【テクノポリス20年目に向けて――19年の振り返り その1】
テクノポリスは2020年12月7日にオープン19年を迎えます。
祝20周年に向け、私がゲームセンターをやろうと思ったきっかけや、業界を取り巻く大きな変化などを中心に、これまでの19年を振り返ってみようと思います。
<序章:その1>
もともと私はパチンコ店で働いていました。長岡市の駅前には小さなパチンコ店が多くあった時代で、その頃はちょうど他都市や他県で「大型店舗化」を推し進めている状況ということもあり、新潟県内でも大型店舗がちらほらと増え始めていました。
私が務めていたのは長岡市内&近隣に当時7店舗のチェーンを持つパチンコ店だったのですが、実際には採算が十分取れている店舗は少なく「7店舗から2店舗に減らしてでもパワーを集約させたほうがいいのではないか?」という提案を会社に出しました。
当時26歳、私は店長兼任で本部の経営企画部長の職についていましたので、ひとつの経営計画案として直属の上司に意見を提出したわけです。そうしたところ「なるほど、言うほど簡単なことではないが、まずはよく研究して調べてみろ」と上司から言いわれました。
その「言うほど簡単なことではない」理由のひとつに、世間一般的にパチンコ屋は「望まれる産業」ではなく、大家さんからは10年以上の単位で契約を結ばされるため、「じゃあ辞めます」といっても簡単に出て行くことはできないんですね。
そこで私は、赤字店舗をゲームセンターにしようと考えたのです。
パチンコ店は1店舗につきスタッフが30~40人ほど必要ですが、ゲームセンターの場合はそこまで必要としないため、人件費を削減できます。また、1台40万円するパチンコ・パチスロ台を10台程の単位で月に何度も入れ替えるのに比べれば、ゲーム機の入れ替え代もさほど高額ではありません。なので、7店舗あるうちの5店舗はゲームセンターに変えて契約期間を耐えしのぎ、残り2店舗に優秀なスタッフたちを集約して生き残ろうというプランを会社に提案しました。
そんなある日、社長の息子さんが会社に入ってこられました(実際にはその4年前より入社されておりましたが、私とその方の間の営業管理職が辞めてしまい、私の直属上司がその方になるような出来事でした)。社内にも世襲?世代交代の波が押し迫ってきていたんですね。ちょうどそのタイミングで上司も辞めてしまい、正社人150人ほど社内では27歳にして社長から数えて5番目の営業管理職地位になってしました。自分がそのような地位に成った事を踏まえた上で、これから起こるであろうパチンコ店業界の変革を想像して、私は自分で考えた提案を社長の息子(当時常務)さんに再度持ちかけました・・・が。
「うちとしてはそういうことをやるつもりはない」
……残念ながら、バッサリと断られてしまったんです。
当時の私のプレゼン能力の低さだったのでしょう。勢いだけの言葉に聞こえたのかも、それとも生意気な小僧な言葉に聞こえたのかもしれません。
最後にフォロワーさんに「おまけ」……と思いましたが、今回はすべての方に公開!
この写真は私が当時26歳の頃、担当していた店舗にてデザイン・制作を行なった折り込みチラシです。まだメーカーより画像素材が提供されない時代なので、パンフレットをスキャンしてはキャラクターなど切り抜き、PhotoshopとIllustrator(※Adobeのプロ用画像編集ソフト)でデザインしていました。この頃は独学でやっていたのですが、その経験がいまも役立っています。
というわけで、次回に「その2」に続く。
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