ナントカ堂 2015/01/02 13:55

方孝孺の話が出たので疑問を少々


方孝孺関連の話はどこまで信用していいのやら。

方孝孺の書いたものは処分されたといわれていますが、今現在、浙江古籍出版社から『方孝孺集』が出されており、活字にして1024ページ、およそ厳しく取り締まられていたとは思われません。



『明史』巻百四十一の「方孝孺伝」を見ると、方孝孺一家は妻の鄭氏と中憲・中愈の二人の息子が首を吊って死に、二人の娘が秦淮河に身を投げて死んだとあるので、どうやら身柄を拘束されていたわけではなさそうです。
また父の克勤の弟の克家の子である孝復が、すでに別件で処罰されて慶遠衛の守備兵として流されており、軍籍にあったので連座を免れたと記されていますが、十族皆殺しなのに従兄弟がいるかどうかを漏らすのもおかしな話で、また、万暦十三年に方孝孺に連座して辺境の兵として流された者の子孫千三百人あまりを赦免した。ともありますが、「滅十族」ならこの人たちは何か?という話です。「族滅」ではありませんが、「夷滅」という言葉、『史記』「呂后本紀」に「今皆已夷滅諸呂」との語句があり、呂氏を一人残らず殺したという意味です。『国朝献徴録』巻六十八の胡閏の伝に「宗族夷滅謫戌者甚衆」との文があります。宗族を「夷滅」したのに多くの者が辺境の兵として流されるというのは、およそ明代では「夷滅」が宗族を解体してしまうことを指すと思われ、飛躍といわれそうですが、「族滅」もおそらくはそのような意味で使われていた気がします。だからすでに宗族の絆から切り離されていた孝復には何ら処分が無かったのではないでしょうか。

明代の粛清は酷だったといわれます。確かに、大乱まで起こっていながら大友皇子の子の葛野王や藤原仲麻呂の兄弟が配流もされずに官人になっている日本と比べれば酷過ぎでしょう。ただ数万人が死罪になったとなるとその記述がちょっと大げさな気がします。



ここで代表的な粛清事件の胡惟庸の獄について見てみましょう。




『明史紀事本末』巻十三には



「磔於市。並其党御史大夫陳寧、中丞ト(さんずいに余)節等皆伏誅、僚属党与凡万五千人、株連甚衆。」(訳:(胡惟庸が)市で磔となり、同時にその一党である御史大夫の陳寧や中丞のト節らはみな誅された。部下や関与した者はおよそ一万五千人、芋づる式に連座した者ははなはだ多かった。
陳寧やト節らが誅されたことと連座者が多かったことは、一旦途中で切れていて別々の内容です。陳寧らは誅されましたが、一万五千人は処罰されたのでしょうが殺したのかどうかはここだけでは不明です。それが『明史』の巻三百八「胡惟庸伝」になると
「帝発怒、粛清逆党、詞所連及坐誅者三万余人。」と、人数が倍になります。その上、「詞所」つまり「『連座者と誅された者が三万人あまり』と記されている。」ということで、『明史』を書いた人間が、とある本に書いてあるとして責任逃れのような書き方をしています。恐らくは、清朝が初期に多く殺しすぎたので、「なんだ、明朝だって多く殺してるじゃないか。」と思わせるために、なるべく悪く書いてある記述を採用させ、史官がいやいや書いたのでこのような記述になったのではないでしょうか。『明史』巻百二十七の「李善長伝」に、太祖自ら筆を取って李善長の罪を列挙した詔を作成したとありますが、『明史』よりも史料価値の高い万暦年間成立の『皇明異典述』の「誅公侯二特詔」には、「明朝では藍玉のような勲臣・大将を誅するに、詔により天下に示したことは無く、詔を頒布したのは、忠国公の石亨と太傅・咸寧侯の仇鸞だけである。」とあります。これなどは後世の例から見て、太祖の頃も同じだったのだろうと考えて作ったことでしょう。

『明史紀事本末』巻十三に洪武二十三年に逆賊として天下にその名を公布された人が挙げられていますがそれは



李善長、胡美、唐勝宗、陸仲亨、費聚、顧時、陳徳、華雲龍、王志、楊璟、朱亮祖、梅思祖、陸聚、金朝興、黄彬、薛顕、毛驤、陳万亮、耿忠、于琥。



です。

これらのうち、胡美は後宮に勝手に出入りして乱していた人物で、これは処刑されても仕方ないかと思われます。毛驤は錦衣衛の長官で、部下で次の長官となった蒋カンに陥れられたのでしょう。唐勝宗は後に無罪が分かり、太祖が廟を建てましたが、おそらくは遼東で信望が厚かった為にこの機に始末されたのでしょう。陸仲亨は官用の伝馬を私的に濫用して、太祖に「平和になってやっと民が暮らしを取り戻そうとしているのに、苦しめるようなまねをして」と激怒され、費聚は酒色に耽り職務を放り出して叱責され、両名とも手柄を立てることで免罪とするとのことでしたが、結局手柄を立てられずに、胡惟庸と陰謀を立てるようになったと言われます。陸仲亨については『明史』ではただ殺されて家財没収になったと書かれていますが、費聚については、「ついに胡惟庸の一党として死に、爵を取り上げられた。子の超は方国珍討伐の際に戦死した。センは才能があったので江西参政に登用された。孫の宏は、雲南遠征に従軍して軍功を積み右衛指揮使となったが、奏上に不実記載があったので、金歯地方の守備兵とされた。」(『明史』巻百三十一)とあり、処罰が本人死刑と爵位没収止まりで一族が連座していないようなのです。その他に、陳徳・華雲龍・王志・楊璟・薛顕については爵位を取り上げられたとだけあるので、恐らくはそれ以上の処分を受けていないと思われます。また以前にも述べましたが、金朝興などは、本人が既に死んでいたので子の金鎮が公爵没収と平ハ衛指揮使に降格。後に軍功を重ねて、金鎮自身は正二品の都指揮使で、子孫は世襲の衛指揮使(正三品)とのことで、 もう手に入らないであろう公爵を取り上げられたのは痛手でしょうが、復権の機会を与えられて、ある程度は挽回したようです。

主要人物二十名に含まれる金朝興の子がこのくらいの処分であるのに、果たして何万人も連座して殺されるものなのでしょうか?何万人というのは降格処分を含めての数なのでは。


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