ナントカ堂 2020/05/28 01:56

燕達と『続資治通鑑長編』

自粛期間中、私の職場は要出勤なため次回作はあまり捗りませんでしたが、昔、少し手を付けたものの焼き直しなため近いうちに出来上がります。
 では本題に戻って。


 まずは『宋史』巻三百四十九より本人の伝を見てみましょう。


 燕達、字は逢辰、開封の人。子供のころ友達と遊ぶと、軍隊のような陣形を組んだため、地元の老人は不思議がっていた。長じると立派な体格で、騎射を得意とした。武の才で禁軍に属し、後に内殿崇班に、更に延州巡検となって懐寧砦を守った。
 西夏軍三万騎が襲来し、日が暮れても勝敗がつかなかった。燕達は部下五百人だけで奮戦し、向かうところ薙ぎ払っていった。
 フ延都監に抜擢され、何度も兵を率いて敵領深くに攻め入り、九回戦って全て勝利し帰還した。
 宋軍がラ兀の地を放棄すると、守備兵と物資を引き揚げる援護をするよう燕達が遣わされた。西夏軍が待ち構えていて、戦いながら撤退し、損失が大きかった。燕達が孤軍であったため、敵に遭遇して少なからず損害が出たことを神宗は責めず、燕達は累進して西上閣門使となり、英州刺史を領して秦鳳副総管となった。
 河州羌を打ち破り、木征を下して、東上閣門・副都総管に昇進し、忠州刺史・龍神衛四廂都指揮使を真拝した。
 郭逵が安南に遠征すると、燕達は行営馬歩軍副都総管となった。出発前の挨拶に行くと、神宗はこう言った。
 「卿は既に高い地位に在り、自ら矢の飛び交う前線に立つ必要は無い。ただ将土を激励すればよい。」
 燕達は頓首すると謝して言った。
 「臣は陛下の威光を借りて賊を滅ぼすだけです。死をも厭いません。」
 安南との境の嶺を越えると、先鋒が敵に遭遇して苦戦しているとの報せが入った。救援に向かおうとすると、ある将校が「安全を確保してから進軍すべきです」と進言した。燕達は「先鋒は既に危機に瀕している。自分の安全など考えていられようか」と言い、「敢えて陣に留まろうと言う者は斬る」と命じた。そして鎧を身に着け急行した。兵士全員が奮い立ち、「太尉(燕達)が来た」との声が聞こえると、安南軍は驚き潰走した。こうして広源は平定された。
 富良江に到着すると、安南軍は南岸に軍船を展開しており、戦いを仕掛けようとしても乗らなかった。燕達は黙ってこう計略を立てた。
 「兵法では主導権を握ることを重視する。我が軍が弱いように装えば、敵は必ずや攻めて来るだろう」
 作戦を実行すると果たして安南軍は襲来し、宋軍はこれを大いに打ち破った。安南軍は降伏し、凱旋すると、栄州防禦使を拝命した。
 損害が大きかったため主将の郭逵が処罰され、自分だけが恩賞を与えられたことに対し、燕達は同じく処罰されるよう求めたが、却下された。
 元豊年間に金州観察使に昇進し、歩軍都虞候を加えられ、その後、馬軍に改められて、副都指揮使に昇進した。燕達は兵を訓練して規律正しい精鋭とし、一子に閣門祗候の地位が与えられた。何度もお褒めの詔が下され、殿前副都指揮使・武康軍節度使に昇進した。
 哲宗が即すると殿前都指揮使に昇進して武信軍に異動となった。卒去すると開府儀同三司を追贈され、毅敏と諡された。
 燕達は一兵卒から身を起こし、読書を好み、その忠義心により神宗から信頼された。拝謁すると常に神宗の意に適った。
 あるとき「用兵にはまず何を優先すべきか」と尋ねられて、「愛が最も重要です。」と答えた。そこで神宗は「威はその愛に勝てるか。」と聞くと、燕達は答えた。「威も用いることはありますが、愛は無くてはなりません。そこで優先すべきとしたのです。」神宗はこれをよしとした。


 これは『東都事略』もほぼ同じなので『宋史』はこれをもとに少し直したのでしょう。
 これ以外に『宋会要輯稿』方域十五に黄河の治水工事を行ったことが見えますが、『続資治通鑑長編』巻三百五十二の注記にはこのような記述があります。


 元豊八年、神宗の病状が悪化した。蔡確の母が宮中に来たため、皇后はこれに蔡確を説得させ、外部では主兵官の燕達らを頼って皇太子を助け擁立させた。
 神宗が崩御すると、燕達は内東門に宿衛した。百官が朝礼に集まると、燕達は垂拱殿から入り、皇族・親王は内東門から入った。
 燕達はある人に言った。
 「天子が新たに即位した。私が武装してここにいるのは不測の事態に備えての事だ。万一、奸人が皇族と共に宮中に入り不測の事態を興せば、人々はどちらが正しいか分からなくなる。」
 燕達が入って上奏しようとすると、ある人がこう言って引き留めた。
 「皇族の事について言ってはならない。言えば罪に問われるかもしれない」
 燕達は言った。
 「私は先帝より大恩を蒙り、抜擢されて常に先頭に立っていた。言うべきことを言えば死んでも悔いは無い。」
 そして遂に奏上した。大臣らはこれを嘉し感嘆した。


 この箇所について注記には「蔡確が断罪されたため、朝廷では遡って功績を取り消した。燕達の力を借りて哲宗を擁立した件も削除されていたが、紹興年間の史官が考証して注としてここに入れた」との旨が記されています。
 『東都事略』の著者が作成中に参照できなかったのかもしれませんが、あるいは低い地位から叩き上げた武官の燕達が、哲宗即位に重要な働きをしたことを好ましく思わず、故意に書き漏らしたのかもしれません。

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