『全訳南詔野史』関連(3)
前回、哈国賢が土官かどうか疑わしいと書きましたが、一応よそから来た回回人でも土官になっている例はあるので考え所です。
『土官底簿』のうち雲南分だけ確認しましたが
例えば「彌沙井巡検司巡検」
初代の名が哈只。これはイスラムのハッジ巡礼者の尊称で、一応は本州の民とありますが、恐らくは元代に来て、明軍が来たときには土地になじんでいたのでそう記されているのでしょう
続いて「樣備巡検司巡検」
初代が馬回回定と記されていますがこれは多分回回の馬定の意で、子が哈麻で孫が沙保とイスラム風。馬姓も恐らくは鄭和の家と同じくマホメットの子孫ということでしょう
次に「赤水鵬巡検司土官巡検」
初代が馬速魯麻でその父が阿剌馬丹。明軍が攻め入ったとき通事を務め招諭を行った功績として土官の地位を与えられています。
続いて「永寧府知府」
「卜都各吉は瀾滄衛の西番人で先祖は本州の土官である。」とあって、西番人がここに来て土着したことがはっきりと分かります。
最後に「永平県県丞」
「馬鎖飛は雲南金歯軍民指揮使司永平県の回回人で本県の通事であったものが洪武十二年帰附し本県土官県丞とされた。」とあってこれも明確な回回人です。
回回人とは別に『土官底簿』を見ていくと、道案内をしたから登用されて土官になったとか、義兵を集めて明軍に協力したので土官の地位を授けられたとか記されていて、元代までは平民であった者が好機を捕らえて土官となった事例が散見される一方、「大理叢書・金石篇」に見られるように、有史以来の名門の九隆族の人々が処士になっているパターンが多く見られます。