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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年03月27日 17:05

『大南寔録』「外国伝 カンボジア」

『大南寔録』正編列伝初集巻三十一「高蛮(カンボジア)」を全て挙げるのは多すぎるので、冒頭から広南国時代までの分を以下に訳します。


 高蛮、またの名を真臘、高綿という。(原注:紹治の初めに諱を避けて真臘と号したが、七年に高蛮と改めた)
 本は古の扶南の属国で、後に扶南の勢いが衰えると、遂には真臘を併合した。唐の神龍年間になって国が二つに分かれた。
 北半分は山が多く、陸真臘と号した。地は七百里、王は笡屈と号した。
 南半分は海に面して肥沃な湿地が広がり、水真臘と号した。地は八百里、王は婆羅提抜城に住んだ。
 唐代に二国共来貢し、共に王に封ぜられた。宋代になると一つに合わさり、真臘と号した。
 安南が建国されると、李太祖の順天三年(原注:宋の祥符五年)に、真臘は初めて来貢し、三年に一回使者を派遣した。まもなく占城と共に乂安に攻め込んだが、何度も敗れた。これ以降、国交は絶え、北の元に朝貢した。
 明初になって、その王の忽児那多が上表して土地の産物を献じたが、永楽年間になって使者は再び絶えた。占城に攻撃されたため、来ることが不可能となったからである。

 本朝の太祖皇帝が初めに順化を本拠地に定めた際、特に占城の城郭が近かったため、先に攻略目標とし、真臘は後回しにした。
 太宗皇帝の戊戌十年(1658)、その王の匿螉禛が国境近くに攻め込んだ。
 (原注:『嘉定通志』によれば、その国の人は名は有るが姓は無く、王の子孫は全て匿螉と名乗り、禛はその名である。その名は良い意味のものを命名し、祖父と孫が同名であっても諱を避けない。)
 鎮辺営副将の尊室燕が命を奉じて討伐に向い、興福城(原注:今の辺和省の福正県の地)で蛮兵を大いに撃ち破り、禛を捕虜にして献じた。太宗はその罪を赦し、官兵に命じてその国まで護送し、藩臣となり毎年朝貢するよう命じた。
 甲寅二十六年(1674)、禛が死んで、匿螉嫩が即した。その臣の烏苔が叛き、暹(訳注:シャム)が攻め込んだ。嫩が逃げてきたため、太宗は統兵の阮楊林らに討伐に向かわせた。烏苔は敗走して死に、匿秋は降伏した。朝議により、匿秋が嫡流であるとして正国王に封じて龍澳城に住まわせ、嫩を改封して第二国王として柴棍城(訳注:サイゴン)に住まわせ、元通りに朝貢させた。
 己未三十一年(1679)、明の総兵の楊彦廸や陳上川らが清に仕えることを拒んで、兵船を率いて来帰した。朝廷ではこれを真臘の東浦の地に留めて臣従を受け入れ、楊彦廸らは美湫(原注:今の定祥)に、陳上川らは盤轔(原注:今の辺和)に住まわせて、森林を開拓させ、交易場を設けさせた。これより清人・洋人・日本・闍婆など諸国の商船が集まり、東浦は遂には楽土となった。

 顕宗皇帝の戊寅七年(1698)、東浦の地を取って嘉定府を置き、藩鎮営を置いて、千里の地と四万戸が新たに得られた。
 これ以前のこと、東浦が開発されて六年、楊彦廸が部下の黄進に殺され、真臘正王の匿秋が叛いて羅碧・求南・茶栄の三ケ所に砦を築き守った。副王の匿嫩がこの政変を報せたため、顕宗は万龍を統兵として討伐に向かわせた。陳上川は残りの龍門の兵を率いて従軍した。黄進が誅されると、真臘人は震え上がり、遙律という女を遣わして金品を贈り、進軍を遅らすよう求めた。万龍はその計略に嵌まり進軍しなくなった。該奇の阮有豪が万龍と交替したが、阮有豪も進軍しなくなった。将が相次いで計略に嵌まり、戦果が得られなかった。
 庚辰九年春、阮有鏡が命を奉じ、諸軍を率いて各地を攻めた。匿秋は城を棄てて逃亡し、匿嫩の子の匿淹が城から出て降伏した。その後、匿秋もまた陣まで来て降り、臣従することを願い出た。阮有鏡は牢堆まで兵を退いて、真臘の鎮定に従事した。
 匿秋が老齢となり、子の匿深に位を継がせた。匿深は「匿淹が自分の地位を狙っているのではないか」と疑い、戦闘状態になった。匿淹が大軍(訳注:広南国軍)と共に進擊すると、匿深は羅碧を棄てて暹に逃げ、これに帰した。匿淹が帰国するよう呼びかけたが、戻ってこなかった。匿秋は匿淹に国を継がせることを願い出て、遂には匿淹が襲封した。
 匿淹が没すると、子の匿他が即位した。匿深が暹から帰国してこれを認めず、攻撃したため、匿他は嘉定に逃げた。匿深が再び国を統治した。匿深が死ぬと、諸子(原注:敦・軒・厭の三人)が後継者の地位を巡って争ったため、官軍が討伐して平らげ、匿他を帰国させた。匿原(原注:匿深の第二子)が暹の援軍を得て匿他を攻めた。匿他はまた来奔したが、まもなく死んだ。匿原がその国の王となった。

