ナントカ堂 2021/02/06 00:32

郭子儀の子孫

 前回、郭子儀の子孫として郭企忠について記しましたが、『元好問集』巻二十八から別の子孫をご紹介いたします。


広威将軍郭君墓表

 貞祐の初め(1213)、中華は兵火に遭った。
 二年の春、兵は北に帰り、既に平陽は攻め落とされ、敵は太原に進軍して、西の六州に軍を分けた。このとき岢嵐には主将が居らず、同知軍州事の完顔昭武は君に城を守る計略を相談した。君は言った。
 「城を守るのは勿論良い事ですが、北の兵は長駆して、燕・趙・斉・魏は全ての城が壊滅しました。公は単独でこの地の兵を掻き集めようとしていますが、相手は強く多く、我らは弱く少なく、対抗できません。また急な事なので防衛のための機材も用意できません。たとえ準備ができても、他所から集めた兵は郷里に帰りたがり、街の住民を駆り立てても頼りにはなりません。兵法では、戦うことも守ることも出来なければ、ただ敵の鋭鋒を避けるのみ、と言います。既に敵の遊撃隊が領内に入っています。早く計画を立てなければ、後悔することになりましょう。」
 昭武は君の意見に従い、夜陰に乗じて老人と子供を兵に護衛させて西南の龍門寨に避難させた。北の兵が汾・石・嵐と次々と攻め落として皆殺しにしたが、ただ岢嵐だけは攻め落とせずに帰って行った。宣撫司が君の功績を評価して、嵐谷簿・摂録事に任じた。今に至るまで地元の人間は、一州の命が助かったのは君のおかげだとしている。

 君の諱は昌、字は子玉、姓は郭氏、代々岢嵐の人である。
 唐以来、忠武王の子孫は汾と晋の一帯に散居している。家譜は不明だが言い伝えは残っており、君はその子孫である。
 曽祖父の晏、祖父の興、父の詡の三代は民間人であった。しかし祖父以来、郷里では裕福で、任俠で気概を尊び、困窮者を救済することを喜びとした。かつて一日に緡銭一千を出して貧窮者に与えていた。このようにして数十年、代々陰德を積んでいった。
 君は弱冠にして法律を学び科挙を受けたが、二度上級試験まで行って受からず、遂には諦めた。明昌年間(1190~1196)に官制が改められ、良家の子で法理に明るく、言動も良いとして推挙され下吏となった。州県の官を歴任し、長年の功労により忠勇校尉の地位を与えられた。嵐谷簿から隩州知法、更に平陽知法となって、河東南路行元師府検法兼提領犒賞となった。興定元年(1217)に中央に召されて尚書左三部検法となり、嵩州知法に改められ、遂には行尚書六部主事となった。累進して広威将軍・汾陽県開国子・食邑五百戸となり。正大二年(1225)正月元日、五十八歳で嵩州の寓居で亡くなった。(後略)

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