序
ひとことひとこと、つむぐことで形作られる。
その形を感じることができたなら、それは決して嘘なんかじゃない。
一話
「またやってるのかよ」
キーボードを叩いていると、背後から声。肩越しに視線だけよこすと、声の主は、マグカップを片手にため息をついた。本当に飽きないな、そう付け足して章の隣に座る。
「何々……『そうそう、教えてもらった曲、聞いたよ』」
「おい、読むなよ」
「俺のパソコンだろうが」
コンピューターの画面を体で覆って、隠そうとした章に、呆れたような声を上げる。
「哲夫ってなまえかいとかないと、馬鹿の章はわすれちゃうんかね」
「……うるさいな」
章は言葉に詰まる。明らかにバカにしたような物言いに反発の感情がむくむくとわいたが、唇を噛むことで抑え込んだ。コンピューターは実際、自分より二歳うえのこの男――哲夫のものであり、自分がそれを相手方の厚意で借りているのは事実だからだ。
早く大人になりたい。
肩に力を入れて口をつぐんだ章を哲夫は一瞥すると「へえへえ」と適当に返し、頭を二、三度大きな手の平で叩いた。章の葛藤もわかっていますよ、という風に。それがまた気に入らなくて、章は手を払いのけた。
「追い出すぞ」
「……すみません」
「ん」
マグカップに入ったコーヒーを一口すすり、哲夫は頷いた。それから、おもむろに画面を指差した。昼にかかわらずカーテンを閉め、暗めの哲夫の部屋は、ブルーライトをよく感じる。哲夫が指差したのは、先程読み上げた部分だった。
「返してやらなくていいわけ」
「あ。……返すよ」
言葉に、思い直したように章はキーボードに指をのせる。それから、カタカタと音をならし始めた。
僅か百四十字に込められる気持ちは多くはない。だからこそ、できる限り伝わるように考えていたい。
「『気に入ってもらえてよかった!大好きな曲なんだ』お前さあ、やっぱキャラ違いすぎるだろ」
「うるさいってば。ていうか見んなよ」
抑揚のない声でだらだらと読み上げられ、頬がかあと熱くなる。哲夫が文面を読み上げてくるのは、毎度のことながら、いつまでたっても慣れず恥ずかしい。必要以上に肘を張って、バリケードを築いたつもりで章は続きを打つ。
「章さあ」
哲夫が尋ねた。章は、画面を見たまま「何」と返す。
「お前、いつまでこんなこと続けるつもりなん」
哲夫の声は、静かな水面に、石をそっと落としたように、章の心に波紋を作った。決して煩くない。綺麗な波紋が、その証拠だ。ただ、疑問、そしてただ心配であると告げている。だから章は、こういうとき、胸のうちにずんと何か重いものが落ち、それがゆっくりごろごろ転がるような気持ちになる。
「……うるさいよ」
二話
botのように吐き出す、習い性の憎まれ口も、実体なくむなしく響いた。そうしたってなんの解決にもならないことを、知っているからだ。
佐渡章に、ネット上の恋人ができたのは、一か月前のことだった。
出会いを求めた先で付き合ったのではなく、初めは趣味を通しTwitterで繋がるという、友達からのスタートだった。カコというハンドルネームの彼女は、とても章と趣味に対する考えかたや入れ込み方に至るまで、とてもよくにていた。打てば響くように言葉が返ってくる。彼女のツイートを見ていると、章はまるで自分が呟いているように思うことさえあった。本当は自分は二重人格で、知らない間にカコを演じているのだと。荒唐無稽な話だが、電子で繋がっていると、相手は確かに自分へと反応を返すのに、そこに肉体的なイメージを付随するのが難しくなるときがある。カコは誰より気の合う友達だが、実在しない友達でもあった。
それが覆されたのは、カコが自分にたいして直に連絡を取りたいと言ってきた時だった。カコも章と同じように考えていたのかもしれない。リアルタイムで話をしたい、声を聞いてみたいと言ってきたのだ。はたして、互いは確かに存在する人間か? 一見馬鹿げた疑問を抱きながら、Skypeを用いて二人は初めて肉声を用いて会話した。そのときの気持ちを、章は話せるものなら、目についたすべての人に話したかった。でも同時に、誰にも話したくないと思っていた。
『もしもし、あきさん? ですか』
