1
親友の明子が、狂った。前触れもなく、昨日、映画を見に行こうと約束し、別れたところまでは普通だったにもかかわらず。
尤も「狂った」という言葉から、およそひとが連想する様な激しいものではない。ただ、今目の前に立つ明子と昨日までの明子、そして明子の言動を合わせて、それ以外に形容する言葉が見つからなかった。
「なんだか、殺されるような気がしたの」
そう明子は言った。真っすぐに奈緒を見つめる目は、声音と同じく至極真面目だった。
奈緒ははじめ、何を言っているのだろう、そう思った。視線を明子の目から、明子の服装へと移した。明子は冬物のコートに、マフラーをまいている。明子が、時折縛る様に巻きなおすマフラーの隙間から見えた首は、タートルネックのセーターで覆われている。
季節は、桜の葉が青々としてきていた。日差しは、春の面影を忘れさせるほどに暑い。
当然だが、マフラーとセーターから飛び出した顔は、汗に濡れそぼり、蒸気がもうもうと立ち上らんばかりだった。
「なんでそんな恰好してるの」
五分以下の沈黙の後、奈緒の口から漸くこぼれ出た言葉だ。そして、それに対しての答えが、冒頭のそれである。
朝起きると、明子は誰かに殺されるような、そんな妄想に取りつかれたらしい。見知らぬ人間に、背を刺される。
「背にぶつかられた、そう思ったら、私は刺されていて。熱い、そう思った瞬間、心臓がそこに移動したみたいに脈打って、温かい液体が腰や足を伝っていって。わからないまま、私は咄嗟に足元を見て、それで血だって気付くの」
あるいは、喉を裂かれ、胸を突かれ……バリエーションは様々だった。同じなのは、噴き出す赤い血――特に喉からが壮観だったそう――止めようにも止まらず、体は震えだし、冷え、痙攣しだす――どうやら、ずいぶんリアルな妄想だったらしく、説明しながらも、明子は着ぶくれて太くなった腕を何度も擦っていた。血の類の話があまり得意ではない奈緒は、明子の言葉に少しめまいがし、不快になった。しかし、目の前で、ぐずぐず明子の顔を濡らし、鼻の下のくぼみにたまり、また涙の様に睫毛にまとわりついている汗が日に照らされ光っているのを見ていると、そう言っていられない気もした。
「それで……私、怖くて。少しでも、隠さなきゃいけないように思ったのね」
マフラーを鼻の下まで持ち上げた。ついでにさりげなく鼻の下のくぼみに溜まった汗をマフラーで拭ったのが見えた。毛糸に雫の光が幾分移動する。
明子は、暑さなどは感じていない様に見えた。それよりも、自身を襲う、「殺されるかもしれない」という妄想を取り払う方が重要なのだ。
しかし、そんなもので果たして、守れるものだろうか。
守れない。守れるわけがない。
奈緒は瞬時に思う。厚手の服を着たところで、刃物に太刀打ちできるはずもない。明子のそれは聊か「ずれた」対応に感じた。言ったところでどうしようもないので、口に出しすらしなかった。家を出なければいいだろう、という言葉は、今日外で会う約束を取り付けた昨日の奈緒自身の言葉を裏切るものだった。
ただ、見ていて暑いのだ。見たくはない。しかし映画は見たい。そして元来、奈緒は消極的で慎重派だった。異様さを指摘して傷つけはしまいか、そんな懸念がわいた。迷った奈緒のとった行動は、目をそらすこと――それは現状にも、明子の姿にも――と、そして
「あ……そう、まあ、とりあえずいこっか」
いつも通りを装う事だった。その臆病な行動に罪悪感がそっと追いかけてくるが、見ないふりを決め込んだ。だってどうしようもないではないか、そんな自己弁護で叩き伏せた。とりあえず暗い所、そして涼しいところへ行こう。集まる奇異の視線も熱気も、すべてそこが解決してくれるだろう。
2
甘かった。
奈緒は心のなかで、そう強く断じた。断じたのは初回の明子の奇行に対するおのれの対応に対してで、そして今まさに十一回目の奇行に遭遇していた。十一回目の奇行、それは初回とあまり変わってはいない。しかし、変わってはいないからと言って軽度ととられるべきではない――少なくとも奈緒はそう思っている――無論尚更酷くなっていくよりはましに思えるであろうが、明子が異様な様相であることに変わりはないのだ。
その異様な様相を、毎度ぴたりと寸分たがわずされる、という心理的負担は中々のものであるらしく、奈緒は最近出がけにお腹が張るようになった。
そして、尚悪いことは、明子は変わるまいが、季節は変わるということである。季節は若葉の色濃くなる、初夏に入っていた。
もうもうと明子から立ち上る湯気が、会うたびに肥大していく。それは明子の自意識の膨大、明子自身の膨張であり、奈緒の体感でいうと明子は今力士よりも大きかった。
隣に寄るだけで熱い。気温も暑くなってきたというのに、明子のそばはより熱いのだ。自ずと周囲が避けていく。避けていくだけならまだよいが、わかりやすく迷惑そうな顔を見せ、または気触れを見る目でこちらに視線を寄越す。その笑顔になりきらない、嘲笑や怖れの混じった顔を向けられるたびに、奈緒は自分のことではないというのに、奈緒の全身まで熱をもった。明子の膨張した己は、奈緒にまで及んでいるのだから仕方がないのかもしれない。
