ナントカ堂 2015/11/14 08:11

孔氏南北宗

北に金、南に南宋が成立して以来150年以上に渡り中国は南北に分裂しましたが、このとき衍聖公の家も北宗と南宗に分裂しました。

系図はこれをご覧下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/孔子世家嫡流系図

北宋の仁宗の至和二年(1055)に文宣公から現在用いられている衍聖公に改められ、初代が孔宗願、二代目がその長子の孔若蒙が継ぎ、第三代目を、崇寧元年(1102)に孔若蒙の長子の孔端友が継ぎました。
その二十四年後、靖康の変が起こり、華北の地は金に占領されました。
この時点では曲阜までは戦火が及ばず平穏に過ごしましたが、建炎二年(1128年)十一月、高宗が揚州で即位式を挙げ、これに孔端友が出席して正当性を与えると、これへの報復として金が曲阜を攻撃しました。
このとき孔端友は孔子の木像を初めとする累代の家宝を持って江南に逃れ、後に浙江の衢州に居を定め、ここに「孔氏南宗」が成立します。
これに対して斉を成立させた劉予は正統性の保障として阜昌二年(1132)に曲阜に残って祭祀を行っていた孔端友の弟の孔端操を衍聖公に封じ、ここに「孔氏北宗」が成立します。

「孔氏北宗」を追って行くと、長子が亡くなったので次子の孔ハン(玉偏に番)が継ぎ、孔ハンの次に子の孔拯、次が孔拯の弟の孔摠、その後を孔摠の子の孔元措が継ぎました。
この孔元措の代に金が壊滅して南宋が嘉定十七年(1224)に一時的に山東を取り戻して曲阜を占領。孔元措を廃して、孔宗願の三男の孔若愚の子孫である孔元用を曲阜の衍聖公として擁立します。しかし翌年には宋軍はモンゴルに追い払われ、孔元用は宋軍に付き従って逃亡、再び孔元措が衍聖公に返り咲きました。
孔元措には子が無く、弟の孫に当たる孔トウ(サンズイに貞)が元の憲宗元年(1251)これを継ぎました。
後述しますがこの孔トウの代に南宋が滅亡し(1297)、南宗を北宗が取り込みました。ただしこの代で問題が起きました。
孔トウの父は孔之固で、正妻の任氏との間に子供が無く、孔トウは農民の娘との子でした。孔トウが生まれてまもなく孔之固は死に、任氏は側室を家から追い出し、李姓の奴○と再婚させたので孔トウは幼い頃李姓を名乗っていました。これを孔元措が呼び寄せて跡継ぎとしたわけですが、これに対して、先に宋の傀儡として立てられ追い出された孔元用の子の孔之全と孫の孔治が任氏と結びついて、孔トウは孔之固の実子ではなく李氏の子であると訴えました。こうして孔トウは元貞元年(1295)に地位を追われ、孔治が衍聖公となりました。孔トウの失脚はクビライが崩御しテムルの代になって起こった事件であり、この手の異議申し立てなら若い頃からあったと思われ、四十三年間大過なく務めてきたものがいきなり地位を追われたということは、皇帝代替わりの影響でしょう。
孔治の後は子の孔思誠が継ぎましたが、一族の中から、孔思誠は嫡系の子孫では無いとの訴えがあり、アユルバルワダが審査した結果、孔思誠が廃されて孔思晦が衍聖公となりました。
その後、孔思晦の子の孔克堅、孔克堅の子の孔希学と続きました。この孔希学は、モンゴル帝国初期の武将で四駿の1人であるチラウンの子孫の月魯不花の娘を妻として、モンゴル人と深く結びついていました。
明朝が成立すると、孔克堅は仮病を使って孔希学を代わりに挨拶に行かせましたが、洪武帝から「称疾則不可(仮病を使うな)」とストレートに言われたので、それ以上言い逃れが出来ず、挨拶に出向いて地位を安堵され、以後この系統が衍聖公を継いでいくこととなります。

次に「孔氏南宗」
曲阜で祭祀を行えないとはいえ、孔家累代の家宝を持ち北宋の頃から衍聖公であった孔端友にはかなり正当性がありました。ただこれに跡継ぎが無く、孔端操の四男の孔カイ(玉偏に介)が兄が跡継ぎになったため南に流れてきたので、これを跡継ぎにしました。その後は代々子が跡を継いで、孔洙の代に至り、ここで南宋が滅びます。
その際、クビライが孔洙に曲阜に戻って衍聖公になるよう勧めました。これに対して孔洙は、衢州には先祖代々の墓があるので離れがたいとしてこれを断りました。栄誉よりも先祖を取ったことに感心したクビライは、孔洙に国子祭酒の地位を与えました。統一中国において孔洙が辞退したことにより、ここに北宗が唯一正統な衍聖公となり、南宗は傍系となりました。これより南宗は衰退して行き、士大夫としての体面すら保てなくなるほど窮乏したので、これを見かねた衢州知府の沈傑が弘治十八年(1505)に奏上して、以後この家系の当主は正八品・翰林院五経博士を世襲する恩典を与えられ、清末にまで至ります。

明代においてこの傾いた家運を再び起こそうとしたのが、孔克仁と孔貞運です。孔貞運についてはwikiに記事があるので割愛して、孔克仁について簡単に。
孔克仁は『明史』巻百三十五に伝のある人物で、洪武帝の参謀の一人でした。
陳友諒を滅ぼした勢いでそのまま中原に攻め込もうとする洪武帝に対して、まずは兵の訓練と屯田による兵糧の確保を進言しました。その後、これが達成されて再び中原出兵が議論となると、「中原では道路が断裂しているので、孛羅帖木児や拡廓帖木児らにしばらく争わせておき、先に張士誠を滅ぼして国力を増強すべし」と進言しました。その後もたびたび助言し、天下が平定されると、功臣の子弟の教育を任され、その後、中央と地方の官職を歴任しましたが、後に粛清に遭い処刑されました。

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