ナントカ堂 2022/01/11 19:57

ドンダーの戦い

ドンダーの戦いはwikiにも記事がありますが、『大南正編列伝初集』巻三十「阮文恵」にはこのように記されています。


黎朝の文武の諸臣がひしめき合いながら続々と都城に来て拝謁し、全員が孫士毅に出陣することを求めた。孫士毅は言った。
「もはや年末なのに慌てることも無い。今は力を蓄えて、衰えた敵を自滅させよう。」
そこで諸軍に命を下し、正月六日に出陣することとした。

敗報を得た阮文恵は「呉の犬(呉文楚)が常軌を逸したことをしでかした。」と罵倒すると、即座に出陣を命じた。諸将はみな「正式に即位して人心を得るように」と勧めた。そこで阮文恵は屏山の南に壇を築き、十一月二十五日を以って、自ら皇帝に即位し、光中と改元した。即日、大々的に将士を率い、水陸同時に進軍した。

二十九日、乂安に到着すると、そこに十数日駐留した。乂安の民から壮丁三人につき一人を徴兵して増員した。順・広の親兵を前・後・左・右の四営とし、乂安の新兵を中軍として、精鋭十万あまりと戦象数百頭を得、鎮営で大閲兵を行った。阮文恵が自ら象に乗り、営を出て兵を労い、進発を命じた。

十二月二十日、三畳山に到着した。呉文楚と潘文璘が道の傍らに拝伏して処罰を乞うた。阮文恵は言った。
「汝らの罪は万死に値する。しかし今は北河を平定したばかりで、人心はまだ我らに付いていない。汝らは全軍で敵の鋭鋒を避け、内には兵士たちに敵への怒りを掻き立て、外には敵を驕り高ぶらせた。思いがけずも敵を誘い込む策となった訳だ。当面は処罰を猶予するので、功を立てて償うように。」
そして将士を酒食でもてなすと、こう語った。
「今、先に元旦の儀礼を行う。正月七日に昇龍城に入ったら、また宴会を催す。汝らは各々我が言葉を記録し、本当だったかどうかを確認せよ。」
それから三方面に軍を出した。
(中略)
五軍全てに軍令が行き渡ると、大晦日に澗水を渡った。
まず初めに黎氏側の山南鎮守の黄馮義の軍が壊滅した。清軍の見張りを急襲して全て捕えたため、以後、清側では軍事の報告は絶無となった。昇龍塢門から福河を遡り河洄に至ると、清軍の陣が並んでいた。大砲が構えられ、屯外には地雷が隠してあり、防備は甚だ固かった。

己酉(1789)正月三日夜半、阮文恵軍が河洄に到着し、密かに敵陣を包囲した。軍筒を以って合図すると、これに応じて数万人が「おう」と声を上げた。陣中は震え上がり、戦わずして自潰し、阮文恵軍は全ての武器・機材を獲得した。

五日、阮文恵軍は夜明けと共に進軍して玉回塁に逼った。塁上より銃弾が雨のように降り注いだ。阮文恵は兵士に、木板を頭上に上げて衝陣を成すよう命じると、自らは象を駆ってその後ろから督戦した。塁門を破ると、兵たちは各々木板を地面に投げ捨て、片手で持つ刀で手あたり次第斬り付けていった。清軍には手向かう者はおらず、潰走して四方に逃げ散ると、隠してあった地雷が轟音と共に炸裂し、多くの死傷者を出した。
西山軍は鼓を打ち鳴らしながら長駆し、連続して文典・安决の諸屯を撃ち破った。清の提督の許世亨や総兵の張朝龍・尚維昇、田州知府の岑宜棟はみな戦死した。
孫士毅は沙洲に在ってこの報を聞くと、単騎で北に逃げ去った。将士は争って橋を渡ると、橋を落とした。ひしめき合って死んだ者、万を数え、このために珥河は流れなくなった。
この日、阮文恵は兵を駆って入城し、着ていた戦袍は焦黒色に変じていた。全て火薬の煙に拠るものである。昭統帝は慌てて渡河し、孫士毅に付き従って北に逃げた。ここに黎朝は滅び、阮文恵は遂に安南の地を併合した。


これくらい完勝したので阮文恵は民族英雄と呼ばれるのでしょう。

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