また、同時に怒りもわいた。心情的には、彼等に共感するところが大いにあったというのに、不思議なことだ。だが、失敬だという義憤を友人のために抱ける自分でいられることにホッとした。
3
「おいしいね」
おいしいわけなかった。クレープを食べる明子に奈緒はとっさに言葉をぶっつけそうになり、急ぎ飲み込んだ。
もわりと湯気が立ち上る。一人蒸し風呂を作り上げているそのなかで、もうもうと汗に顔をべったりとはりつけるように濡らして、眼鏡を曇らせながら、べとべとと唇をクレープのクリームで汚している。
そんな人間と天気のもとでクレープを食べて、食欲減退の激流を食らわない人間が果たしているのだろうか?奈緒はえづきそうになるのを必死で耐えた。明子は私の気持ちをわかっているのだろうか。非難めいた視線を思わず投げそうになり、目をそらした。
するとおなじくクレープを食べていた客の一人と目があった。相手は目をあわただしくそらした。口許は笑っていた。気まずそうにしているが、気まずい、という様子を自身の連れに見せてあえておどけている、こちらを無視した気まずさだった。
瞬間、体がカッと熱くなった。思わず力が入り、手の中のクレープのクリームがにゅっと飛び出した。こぼれる、それで「落ち着け」と自分に言い聞かすことができた。
奈緒はクレープを持つ手の生温さを感じながら、自分の胸に沸々わく気持ちを、こなそうとする。周囲のジロジロとした視線。嘲笑。嫌悪、奇異。ただ異質なものを見るのに、どれほど多くの感情を人は多彩に使うのか。それだけでも居たたまれなく、神経が苛々と尖ってしまうのに、それが自分にも向けられている。それが突然どうしようもなく許しがたいものに感じた。
クリームは暑気と奈緒自身の体温によってどろりと溶け始めている。それがまた不快だった。不快だ、そう思った瞬間、不意に、――なぜかこれが明子のせいだと思った。
「どうしたの」
我にかえる。気づけば奈緒は立ち上がっていた。
この目の前の着だるまの服を、引っ付かんで服をひっぺがしてやりたい。服をとられ、昔の時代劇よろしく「あーれー」と地面を転がっていく明子のイメージが我に返った後からついてきた。奈緒はその残像を追いかけたまま、何をしようとしたんだろうととぼけたことを心のうちでぼんやりと呟いた。
暑い。次に出たのがその言葉だった。
そうだ、そもそも今日は暑いのだ。暑いから気が立ってしまうのだ。
だから、これは暑さのせいなのだ……奈緒は心の中でぶつぶつ繰り返した。
4
明子のことを、他の友人には話すことはできなかった。
実際、話すこと自体は出来た。明子は菜緒以外の前でも終始あの調子である。だから、明子のことを話さないのは、相手がいないから、という理由ではなかった。
たいてい話す相手が、甲虫の背のようにきらきらとした好奇や嫌悪の光を角膜の下に覗かせているのがわかるからだ。
もちろん、どちらが口火を切るか、ただ迷うばかりの相手もいる。そんなときはただ二人とも「どうしちゃったんだろうね」「明子ね」とばかり繰り返す。それらは、終始不毛で実のない会話の応酬となり幕を閉じるが、そういう相手の方が、菜緒はむしろ気が和らぐような気がした。ただ、心配だけがそこにあるのがわかったからである。
菜緒が、その「甲虫の視線」に気づいたのは明子のことを共通の友人に話していたある時のことだった。
互いに腹の探り合いのような会話、「明子ね」「やっぱりまた?」と当たり障りなく、心配の素振りを見せ合うだけの会話は、ただ不安を見せるだけの友達と何らかわらない。しかし。
なぜだかその友人とは、やっぱり話すことはできないという実感を、話そうとするたびに深めてしまうことに気づいた。この時菜緒は相手の目に――もしかしたら互いにかもしれないが――友人が変わってしまったことへの「不安」以外のものを見つけたからだ。
それは「愉悦」「好奇心」といった類いのものと――それと、紛れもない「嫌悪」の情だった。
彼女たちと話す目を見るたび、それらが、玉虫の艶のようにきらきらと、心配のフィルムの下からちらつく。すこしでも、明子の奇行に対する情報を手に入れたいとする残忍で無邪気な光。食い物にする、獲物を待つ蜘蛛の目。
菜緒はその目に耐えられなかった。明子に対する義憤と、友人達の嫌な部分を見たことへの失望そして同時に覚えたのは屈辱感だった。義憤や失望はよかった。まだ自分が正しく明子へ友情を抱いていることへの信頼を深められた。しかし、屈辱感。これは、喉に刺さった小骨のように菜緒の心に不快さをじくじくとためさせた。甲虫のようにきらきらとした彼女たちの好奇と嫌悪の目。その妙になまめいた光が、自分にも当てられ始めていることに、気づいてしまったからだ。
5
どうして明子はこうなのか!?
