李暠(大寧都指揮僉事)
まず先に話しを整理するために説明しますと、明代の官制では、都指揮使司(都司)の下にいくつもの衛があり、都指揮使が正二品、都指揮同知が従二品、都指揮僉事が正三品、衛の指揮使が正三品で、李暠は保定衛指揮使から大寧都都司に出向して都指揮僉事を務めています。
『万暦野獲編』補遺三「武弁之橫」に
正統十三年(1448)、大寧都指揮僉事の李暠は、道で祁州知州の李玉に遭遇し、道を避けなかったとして李玉を鞭打った。これを巡按御史の段信が弾劾した。当時の都司の横暴はかくの如し。
とあり、知州が従五品の格下とはいえ、そこそこの地位であり、文官が武官に軽んじられていた一例として挙げられています。(『明代衛所武官世襲制度研究』p.438)
ところで『万暦野獲編』には弾劾されたとのみあって、処罰されたとは記されていません。『明実録』を見ると、正統十三年十二月十五日に段信の意見通りに処罰されたとありますが、処罰内容は不明。
『明実録』の他の箇所を見ると、景泰元年(1450)二月八日に「太寧都司都指揮僉事の李暠の弟の李雄に指揮使を継がせた。」とあり、この時まだ都指揮僉事の地位に在って、事件後すぐに赦されたようです。
また『明実録』天順七年(1463)四月十五日に「故大寧都司都指揮僉事の李暠の子の李洪に保定中衛指揮使を継がせた。」とあって、ここで李暠が死ぬまで都指揮僉事を務めていたことと、もとは保定中衛指揮使であったことが分かるのですが、宣徳二年(1427)正月二十九日にこのような記事があります。
行在兵部の奏上。
「保安衛指揮使の李暠と指揮同知の聶垣を兵糧米徴収の際に横領しました。降格すべきです。」
帝が言った。
「朕が思うに、武人が官職に就いて職務を全うするのは大変難しい。過誤があった場合には怒りを抑えて赦すべきである。ただ今回の李暠の所業は、自らの功を恃んで許容されると思いやった事であろう。小事のうちに戒めれば大事を○すこと無く、小人にとっての福となろう。そこで法に則り降格とするように。」
多分、洪武帝の時代なら結構厳しい処分になっていたと思いますが、ここらの時代だと甘いなと思います。