ナントカ堂 2014/06/13 01:14

秦檜の子孫

秦檜が嫌われているのは知っていましたが



青州(山東省)の馮中堂の家で、一匹の豚を殺した。湯がいて毛やたてがみを取りのぞいたら、肉に文字があった



秦檜七世身(秦檜七世の身)



烹て食ってみると、その肉はおそろしく臭かった。それで犬どもにやった。
ああ、秦檜の肉とあっては犬だって食いはすまい。
(平凡社ライブラリー『聊斎志異』六 p434より)




私も秦檜は好きではありませんが、これはちょっとひどすぎる・・・



秦檜で評価できる点は賄賂政治を行っていなかったところでしょうか
『入蜀記』は秦檜が死んでから十五年のことを記していますが
七月六日と七日の条に秦檜の孫の秦ケンが
秦檜が皇帝より賜った邸宅に住んでいて、生活に困窮して質入をしながら暮らしているとの記述があり
下賜された邸宅があるので財産を取り上げられるようなことは無かったようですが
秦檜の死後余り経っていないうちから金に困っている様子が窺われます



秦檜の評判が極端に悪い点は子孫がちゃんと残っていないので言いたい放題だった点にあると思われます



秦鉅、字は子野、丞相の檜の曾孫である。キ州通判のとき、金人が国境を侵したので、郡守の李誠之と協力して防衛し、武昌と安慶に援軍を求めた。
一ヶ月を過ぎても援軍は来ず、味方の軍の徐揮、常用らは城を棄てて逃げ出した。城壁を突破され、秦鉅は李誠之と各々の手勢で市街で戦い、死傷者が出てほぼ全滅状態となった。秦鉅は政庁に戻ると、すぐに吏人の劉迪を呼び、倉庫に火をつけさせ、一室に赴いて自焚しようとした。ある老兵が煙と炎の中に白い軍服を着ている者を見て、それが見覚えのある秦鉅であったので、火を冒して引き出した。秦鉅は「私は国のために死ぬ。汝のような者は自らが生きることを求めるべきだ。」と叱り、衣服を正して火の中に入って死んだ。次子の浚はそれ以前に四祖山に行っていたが、金軍が来るとキ州に戻り、弟のキや従父と共に死んだ。特に鉅に五官・秘閣修撰を追贈して、義烈侯に封じ、李誠之と共にキ州に廟を建て、褒忠の額を賜った。浚とキには通直郎を追贈し、銀と絹各二百を弔慰金として贈った。



と『宋史』四百四十九の忠義伝四にあります。同じ忠義伝四の他の人の伝だと、その忠義を賞して一族の誰かに官職を与えているのですが、秦鉅にはその記述が無く、おそらくここで家が絶えてしまったのでしょう。



なお、清代の秦大士、その子の秦承恩(『清史稿』巻三百四十五に伝あり)、その子の秦耀曾、秦念曾の一族を秦檜の子孫と記すものがありますが、こちらは主戦派として秦檜と対立した、兄の秦梓の子孫です


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