明子のもとへ歩いていくときの、自分の気持ちを明子は考えてくれたことがあるだろうか?
奈緒は二十メートル向こうの明子の、遠近法の狂った姿に、いつも足がすくみ、怯んでしまう。その怯みを感じなかったことにして、時に恥じ入ったりもして、気だるまの友人の元へなに食わぬ顔で
「待った?」
と聞くのだ。
すると、相手はドロドロと伝い落ちる汗、もうもうと上がる湯気、汗の滴る唇で
「おはよう」または「ううん」と言うのだ。明子は最近、サングラスまでかけ始めた。暗色のそれは、ほの白い蒸気に呼吸のたびに覆われてはは引き、覆われては引きを繰り返すのだ。
そこ満ち引きを、奈緒は暗澹たる気持ちで見つめるのである。本当に明子はわからないのだろうか?自分のこの愛と気遣いに!
奈緒は悔しい気持ちで一杯だった。こちらがこうして気をもんでいる間も、明子はまた何処かで、そしらぬ顔で、着だるまになって闊歩しているのだ。奈緒の知らないところでも!どこでも、あの姿で!歩いているのだ!
ふと、それは奈緒のなかでひどく許しがたいことに思えた。酷く自分に対して身勝手で、思いやりのない行動に感じた。
そうだ。私がここまで気をもんでいるのに。
明子は自分ばかり気にかけている。自分のことばかりで一生懸命なのだ。
それまではそれでいい、そう思っていた。思い通せると思っていたが奈緒はそれが
大層不思議になってきていた。
どうしてどうして、こちらの気まずさを明子は少しも考えないのであろうか?
いっそそれは悪意ではないか。悪意といってもいいのではないだろうか。
しかし、はっきり形にするのを恐れる。 なぜなら一度奈緒のなかで、感情を悪意と定義付けてしまえば、もはやそれは悪意にしかならなかった。それをひどくおそれた。恐れたからこそら今まで明子の行動に意味も定義もつけないよう努力してきたのだ。考えることを放棄したのだ。
明子の傍にいたかったから。
それだというのに、明子は、明子は…………
どうして明子はこうなのか!
