ナントカ堂 2014/05/18 09:01

耿崇美

『遼史』の欠点として
あまりに記述が簡略な点と
遼が亡んでから二百年も経ってから書かれたという点が挙げられます
耶律氏や蕭氏、遼代四大族のうちの韓・劉・趙などは
『遼史』編纂時にも結構な勢力を持っていたのでそれなりに記録が残っていたのでしょうが
そのように子孫が有力者として残った人々ばかりがクローズアップされて実態と少し離れている気がします



耿崇美という人物が遼の初期にいました。
『旧五代史』や『資治通鑑』にその活動が散見される遼の有力武将であり
『契丹国志』巻十九にも昭義節度使として記されています
ただしこれらの史書を見ても
どの戦闘に加わったかなどのごく限られた情報しかありません



この耿崇美の一族について『全遼文』には
巻四「劉継文墓誌」
巻五「耿延毅妻耶律氏墓誌銘」
巻六「耿延毅墓誌銘」
巻六「耿衙内墓誌銘」
が収められています



これらをごく簡単に纏めると



耿崇美
契丹が上谷を獲得したときに帰順した
巻き毛が特徴的であったというので西方系の可能性あり
軍功を立てて節度使の地位と名誉職の太師が与えられた



耿紹紀
耿崇美の次子。左武衛上将軍
尚父・秦王の韓匡嗣の娘を娶り、娘は後漢皇帝一族で彭城郡王の劉継文に嫁いだ



耿延毅
セン淵の盟の前の戦いで西南面招安使となり一方面を担当し、のちに軍のトップの太尉となった
遼は国境近くの鉅鹿に耿氏を公として封じ宋への守りとした
開泰八年(1020)に五十二歳で死去。



耿知新
耿延毅の子
文武に秀で将来を期待されたが太平六年(1026)に十五歳で死去
耿氏はここに断絶



というようにかなり有力な家系で、韓徳譲=耶律隆運に次ぐくらい、劉・趙より上といった感じでしょうか
それほどの一族でも途中で断絶してしまっているので正史に伝も立てられず
紹紀・延毅・知新などは名前すら史書には残されていません



遼の歴史を知るための困難はこのようなところにあります


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