ナントカ堂 2017/03/27 00:05

文天祥の一族

私事で躓くことがありまして
申し訳ありませんが次回作は五月ごろになります

代わりと言っては何ですが今回は小話を

wikiの「文徴明」の項に「文天祥を祖に持つ名門の出身で」とありますが、その文集である『甫田集』の巻二十六の「先君行略」にこうあります


文氏は姫姓の末裔で、前漢の成都太守の文翁から蜀の名族となった。後唐の荘宗の帳前指使軽車都尉の文時が成都から廬陵に移り、その十一代目の子孫が宋の宣教郎の文宝と丞相の文天祥である。文宝は衡州教授となり、子孫はこれを機に衡山に住んだ。元代の文俊卿は鎮遠大将軍・湖広管軍都元帥となり金虎符を佩びて武昌に鎮守し、六人の子を成した。長子の文定開は洪武帝の陳友諒討伐に従軍して添龍という名を賜り、功により荊州左護衛千戸となった。次子の定聰は洪武帝の近侍として散騎舎人となった。


文天祥が直接の先祖ではないのですがそれは置いておいて、ここで気になるのが文宝がかなり高い地位にあるということです
陳自中という人物がいました
兄は南宋最後の宰相である陳宜中で、弟の陳自中は大都督行軍司馬となり、兄弟共に南宋復興運動に従事し、兄は南方で援軍を得るために奔走しているうちに行方知れずになり、弟は最後まで元軍と戦うも孤立無援となって自害しました
クビライはこれを高く評価して陳自中の子である陳萍を取り立て、陳萍本人も才能があったことで正一品という最高の官職に就けられました
http://www.eurasianhistory.com/data/articles/a02/2036.html
文俊卿のこの高い地位も同様に文天祥に対するクビライの評価によるものでしょう
また陳萍や文俊卿の登用からも、南人だからといって登用されなかったのではなく、ただ単に江南の儒者たちが役立たずとみなされて登用されなかっただけと思われます

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