6
明子と大喧嘩をした。結果として二人ともワアワアと泣いた。
実際には大喧嘩というより、奈緒が一方的に怒鳴り付けたに等しかったが、奈緒のなかでは大喧嘩もそれも大差のない、感情をそのままぶっつけるに過ぎない出来事にすぎなかった。
「でも、でも仕方がないの」
明子は呆然として、それからさめざめと泣き出した。思いもよらぬところからいじめつけられた、不意打ちを食らった顔をしていた。
そうして涙をしみじみ、さめざめと流しはじめ、呟いたのがその言葉であった。
「どうしても怖いんだもの」
しくしくと、本当にしくしくと泣く人間を奈緒はこの時初めて見た。そして、それが大層胸に堪えるものであることも知った。
奈緒の吐き尽くした胸のうちは、空洞になっていた。そこに明子の涙はさみしい響きで潜り抜けていった。
奈緒は明子の背をさすった。さまようような手つきであった。拒絶されなかったことにわずかな安堵を覚えた。
明子は全身がじっとりと濡れ湿っていた。全身は熱気球のようであるのに、表面は冷えた汗のために、わずかにひんやりとした心地を与えた。
気球の丸い背がひくひくとおこりのように上下するのを居心地の悪い思いで奈緒はさすり続けた。
こぼれでたのは、
「ごめん」
という、謝罪の言葉であった。すると本当に自分が申し訳ない気持ちになって、奈緒は余計にかなしくなった。
7
連続するガタンという音の間に、物を落っことすようなゴトンという音が入る。音に僅かに遅れるように奈緒の体は弾んだ。腹の奥で落とし物をしたようにうらうらと内臓が揺れる。舌の奥を押されたような妙な心地を抱える。飲み込むものもないのに飲んだような気がする。電車は時々苦手だった。
電車内はまばらに人が散っており、二、三歩よろければ人にぶつかる程度の密度である。明子の周囲にだけ人はおらず、明子を中心に半径一メートルくらいの円ができていた。その円のなかに食い込むように、奈緒は立っていた。もうもうとした蒸気の熱気に体を半分濡らされるような心地で、明子のとなり、拳一つ分あけた距離にいた。
電車が開く。一瞬涼しいような錯覚の後に、追うようにして、地下鉄と季節特有の熱気がむわりと入ってくる。
乗客はそれに押されるように、あるいはかきわけて泳ぐようにして、降り、または乗車するのである。
この駅での乗車率は高い。必然的に元いた人が押されるかたちになり、奥に追いやられる。そうして寄ってきた人の波に押され、一人の乗客が明子にぶつかり、靴のかかとを踏んだ。吊革につかまっている明子の体がゆれ、靴が半分脱げる。必然的に前のめりになり、明子に対面で座っていた男性客が、後ろに仰け反るように身を固くした。
明子は黙って靴を履き直した。押した当人である少女は、「うわ」と言って身をよじるように明子から出来る限り離れ、身震いするように明子に当たった腕を振った。一緒に乗り合わせていた友人に「何か濡れたし」
と耳打ちした。聞こえてもかまわない、そんな風な囁き方であった。
奈緒は明子の手を握った。明子の固く縮こまろうとしていた身が、奈緒の方へ向いた。驚いたとも、迷子のようともいえる表情であった。奈緒はそれには知らない振りをした。なにもかも知らない、といった顔をするように努めた。握った手は、じっとりを通り越してぬるぬるとしていた。時折、手首から伝った汗が重なった手の隙間をほとほと伝った。そのたびに、手首、頬、肩や背など奈緒の体は生理的に震えようとするが、それらを理性で抑え込んだ。
電車に揺られていた。明子が顔をぬぐうのがわかった。汗かと思ったが、鼻をすする音と、電車の揺れとは違う規則的な震えが、明子から伝わってきて、泣いているのだとわかった。
奈緒は素知らぬ振りをして手を握り続けた。恥ずかしく、そして誇らしい気持ちで一杯だった。
8
喧嘩をしてから、改めてよく見て、明子が周囲の奇異の目線に気づいていないわけではないことに気づいた。明子は、他人の目が残酷な光を覗かせたとき、マフラーの内に、サングラスの内に隠れるように身も視線も竦めるのだ。
奈緒は周囲ばかり気にして、一切気付かなかった自分を恥じた。
明子を勇気づけるように、奈緒が手を握る。首を竦めたとき、呼び出すように声をかける。すると、明子はぴくりと動いて、それからはにかむのであった。迷子の子供が名前を呼ばれたような顔を、おろおろとした挙動で見せる。
明子のその顔に、窺うように奈緒の目を覗き見るしぐさに、奈緒はかつての明子の面影を見た。すると、何やら心がほどける心地がし、誇らしくなった。
サングラスごし、結露の向こうで伏し目がちの黒々とした瞳を見つめ、これでいいのだと思う。
未だに、明子のもとへ歩いていくとき、足がすくむ。明子が奇異の目線にさらされていると、自分の首が燃え上がるように熱くなる。けれども奈緒は、明子の傍にいてやらねばと思う。
それは、着ぐるみの奥、気遣わしげにこちらを見る明子の視線が、竦める身があるから。 だから実際に、奈緒はもはや自分への関心などなくてもいいとさえ思えるのであった。
9
