【交換ノート】:怖い話6
【書かれた日】
日常に違和感が差し込まれたのは、月曜の朝だった
佐倉ひとみは、いつもと同じ時間に目を覚ました
アラームの音、カーテン越しの光、枕元のスマホ
変わらないはずのルーティン
その日は、スマホのカレンダーに見覚えのない予定が記されていた
──「11:00 石神井公園 再会」──
誰と再会──?
その予定は、スケジュールアプリに連動していなかった
でも通知は、きっちり設定されていた
寝起きの視界のまま、スマホをしばらく見つめる
何かのバグだろうと信じたくて、私はその予定を削除した
10時58分、スマホが震える
「もうすぐ予定の時間です」
さっき消したはずの予定が、何事もなかったかのように復活していた
ぞっとした
アプリの不具合?それとも誰かが遠隔操作を……?
SNSも、メールも、通知履歴も異常なし
それでも私は、全身に薄く汗をにじませながら
何も起きていないことにして、玄関を出た
午後からの出勤
気分を変えようと電車に乗ったが、乗り換え駅で足が止まった
構内の電光掲示板に、一瞬──自分の名前が見えた気がした
「佐倉ひとみ 再記録中」
ほんの一秒
それでも、確かにそこにあった
周囲は誰一人として気づいていない
私は、その無関心さに逆に不安を掻き立てられたまま、電車に乗り込んだ
足元が妙に重い
カバンを開ける
──中に、見覚えのない赤いノートが入っていた
リング式
擦り切れた角
ページを開けば、そこに書かれていたのは──私の名前だった──「佐倉ひとみ」──
その下に、再記録1日目という文字
ページをめくっていく
私が昨日食べたもの、買ったもの、言ったことが詳細に記されている
そんなこと、私は書いていない
誰が?
何のために?
次のページには、この後起きる出来事が箇条書きで並んでいた
・11:43 ベンチに座る
・11:46 女に話しかけられる
・11:50 その女が消える
私は心臓が跳ねるのを感じながらノートを閉じた
スマホを見ると、現在時刻──11:42
どうする?
逃げる?
けど、足が勝手に公園の方向に向かっていた
11:43、私はベンチに座っていた
まるで書かれた通りに
そして、11:46
女が現れた
白いシャツに黒いスカート、長い黒髪
顔ははっきり見えない
でも、どこかで会ったことがある気がした
「あなた、まだ書かれてる途中ね」
女はそう言った
私は何も言えなかった
ノートのこと?この予定?なにが途中?
「名前を守りたいなら、このノートは持たない方がいいよ」
そう言うと、女はその場からふっと消えた
空気が揺れたような気配だけを残して
……11:50
私は震える手でノートを開く
最終ページに、こう書かれていた
──「彼女はあなたではない。…あなたの結末を書くためにここに来た」──
スマホを見る
通知がまた来ていた
──「12:10 記録開始」
私はその言葉の意味をまだ知らなかった
でも確かに、何かが始まってしまった感覚だけがあった
ノートの表紙に、微かに文字が浮かび上がっていた
──「名前が消える前に」──
ノートを開く
ページの左下に、小さく「2 / 4」とだけ記されていた
数字はそれしかない
その無言のカウントが──何かが着実に進んでいることを伝えていた
私はそっとページを閉じた
封筒に滑り込ませ、押し入れの奥へと隠す
見なければ、起こらない
そう思い込むしかなかった
ごまかすように、私は布団へもぐり込んだ
──翌朝
キッチンの入り口で、呼吸が止まる
テーブルの上
そこにノートが置かれていた
あまりにも自然に
まるで最初から、そこにあったかのように
封筒の存在も、押し入れの記憶も、
空気が吸い取ってしまったような静けさ
──「かくされたつもり?」──
ぞっとした
部屋には鍵をかけていたし、誰かが入った形跡もない
それなのにノートは、私の行動すべてを見ていたかのようだった
昼、職場に向かう
気持ちを切り替えようとしたが、うまくいかなかった
業務中、上司の声で呼び戻される
「これ、君が送ったの?」
画面には、自分のメールアカウントから送信された見覚えのない文章
──件名「記録申請」
本文:「佐倉ひとみ、再記録開始。備考なし」
頭の奥が一気に冷える
悪戯?ハッキング?
