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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年03月29日 20:19

『大南寔録』「外国列伝 シャム」

 前回の高蛮(カンボジア)に続き、『大南寔録正編列伝初集』巻三十二より「暹羅(シャム=現在のタイ)」の項から、ラーマ1世が即位するまでを訳します。


 暹羅は古の赤土国で、後に二つに分かれた。一つを暹、一つを羅斛といった。暹は土地が瘦せて耕作に適さず、羅斛は地が平らで広く多くの収穫が得られたため、暹は常にこれを仰ぎ食料を給されていた。
 隋の時代に使者がその国に至り、国王の姓が瞿曇氏というのを知った。
 元初には常に入貢し、後に羅斛が強大となって暹を併合し、遂には暹羅斛国と称した。
 明初に再び入貢し、暹羅国王の印を賜った。暹羅という呼び名はここから始まった。
 隆慶年間に、隣国の東蛮牛が婚姻を求めたが断ったため、東蛮牛は恥じ怒り、大軍を発して暹羅を破った。王は自ら首を吊って死に、世子は捕えられて連れ去られ、以後、東蛮牛に統治されるようになった。その次子が王号を継いで、復讐心を燃やした。万暦年間に強大となり、東蛮牛を破って、真臘を降し、遂には諸蛮の覇者となった。

 本朝の睿宗の丙戌元年(1766)、緬甸が暹を破り、暹瘋王(原注:暹王は癩病となったため、国人は瘋王と呼んだ)とその長子の昭督其、次子の昭侈腔は真臘に、昭翠は河僊に逃れた。
 茫薩(原注:地名)の長の鄭国英(原注:またの名を生(訳注:タークシン)は清の潮洲の人である。父の鄭偃が暹に流寓して、茫薩の長となった。鄭偃が死ぬと、鄭国英が官職を継いで、丕雅(原注:暹の官名)と号した。暹に権力の空白が生まれたのに乗じ、挙兵してその地を奪い取り、自ら暹国王と称して、真臘に朝貢するよう求めた。鄭国英が暹王の家系で無かったため、匿尊は拒否した。
 己丑四年(1769)、暹王の鄭国英が奔麻(原注:人名)に兵を指揮させて、真臘の僞王の匿嫩を帰国させた。爐塸に到着すると匿尊と戦闘となり、敗れて住民を連れ去った。
 辛卯六年、昭翠が河僊に居たため後顧の憂いとなることを恐れた鄭国英は、兵を出して河僊を攻め落とした。鄚天賜は鎮江に逃れ、暹昭科(原注:官名)の陳連(原注:人名)がこれを追った。ちょうど龍湖営留守の宋福洽の援軍が到着したため、暹軍はすぐに引き返したが、誤って川に入った。宋福洽の軍がこれを追撃し、三百あまりの首級を挙げた。陳連は船を棄てて兵を率い河僊に戻ろうとしたが、東口道該隊の阮有仁がこれを迎え撃ち、暹軍の半数以上が死んだ。鄭国英は陳連を河僊に留めて守らせ、自らは兵を率いて直接真臘に向かった。匿尊は出奔したので、鄭国英は匿嫩を真臘王に立てた。ここに暹軍は南栄を拠点とし、我が方の藩鎮を狙う構えを見せた。

 壬辰七年、統率の阮久潭と参賛の陳福成が兵を率いて前江から、宋福洽は後江から進軍した。潭以壬瀝(原注:真臘の官名)の最(原注:人名)は先鋒となり、南栄で暹軍を打ち破った。鄭国英は河僊に、匿嫩は芹渤に逃亡して、匿尊は王に返り咲いた。鄭国英は河僊に着くと、鄚天賜に書状を送って和を求めたが、鄭天賜は拒否した。鄭国英は陳連に河僊の守備を委ね、自らは兵を率いて鄭天賜の子女と昭翠を捕えて帰国し、まもなく昭翠を殺した。
 癸巳八年、睿宗は密かに鄭天賜に、暹に人を遣わし講和を名目として動静を探るよう命じた。鄭天賜は舎人の鄭秀に書状と礼物を持たせて暹に遣わした。鄭国英は大いに喜び、捕えていた鄭天賜の子女を送り返した。陳連は召されて帰国した。