カコは自分のようだという感覚。それは、カコの声を聞いた瞬間、「初めて会った気がしない」に変化した。そして、それが自分のように感じていた理由だということも悟った。章は、ずっとカコに会いたかった。
章の声を、カコは笑わなかった。自分の声は別段嫌いじゃないし、笑われることにも慣れていた。しかし、カコに誉められて自分が笑われることに疲れていたのだと知った。
彼女が生きている、自分と同じ人間だという事実は章にカコを意識させるには十分の出来事だった。そしてそれはカコも同じだということを、自惚れでなく感じていた。
カコの本名が、加古茜だということを知った頃、章はカコに告白した。そして、その返答は今現在の関係が示す通り。
ふと章が我に返ると、哲夫はいなかった。いつの間にか部屋から出ていったらしい。哲夫は章の従兄であり、携帯の通信の制限がかかるとこうしてコンピューターを貸してくれている。高校生で親の庇護下にある章にとって、ありがたい存在だ。
三話
それでも、素直にありがたいと言えないのは哲夫の言葉が、ひどく現実的で、的確に刺さるからだ。
「うるさいよ……」
いつまでもそうしてるわけにいかないだろ、何度も言われた言葉だ。理解している。章が、いつもあえて見ないようにしていることだ。
カコのことが好きだ。初めて会った気がしない。ずっと、きっと大好きだ。でも、だからこそ胸の奥がずっと重いのだ。
それは痛みを発している。章が避けようと避けようとしている無視しているだけで、ずっと痛い。
「でも、自分は嘘をついてなんかない……」
こんな、麻酔をかけ続けている。そして、同時にそれは章にとって、誤魔化しではない真実でもあった。
カコに接する自分こそが本当の自分なんだ。
章はその確信はあった。ただ、それを声を大にして叫べるかというとそうではない。どこまでも誤魔化しではない、章にとって本当に大切な真実があるからこそ、章はそこから動けない。
カコから、Skypeの誘いが来た。でも今は話せそうにない。声がぐらぐらと揺れてしまうから。
「いつまで続けるつもりなん」
また、哲夫の声が頭のなかに蘇る。うるさい、うるさいと頭を抱えた。それでも声は消えてくれない。大学生で、悠々としているその顔まで浮かんでくる始末だ。とても恨めしい。どうあっても、顔の通り受け止めてもらえる、その姿が、恨めしくて、羨ましかった。
四話
「章ちゃん」
ノックの音の後に、哲夫の母である叔母が部屋に入ってきた。章は表情を取り繕って振り返った。
「何、おばちゃん」
「お菓子買ってきたから、一緒に食べない?」
八重歯を覗かせて、手にしている袋を掲げた。近所で有名なケーキ屋の名前がプリントされている。
「わあ、いいの? ありがとう! いただきます」
自分からすれば大袈裟なくらい、声を高くして喜んだ。章の声は低くて抑揚がないと、友人は皆言うからだ。
「いいえ。じゃあリビング行きましょ」
紅茶かな、コーヒーかしら、そう言う叔母に、ううんと迷うそぶりを見せながら立ち上がる。章のセーラー服のプリーツスカートが、ひらりと太股を刺激した。その感覚にぞっとしたこともあった。麻痺させるうちに、慣れてしまった。
そう、麻痺させて、誤魔化しているのはこちらの現実なのだ。章は思う。
「やっぱり女の子ね」
甘いもの一緒に食べられるし、そのことばを、奥歯の奥できしきし噛み締めながら章は笑った。
五話
あきら、僕、佐渡。章を示す呼称。それから好きなもの、嫌いなもの、誕生日。最悪、誕生日も知らなくていい。名前を呼ぶだけで、その名前さえ、自分の決めたもので、もしくは相手の好きな呼び方でいい――
それだけで全てを示しきれたらどんなにいいだろうか。全てを示すことができたら。そう章は思う。
もっとシンプルに生きてみたい。心を覆う外枠も越えて、ただの自分で、誰かと繋がることを許してほしい。
けれど、そんな夢を、カコを好きになるほど自分が嘘だと叫びそうになる。嘘なんだという気持ちが、痛みとなって現実に呼び醒ます。
電子の海にある真実をまだ、さらうことができない。
『あのね、わたし あきらと会ってみたい。あわなくても、顔を見て話してみたい』
嘘つき!と叫ぶ声。章は、自分のその声を胸の奥底に封じている。いつか、別の声にかわるのを恐れながら。
了.