お皿の上に横たわっている茶色の丸い存在たち。自分が主役であることを理解している堂々たる振る舞いながら、可憐さを決して失わず、はにかむようにこちらに微笑んでいるかのようで、皆まずスマートフォンのカメラを向ける。
奈緒も例外ではなく、可憐に着飾ったそれらをカメラにおさめたのち、ナイフとフォークを持って、当たりをつけようと目を巡らせた。
迷っていたが、クリームが溶け始めたので、結局一番端にいるものに決めた。たっぷりとしたその体にナイフをいれると、焼き目とクリームがさふりさふりたぷりたぷりと音を立てた。
そうして、ふわふわもちもちと所在投げに、大きな塊とフォークに押さえられた小さな塊に切り分けられた。断面から熱々であることを示すように湯気が上がってきて、手のひらに熱が伝搬する。奈緒は、小さな塊の方に、たっぷりとクリームとメープルシロップをからませて、頬張った。
「おいしいね」
対面で同じ動作をしていた明子が、大袈裟なほど感動した目で訴えてきた。実際は明子のサングラスは曇っているのでそう見えないのだが――見えなくても存外見えるのだと奈緒は最近学びつつあった。
「うん、おいしい」
奈緒は笑い返した。
休日、奈緒は明子とパンケーキを食べにきていた。隣の客は仕切りを作るように、明子と自分の間に鞄を置いていた。席と席の間隔は十分に広い。そんなもので陣地取りをしなくとも明子が向こうに食い込むこともないだろう。少し嫌な気分になった。
それ以外は楽しいお出かけだった。このお店に来るまでも、お店に並んでいるときも、ずっと奈緒は明子とおしゃべりをしていた。いろんなことが話せまた聞けて、嬉しかった。ずっと手は繋いでいた。
店内は涼しかった。焼きたてのパンケーキの熱で汗ばんだ肌がエアコンの冷気によりまた冷やされる。
それでもまだ暑さが買った奈緒は、自身の長袖の袖をつまむと、パタパタと風を送りこんだ。
学校での明子も相変わらずである。手を振り振り近づく巨体に、咄嗟に身構える気持ちをほどくのも慣れた。
「奈緒ー」
明子が奈緒を呼ぶ高い声が、辺りをまっすぐに抜けていった。ふいに日差しが一際強くなった。つられるように、時期外れの蝉が季節本番の鈴虫に合わせて大きく鳴く。りんりんと、不協和音とも輪唱ともつかない大きな音の波を背に、明子は奈緒に追い付き、はにかんだ。
夏休みは終わったといえらまだまだ暑い。奈緒はカーディガンで軽く額に浮いた汗を押さえた。
10
何たることか。明子がマフラーをしていないのである。奈緒は久しぶりに明子の顔の全面を労苦なく見た。唇が言葉に合わせて動くのを明瞭に見た。それは、奈緒に晴れやかな笑顔を浮かべさせた。そして同時に、どこかすっとしない、ぎこちない予感めいたものを与えた。
「どうしたの、何か雰囲気違うくない」
何気なさを装い、そう尋ねると明子は、少し視線を上にさ迷わせ、うーんとうなった。それは決して不快な逡巡ではなかった。このわずかな動作の間に、明子の中に負の感情は見当たらなく、むしろ、逆であった。明子はその変化を、前向きに捉えているように感じた。
奈緒の心に一抹の希望がわく。このまま明子が戻ればいいのに、そう思った。
しかし、どうにも奈緒のその独白には、妙な後味の引く余韻があって、奈緒自身それに首を傾けた。
11
明子がまたマフラーをつけている。水蒸気を浴びたように濡れた鼻から額を見て、何だまたかと奈緒は思った。この間のことは奇跡であり、やはり明子は戻らないのかもしれないと、やけに自分のなかで納得した。どうせすぐにこの奇跡は終わると自分で予期しているからこその、あの時の自分は微妙な反応だったのだと、奈緒は理解した。だからこそ、奈緒は諦めに似た寛大な笑顔でもって、明子を迎えた。
明子に変化はない。ただ少し付け加えるなら、時折、ほんの時折快活に笑うようになった。季節は秋も本番である。この時期になると、明子の格好はそこまで周囲から浮かない、奈緒は胸を撫で下ろす。
「それでね、」
声音を舌の上で転がすように、明子は話す。その様子を見ながら、重い荷を下ろしたような、少々身軽になった心地で、厚手のショールを遊ばせながら明子と歩いた。
12
それにしても、明子はあれで平気なのだろうか?奈緒はふとしたときに思い立った。
夏や春にあれだけ着込んでいるのに、冬が同じ装備だというのは随分とわりに合わないのではないだろうか。
明子はあれで自分の身を守れると思っているのだろうか。
奈緒は思案する。守れるはずがない。結論を出す。
そうして、その自分の判断をおかしいと思う。服は着るもの、飾るものであり、そんな守れるだとか、そういうものではないはずだ。奈緒は自らのずれた発想を訂正する。
自分の思考をもとの規範に戻して、奈緒は安堵する。よそう。奈緒は思考を止める。第一、そんなことを不用意に尋ねて、明子の状態が悪化しないとも限らない。明子が気づいていないなら結構なことではないか。奈緒は納得する。
しかし、凪いだはずの思考に、また疑問が浮かんでくる。
あれで平気なのだろうか?