上司は軽く笑って「気をつけてね」とだけ言った
その言葉が遠く感じられる
私の中では、得体の知れない恐怖が渦を巻いていた
帰宅すると、ポストに手紙が届いていた
宛名は、私の名前
差出人の記載はなかった
封を開ける
中には、一枚の便箋だけ
そこには、こう書かれていた
──「前の私は、そこまでだった」
その夜は眠れなかった
午前二時、耳元で紙のめくれる音がした
誰かがノートを読み上げている
暗闇の中、はっきりと
「3 / 4……記憶変質、開始……」
私は跳ね起きた
部屋に気配はない
それでも、ベッドの足元にはノートが置かれていた
開かれたページに、あの文字が刻まれていた
──あなたが覚えていないのは、これが最初じゃない──
スマホを手に取り、写真フォルダを開いた
昨日──ランチの写真が、なかった
代わりに映っていたのは
見知らぬ場所で笑っている私
──その背後
白い服の女が、静かに立っていた
夢じゃない
あの女は、私の現実に入り込んでいた
ノートを握り、石神井公園へ向かう
足元が、どこか頼りなかった
ベンチに腰を下ろして待つ
十一時四十六分──彼女は、そこにいた
「やっぱり来たのね」
その声は、最初の夢と同じだった
「……あんた、誰なの?」
「前の記録者よ。水谷理乃って名前だった」
名乗った彼女の目が、どこか哀しげだった
それなのに、私の顔だけはまっすぐ見据えている
「記録されるとね、名前が人じゃなくなるの」
「……え?」
「最初は違和感だけ。予定表が狂う、食べた記憶が曖昧になる、人の顔が判別できなくなる」
「そして、言葉がすり替わるの」
言い終えると、彼女はそっと私のノートを指差した
「それ、自分で書くようになったら──終わりよ」
息が詰まった
そんなこと、あるわけがない
……そう思いたかった
ノートの最後のページを覗くと
そこには、私の筆跡で──たった一行だけ、記されていた
──「記録、続行します」──
私は震えていた
手が勝手に、ページを閉じかける
それでも、言葉が口からこぼれた
「いつ書いたの……これ」
「寝てる間よ」
水谷理乃は、静かに答えた
「記録者にされるとね、意識と無関係に名前が動くようになるの」
意味がわからない
でも、身体の奥で知っていた
「だったら……どうすれば」
「選べるわ」
彼女の目は私の指先を見つめたままだった
「名前を返上するか、記録を続けるか」
「返上?」
「忘れるの」
理乃の声が、まるで自分の脳内から聞こえてくるように響いた
「名前を。そうすればあなたじゃなくなる。書かれなくなる」
一呼吸置いてから、続ける
「でも──世界もあなたを、思い出せなくなる」
言葉の意味が、心の底を冷やしていく
私は、選べなかった
そのまま、足元の不安定な世界に戻っていく
──帰り道
ふと立ち止まった
自販機の前。手をかざしても、何も起こらない
どの機械も、私の顔を認識しなかった
防犯カメラも、無反応のまま
駅の改札にカードをかざしても──静かに、拒まれた
まるで世界のほうから、私を切り離そうとしているみたいだった
──「名前が、外れてきてる」──
それは、呼吸するように自然に
自分の存在が、薄れていく感覚だった
改札で引っかかった私を、駅員はまるで見えていないかのように通り過ぎていった
私が声をかけても、彼は目の前の掃除のおばさんとしか話していない
スマホも反応が鈍くなり、顔認証が解除されるまで十回以上試す必要があった
街のあちこちが、私という存在を拒絶し始めていた
ノートの中には、今日の出来事が詳細に記されていた
それも、まだ起きていないことまで
午後4時10分、スーパーで惣菜を手に取りかける
午後4時12分、誰かと肩がぶつかる
