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2023年 06月の記事 (2)

ナントカ堂 2023/06/13 02:33

楊伯雄(海陵王関連分)

 「楊伯雄」とグーグルで日本語のページを検索すると、あまり記事が出てこないので、以前に出した『金史漢族列伝』から、海陵王関連の部分だけを挙げてみましょう。
(『金史』列伝四十三の訳の一部です)

 このころ海陵王は執政の地位に在り、旧知の楊伯雄をたびたび屋敷に招いた。楊伯雄は「行きます。」と返答したが、実際には行かなかった。後日、海陵王が不審に思い尋ねると、楊伯雄は「君子たるもの人からの礼は受けるべきですが、権力者に取り入るようなことはしたくありません。」と言った。これより益々海陵王から厚遇されるようになった。

 海陵王が帝位を簒奪して数か月後、楊伯雄は右補闕に昇進し、その後、修起居注に改められた。

 海陵王は政治に関する意見を強く求め、講論するたびに夜にまで至った。
 あるとき海陵王が「人君が天下を治めるに、何を重視すべきか。」と尋ねると、楊伯雄は「静なることを重視すべきです。」と答えた。海陵王は納得してそれ以上何も言わなかった。
 翌日、海陵王が尋ねた。
「私は諸部や猛安を各地に移して駐屯させ国境を守らせている。昨夜の答えだと、これは静ではないことになるか。」
 楊伯雄が答えた。
 「兵を移して各地に駐屯させるのは、南北を相互連携させるためで、国家長久の策です。静とは民の暮らしを掻き乱さないことを言います。」
 乙夜(10時頃)になって、海陵王が鬼神について尋ねると、楊伯雄は進み出て言った。
 「漢の文帝は賈生を召して、夜半まで向かい合って話をしてましたが、民の事を尋ねずに鬼神の事ばかり尋ねて、後世大いに不評でした。陛下は臣を愚か者と見なさず、天下の大計を尋ねられました。臣はこれまで鬼神の事を学んだことはありません。」
 海陵王は言った。
 「そうであっても答えてほしい。永い間疑問で夜も寝付けない。」
 楊伯雄は仕方なく言った。
 「臣の家に一巻の書があり、人は死後も魂は生きると記されています。そこに記されている設問で『冥界の官人は何を以って罪を赦すのか』とあり、答えは『汝は暦を一冊用意し、日中の行いを夜中に記せ。書くべきでないことは行ってはならぬ』とのことでした。」
 海陵王は居住まいを正した。

 ある夏の日、海陵王が瑞雲楼に登って納涼し、楊伯雄に詩を詠むよう命じた。楊伯雄の作った詩の最後にはこうあった。
 「六月にはこれほどの蒸し暑さが来るとは思わなかった。寒気も同様あらゆることは予測できない。」
 海陵王は喜びながらこの詩を側近に見せると言った。
 「楊伯雄は何事かを言うとき朕を戒めることを忘れない。人臣とはこうあるべきだ。」
 
 二度昇進して兵部員外郎となり、父の喪に服して、復帰すると翰林待制兼修起居注となった。直学士に昇進し、更に昇進して右諌議大夫兼著作郎となり、修起居注はもとのままとされた。

 皇子の慎思阿不が薨去すると、楊伯雄は宿直していた同僚と共に私的に協議して処罰された。このことは「海陵王諸子伝」に記されている。

 海陵王が宋遠征を諮ると、楊伯雄は「晋の武帝は呉を平定する際、全てを将帥に任せました。陛下がわざわざ総指揮をする必要はありません。」と反対したが容れられず、起居注に降格となって、以後再び海陵王に拝謁することは無かった。

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ナントカ堂 2023/06/02 00:26

耶律阿保機の養子

『遼史』の列伝はwikiに多く記事がありますが、日本語の記事が無い人もあり、そのうち今回は王郁の伝を訳します。


王郁(列伝五)

 王郁は京兆の万年の人で、唐の義武軍節度使の王処直の庶子である。伯父の王処存が義武軍節度使となり、亡くなると、三軍は王処存の子の王郜を後継ぎとし、王処直は都知兵馬使となった。
 光化三年(900)、梁王の朱全忠が定州を攻めると、王郜は王処直を沙河に遣わして防戦させた。王処直は敗れると城に入り、王郜を追放した。王郜は李克用の元に逃れ、乱兵は王処直を擁立して留後とし、人を遣わして朱全忠に臣従した。朱全忠は李克用と断交していたため、王処直を義武軍節度使とした。
 初め、王郜が亡命すると、王郁はこれに従った。李克用は娘を王郁に嫁がせ、新州防禦使とした。
 王処直は「李克用は必ずや張文礼を討ち、張文礼が滅びれば、自分は孤立して危うい」と恐れ、密かに王郁を契丹に遣わして侵攻させ、李克用を牽制しようとした。同時に王郁を後継者と認めた。王郁は李克用の元に逃げて以来、常に父に嫌われていると思っていたため、この使命を受けて大いに喜んだ。
 神冊六年(921)、王郁は上表文を呈して契丹に帰順し、一族を挙げて来降した。太祖はこれを養子とした。まもなく王郁の兄の王都が父を幽閉して、自ら留後となった。太祖は王郁を皇太子に付けて討伐に向かわせた。定州に至ると、王都は固く守って城から出なかったため、住民を攫って帰還した。
 翌年、王郁は皇太子に従って鎮州を攻撃すると、後唐軍と定州で遭遇して撃ち破った。
 天賛二年(923)秋、王郁と阿古只は燕・趙を攻略して、磁窯務を下した。
 太祖が渤海を平定するのに従軍して戦功あり、同政事門下平章事を加えられ、崇義軍節度使に改められた。
 太祖が崩御すると、王郁は妻と共に葬儀に参列し、妻が淳欽皇后に「郷里に帰りたい」と泣いて訴えたため、皇后は許可したが、王郁は言った。
 「臣はもとは後唐の国主の婿です。国主は既に弒され、帰国すれば我ら夫婦は殺されるでしょう。太后の側に仕えることを願います。」
 皇后は「漢人の中で、王郁が最も忠孝である。」と言って喜んだ。太祖が以前に李克用と兄弟の契りを結んでいたからである。
 まもなく政事令を加えられ、宜州に戻り、亡くなった。

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