ナントカ堂 2014/10/19 17:29

明代の名門(15)

「宋晟」とネットで検索したら上位に「宋晟世家」というページが出てきました。なるほどなと思い、『明史』巻百五十五よりここに訳します。



宋晟、字は景陽、定遠の人である。父の朝用と兄の国興はともに太祖が長江を渡るのに従い、軍功を重ねて元帥となった。国興は集慶攻撃中に戦死し、晟がその職を嗣いだ。朝用が老齢を理由に辞職を願い出たとき、晟は鄧愈が徽州を攻略するのに従軍していたが、召還されて父の官職を継いだ。累進して都指揮同知となり、江西・大同・陜西の鎮守を歴任した。洪武十二年(1379)、法に触れて涼州衛指揮使に降格された。十七年(1384)五月、西番の叛酋を討ち、亦集乃路まで行き、元の海道千戸の也先帖木児、国公の呉把都剌赤らを捕らえ、一万八千人を捕虜とした。酋長を都に送り、捕虜から精鋭千人を選んで兵に補充し、その他は解放した。召還されて再び都指揮となり、右軍都督僉事に昇進して、涼州に鎮守した。



二十四年(1391)総兵官に任命され、都督の劉真とともに哈梅里を討った。その地は粛州から千里以上あった。晟は兵たちに多くの非常食を携帯するよう命じると、倍の速さで道を駆け、夜のうちに城の前まで到着した。夜が明けると地が揺れるほど金鼓を打ち鳴らしたので、敵は城門を閉じて震え上がった。そして城を攻め落とし、その王子の別児怯帖木児と偽国公以下三十人ほどを捕らえ、麾下の民と物資を収集して帰還した。これより番戎は恐れて従うようになり、その兵威は西域において最大限に高まった。翌年五月、藍玉が罕東に遠征するのに従い、阿真川に沿って進軍した。土酋の哈サンらは逃げ去った。凱旋すると中軍都督僉事となった。



二十八年(1395)六月、総兵官の周興に従い開原を出て忽剌江に着いた。部族長の西陽哈が遁走し、これを甫答迷城まで追って、人や家畜を獲得して帰還した。翌年、征南右副将軍を拝命し、広西のヒョウボウなどの寨の苗族を討伐し、七千人以上を捕らえ斬った。さらに翌年、羽林八衛の兵を指揮して五開や龍里の苗族を討ち平らげた。三十一年(1398)開平に出て鎮守し、燕王が長城を越えて遠征するのに従い、帰還すると万全などの衛の城を築いた。建文に改元されると甘粛に鎮守した。



永楽帝が即位すると都に来て参内した。そして後軍左都督に昇進し、平羌将軍を拝命して、鎮所に戻された。永楽三年(1405)、把都帖木児、倫都児灰らの部落五千人を招降し、馬・ラクダ・牛・羊を一万六千獲得した。西寧侯に封ぜられ、禄は千百石で、世襲の指揮使とされた。



晟は四回合わせて二十年以上涼州に鎮守し、その威信は地の果てにまで知られた。帝は、晟が古くからの臣で、大将の器があったので、辺境のことは専ら委任し、奏上すればそのまま許可した。あるとき御史が、晟が独断甚だしいと弾劾した。帝は言った。「人に任せるなら全てを任せなければ成功しないだろう。まして大将として辺境を統制しているのだ。どうしていちいち規則にこだわっていられようか。」そこで敕を出して、晟には状況に応じて許可を待たずに行動することを許した。晟はかつて都に行き参内することを望んだが、帝は「西北の国境の任務は、卿に一任している。召命が無ければ来てはならぬ。」と返信した。まもなく河西の牧地の運営を任され、長城を越えて遠征する計画を立てるよう命じられたが、ちょうどこのとき病となり卒去した。五年(1407)七月のことである。



晟には三子がいた。長子はセン(玉偏に宣)で、建文年間(1399~1402)に府軍右衛指揮使となり、霊璧の戦いで、先頭に立って城壁を登り、数人を斬って力戦して死んだ。



センの弟の琥は永楽帝の娘の安成公主を娶り、侯を嗣ぐことを許され、世券を与えられた。八年(1410)前将軍の印を授けられて甘粛に鎮守した。十年(1412)に李彬とともに叛酋の老的罕を捕らえて、多くの兵を捕らえ斬った。その後召還された。洪熙元年(1425)に不敬罪で爵位とフ馬都尉の官を取り上げられた。宣徳年間(1426~1435)に都尉に戻された。



琥が爵位を廃されると、弟の瑛が嗣いだ。瑛は咸寧公主を娶った。正統年間(1436~1449)、左軍前府の指揮官を歴任した。瓦剌の也先が攻め込むと、瑛は総兵官に任命され、大同の守将の朱冕、石亨らを率いて陽和で戦ったが、敗れて全軍壊滅し、瑛と朱冕はともに戦死した。ウン国公を追贈され、忠順と諡された。



子の傑が嗣いだ。景泰年間(1450~1457)に禁兵・宿衛を統率して、冷静で慎み深く務めたので賞賛された。卒去して、子の誠が嗣いだ。誠は右府の政務を執り、また平羌将軍の印を与えられて甘粛に鎮守した。誠は武の才が有り、涼州に狩りに出かけたとき、盗賊が牛馬を盗んで北に逃げようとしているところに遭遇した。誠が三本の矢を射て三人を斃したので、賊は驚いて散り散りになって逃げた。そこで盗んだものを全て集めて持ち主に返した。九代爵位を伝えて裕徳の代になり、流賊の難に遭って殺された。





永楽帝の娘は五人。長女の永安公主は袁容に、次女の李讓に、末の常寧公主は雲南の沐氏に嫁ぎましたが、三女の安成公主は宋琥に、四女の咸寧公主は宋瑛にと、五人のうち二人も宋氏に嫁がせたところをみると、永楽帝の信頼のほどが窺えます。


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