ナントカ堂 2014/02/27 01:34

兵部尚書・徐晞

日本で一口に「官吏」と言われるものが、中国で「官人」と「胥吏」で分けて考えられていました。
まずはwikipediaの「胥吏」に項をご覧ください。
「官」と「胥」には大きな差があり、特に明清では科挙に受かった人でなければ高級官僚にはなれませんでした。
ただ、人間の社会である以上は例外があるわけで、胥吏から兵部尚書となった徐晞もその例外の一人です。

徐晞は『明史』に列伝が立てられていませんが、『国朝献徴録』巻三十八に簡単な伝が記されています。
それによればもともとは江陰県の役人で、永楽の初めに北京で宮殿を建設するために呼ばれ、見事工事を完成させて工部営繕主事(正六品)となりました。
その後も順調に職務に務めて昇進して行き、麓川に遠征するときに兵糧補給を任されて、敵の妨害を撥ね退けて滞りなく輸送を行ったため兵部尚書となりました。
明は兵部尚書を含む九卿が皇帝の命により政治を行い、これ以上の官職は名誉的なものなので、徐晞は小役人から文官のトップにまで上り詰めたものといえます。
この異例の出世は人々の興味を引いたようで明代の筆記史料に徐晞のエピソードが散見されます。
この他に『皇明異典述』に明代で胥吏出身者として高官になった人物が以下の如く挙げられています。

吏部尚書:張度
戸部尚書:徐輝
刑部尚書:李友直
兵部尚書:滕徳懋・徐晞
工部尚書:李質・万祺
吏部左右侍郎:李信・王春
戸部左侍郎掌光禄寺:李亨
礼部右侍郎掌光禄寺:蔚能
刑部右侍郎:劉敏・王詔
大理寺卿:汪懋・楊時習
陝西左参政:平思忠
蘇州府知府:況鍾
泉州府知府:熊尚初
西安府知府:賈信



また同じく『皇明異典述』には低い身分から高官となった人として



元木工



工部尚書:徐杲
工部左侍郎:カイ義
工部右侍郎:カイ鋼・蔡信・郭文英



元石工



工部左侍郎:陸祥



が記されています。
これらは明代の前期の人物であり、後期になると高官は科挙に受かった人物で占められていきます。
国家体制が固まると、下から使えそうな人物を見出して登用するよりも科挙で選ぶほうが無難だからなのでしょう。


この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

最新の記事

記事のタグから探す

月別アーカイブ

限定特典から探す

記事を検索