13
奈緒の日記
○月△日 明子、変化なし。一緒にパンケーキを食べに行った。
△月○日 変化なし まだまだ暑い。
△月△日 明子、マフラーをつけていなかった。どうしたんだろう。いいけど。
△月□日 またマフラーをつけている。
□月○日 変化なし。大分涼しくなったから、随分と気が楽だ。
□月△日 変化なし
×月○日 明子、変化なし。
それにしても、明子は冬と夏で装備を変えないけど冬は安全ということだろうか?
×月△日 明子 マフラーなし おかしい。何で今?
14
親友の明子が、狂った。前触れもなく、昨日、映画を見に行こうと約束し、別れたところまでは普通だったにもかかわらず。
尤も「狂った」という言葉から、およそひとが連想する様な激しいものではない。ただ、今目の前に立つ明子と昨日までの明子、そして明子の言動を合わせて、それ以外に形容する言葉が見つからなかった。
「今日は寒くなかったから」
そう明子は言った。真っすぐに奈緒を見つめる目は、声音と同じく至極真面目だった。
奈緒ははじめ、何を言っているのだろう、そう思った。視線を明子の目から、明子の服装へと移した。明子はコートを着ている。コートの襟から見える首は、タートルネックのセーターで覆われていた。そしてスカートとタイツをはいていた。
季節は、寒風が骨身に染みる頃。
少々心許ないとはいえ、そこそこ典型的な冬の装いと言ったところだ。
「なんでそんな恰好してるの」
五分以下の沈黙の後、奈緒の口から漸くこぼれ出た言葉だ。そして、それに対しての答えが、冒頭のそれである。
朝起きて、支度をしようとすると、日差しが暖かかったそうだ。
「それでね、今日はそんなに着込まなくてもいいかと思って。……でも、ちょっと薄着過ぎたかなあ」
説明しながらも、明子はコートの上から腕を寒さを示すように擦っていた。奈緒は、明子の言葉に少しめまいがし、不安になった。
寒くなかったから、ときた。
「日差しなんてあてにならないね」
両手を擦りあわせ、ふーと息を吹きかけた。そうして奈緒の方を見て、困ったように眉を下げた。
日差しがあてにならない?何をいっているのだろう。それよりも大切なことが、明子にあったのではないのか、奈緒は呆然と明子を見つめながら思う。
果たして、そんな装備で守れるものだろうか。
守れない。守れるわけがない。寒さ?そんなこと言っている場合ではない。
奈緒は瞬時に思う。ただでさえ、厚手の服を着たところで、刃物に太刀打ちできるはずもない。だというのに、体感温度で、今日の装備を薄くするだなんて。明子のそれは聊か「ずれた」対応に感じた。しかし今さら言ったところでどうしようもないので、口に出しすらしなかった。そもそも一番いいのは家を出ないことなのだから、しかしそれは、今日外で会う約束を取り付けた昨日の奈緒自身の言葉を裏切るものだった。
ただ、見ていて心許ない。だから気になる。そして映画は見たい。そして元来、奈緒は消極的で慎重派だった。明子の対応の悪さを指摘して傷つけはしまいか、そんな懸念がわいた。迷った奈緒のとった行動は、目をそらすこと――それは現状にも、明子の姿にも――と、そして
「あ……そう、まあ、とりあえずいこっか」
いつも通りを装う事だった。その臆病な行動に罪悪感がそっと追いかけてくるが、見ないふりを決め込んだ。だってどうしようもないではないか、そんな自己弁護で叩き伏せた。とりあえず明るい所、そして暖かいところへ行こう。危険も寒気も、そこが全て解決してくれるだろう。
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道を歩けば、人々は、自分たちに奇異のまなざしを向け、そらしていく。自分たちにふれないように、すっと距離をあけすれ違っていく。他人のその行為はもはや奈緒にとってなじみ深いものであった。
しかし、奈緒はここ数日、意識を新たにして、他人の反応というものを感じるようにしていた。それは奈緒の明子への友情によるものであった。
そして今日、やはりおかしいのだと奈緒は確信した。
やはりこの事態はおかしい。――明子はやはりおかしい。
明子の今日の出で立ちは、スウェットに膝丈のスカート、そしてダウンジャケットだった。そんな軽装備であるにもかかわらず、のんびりとした様子で、今も隣を歩いている。
