ナントカ堂 2019/12/17 19:45

洪彦博と洪倫

前回に引き続き洪彦博と洪倫です。


洪彦博(『高麗史』巻百十一)

 洪彦博、字は仲容、南陽府院君の洪奎の孫である。幼い頃から読書を好み文を得意とした。忠粛王の十七年に科挙に受かって王から厩馬一匹を賜った。
 (中略)
 奇轍を誅した功一等とされて十年に門下侍中となった。
 紅巾賊が都に迫ると、衆議は避難することに決したが、洪彦博だけは反対し、民と共に戦うよう王に進言した。まもなく西から、高麗軍が敗れたとの報せが入り、王は南に避難して、洪彦博はこれに従った。
 翌年、都を取り戻したが、その勝利には洪彦博の作戦による所が大であった。判密直事の宋卿が洪彦博に言った。「民は永い間、貴公が再び相となることを望んでいます。今の首相は何もできず、去年、賊が都を攻め落としたため天下の笑いものになっています。ご決断ください。今や貴公の子が府兵を握り、婿が監察の長となり、富貴は既に窮まって、国家に憂いは在りません。」洪彦博はこれを憚り、宋卿を罷免した。
 行宮では金銀が乏しくなっていたが、王は浪費していた。洪彦博が倹約するよう進言すると、王は洪彦博を凝視して何も答えなかった。洪彦博は退出すると言った。「言っても聞き入れられないなら放言も同然だ。」これを聞いた李斉賢は言った。「私が相であったときも常にそうであった。王の力となれなかったのが惜しまれる。」
 王は江華に遷都しようと、開泰寺の太祖真殿にて占わせた。人々は騒然とした。太后洪氏は洪彦博の伯母であったが、洪彦博と直接会ってこう責めた。「汝は外戚の権力者として冢宰の地位に在り内外に人望がある。今、王は遷都しようとしているが国中の人が望んでいない。汝はどうして諌めないのか。」洪彦博が諌言すると、王は言った。「私が決めるのではなく、占いにより決まるのだ」果たして不吉と出て、国中の人が喜んだ。
 (中略)
 十二年、王が都に戻ることになったが、出発が滞った。洪彦博が「準備は整っています。もし延期すれば農業の妨げになります。」と言うと、王は従った。紅巾乱入後、祭祀が乱れ孔子廟の祭祀も途絶えて祀られていなかった。成均の十二人が復活を求めたが、洪彦博は、内外多事であるのを理由に却下した。
 興王の変が起こると、子の洪師範が人を遣わし、避難するようにと伝えた。まだ朝早く、洪彦博は妾と寝所にいたが、これを聞くと自若として「食事をしてから避難しよう」と言い、粥を作らせた。賊の一党が洪彦博の家の門前に迫ると、門客が「賊は迫っているのにまだ起きないのですか。」と言った。門前に来た賊が「帝の命を持ってきた、出迎えよ。」と言い、家人が「賊は門前にいます。速やかに避難すべきです。」と言った。洪彦博は「賊と会って理由を問い質そう」と言い、遂に避難しなかった。子と妻が避難を勧めても拒み「首相となった者で死を恐れて逃げた者はいない。」と言うと、おもむろに衣冠を正し門外に出て「汝は賊であろう。何ゆえ帝の命と称すのか。」と言った。賊は洪彦博を斬り、血は屋根まで飛び散った。享年五十五。賊の中に興王がいて、洪彦博が死んだと知ると皆で万歳を唱えた。文正と諡され、礼を以って埋葬された。
 子は師普・師範・師禹・師エン(王に爰)である。
 師普は判閣門事となったが、子の寬の弑逆に連座して誅された。
 師範は知密直司事となり、大都に使者に行って帰りに風に遭い溺死した。恭愍王はこれを悼み特別に諡を賜った。

 洪師禹は恭愍王の時代に慶尚道都巡問使となって合浦に鎮守した。清廉で慎み深かったため、守から吏民まで畏愛した。倭寇が亀山県の三日浦に攻め込みと、洪師禹は行って撃破した。追撃すると賊は山に登ったため、洪師禹は四方から攻めて殲滅した。
 後に全羅道都巡問使となったが、子の洪倫の弑逆により杖で打たれた上で遠方に流され、まもなく遣わされた崔仁哲により、子の洪彝と共に陜州にて絞殺された。
 殺される直前、洪彝は泣いて崔仁哲に言った。「私は誅して父は赦してほしい。」洪師禹は言った。「私は既に老いている。老夫を誅しわが子を赦すよう願う。」そして「私は多くの倭寇を討ったが、その功は何にもならなかった。」と嘆くと父子相携えて死んだ。人々は皆これを惜しみ、全羅と慶尚の民は涙した。

 師エンは典書となった。

洪倫(『高麗史』巻百三十一/叛逆五)

 洪倫は南陽の人で侍中の彦博の孫である。
 恭愍王が美少年を選んで子弟衛を置くと、洪倫は韓安・権シン(王に晋)・洪寬・盧セン(王に宣)らと共に属し、淫猥を以って寵愛された。洪倫らは常に禁中に宿直し、一年中沐浴の休みを取ることもなかった。
 王は、洪倫らを諸妃嬪に通じさせて子を産ませ、跡継ぎにすることを望んだ。こうして益妃が身ごもった。
 宦官の崔万生が王に付き従って厠に行ったとき、密かに「臣が益妃の元に行くと、既に妊娠五ヶ月であると聞きました。」と報せた。王は「私は子ができないことで悩まされたが、もはや何の憂いも無い」と喜び、誰の子かと尋ねると、崔万生は「妃は洪倫の子と言いました。」と答えた。王は言った。「明朝、昌陵に拝謁し、偽って酒を飲ませて洪倫らを殺し口封じをしよう。汝もこの謀を知ったからには死んでもらう。」崔万生は懼れ、洪倫安らと共に謀議した。
 その夜の三更に寝所に入ると、王は大いに酔っていた。崔万生が自ら剣で頭を撃ち、脳髄は壁に飛び散った。そこへ権シン・洪寬・盧センらが滅多打ちにした。金興慶・尹セン・尹可観がこれを知り「賊が外から来た」と叫んだので、衛士は股慄して敢えて動かなかった。宰相以下多くが変事を聞いたが誰も駆けつけなかった。宦官の李剛達は寝所に入り血だらけの様子を見ると、「主上はまだお休みになっていない」と偽り、門を閉鎖して出入りを禁じた。夜が明けて太后が来たが、王の死を発表せず、百官も侍衛もいつも通りに勤務した。
 李剛達は王命として慶復興・李仁任・安師琦らを招集し、逆賊討伐を密議した。僧の神照が常に禁中にいて力も知略もあったため、李仁任は、神照が瀋王の子の脱脱帖木児と通謀して乱を起こしたと考え、牢に入れた。
 その後、崔万生の服に血痕があったため、捕らえて巡衛府で尋問すると、崔万生は全て白状した。洪倫らも尋問され、韓安と盧センは罪を認めなかったが、洪倫らの自白で罪は確定した。
 (中略)
 百官が市に会し、洪倫と崔万生は車裂き、韓安・権シン・洪寬・盧センとその子は斬罪となり、全員梟首となった。
(以下略)

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