※ほんのりネタバレ含みます
昔、ちらっとヤングジャンプ?で見かけたことがあり、ふと続きが気になったので電子書籍版で購入。ラクガキの不気味さが強く印象に残っていた。
読んでいて思ったことは、創作における「子供」の役割についてだった。
家に帰ってきた幼い子供へ何気なく一日の出来事を尋ねる母親。
そして、返ってきたその内容に、ぎょっとする。
当人は無知であり純粋なので、その状況がいかに「オカシイ」のか理解できずにいる。
平然と答えるのだが、大人が聞くと不安や恐怖を感じたりして、「ああ、よかった」と我が子の無事を安堵する……そんな状況が生まれてもなんら不思議じゃない。
あからさまな異常事態であれば、流石に子供も危険を察知するけれど、それが「どれくらい異常なことなのか?」を判断するにはまだまだ幼かったりする。
そういった存在なので、創作においては「平常」が「異常」に代わる引き金として子供を使うことがあるよなぁ、などと考えていた。
「日常」と「非日常」との架け橋のような役割ともいえる。
たとえば、大人だけの世界で何かが起こるとする。
その場合は、大人の人生経験からの推測や判断力で、その異常事態の早期発見がなされやすい。何より「世の中そういった異常が起きてもなんら不思議ではない」という認識があるので、自分たちが常に異常と隣合わせで生きていることを自ら理解している。だから、どんなことが起きたのか?その程度はいかほどか?と異常を察知し何かしら対応をとれる可能性が高い。
しかし、そこに「子供」という要素が入ると、どうなるか?
子供の存在が、「大人」と「異常」の間に挟まる「ワンクッション」と成り得る。
異常 ← 大人「異常あり!」
異常 ← 子供「?」 ← 大人「……」「異常なし!」
大人の世界で起きてもすぐに見つかってしまう異常だが、しかし、大人の世界の内部に存在する「子供の世界」であれば、うまく潜伏できてしまう。
子供たちは大人に比べて異常に対しての意識が低い。
そもそも、それが異常なのかどうかを判別できない。
できないので、何事も起こらない。
何事も起こらないのだから、平常である。
平常な子供の世界をみて、まさかそこに「異常が潜伏している」などと大人たちは夢にも思わない。
そういった前提があるので「大人たち」と大人たち視点で物語を読み進める「読者たち」は予想を裏切られる形となる。結果、その存在を知ったときの衝撃は大きい。
今回の 廃屋の住人にもそういった描写がちらほらあった。
もちろん、子供が「隣で死体が転がっていても平然としているNPC」みたいに鈍感な存在だとは決して思っていない。作品によっては大人が馬鹿ばっかで完全に立場が逆、というものもあるはず。無論、大人だって子供のことを気にかけるから、上のたとえは現実的ではない。
これはステレオタイプを利用して読者をだますトリックと言っていいんじゃないかと思う。(だますというのか、なんというのか…)
「子供ってこうだよね」「子供がそうなわけないよね~」という一般常識の影にタネを仕掛ける手法。ミステリー作品では定番だと思う。
リアルよりの世界観だとこういった子供の役割もあるな~と感じた作品だった。
作品の評価については、まぁ、えー、どうだろ。
人によってけっこう変わってくるかもしれない。
雰囲気が好き。
創作サークル ぼんやりクラブ
Webサイト:http://bonyari.club/
Twitter:@bonyari_club