奈緒は一度、明子を傷つけないように気を払いつつそれとなく「薄着で大丈夫なのか」と尋ねてみた。すると明子は笑って
「奈緒のおかげ」
と言った。その言葉は嬉しかった。しかし、それでも、いやだからこそ、自分への友情のために自らの命を危険になんてさらしてほしくなかった。
外は、危険がいっぱいだ。それなのに自らの装備を薄くするなんて、考えられないことだ。やはり、正気の沙汰ではないのだ。証拠に皆、明子を避けて行くではないか。
しかし、そう思ったところで、それを直接言葉にして指摘するのは、やはり奈緒には躊躇われた。明子は自分がおかしいということを気にしている。恥じている。それでいて、やめることができないのだ。その事を先の諍いで、奈緒は知った。そして、そんな明子の理解者になろうと、決意したのだ。
世界が明子を奇異の目でとらえても、自分だけは、明子の側にいるのだ。その決意は奈緒の中で、いっとう輝かしく、かたい友情の証であった。
しかし、今の状態を放置することはできない。明子の狂態を受け止めるのも友情なら、今の状態を放置することができない、今の奈緒の気持ちもまた友情なのである。
なぜなら、命がかかっているからだ。明子の狂態を受け止めてやりたい。しかし、明子の命を守りたい。奈緒にとって一番大切なのは、明子なのだから。
明子を傷つけずに、察してもらう。そのためにできることは何だろう。
奈緒は、巻いていたマフラーに薄く隙間を作り、風を送った。知らぬ間に汗ばんでいたらしい。冬の外気は奈緒の湿ったマフラーと肌を冷やした。奈緒はあわててマフラーを強く巻き付けなおした。
その日の夜、奈緒は決意した。明子に自分がいかに危険であるか気づいてもらうのだ。今度こそ明子を傷つけない。そして明子を守ってみせる。
そのためには、自分がそれとなく明子に危険だと示す必要がある。奈緒は決意をある固めた。
16
次の休みの日。奈緒はいつものように、明子を待っていた。今日は、二人で買い物にいく予定だった。今日こそ、という思いがあった。そのせいか、ざわざわという音も少し遠く感じる。緊張のせいか、視界が曇る。
明子がやってきた。ぼやけて見えてよくわからないが、やはり今日も変化はないようだ。
気づけ明子!奈緒は遠くからやってくる明子を迎えた。
17
奈緒は明子の隣で、ほっほっと、息を吐いて歩いていた。いつものように自分たちを道行く人が避けていく。その奇異のまなざしにも、今や二つの意味が込められていることが奈緒にはわかっていた。しかし、本当に気づいてほしい人といえば、今もぼんやりと隣を歩いていた。
――明子を救う。そのために奈緒がひそやかな努力を始めて二ヶ月ほど経つ。今のところ、効果はなかった。はじめのうち、明子は少し自分を見つめたが、それだけだった。自分の努力をまったく察さない。
どうして明子はこうなのか。
――そう、怒りがわかないでもなかった。しかし、奈緒はこの半年でとても忍耐強くなっていたのだ。絶対に明子に気づいてもらう、それまでは耐えてみせる。だから、ただ、努力と忍耐の容量を日に日に増やしていった。ふいに、明子が奈緒へ視線をよこした。奈緒は期待を込めて見返した。
「なに?」
明子は無言であった。しかし、明らかに、何か言いたげな表情をしていた。ただ、こちらの様子をうかがっているのが、そのもぞもぞと動く視線や顔の向きからわかった。
「なに?」
奈緒は問い返した。
「ううん」
しかし、明子から帰ってきたのは否定であった。
「何でもないことないでしょ」
思わず語気が強めになった。期待をしている分、明子の煮え切らない態度が焦れったくなったのだ。言葉だけでなく視線でも、言葉にすることを求めた。もちろん、一番求めていたのは、明子が気づいて、改めて来てくれることだったが、この際、改めてくれるのは次からでもいい。奈緒はそこまで譲歩していた。
――気付け明子――気づいたか、明子。
奈緒は自分の目がもはや明子をにらんでいることに気づいていなかった。明子はそれでよけい萎縮するのであるが、奈緒は気づかない。二人は気づけば立ち止まっていた。通行人が、二人を迷惑そうに避けていく。その視線にも、明子はうつむいた。奈緒は、明子が怯えているのに気づいていなかった。というより、そんなことはどうでもよかったのだ。いつものことだったし、それより大切なことがあった。だから、ただ明子だけを見つめて、
