ナントカ堂 2015/01/02 14:14

崇禎帝の最後(下)

崇禎帝はこのような人物であり、見捨てられても仕方の無い人物ですが、それでもなお明朝には忠義者がいました。



王承恩は先にも書いたとおり京城の内外を指揮していましたが、ここに『明史』巻百九十三より、王承恩の伝を訳します。



王承恩は太監の曹化淳名の部下で、累進して司礼秉筆太監となった。崇禎十七年三月、李自成が宮城に迫ったので、帝は王承恩に京営の統括を命じた。このとき、すでに明の命運は尽きており、守備兵はわずかしか残っていなかった。賊は西直・平則・徳勝の三門から飛梯を架けて攻め寄せた。王承恩は、賊が城壁を壊そうとしているのを見て、急ぎ鉄砲を連射し、続けざまに数人を倒した。しかし各部署から自分を守ろうと少しずつ兵が逃げ出していた。帝は王承恩を召すと、速やかに宦官を集めて親征するための準備をするよう命じた。夜仲に内城が落ち、夜が明けようとするころ、帝は寿皇亭で崩御した。そこで王承恩はその下で自ら首を吊った。福王のときに忠愍と諡され、清朝になると六十畝の土地を賜り、その忠義を顕彰する祠が建てられ、亡き主君の陵の側に埋葬された。



王承恩は宮城守備の指揮官で、崇禎帝の命により逃げる準備を進めていたところ、事態が急転して逃げ切れないと思った崇禎帝は一人で自害。これを朝になって見つけた王承恩が後を追って自害ということで、世に言う話とは少々異なります。

では崇禎帝が招集をかけたのに重臣が来なかったという話はと言えば



李自成が宣府を攻め落とし、戦火は都にまで迫ってきた。帝に南へ行幸するよう勧めようと言う者がいて、閣議が行われた。范景文は「人心を結束させるためには都を堅守して援軍を待つだけです。この他の手立てを臣は知りません。」と言った。都城が陥落すると、范景文は宮門に駆けつけたが、そこの宮人に「陛下の一行は出発されました。」と言った。そこで重臣たちの集まる建物へ向かおうとしたところ、すでに賊に道を塞がれていた。従者が、服を変えて邸宅に戻るべきだと進言すると、范景文は「陛下の一行が出発してしまったのだ。私にどこに帰れと言うのか?」と言い、道の傍らにあった廟に遺言を書き残し、さらに「わが身は大臣でありながら、賊を滅ぼして恥を雪ぐこともできず、死して心残りあり。」と大書し、演象所まで来ると陵墓を遥拝して辞し、双塔寺の傍らの古井戸で死んだ。范景文は死んだときでもなお、崇禎帝が南へ行幸したと思っていたのである。(『明史』巻二百六十五「范景文伝」)



これは工部尚書の范景文の伝ですが、通常でも北京は広大で宮廷に駆けつけるのも距離があり、そこへ李自成軍が入って交通は分断され、宮門に行っても情報は錯綜しており、また崇禎帝自身が重臣を遠ざけるようにしていたので、万一のときには側仕えの宦官はすぐに来れても、重臣はなかなか駆けつけられなかったのです。ただ、この『明史』巻二百六十五は崇禎帝に殉じた人のうち主だった人を載せており、他にも地方にあって勤皇のために戦った人も多く、決して明朝は不忠者揃いとはいえません。


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