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箱の中身、感情のありか

 私と姉は同じ部屋だった。
 おもちゃ箱はふたつ。姉のおもちゃを、私は使ってはいけないからだ。
 私は部屋を出ていくとき、いつも私の箱に、おもちゃをしまう。そして部屋に戻ってきたときに、まっさきに姉の箱を探した。
 姉は私がいないとき、私のおもちゃで遊び、自分の箱にしまうからだ。

「盗ってないし! てゆーか私のおもちゃ箱、触んないでよ!」

 姉に文句を言うと、いつも逆ギレされて、母に告げ口された。
 母は話を聞かず、私に「駄目よ」と言った。私が抗議すると、

「心がせまいのね。仲良く遊びなさい」

 と言った。私は、姉のおもちゃを使ったことはない。一度使ったら、姉は泣きわめき、母に酷く叱られた。

「お姉ちゃんは使うのに」
「仕返ししようとしたの? 意地悪ね」

 姉は、私のおもちゃを枕において、ジャマなときだけ、自分の箱にいれるようになった。

「あんたが大事にしないから、使ってくれてるのよ」
「お前が意地悪だから、姉もストレスがたまるのよ」

 母はいつも、姉を叱らなかった。 
 私は宝物を箱にいれるのはやめた。箱に入らないものを、宝物にした。
 それは友達とか思い出だった。
 夜、ときどき姉は、箱の中をじっと見つめている。
 欲しいものは箱を見てても手に入らないよ。
 私はねたふりをしながら思った。

 高校生になって、私達は引っ越しをした。
 荷造りをしていると、姉は私に、自分の箱を差し出してきた。

「これあんたのでしょ」
「もう私のじゃないし」
「そうやって私にいつも押し付けるよね。ちゃんとしてよ」

 そう言って、箱の中身を私の膝にひっくり返す。荷造りが終わったと、部屋を出ていった。
 この春、姉は初めての彼氏ができた。私より早く彼氏ができたことは、姉の自尊心を満たしたらしい。
 私は私のもので、姉のものだったものを見おろす。
 姉は幼い頃の箱の中身を、すべてを過去の遺物にするらしい。そしてそれは、私にも出来た。
 けれど、私は自分のダンボール箱に、それらをそっとしまったのだった。


 完.

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飲み下した、

前編

 飛び込むように部屋の中に入った。
 重いドアの閉まる音が響く。薄っぺらな造りの玄関に靴を脱ぎ捨て、電灯のスイッチに手を叩きつける。乾いた音に次いで明るくなった廊下を行く。響く足音は気にしなかった。


 短い廊下はすぐに先のドアに突きあたる。佳代子は、ドアを開くと中に入り、また電灯のスイッチを叩くと、カバンを床に放り投げた。

 カーペットでは衝撃を吸収しきれず、重い鈍い音が立つ。余韻は最小限に、辺りは後味の悪い静けさに包まれる。電子音が空しく重なる。佳代子は居心地悪く眉をしかめた。そうして落ち着けるように髪をくしゃくしゃにした。長い息をつく。

 窓ガラスに、眉間に深くしわを寄せ、口許を固く強ばらせた女の顔が映っていた。カーテンを開け放したままだった。

「……ごはん」

 強ばりのとけない、半端に開いた口で、佳代子はぼんやりと呟いた。本来口から飛び出そうとしたものを、寸でで変えた台詞だった。何故変えたかはわからない。変えなければいけない気持ちだけがあった。

 小さな冷蔵庫の冷凍室から、冷凍ご飯をひとつ取り出した。おひとり様ずつ、ラップに包んであるそれを茶わんに移し、電子レンジに放り込んだ。スイッチを押す。くるくる、暖色の光をまとって回転するそれをしり目に、佳代子は電気ケトルでお湯を沸かす。スイッチを入れて、することがなくなると、その間、佳代子は数回深呼吸をした。

 いそがなければいけない、けれど落ち着かなければいけない、相反した気持ちが佳代子の中でぐるぐる回っている。どうにか折り合いをつけたかった。

 解凍し終わったご飯に、梅昆布茶を適当に振りかけるとテーブルの上に置いた。箸を忘れていたことに気付き、佳代子は小さくざらついた声でうなった。首を振り、それに弾みをもらって立ち上がる。箸を取り戻ってくると、ちょうど湯が沸いたらしい、ケトルがカチリという音を立てた。

