ナントカ堂 2014/05/17 09:08

三藩の乱

先だって呉三桂と耿精忠は一族挙げて挙兵したけれど
尚氏は之孝一家以外は清朝に付いたと書きましたが
耿精忠の一族も弟の昭忠・聚忠が清朝に付いて地位を保証され死後に諡を与えらるほどでした
また精忠の家族は乱平定後に都に連れて行かれましたが
昭忠と聚忠が養って行けないと言ったため
八旗に編入されて禄が与えられることになりました
(尚氏も含めて以上『清史稿』巻二百三十四より)



呉応熊は父の呉三桂の挙兵時に捕らえられ誅殺されました
呉三桂の伝には詳しくありませんが『清史稿』巻二百五十の王熙伝に
呉応熊の普段の横暴な振る舞いと乱発生時に都の各所に火を放ったことが記されています
乱を起こした者の家族が都にいれば殺されるのは
三国志でも反董卓のときの袁氏や馬騰の例があって分かりきったことなので
ただ漫然と都にいるとは思われず
都で呼応しようとして失敗したのでしょう
このため呉応熊とその子の世霖は殺されますが
その他の子は幼いという理由で官位没収のみで助命されました
康熙帝は凌遅にすべきとの朝廷中の意見を抑えて絞首とし
呉応熊の妻=帝の叔母には
応熊が謀叛人の子であったため殺さざるを得なかったと帝が弁解の書状を送っています



なんだろうこの一連の甘い対応は



ついでに書きますが、尚氏はこの後、早い時期に清朝に付いたこと、その他諸々が考慮され
満洲八旗に編入されて同じ民族扱いされるようになりました
漢人から満洲人扱いとなった氏族で有名なのは他に常氏がいます
常遇春の子孫は、直系は代々公爵を世襲し
明末にも常延齢が国家再興のため奔走して、明滅亡後は帰農して終わりましたが
傍系の常朗が遼陽に移り住んで
これが早くに清朝に帰順して戦ったため満洲正白旗に編成されました


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