幸せ〟だろう。なのに、俺の中の人間は、その事を、この上なく恐ろしく感じているのだ。この気持ちは誰にも分からない。俺と同じ運命になった者でなければ。
 ところで、そうだ。俺が完全に人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある。
 自分は元々詩人として名を上げるつもりでいた。かつて作った詩の数は百を超える、もちろん、世に出てはいない。その中に、今もなお語れるものが数十ある。これを記録していただきたいのだ。自分が生涯それに執着したものを、一部なりとも後代に伝えずには、死んでも死に切れない。
 袁傪は部下に命じ書き取らせた。李徴の声は朗らかに響いた。どれも格調高く、卓逸した、作者の非凡の才を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。作者の素質が一流に属するものであることは疑いない。しかし、一流の作品となるのには、どこか非常に微妙な点において欠けるところがあるのではないか、と。
 詩を吐き終わった李徴の声は、突然調子を変え、自嘲するかのように言った。
 恥ずかしいことだが、こんな〝無様な〟身と成り果てた今でも、俺の詩が長安《ちょうあん》の知識人の机上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。嗤《わら》ってくれ。この哀れな男を。そうだ。お笑い草ついでに、今の想いを詩にしてみようか。この虎の中に、まだ、かつての李徴が生きている〝しるし〟に。

  偶因狂疾成殊類 図らずして心病み、人ならざる物となる
  災患相仍不可逃 災い重なり逃れることも叶わぬ
  今日爪牙誰敢敵 今やこの爪牙に誰が敵対しようか
  当時声跡共相高 かつて我らは共に名を馳せた
  我為異物蓬茅下 だが、我は異形と成り果て草の下にいる
  君已乗軺気勢豪 貴君は馬車に乗る地位となり勢い溢れる
  此夕渓山対明月 この夕暮れの谷や山を照らす月に向かい
  不成長嘯但成嘷 我は詩を吟ずることもなく、ただ吠える

 木々の間を渡る冷風はすでに夜明けが近いことを告げていた。人々は厳かに、詩人の薄幸を嘆いた。李徴の声は続ける。
 何故こんな運命になったか分からないと言ったが、思い当たることが全くないでもない。人間であったとき、人々は俺を高慢だ、尊大だと言った。実は、それが羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。もちろん、自分に自尊心が無かったとは言わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。俺は詩によって名を馳せようと思いながら、師を仰いだり、詩友と交流を求め、切磋琢磨することをしなかった。かといって、低俗な人間に落ちぶれることも良しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心のせいだ。
 俺は次第に世と離れ、苦悶と憤慨によってますます己の内なる臆病な自尊心を飼い〝太らせる〟結果になった。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが心だという。俺の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を失い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の姿をこうして、内心に相応しいものに変えてしまったのだ。
 俺には最早人間としての生活はできない。たとえ、今、俺が頭の中で、どんな優れた詩を作ったところで、どういう手段で発表できよう。まして、俺の頭は日ごと虎に近づいていく。どうすればいいのだ。俺は堪まらなくなる。そういう時、俺は、向こうの山頂の岩に上り、谷に向かって吼《ほ》える。この胸を焼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。しかし、獣どもはただ恐れ、ひれ伏すばかり。山も樹木も月も露も、虎が怒り狂っているとしか考えない。誰一人俺の気持ちを分かってくれるものはない。ちょうど、人間だった頃、俺の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。
 ようやく辺りの暗さが薄らいできた。どこからか、夜明けを告げる笛の音が哀しげに響き始めた。
 最早、別れを告げなければならない。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。君が南から帰ったら、俺はすで死んだと告げてもらえないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願いだが、彼女たちが路頭に迷わないように計らっていただけるならば、自分にとって、これ以上恩に着ることはない。
 言い終わって、草むらから慟哭《どうこく》が聞えた。袁傪もまた涙を浮かべ、李徴の意に沿いたいと答えた。李徴の声はしかし、たちまち先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。
 本当は、まず、このことを先にお願いするべきだったのだ、俺が人間だったのなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。
 そうして、付け加えて言うことに、帰りには決してこの道を通らないで欲しい、その時には自分が狂っていて友を認めずに襲いかかるかもしれないから。また、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、こちらを振り返って見てもらいたい。自分は今の姿をもう一度お目にかけよう。我が醜悪な姿を示して、再びここを過ぎて自分に会おうという気持ちを君に起させないために。
 袁傪は別れの言葉を述べ、馬に上った。草むらからは、堪えざるがごとき泣き声が漏れ聞こえた。袁傪も涙の中出発した。
 一行が丘の上についた時、彼らは、言われたとおりに振り返って、先程の林間の草地を眺めた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。虎は、二声三声、咆哮《ほうこう》したかと思うと、また、草むらに入って、再びその姿を見ることはなかった。

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