 佳代子は座ると同時に、湯をご飯に勢いよくかけた。粉末の梅昆布茶が半端に溶ける。
 いびつな形に盛られたご飯が浸るまで湯がくると、ケトルを置いた。茶碗の縁まで溢れそうになった危ういそれを、こぼさぬように用心して茶碗の底をそっと手ですくい上げる。これまでの動作の中で、一番優しい手つきだった。

 茶碗の縁に口をつけて、梅昆布茶をすする。熱に怯えるように、時折唇を離した。茶が食べやすい量に減るまでの間、それを繰り返した。そうしていい塩梅になると、佳代子は、お茶碗を顔に近づけたまま、手に持っていた箸で、中のご飯をやわやわと突き崩した。

 一度顔を離し、茶碗を俯瞰で眺めると、いよいよという風に顔を近づけ、ご飯のかたまりをすすった。開いた口に、固形物を投げ入れる様に箸を動かした。一緒に梅昆布茶が流れ込んでくる。ご飯のほのかな甘味と、梅昆布茶の酸味を、感じているのかいないのか、黙々と喉の向こうに通過させていた。箸が茶碗に当たる音と、加代子の熱から逃げるどこか自棄ばちな息継ぎの音だけが、辺りに満ちた。

 ふと、椀から顔を離した佳代子の目は茶漬けをにらみつけるように、見開かれていた。しかし佳代子は実際、茶漬けを見ているのではなかった。ただ視界に適当にいれた状態で機械的に咀嚼をしているのだった。

 そうしてふいに、佳代子の見開かれたままの目から、ぼろりと涙がこぼれた。間をおかず次の雫が落ちる。
 佳代子は目を閉じなかった。頬も拭わなかった。ただ、怒ったように、眉間の皺が深く刻まれた。顔を隠すように、椀にもう一度唇をつけると、また中身をかきこみ始めた。

 乱暴に箸を動かすので、茶碗が鳴る音がよりけたたましくなる。咀嚼がおいつかず、口の中にご飯がたまっていく。佳代子は無理やり喉の奥へ、流し込もうとした。
 息苦しさに、ぐっと喉を詰まらせて、きつく目を瞑った。椀を傾けた格好のまま、じっと固まる。それからしばらくして、つめていた息を、ゆっくり吐きだした。

 椀から離した佳代子の目は、涙と湯気に湿っていた。佳代子は箸を置いた。途端、息切れをしたように、しゃくりあげ始める。佳代子は開いた手で目を覆った。喉から、甲高い、震える息の漏れる音がする。不規則で不安定な、佳代子の泣き声が、ワンルームの部屋に響いた。
 自分を抱きしめる様に、立てた膝に顔をうずめた。佳代子は喉の奥に引く、悲鳴のような声を何度も上げた。
 それまで、必死で堪えていたものだった。しかし、わざと声を上げた。そうしないと耐えきれそうになかった。
 
 今日、帰り道で人身事故があった。電車は遅れた。誰かが、嫌そうに顔をしかめた。
 死んだのは、佳代子の知らない人だった。顔も名前も、知らない人だった。そもそも人身事故が起きること自体、そう珍しいものでもなかった。

 けれど、今日の佳代子はそれがとても悲しかった。見知らぬ人の死が、何故か、どうしようもなく胸に堪えた。辺りの喧騒、文句、無関心の中で、何故かいきなり、自分が落ちたような錯覚にあった。
 その衝撃を、誰に伝えていいかわからない。今流しているのは、佳代子自身意味が分からない涙なのだ。
 そしてそんなとき咄嗟にかけようと思える電話番号が、佳代子にはなかった。

 涙をぬぐう。拭っても、拭っても後からこぼれてくる。落ちたマスカラのせいで指が黒く染まっていた。きっと顔はお化けの様になっているだろう。それが滑稽で、みじめでひたすら悲しかった。
 一人暮らしの部屋は、やけに広くて、寒くて、心もとなかった。



後編

 進学し、地元を離れてもう二年になる。大学には慣れた。生活に不満はなく、留年の心配もない。一緒に行動する友人もいる。それでも佳代子は、時々、この部屋から向こうには、誰もいないんじゃないかと思うときがある。そんなときはいつも、胸が潰れる様に冷たくて痛くて、息もできないような気持ちになった。
 しかし、そんな気持ちはここだから生み出されたものではない、佳代子は思いたかった。原因を、故郷から離れたこの場所に、一人暮らしの現状に求めることは佳代子にとって簡単な事だった。けれど、それはできなかった。
 佳代子にとって、ここにいることが不都合なものではない。地元とは勝手が違って心細くとも、自分が選んで来た場所だと思っている。
 地元で満たされていた何かは、確かに佳代子のもとから去ったかもしれない。しかし同時に、ここに来たことで満たされたものがあるはずだった。それに見て見ぬふりをして、この気持ちの原因にできるほど、佳代子はこの生活を嫌いにはなれない。そうすることで、また自分が何かを失ってしまう。そんな予感が漠然とあった。
 むしろこの気持ちは、昔から佳代子の中にあったものなのだ。それが、完全な他人に囲まれた鉄筋構造のマンションの中で、耳鳴りみたいに響く電子音を一人聞いている内に、浮かび上がってきた。そしてふとしたときに、無意識で、自分はそれを掬い上げてしまったのではないか。そんな風に佳代子は思う。

