ナントカ堂 2020/11/22 10:38

宋太宗家臣団③

宋太宗家臣団③

 引き続き『宋史』巻二百七十六から尹憲です。


尹憲

 尹憲は并州の晋陽の人である。開宝年間(968~976)に晋王であった太宗に仕え、太宗が即位すると殿直に抜擢されて延州保安軍使となり、その後、供奉官に改められた。
 太平興国四年(979)に護府州屯兵として、鄜州の三部族と共同で嵐州を攻め、千人あまりの敵を破って、偽知嵐州事の馬延忠を捕え、黄河沿いの諸砦を攻め落とした。その功により西京作坊副使に転じた。
 朔州に攻め入り、寧武軍を破って、その軍使を殺し、人馬や武器を大量に獲得した。

 その後、夏州護軍に改められ、供備庫使に転じた。三汊義・醜奴荘・岌伽羅膩葉の十四族を殺し、その首領を誘降したため、何度もお褒めの詔書が下された。
 雍熙の初め(984)に夏州知州となると、地斤沢で李継遷が率いる軍を破った。李継遷は遁走し、四百帳あまりを捕虜とした。
 このとき「支配下に入った部族の一部を移住させて代わりに騎兵を配置し、これを平砦と号して万一の備えとするように」と進言して、許可する詔が届けられた。
 まもなく蘆関と南山の野狸族など数部族を殺したため、諸部族は乱を起こした。交替となって都に戻り、洪州巡検となって、まもなく莫州屯兵護軍に任命された。

 三年(986)、瀛州知州兼兵馬鈐轄に任命されて富州刺史を領し、東上閤門使に昇進した。
 端拱二年(989)に滄州知州となり、その後、邢州に異動となったが、どちらも鈐轄を兼任した。
 淳化の初め(990)に王文宝と同時に四方館使に任命され、鎮州屯兵護軍と定州屯兵護軍となり、貝州知州に改められて、高陽関兵馬鈐轄に異動となった。
 五年に定州知州となったが、兵馬部署の王栄とは仲が悪かった。王栄は元から粗暴で、ある時怒りに任せて尹憲を殴り倒した。尹憲は気分が悪くなり病となって、数日後に卒去した。享年六十三。


 最後に出て来る王栄は巻二百八十に伝があります。


王栄

 王栄は定州の人である。父の洪嗣は後晋に仕えて、定州の十県の遊奕使となった。王栄は若いころから膂力があり、瀛州の馬仁瑀に仕えて雑役夫となった。
 太宗が晋王の頃に機会を得て側近となり、即位すると殿前指揮使に任じられ、やや出世して本班都知・員僚直都虞候となった。
 棣州で盗賊が発生したが、州兵は捕縛することができず、王栄が討伐に向かい捕縛した。御前忠佐馬歩軍都軍頭を加えられ、懿州刺史を領した。
 秦王の廷美から慰労の宴会を受けて罪に問われ、濮州馬軍教練使として地方に出されたが、任地に赴く前に、馬仁瑀の子が「王栄は秦王の信頼する下吏と仲が良く、『私はまもなく節度使に成れるだろう』と妄言を吐いた」と告発したため、罪を問われて官籍より除名され、海島に流された。

 雍熙年間(984~987)に呼び戻されて副軍頭となり、端拱の初め(988)に員寮左右直都虞候兼都軍頭に改められ、再び懿州刺史を領した。累進して龍衛都指揮使となり、羅州団練使を領した。
 兵を率いて遂城を守っていると、敵の騎馬隊が襲来したため、撃破し、千人以上を捕虜とした。都に召されて侍衛馬軍都虞候・峰州観察使を拝命し、定州行営都部署となって地方に赴任した。
 王栄は粗暴で、その行いは道理から外れていた。勝手に官有地で野菜を作り、公銭を出し惜しみして将士の労に報いなかった。また老齢の母を引き取ろうとせず、僅かな仕送りしかしなかった。太宗はこれを聞いて怒って言った。
 「忠臣は孝子の門より出る。王栄がこのような態度で親に仕えているのであれば、追放されてからも改心しなかったのであり、側近として置いておくわけにはいかない。このままでは後晋の帝が張彦沢を取り立てて悪事を助長したことの二の舞となる。」
 即刻、詔を下して現職を罷免し、叱責してから、右驍衛大将軍の地位を与えた。

