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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年01月09日 12:14

百多禄

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
 年末年始は仕事の連続で、本日やっと家でゆっくり出来たのでupします。
 今回も前回と同じく『大南寔録』「正編列伝初集」巻二十八から、百多禄です。
 百多禄はwikiにもピニョー・ド・ベーヌとして上げられていますが、ベトナム正史の視点からご覧ください。


 百多禄は監牧師と号し、西洋の富浪沙の人である。初めに渡海して嘉定・真臘間を旅し、密かに爺蘇敎を伝導した。多くの人々がこれに従った。
 庚子、世祖高皇帝が嘉定で即位すると、百多禄は拝謁して手柄を立てることを願い出、世祖は嘉納した。
 壬寅、西山軍が攻めてくると、世祖は国外に逃れ、皇太后と皇后は真臘に避難した。真臘人は叛逆を企て、不測の事態が起こりそうになった。百多禄はこれを知ると、仲間を率いて皇太后と皇后の保護策を講じてから、三阜に行き世祖に合流した。
 癸卯、世祖が海島に避難するのに従い、百多禄は先に暹(シャム)に行って援軍を求めた。
 甲辰秋、世祖が暹の兵を従えて嘉定に戻った。世祖は西山軍と戦って敗れ、再び暹に逃れる途中、真奔に人を遣わして百多禄を召し、皇長子の景を護衛して西(フランス)に行き援軍を求めるよう命じた。西に滞在すること四年、西人は援軍を送ることができなかった。
 己酉、既に世祖が嘉定を取り戻したため、百多禄は皇長子の景を護衛して戻ってきた。世祖は各地を奔走した功労を以って、百多禄に優遇を加え、達命調制戦艚水歩援兵監牧上師の地位を与え、皇太子の景もまた師の礼を以って遇した。
 癸丑、范文仁と共に皇太子の景を補佐して延慶城を守った。
 己未、帰仁遠征に従軍し、病のため陣中にて没した。太子太傅・悲柔郡公を追贈され、忠懿と諡されて、嘉定に帰葬され、墓守五十人が給された。

 その仲間で有名な者に幔槐・多突・吧呢𠲖・烏離爲・黎文棱がいて、みな富浪沙人である。また耶妬悲・麻怒𠲖は希波儒人である。

 幔槐は百多禄が推挙して、欽差該奇管中匡隊の地位に就いた。
 壬寅、西山軍が嘉定に攻め込むと、諸将は防戦し、七岐江に陣を敷いた。敵船は風の勢いに乗っ陣を突き、阮軍は全て撤退した。幔槐のみ西洋式の裹に銅を張った大船で力戦し、敵に四方を取り囲まれた。幔槐は脱出できないと見ると、焼身自殺した。後に効義功臣を追贈され、嘉定顕忠祠に配祀された。

 耶妬悲と麻怒𠲖も百多禄に従って軍功を挙げた。
 癸卯、呂宋に渡って援軍を求めるよう命じられ、途中で西山軍の船に遭遇し、殺された。

 多突・吧呢𠲖・黎文棱・烏離爲の四人は、百多禄に従って西から嘉定に来た。留まって臣下となることを願い出、みな該隊の地位を与えられた。
 多突は震、吧呢𠲖は勝との名を賜り、共に阮氏を賜姓された。たびたび従軍して、龍飛と鳳飛の二大船を指揮し、官職を歴任して掌奇にまで至った。明命初年、老齢のため帰国することを願い出て許可された。
 黎文棱は掌奇、烏離爲は神策軍班直後衛衛尉の地位にまで至った。

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