ナントカ堂 2015/01/02 14:07

崇禎帝の最後(上)


崇禎帝の最後は

崇禎帝が重臣を緊急招集したが、既に人心が離れて誰も参集せず、宦官の王承恩ただ一人がはせ参じただけであったので、絶望して、王承恩を従えて山に行き、首を吊って自殺した。

という話が流布していますが、これは大筋では合っていますが細部は面白く作った講談の話です。



確かに崇禎帝は仕え甲斐の無い暗君です。



袁崇煥を殺したのは良く知られるところですが
陳新甲がせっかく清と和議をまとめたのに、これが政争の具になったとき、陳新甲が昔の功績をもって反対派を黙らせようとしたところ、崇禎帝はこれに腹を立てて殺してしまい、清との最後の和睦の機会が失われました。



『崇禎実録』巻十五の崇禎十五年七月丁丑条の皇貴妃田氏の薨伝に



帝が武英殿で半月斎戒したときのこと、にわかに後宮に行きたいと思ったが、皇貴妃田氏はこれを断った。そこで太監の曹化淳は江南の歌姫数人を進上したので、曹化淳は大いに目を掛けられるようになった。妃は帝にこれを強く諌めた。



とあります。崇禎帝はこのように人に取り入ることしかできない人物(宦官なのでそれが本分であり、後宮の仕事だけしている分にはそれで良いのですが)を寵遇して後に首都防衛の一方の軍の指揮官にしてしまいました。




同じく『崇禎実録』巻十五の崇禎十五年九月戊子条には



帝が良家の娘を採って九嬪に当てるよう命じた。給事中の光時亨が賊が平定されたから行うよう求めたので、帝は中止するよう命じた。



とあります。このときすでに李自成に各地を攻め落とされているのですから、そんなことくらい光時亨に言われるまでも無く分かりそうなものを一体何を考えているのやら。



崇禎帝が宦官を重用したことは『明史紀事本末』には巻七十四を「宦侍誤国」として一巻を使って非難しています。
その主な事項だけを取り上げると



崇禎二年:司礼監太監の沈良佐と内官太監の呂直を九門と皇城門の指揮官、司礼太監の李鳳翔を忠勇営と京営の指揮官に任命。



四年:太監の張彝憲に戸部と工部の金銭と食糧を統括させ、唐文征に京営の軍政を任せた。王坤を宣府、劉文忠を大同、劉允中を山西に行かせ、兵糧の供給を監督させた。
工部郎中の孫肇興が張彝憲の不正を弾劾。崇禎帝は怒って孫肇興を罷免。



五年:工部右侍郎の高弘図が、もともとの長官と監督の宦官と二系統から指示があって現場が混乱するので是正を進言。高弘図を追放して再び官職に就けないようにした。
司礼監太監の曹化淳に京営の軍政を任せた。
南京礼部主事の周ヒョウが宦官の弊害を告発。周ヒョウを追放して再び官職に就けないようにした。
司礼右少監の劉労誉に九門の警備を指揮させた。



六年:大学士の周延儒と左副都御史の王志道が王坤の不正を弾劾。両名を追放。
太監の陳大金・閻思印・謝文挙・孫茂霖を各鎮所に派遣。知県がその収奪に苦しみ自殺。



七年:太監の曹化淳に世襲錦衣衛千戸、袁礼・楊進朝・盧志徳に百戸の地位を与え褒美を賜る。
司礼監太監の張従仁を内官監として九門警備を任せる。
中軍の張元亨と崔良用を西寧に派遣して軍の監督と馬の交易を行わせた。総理戸工二部司礼太監の張彝憲を司礼監提督とした。
乾清宮太監の馬雲程に京営の軍政を任せた。南京守備太監の胡承詔と張応朝を呼び戻し、司礼太監の梁洪泰と内官太監の張応乾に共同で南京を守備させた。
太監の高起潜の弟を蔭位として世襲の錦衣衛中所正千戸を授けた。

九年:司礼太監の曹化淳に裁判を任せた。
清軍が居庸関まで来たので、中軍の李国輔に紫荊関、許進忠に倒馬関、張元亨に龍門関、崔良用に固関を守らせ、勇衛営太監の孫維武と劉元斌に馬水沿岸を守らせた。
司礼太監の魏国徴に天寿山を守らせ、まもなく。魏国徴を宣府の総大将とし、昌平京営御馬太監の鄧良輔と共同で守備させた。太監の鄧希詔に中酉二協を監視させ、太監の杜勲とともに守備させた。
崇禎帝が閣臣に「宦官はすぐに出発するが、兵部右侍郎は三日経っても出発しない。これでどうして朕が宦官を用いることに異議を挟むのか。」と言った。
司礼太監の盧維寧が天津・通州・臨清・徳州の総大将となり、中軍太監の孫茂霖と共同で守備した。
崔秉徳が援軍を求めたが、総監の高起潜水は進軍せず、清軍が通り過ぎてから進んだ。
司礼監太監の孫象賢を南京に派遣して、張彝憲と共同で守備させた。
都を守った功績として、太監の張国元と曹化淳の親族に世襲の指揮僉事を賜った。(虚偽の報告による)
太監の劉元斌の親族に錦衣衛百戸を授けた。御馬太監の陳貴に大同・山西の総大将として、牛文炳と共同で守備するよう命じた。御馬太監の王夢弼が鄭良輔と共同で宣府と昌平を守備することなった。
曹化淳に後軍都督府左都督を加え、世襲の錦衣衛指揮僉事を授けた。
御馬太監の李名臣に京営巡捕を統括させ、王之俊をその副とした。司礼太監の曹化淳に東廠を統括させた。分守津・通・臨・徳総理太監の楊顕らを収奪のひどさのため捕らえられ家産を没収された。



十年:司礼太監の曹化淳、杜勲らに京営を指揮させ、孫茂霖に薊鎮中西三協を鎮守させ、鄭良輔を総理京城巡捕とした。



十一年:御馬太監の辺永清に薊鎮西協を守備させた。

十二年:東廠太監の王之心と曹化淳の親族に錦衣衛百戸を授けた。
司礼太監の張栄に九門を警備させ、王裕民に京営を指揮させた。朝廷の人士が午門と端門を通るときには宦官に挨拶することとなった。
内官監太監の杜秩亨に九門警護を指揮させた。



十五年:司礼太監の斉本正を東廠の長官、王承恩を勇衛営の指揮官とした。



十六年:内官監太監の王之俊に京城の巡捕と練兵を統括させた。
司礼太監の王承恩に京営の軍政を任せ、韓賛周に南京を守備させた。
前大学士の周延儒が追放されてもなお宦官を弾劾したため、帝の怒りを買って自害を命じられた。



十七年:李自成が宣府を攻めたので、太監の杜勲がこれを迎え入れて降伏した。李自成が居庸関に来ると、太監の杜之秩が出迎えて降伏した。司礼太監の王承恩は京城の内外を指揮して、前太監の曹化淳らを呼び出し諸門を分担して守備させた。
太監の杜勲が城壁に登って、守備兵に向かって、降伏すれば富貴は思いのままであると降伏を呼びかけた。
太監の曹化淳が開門して降り、崇禎帝は自殺。



曹化淳を初めとして崇禎帝お気に入りの宦官は、永楽帝のころの宦官とは違い、実戦経験の無い者たちなので、戦えと言う方が無茶な話であり、重臣を粛清しておきながらこれらを重用するとは滅ぶべくして滅んだようなものです。


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