 寄班供奉官の張明が定州の護軍となり、王栄の不法行為を見つけると規律により正した。王栄はたびたび攻撃されることを嫌っていた。荘宅使の王斌も監軍として定州にいたが、以前から王栄とは仲が良く、「張明は王栄を罪に陥れようとしている」と考え、逆に張明の罪を論い報復しようとした。これを受けた太宗が枢密院に罪状を調べさせると、全て虚偽であった。太宗は怒って側近に言った。
 「張明は低い身分から身を起こし、蹴鞠を以って朕に仕え、清廉で慎み深く、同僚に対しても同様だ。罪も無く処罰するわけにはいかない。王斌は王栄と親しいため、事実を曲げて張明の罪を奏上し、処罰させようとした。不当な事で王栄を満足させようとし、朕を騙してこれからは好き勝手に振舞えるよう企てたのである。これは王栄を悪事に引き込むことでもあり、主君に対しても友に対しても誠意が足りない。国家の賞罰の権限は私すべきものではなく、将帥の職は裨校と同列に論じられるものではない。朕が張明に味方して王栄を棄てるなどと言うことはあり得ないことであり、ただ真実が知りたいのだ。」
 そして張明は慰労金を賜り、王栄は右羽林軍大将軍に昇進した。

 真宗が即位すると、獎州刺史を領し、まもなく濱州防禦使の地位を与えられ、涇原儀渭駐泊部署に昇進した。
 咸平二年(999)、真宗が北征すると、陣に召されて貝冀行営副都部署となり、真宗が都に戻ると、再び涇原に戻された。
 翌年、霊武に馬草と兵糧を贈るのを援護したが、気配りが足らず十分に見張りを出さなかったため、積石に到着すると、夜中に蕃に攻撃された。陣は大混乱となって、部隊は全滅した。法に則れば誅されるべきところ、死を免じて、官籍から除名の上で均州に流した。六年に復帰して左衛将軍となった。

 景徳の初め(1004)に権判左金吾街仗司事となった。真宗が澶淵で閲兵すると、契丹の騎兵の遊撃隊が黄河を渡って濮州の境まで来たので、王栄を黄河南岸都巡検使に任命し、鄭懐徳と共に行在から龍衛兵を指揮して契丹軍を攻撃するよう命じた。このとき既に滄州部署の荊嗣が命を受け、先に麾下を率いて淄・青に陣を張っていた。そこに王栄らを遣わして合流させ攻撃させたのである。
 二年、左神武軍大将軍に昇進し、恩州刺史を領した。郊祀の際に、左龍武軍に改められ、達州団練使を領した。
 大中祥符年間に左衛大将軍に昇進し、昌州防禦使を領した。六年(1013)に太清宮で祭祀があると、河南府駐泊都監となった。
 九年(1016)に七十歳で卒去し、子一人に官職が与えられた。
 王栄は弓矢が得意で、強弓を引き屋根に射たところ、矢が木に数寸刺さった。ここから当時の人は「王硬弓」と呼ぶようになった。


 上記を見て思うことが、太宗もなんだかんだ言って王栄に甘いような気が。あと蹴鞠の相手から登用されても、張明と高俅では史書での評価が全く異なりますね。

 さて王栄の二つ名は「王硬弓」です。他に楊業の「無敵」や姚内斌の「姚大蟲」が有名ですが、以下の人々も異名を持っています。

王彦昇:撃剣に優れていたため「王剣児」(巻二百五十)
王継勲:常に鉄鞭・鉄槊・鉄楇を用いていたため「王三鉄」(巻二百七十四)
尹継倫:顔が黒かったため「黒面大王」(巻二百七十五)
錢守俊:勇猛俊敏で以前に陂沢で盗賊をしていたため「転陂鶻」(巻二百八十)
張思鈞:太宗が「楼羅」と呼んでいたため「小楼羅」(巻二百八十)

また巻二百七十三の馬仁瑀伝には、兗州の群盜の首領の周弼が「長脚龍」と呼ばれていたとの記述があります。

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