「なに。言ってよ」
「なに」
「ねえ、なに?」
と何度も何度も、何度も繰り返した。雑踏が遠くなる。奈緒は、明子と世界に二人きりのような気分だった。
そうして、長い、長い時が経って――ようやく、明子が、意を決したように、顔を上げて口を開いた。
「奈緒、いったいどうしちゃったの?」
18
明子の言葉に、奈緒は虚をつかれた。さっきまで浮かべていた疑問符が霧散した。しかし、その奈緒の様子に今度は明子の方が気づいておらず、言葉をつむぎだした。ずっとせき止めていたのか、一度言葉にし出すと止まらないようだった。明子は、いっそ夢中といっていい、言葉に熱さえこもっていた。
「最初は、私に合わせてくれてるのかなって思ってた」
「だから、悪いなって、でもうれしかったけど」
「でも、最近は――変だよ」
「おかしいよ。私が言うのも何だけど……どうしちゃったの?」
そうして、すっ、と奈緒を指さした。
奈緒は、明子の言葉をどこか遠くで聞いていた。あれだけ言葉を乞うたにも関わらず、明子の言葉は上滑りしていくばかりだった。明子の言葉が、奈緒の予想外にあったからだ。雑踏が復活し、奈緒の脳を揺らした。その間に、明子の言葉が、宙で旋回し、そうして奈緒の脳に戻ってきた。
奈緒はその言葉をゆっくりと咀嚼した。
咀嚼しながら、ぼんやりと自分の姿を見下ろした。
上半身には、硬い布素材のシャツの上に厚手のセーターを着て、下半身にはタイツと裏起毛のデニムを履いている。その上から大きめのスキーウェアを身につけ、さらにダウンジャケット二枚と、大ぶりなコートを羽織っていた。首には手編み素材の重いマフラーを巻き付け、頭にはニット帽をかぶっていた。手には手袋をはめ、そして顔には伊達眼鏡をかけマスクを着けている。
限界の限界まで着込んだ姿は、ぱつぱつとこれ以上なく膨らんで、腕と足の可動域を狭め、よちよちと歩かねばならないほどだった。
――季節は、もうすぐ四月を迎えるころであった。
奈緒はショーウィンドーに映る自分を見た。自分を見て、避けていく人々の姿も、目に映った。そして、明子の顔を見た。曇った視界越しにも、明子が自分をおそれているのがわかった。
ぽたり、伊達眼鏡から汗のしずくが落ちた。
その瞬間、奈緒をおそったのは激しい怒りであった。
「なによその目は!」
思うより早く、奈緒の怒りは言葉に変わっていた。
「あんたのせいじゃないの! あんたのためじゃないの!」
奈緒は明子を指さした。着膨れした腕は、ぴたりと止めることが出来ず、びいんと揺れた。
奇異の視線には気づいていた。その事にたいして、羞恥はあった。しかし、そんなものはずっと、ずっとあったのだ。明子が変わってから、そして自分が明子のためにこのような格好をするようになってからもそうだった。奈緒はそれをずっと耐えてきたという自負があった。耐えたのは、奈緒の、明子への友情のためであった。
「あんたがそんな薄い装備でいるから! このままじゃ殺されるかも知れないから! でも、変だって言ったら前みたいに傷つけるかもしれないから、だからこうやって示してたのに! ちゃんと服を着て身を守るように、前の格好に戻らせるために、がんばってたのに! 恥ずかしくても、がんばってたのに!」
そして、明子を死なせたくないという覚悟だった。
しかしその明子自身に、こんな奇異の視線を向けられるとは思わなかった。それは奈緒にとってはどうしようもなく理不尽で、悲しく、耐え難いことだったのだ。
「どうしてそんな目で見るの! ひどいじゃん! 裏切り者!」
奈緒は感情を止めることができなかった。頭がぐらぐらする。それが怒りのせいか、暑さのせいかもはやわからなかった。ひとしきり叫ぶと、今度は涙があふれ出てきた。奈緒はつらくて、ひざまずいてしまった。そうして顔を手袋をはめた両手で覆った。顔を覆うにも脇や肘がつっぱって、よけい悲しくなった。ざらざらとした生地が顔にあたり、涙をじわじわ吸った。
「きちがいかよ」
通りすがる、誰かがぽつりと漏らしたのが聞こえた。奈緒は涙まみれになった目を見開いた。しかし、胸の痛みに耐えられず、またかたく閉じた。
ちがう、私はくるってなんかいない。くるっているのは――
次の言葉は継げなかった。奈緒はうずくまって泣き続けた。
完.