午後4時13分、その相手が何も言わずに立ち去る
午後4時15分、レジの人間が私を無視する
ノートを閉じた
でも、手は止まらなかった
まるでそこに書かれた順番を、身体がなぞっているみたいに──
惣菜を取ろうと伸ばした手が、隣の客とぶつかった
無言で立ち去られる
レジに並んでも、視線を向けられない
店員の手が、私の存在を通過していく
声を出そうとした
「すみません」──その言葉は、喉元で崩れていた
音が出ないわけじゃない
けど、それは意味を持つ音じゃなかった
私はベンチに座り込んだ
崩れるようにして
足の裏が地面に触れているのに、支えられている感覚がなかった
体温が薄れていく
手は透けてはいない、ただ空気との境界が曖昧だった
まるで、何かに混ざっていく途中みたいだった
水谷理乃の言葉が、ぼんやりと蘇る
「名前が、世界との接点なの」
「名前が記録されると、それと繋がってたもの全部があなたじゃないものに変わる」
私は、自分を証明できなくなっていた
それでも、帰る場所はあると思っていた
──でも、玄関の鍵が回らなかった
何度試しても、音ひとつ立てずに拒まれる
ドアを叩く
中から現れたのは、知らない女だった
「……なにか?」
その問いかけに、言葉が出なかった
「この部屋、私──」とだけ喉が動く
女は怪訝そうに眉を寄せ、ドアを閉めた
何も間違っていない様子だった
……私の住んでいた場所に、正しく誰かが住んでいた
ポケットの中のノートが熱を持っている
取り出して、最終ページをめくる
そこには、静かに一行が記された
──「あなたの記録は、他の誰かに上書きされました」──
街が、社会が、私を削除した
空いた場所には、何事もなかったように別の人間がはめ込まれている
私は、石神井公園に戻った
あのベンチに腰を下ろす
名前のない空を、ぼんやりと見上げていた
風が通り過ぎる音がした
振り返る
そこに、水谷理乃がいた
「もう……ここに座るのも、最後ね」
その声は穏やかだった
まるで全ての出来事が終わってから語られるものであるかのように
「……もう、私、誰かわからない」
そう言うのが精一杯だった
「でも、記録する側にはなれるわ」
水谷の手には、新しいノート
黒いリングに、硬質な紙
表紙には記録者用とだけ記されていた
「これを持つと……どうなるの?」
質問というより、言葉を出しておかないと崩れそうだった
「もう、誰かじゃなくなる」
「でも、全てを見ていられるようになる」
彼女の声は淡々としていた
それでも、どこかで選ばれることの意味を伝えようとしていた
「それって……幸せなの?」
間があった
「さあ」
水谷は首を傾け、視線を遠くに流した
「ただ、誰かの名前を書くたびに──
自分の輪郭を少しだけ思い出せるの」
彼女がノートを差し出す
「書く? 次の名前を」
私の指先が震える
それでも、私は手を伸ばしていた
ノートを受け取る
──その瞬間
ポケットの奥から、熱が滲み出した
私のノートが、勝手に開かれていた
脈打つように、ページが震えていた
──「まだ、選べる」──
その一行が、私を引き戻した
記録される側と記録する側
いま、この瞬間だけは──選べる場所に立っていた
私は震える手を止めた
どちらのノートにも触れず
ゆっくりと、それらを地面に置いた
何も言わずに、背を向ける
そして、走る
草を踏む音だけが耳に残る
水谷理乃が追ってくる気配はなかった
ただひとつ
声だけが背中に届いた
「逃げても、名を持つかぎり書かれるよ」
その言葉が、空気よりも深く刺さった
骨の奥に残るほどに
私は走った
ノートからも、あの女からも、自分という存在からも
どこへ逃げているのか、わからないまま