 ――そう。もしそうなんだったら、問題は何だっていうんだろう?
 それはわからなかった。
 問題をみとめるために、何かを否定はしたくない。否定は悲しい。でも、肯定だって痛くてできなかった。

 結局、佳代子にできることは、こうしてひっそりと泣いて、息をつくだけである。
 ――万事順調で、問題ない。
 佳代子は最近心の中でつぶやく。確認して、感謝するための言葉に必死になるのはなぜだろう。
 きっとこれでいいはずなのに。

 佳代子は、部屋の片隅で、涙をぬぐいながら、天井のシミを眺め思った。寒がりのように震えていた体は、少しずつおさまりを見せ始めている。ゆっくりと息を吐き出して、うずくまって震える息を抑えた。
 手を伸ばせば届く距離に、携帯はある。でも、伸ばすことが今ひどく怖かった。
 躊躇なく誰にでも電話をかけてしまいたい。――絶対に通話ボタンを押してはいけない。
 声を聴きたい。――でも、声を聴いたらもっと辛くなる。
 相反する気持ちが、十数センチの距離を遠くさせていた。

 今はだめだ。
 暫くしてわいた言葉は、どこか決然とした響きを持っていた。だめなのは、自分の状態なのか、電話なのか――それは両方であった。
 心のなかで繰り返した。今はだめだ。
 ――いっそ打ち明けてしまえばいい。そうすれば、友人はまた新たな佳代子を知り、親密になれるかもしれない。そう自分を鼓舞する。なのに、こういう時には、どうしようもないほど自信がなくなってしまう。
 
 自分を知る人に、心の奥をぶちまけるのが、ひどく怖い。気持ち悪いと思われないだろうかだとか、ひとつの事が一大事になり、佳代子をおそう。

 ――それならばいっそ、知らない人相手なら、いや、そもそも、心に寄り添ってくれるなら、いやむしろ聞いてくれるならだれでもいいとさえ思えてくる。
 すると今度は、そもそも、自分の中の、恥部とも暗部とも判断がつかないデリケートな話を、やっぱり自分をよく知らない人間にはできないというプライドが邪魔をする。
 そして、打ち明けられるような人間がそもそも自分の傍らにはいないから、こんな考えに陥るのだと、改めて傷ついてしまう。

 そんな自分のことを傲慢だとも、馬鹿らしいとも思う佳代子もまた存在しており、全てを笑ってごまかそうとしては、失敗する。

 そんならちもあかないことを飽きず繰り返しては、佳代子は結局誰にも言えぬまま、一人の夜を過ごしている。

 『たとえ、話せる相手がいたとしても、絶対に話さないくせに』
 心のなかで誰かがいう。
 だからお前はそんなに寒いのだと言う。それは間違いなく佳代子の声であった。

 それでも、佳代子は今どうしようもなく、携帯に手を伸ばしたい。
 例えば誰にでもこんな日はあるか、とか――それだけは知りたくて。


完.

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小槻の活動報告&小説【好きだよ。】裏話【だれでも+無料プラン】

こんばんは、小槻です。
涼しくなってきましたね。布団の居心地がよくなってまいりました。
私はというと、せっせと作品の移行作業を進めつつ、姉いじのネームしたり、出させていただくイベントの準備をしたりしています。
またおしながきとかできたら、詳しくお話させていただきますね(^^)

姉いじは、二章からグレスケで塗りも工程に入れたいと思っていて、今練習中です。
うーん難しい。でも、昔から影を落とすのは好きです。なんだか奥行きが出るのがうれしい。
では、今日は目がちかちかするので、これからアナログ作業に切り替えて頑張ります。

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短編小説【好きだよ。】裏話です!

