郭企忠(郭子儀の子孫)
日本版wikipediaの「郭子儀」の項の「子孫」の欄に郭企忠が記されていないので『金史』巻八十二から以下に訳します。
郭企忠、字は元弼、唐の汾陽王の郭子儀の子孫である。郭氏は郭子儀から郭承勲に至るまで、全て北方の節度使となった。唐末に郭承勲が遼に入り、子孫が天徳軍節度使を継いで、郭昌金の代になって副使に降格となった。
郭企忠は幼くして父を喪い、母に仕えて孝行で慎ましやかであった。十三歳のとき母が亡くなると、その悲しみ方は成人のようであった。喪が明けると父の官職を継ぎ、左散騎常侍を加えられた。
天輔年間(1117~1123)、金軍が雲中に至り、耶律坦を遣わして諸部を招撫した。郭企忠が来降すると、主将は郭企忠を同勾当天徳軍節度使事に任命し、領民を率いて韓州に移り住むよう命じた。
太祖が会い、尋ねてその家系を知ると、大いに礼遇して白鷹を賜った。
天会三年(1125)、宋討伐の際、郭企忠は西南諸部の番と漢の兵を率い、猛安となった。雁門攻略に従軍して、その地に駐留することとなり、桂州管内観察留後を加えられて、代州に鎮守した。
翌年、賊徒の楊麻胡らが五台で数千の兵を集めた。郭企忠は同知州事の迪里と共に討ち平らげた。
知汾州事に昇進した。当時、汾州は金に降ったばかりで、住民の多くが兵士たちに戦利品として連れ去られ、領内は閑散としていた。郭企忠は帥府に出向くと「親族や知人が代価を払えば元の地に戻れるよう許可を願います。」と強く求め、帥府は従った。まもなく元通りに住民が戻ってきた。
石州の賊の閻先生が数万の兵で汾州城の城壁の前まで迫った。部下は城内で変事が起こることを憂慮し、万一に備えるよう進言した。郭企忠は言った。
「私は汾人に恩恵を与えた。信じる以外に無い。」
そう言うと吏民を率いて城を守った。ちょうど援軍が到着したので、内と外で同時に攻撃し打ち破った。
六年に静江軍節度留後に改められ、その後、天徳軍節度使・汴京歩軍都指揮使に昇進し、累進して金吾衛上将軍となった。任期満了で権沁州刺史となり、着任一年あまりで卒去した。享年六十八。