ただ、何かを追い払うように
気がつけば、知らない街にいた
夜の商店街
全てのシャッターが下りていて
街灯だけが、真っ白に世界を照らしていた
スマホは圏外だった
画面に映る時刻は22:41のまま動かない
でも、私は確かに何十分も歩いていた
時間が、私だけを見失っている
ここは、地図に載っていない
ノートのどのページにも書かれていない
私の名前が届かない場所
だから、ここなら──書かれずにいられる
そんな気がした
でも、違った
ウィンドウ越しの古い本屋
埃まみれのディスプレイの中に、ひとつだけ浮いていた
赤いリングのノート
その存在が、あまりにも自然に──そこにあった
私は近づいた
ガラス越しに見えるページに、こう記されていた
──「隠れているつもり?」──
その瞬間、すべてが繋がった気がした
逃げられない
この世界は──記録によって成立している
名前が存在するかぎり、人はどこかのページに記されている
ノートの行間でしか、生きられない
私は歩き出した
この場所を、無名のまま漂い続けることは
存在しないことと、何も変わらなかった
誰にも呼ばれず、誰にも知られず
それは自由ではなく、ただの消失だった
……だから私は、公園に戻った
ベンチの上に、二冊のノートが待っていた
赤いものと、黒いもの
どちらも、静かにそこにあった
まるで、最初から置かれていたかのように
私は、赤いほうに指を伸ばした
表紙に名前はない
──最後のページだけが、私を見返していた
──「佐倉ひとみの記録は未了」──
脳裏に光が走る
思い出した
あの日、最初に名前を書いたのは──水谷理乃
その瞬間、紙の余白に文字が浮かび上がる
──「記録者を書き直すことは、禁じられている」──
指先が止まった
でも、もう選べなかった
私は、裏表紙に指をあてた
そこに名前を刻む
名前ではなく、意思として
それは静かに、紙へ沈んでいった
──「水谷理乃」──
ノートが、熱を帯びた
リングが軋み、紙がざらりと音を立てて一気にめくられていく
次の瞬間
空気が──反転した
何かが崩れる音
叫び声が走る
女の声だった
「返して──!」
振り返る
そこに、水谷理乃が立っていた
表情はなかった
その手に抱えた黒いノートの隙間から、白い煙がゆらりと立ちのぼっている
「私の名前を……記録されたまま、終わらせないで……」
その声は、かすれていた
怒りでも懇願でもなく
ただ、終わりを拒む音
私は、ノートを掲げた
ページが最後の一枚までめくられる
その中央に、迷いなく書いた
──佐倉ひとみ──
私が私であるという、最終的な証明だった
理乃の輪郭が崩れはじめる
肌が滲み、服が剥がれ、骨と気配のあいだを揺れるように──
名前のない影に戻っていく
その影が、かすかにうなずいた
「……よかった……」
風が通り抜ける
影は、それと共に消えた
ノートを閉じる
手に残る熱だけが、ほんの少し震えていた
バッグにしまって、スマホを取り出す
通信は復活していた
時計も、きちんと動いている
駅を通れば、駅員が目を見て挨拶をしてくれた
レジでは、袋に入れるかどうかを尋ねられた
空気が私に反応する
世界が、私を見ている
帰宅した
鍵が、音を立てて回る
見慣れた部屋があった
ポストには、一通の手紙
差出人なし
──宛名「佐倉ひとみ様」
開けると、便箋に一文だけ記されていた
──あなたが書き直したこと、記録しました──
私は、静かに笑った
バッグの中、ノートがかすかに振動する
まるで、ページのどこかが次の名前を求めているかのように
名前が、世界を定義する
それは、きっと変わらない
でも──今だけは、私は私のままでいいと思えた
だって私は、私を、書き直したのだから