 丁酉十二年、僞西の乱が起こり、尊室の春と鄚天賜が暹に逃れて援軍を求めた。暹人はこれを厚遇して留めた。

 世祖高皇帝の戊戌元年(1778)、嘉定を取り戻した。
 六月、該奇の劉福徵を暹に遣わして修好し、同時に尊室の春や鄚天賜らの消息を探らせた。
 庚子又元年(1780)六月、再び該奇の参と静(原注:二人の名)を暹に遣わして修好した。
 このころ暹の商船が広東から帰国する途中、河僊の外洋まで来たところで、留守の昇(原注:姓は不詳)に殺され、貨物を全て奪われた。暹人は怒り、遂には参と静を投獄した。更に真臘人の逋翁膠が暹にこう讒言した。
 「嘉定より密書が送られ、尊室の春と鄚天賜が内応して、望閣(訳注:バンコク)を占拠しようと計画しています。」
 暹人は大いに疑い、二人も捕えて尋問した。鄭天賜は自害し、尊室の春と参・静、鄭天賜の一族五十三人が全て殺された。我が国の居留民も全て辺境の地に移住させられた。

 辛丑二年十月、暹がその将の質知(訳注:後のラーマ1世)と芻癡(原注:二人は兄弟)を差し向けて高蛮を攻め、匿印がこれを報告した。
 
 壬寅三年(1782)正月、世祖は掌奇の阮有瑞に兵船を指揮させ胡文璘と共に高蛮に援軍に向かわせた。軍が羅碧に到着したころ、暹主の鄭国英が心を病み、質知と芻癡の妻子を捕えた。質知らは怨み、我が軍が至ると協議した。芻癡は言った。
 「我が主は理由も無く我が妻子を捕えた。我らが死力を尽くして戦ったとしても、誰も評価しないだろう。漢人と和を結び、外から支援して貰う他無い。」
 質知が言った。
 「そのことは私も考えていたことだ。」
 そこで人を阮有瑞の軍に遣わして、和を結び、寨に迎えて会うことを約した。阮有瑞はこれを受諾した。
 翌日、阮有瑞は数十人の従者と共に小道から暹の寨に入った。暹の兵が驚愕して互いの顔を見あっている中、質知と芻癡が招き入れて歓待し、現状を話した。宴たけなわとなり、矢を折って誓いを立てた。阮有瑞は旗・刀・剣の三宝器を贈り陣に戻った。
 同じ頃、暹の古落成で反乱が起きたため、鄭国英は丕雅の寃産に討伐に向かわせた。反乱軍の首領は寃産の弟であった。寃産は弟に合流して寝返り、却って望閣城を攻撃した。城內の人は門を開いて兵を入れた。この事態を聞いた鄭国英は為す術がなく、仏寺に逃れた。寃産は鄭国英を捕えると幽閉し、急ぎ質知に帰国するよう伝えた。質知はこの報を受けると、「既に阮有瑞とは和を結んだので、後ろから攻撃される心配は無い」と判断し、夜中に兵を率いて望閣城に帰って行った。望閣城に到着する直前、密かに人に命じて鄭国英を殺害させ、罪を寃産に転嫁した。罪を喧伝して乱を起こしたことを責め、別室に拘禁して、まもなく殺した。そして遂には国民を脅して自ら即位し、暹羅王となって、仏王(原注:暹の習俗では仏が重んじられ、大王を仏王とする)と号した。弟の芻癡を第二国王、姪摩勒を第三国王とした。我が国民で先に鄭国英により遠方に移住させられた者は、みな解放されて望閣城に戻り、生活費として銀と米を支給された。
 同年秋、該奇の黎福晪や参謀の黎福評らを遣わして通好した。

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