ナントカ堂 2015/01/02 09:19

「建文朝の奸党」


方孝孺もあそこまで我を張らなければ黄福のようになったのでしょうか?



『明史』巻百五十四「黄福伝」



黄福、字は如錫、昌邑の人である。洪武年間に太学生から金吾前衛経歴となった。国家の大計を論じたものを上書して、太祖に認められ、特別に工部右侍郎に起用された。建文帝の時代に深く信任された。永楽帝が奸党二十九人を列挙したが、黄福もそれに含まれていた。永楽帝が都に入ると、黄福はこれを出迎えた。李景隆が奸党であるとして黄福を指差した。黄福は言った。「臣はもとより死は覚悟しておりますが、ただ奸党とみなされることには納得がいきません。」帝はそれ以上追求せず復職させ、まもなく工部尚書を拝命した。永楽三年、陳瑛が、黄福は工匠に十分手当てを出していないと弾劾した。そこで北京行部尚書に改められた。翌年、法に触れて、詔により投獄されて、その後、事官に左遷された。後に復職し、安南の兵糧輸送を監督した。



安南が平定され、郡県が設定されると、黄福は尚書として布政司と按察司の政務を執るよう命じられた。このころ安南の地は平定されたばかりで、まだ戦争中のような雰囲気で、政務が多忙であった。黄福は随時規則を定めたが、全て理に適っていた。黄福はこう上疏した。「交阯では税に軽重があり一定ではありません。そこで現状を見て極力軽いほうの基準に合わせて税額を定めることを願います。」またこう願い出た。「瀘江の北岸から欽州まで衛所と駅を設置して交通の利便を図り、この水路を使って塩を輸送し、商人に交易させて粟を買い付け、兵糧や軍の各種の需要に当てましょう。また官吏の俸給は、倉庫の粟では足りないようなので公田より支給すべきです。」またこう言った。「広西の民が食糧を輸送するのに、陸路が険しく困難です。そこで広東より海運で二十万石輸送して給するよう命じられるべきと思います。」全て実行された。そして黄福は民を戸籍に登録し、税額を定め、学校を立てて官が任命した教師を置いた。しばしば父老を招いて帝の思し召しを説き、属吏には民を苦しめることの無いよう戒めた。こうして安南では全てが鎮まり、全ての者がおとなしく従うようになった。このころ群臣で微罪により交阯に流された者が多かったが、黄福は全員を援助し、そこから賢者を選んで共に政治を行った。この地に来た者は都に戻れたかのごとく感じた。鎮守中官の馬騏が帝の寵愛をよいことに民を虐げた。黄福はたびたび介入してこれを抑えた。そこで馬騏は、黄福に謀叛の志ありと讒言した。帝はその訴えが虚偽であると察し、採り上げなかった。洪熙帝が即位すると都に呼び戻され、詹事を兼任して太子を補佐した。黄福は交阯にいること十九年、都に戻ることになって、交阯人は互いに連れ立って見送りに駆けつけ、分かれるに忍びず号泣した。黄福が都に戻ると、交阯では賊が勢いづき、鎮めることができなくなった。洪熙帝が崩御すると献陵の造営の監督をした。



宣徳元年(1252)、馬騏の暴虐のために交阯が再び叛いた。このとき兵部尚書として陳洽が黄福と交代していたが、陳洽はたびたび黄福を交阯に戻して慰撫させることを願い出ていた。ちょうど黄福が命により南京に来ていたので、宮中に呼び出してこのような敕を下した。「卿は永い間交阯の人を愛し恩恵を与え、交阯の人も卿のことを偲んでいる。そこで朕は再び卿を遣わすこととする。」そして工部尚書兼詹事はそのままで、交阯の布政使・按察使とした。しかし黄福が到着したとき柳升は敗死していたので、黄福は急いで戻ることにした。鶏陵関に到着したとき、黄福は賊に捕らえられ、自殺しようと考えたが、賊は皆で整列して拝礼し、黄福の前で「公は交阯の民の父母です。公がこの地を去らなかったなら、われらは叛乱を起こすことはありませんでした。」と言って、自殺しようとするのを必死で止めた。黎利はこのことを聞いて、「中国は官吏を遣わして交阯を統治したが、全員が黄尚書のようであったなら、私は反乱を起こしはしなかったであろう。」と言い、急ぎ人を遣わして護衛させ、白金と食料を贈って、肩輿に乗せて国境まで送り出した。龍州まで来ると、明の官吏から没収した物を黄福に返した。都に戻ると行在工部尚書となった。