 世宗皇帝の庚午十二年(1750)、匿原が崑蛮(原注:順城の集落)に攻め込んだ。
 癸酉十五年(1753)、統率の善政(原注:人名)と参謀の阮居貞が命を奉じ、五営の兵を率いて討伐に向かった。道に分かれて一斉に進んだ。雷巤・尋奔・求南・南栄の四府は降り、匿原は遁走した。
 阮居貞は崑蛮を招撫し、男女五千人あまりを保護して婆丁山に戻り駐留した。
 張福猷が善政に代わって統率となると、更に激しく求南と南栄を攻めた。匿原は河僊に逃げて鄚天賜を頼り、尋奔と雷巤の二府を献じて贖罪とすることを願った。阮居貞がこれを受け入れ、軍は帰還した。
 匿原が死ぬと、族叔の匿螉潤が茶栄と巴忒の二府を献じて権監国事となった。潤はまもなく娘婿の匿香に殺された。潤の子の匿尊が河僊に逃げてくると、鄚天賜が匿尊に襲封させるよう進言した。世宗はこれを許し、鄚天賜に五営の将士と共に護送して帰国させるよう命じた。匿尊は尋奔と楓龍の地を世宗に献じ、感謝として香澳・芹渤・真森・柴末・霊瓊の五府を鄚天賜に割譲した。鄚天賜はこの地を全て世宗に献じた。
 張福猷と阮居貞は、龍湖営(原注:もとは丐𦨭処にあった。丐𦨭処は今は定祥の建登県に属す。)を尋袍処(原注:龍湖村、今の永隆省)に移し、沙的処に東口道、前江に新州道、後江に朱篤道(原注:後に安江となる)を設け、香澳五府を河僊に所属させ、龍川道や堅江道を設置するよう進言した。
 匿尊が即位すると、真臘の僞王の匿嫩が暹から帰国して地位を争い敗れた。暹王の鄭国英が自ら兵を率いて来援したため、匿尊は出奔した。暹は匿嫩を王に立てた。

 睿宗皇帝の己丑四年(1769)、統率の阮久潭と参賛の陳福成を討伐に向かわせた。鄭国英は河僊に、匿嫩は芹渤に逃げ、羅碧や南栄の諸府を取り戻した。匿尊は国を取り戻したが、暹の侵略に苦しみ、弟の匿螉栄に正王の地位を譲って、自らは第二国王となり、次弟の匿深を第三国王とした。匿栄は西山の乱が起きて以来、密かに謀叛を企て、朝貢を果たさなくなった。
 丙申十一年(1776)冬、わが世祖は睿宗の命を奉じ、副節制の阮久俊や掌奇の張福慎らを従えて兵を率い討伐に向かった。匿栄は降伏を願い出た。
 丁酉十二年、匿栄が匿深を謀殺し、匿尊は憤死した。その臣の昭錘謨と低都練が楓吹に拠って、匿栄から離反した。位奔趨が羅碧に拠ってこれに呼応し、龍湖営に援軍を求めた。



 いや、それにしても後継ぎ争いのたびに外国の支援を受けるために領土割譲するとか、あまりにも酷過ぎ。それにしても当時は北と戦っているのに、その片手間でこれだけ力があるのって、統一したらどれだけ強国なのかと。

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