四年(1429)、黄福は平江伯とともに漕運を監督した、そして平江伯と協議して、江西・湖広・浙江と長江の南北の諸郡の民に対し、その地の遠近を考慮にて、粟を淮・徐・臨清まで運ばせ、衛所の兵士がそれを受け取って北京まで輸送することにしたので、民への多大な便宜となった。五年、兵の食糧を十分としながら民の負担を減らす要点を説いた。それはこうである。「永楽年間には北京を造営し、南は交阯、北は沙漠に遠征しましたが、国費が窮乏することはありませんでした。近頃では国家において大規模に費用がかかることは無く、毎年の支出はわずかなものですが、不幸にして水害や旱魃が起こったり、遠征の必要ができたらどう補填しましょうか?そこで操船の予備や営繕を行っている兵士十万人に、済寧以北、衛輝・真定以東を、黄河に沿って屯田させることを願います。初めの年は税を取らず、翌年から一人あたり五石を納めさせ、三年後から十石納めさせるのです。そうすれば京倉からの食事分六十万石と、所属する衛からの給料百二十万石が省ける上に、毎年二百八十万石の収入が得られます。」帝はこれをよしとして、戸部と兵部に協議させた。郭資と張本がこう言った。「黄河沿いの屯田は実に必要とされることです。そこでまず五万頃を用地として確保し、附近に住む民五万人に開墾させることを願います。ただ山東では近年旱魃と飢饉が起こり、避難民が最近になってやっと戻ってきたところで、衛所の兵は今、多くの役目に追われているところです。まずは官僚を派遣して現地を視察させてから開墾を行うべきです。」帝はその意見に従った。吏部郎中の趙新らに屯田の運営を命じ、黄福が全体を統括することなった。その後、「兵にも民にも各々以前からの生業があり、もしこの他に開墾まですることになれば、より一層の負担となるでしょう。」との意見が出たので、結局、この事業は行われなかった。黄福は戸部尚書に改められた。



七年、帝が内宮で、黄福の書いた『漕事便宜疏』を読み、出てきて楊士奇にこの書を示してこう言った。「黄福の言葉は思慮深く将来のことをよく考えている。六卿の中で同程度の者は誰か?」楊士奇が答えた。「黄福は太祖の知遇を受け、実直にして決断力があり、ひたすら国家のことのみを考えていました。永楽の初め、北京に行部が設置されると、黄福は民の困窮を救い安心させ、交阯に遣わされると、辺境の守りとして整備し、ともに実績を挙げました。これは実に六卿の及ぶところではありません。黄福は七十歳になりますが、年下の後から仕えた者たちと共に宮中で政治を行い、四代に仕えた旧臣でありながら、朝から晩まで奔走して苦労をかけています。これでは国家として老人を労わり賢人を敬う道に反していることになります。」帝が言った。「汝に聞かなければそのような知らなかった。」楊士奇がさらに言った。「南京は国家の根幹に関わる重要な地で、先帝は跡継ぎとしてここで監国となっていました。黄福は老成して実直なので、南京を治めさせれば臨機応変に対処して信頼して任せられるでしょう。」帝は「その通りだ。」と言った。翌日、黄福は南京の戸部尚書に改められ、翌年、南京の兵部の政務も合わせて執ることとなった。正統帝が即位すると少保を加えられ、南京守備の襄城伯の李隆の軍事に関わる重大事について補佐することとなった。南京に駐在する文臣が軍事の重大事を補佐するようになったのは、黄福より始まったものである。李隆が黄福の意見を採り入れたので、政治が厳粛になり民は安心した。正統五年(1440)正月に卒去した。享年七十八。



黄福は礼儀をよく修めて、余計なことを言ったり笑ったりすることが無かった。六代にわたって仕え、多くの建白をした。公正で清廉にして寛大、人からよく信頼された。官職にあっては目立つことは無かったが、細かいところまでないがしろにすることはは無かった。歳を取るごとにますます家のことを捨て置いてまで国のことを考えた。自ら倹約を心がけ、妻子には衣食をわずかしか与えず、俸禄のほとんどは、賓客や親戚が困窮したときのために取っておいた。以前に永楽帝が重臣十人を書き出して解縉に評価させたところ、黄福はただ「正直な心を持ち決して揺るがない。」とだけ記されていたが、その評価をわずかたりと落とすことは無かった。黄福が南京で李隆の補佐を務めていたとき、李隆の脇に座っていた。楊士奇はこれを聞いて「どうして少保の地位にありながら脇に座っているのですか?」と言った。黄福が言った。「どうして少保だからといって補佐される守備の方が譲らなければならないのでしょうか?」結局、黄福は脇に座り続けたが、李隆は黄福にはなはだ恭しく接し続けた。李隆は公務が終わると、黄福に上座に座るよう勧めたが、黄福はこれもまた辞退していた。楊士奇が墓参したとき、南京を通りかかり、黄福が病気であると聞いて、立ち寄って見舞った。黄福は驚いてこう言った。「公は幼主を補佐して、一日も側近くを離れるべきではないのに、どうしてこのような遠方まで来られたのか。」楊士奇はその言葉に深く感服した。兵部侍郎の徐琦が安南への使者として赴いた帰りに、石城門外にいた黄福と会った。ある者が、黄福を指差して安南からの同行してきた者に対して尋ねた。「汝はこの立派な人を知っているか?」その者が答えた。「安南では草木ですら公の名を知っている。どうして私が知らないわけがあろうか。」黄福が卒去したとき諡が追贈されず、士の間では大変不評であった。成化の初めになって太保が追贈され、諡を忠宣とした。


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