Free

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こぼれる、

前編

 マグカップを手に、蛇口をひねる。
 勢いよく落ちる水が、マグに注がれた。いっぺんに手首が重くなる。底にこびりついたココアが溶け、うすまって縁からあふれ出た。
 マグを持っていた手も、うす甘い液体に浸食された。しだいに鼻先から、甘い匂いがきえていく。マグの縁と手首から勢いよく水が、流れ落ち、安っぽい銀のシンクを叩いた。下品な音――私は自分の感慨を、とおい意識の奥で聞いていた。

――ひな。
 耳の奥で声がこだました。甘い甘い、あずきみたいなにおいのする……母の声。


「ひなはいい子ね」
  
 母は、そう言って私の頭をなで回した。猫をなでくるように、私の体を抱きしめた。
 母は、本当は男の子がほしかった。

「女の子は嫌、おろすわ」

 私ができたときに、そう父に泣きついたのだと、父方の祖母が私に教えた。

「ひなは私の味方よね」
 
 母は祖母に何か言われるたびに、そう私に確認した。
 祖母はよく母に、

「これだから育ちの卑しい人間は」
 
 と言った。そのときの祖母は、目をむき口をゆがめ、おそろしい顔をしていた。
 
「ひなはかわいいわね、美人さんね」
 
 たびたび母は、私の顔をほめた。囲むように両手で、私の顔を包みながら。
 私は母にちっとも似ていなかった。
 直毛で一重、薄墨のような眉に薄い唇の母。
 くせっ毛で二重、睫も眉も濃い、厚い唇を持った私。

「本当にあばずれの顔をしてるね」

 私の顔を見るたび、祖母は言った。あばずれの意味も知らない頃から、ほめられていないことくらいはわかっていた。
 祖母は私をけしてかわいがりはしなかった。嫌うほどの関心もなかった。邪魔な置物、そんな扱いだった。
 母はそんな私を、ことさらかわいがった。

「女の子なんて大嫌いと思っていたけど、あなたはとてもかわいい。産んでよかった」

 とたびたび言った。

「こんなに愛してるのよ」

 と私の頬をなでて言った。母からはいつもしめった、あずきみたいなにおいがした。
 母は疲れたときも泣いたときも、怒ったときもそう言った。怒ったときはどうして? と最後に付け加えた。

「ママは、ひなをこんなに愛してるのよ、なのにどうして?」
 
 母は私に、ピンクの服を着せて、
 
「これはすごく高かったのよ、雛のために買ったの。ねえ、うれしいでしょ?」

 と何度も何度も聞いた。ピンクは母の好きな色で、あこがれの色だった。何かのネジが外れたように、服や髪留めを買い込んでは、鏡の前で、私に着せかえた。
 
「ひなはしあわせね、こんなにママに愛されて、大事にされて」
 
 母は鏡越しに、にっこりと私に笑いかけた。
 母は、私をかわいがっていた。


中編

「うるさい! どこかへ消えて!」
 
 母は一方で、私を痛めつけた。
 それはいつ起こるかわからなかった。ずっと無視をされたり、腕を振りはらわれ、怒鳴りつけられた。
 
「ママはあんたの為に生きているんじゃない、あんたなんかに――支配されるいわれはないっ!」

 そこにあった腕をいたずらにつねるように、母の笑顔と言葉は一転した。
 その後、ふいに夢からさめたように、うつろな目をして、
 
「ごめんね、ひな。愛してるのよ。ママは愛してるのよ」

 と、泣きながらくり返した。私はしめった母の背を、いつもさすった。
 
 初経が来たとき、母は変な顔をした。それからやけを起こしたかのように、お祝いの料理を作りだした。
 
「ああどんどんオンナになるね」
 
 ごちそうを前に、祖母は母に吐き捨てた。母はそれに、半端に笑ってみせた。
 私の初経は遅かった。あばずれの意味も、その頃にはもう知っていた。
 いつも母は、祖母の言葉に黙りこみ、笑っていた。

 高一の時、祖母はホームにやられた。
 母は、「やっと片づいた」と言った。

「あんなババアの介護なんて無理ね。絶対に殺してしまうもの」
 
 「パパには内緒よ」と笑った。
 祖母のことはたいして好きでもなかった。けれどそんな言葉、聞きたくなかった。
 それから母は私に「内緒話」をするようになった。私を子どもではなく、一人前の友だちと認めたように。
 
 ――裏切り者。
 ひきつった低い声が耳の奥でこだました。
 耳鳴りのように頭をきしませて、私は頭を振る。
 マグと水の重みに疲れた手首がぐなりと下がった。コップの側面に水があたり、あたりに飛び散った。
 その飛沫を頬に受けながら、私はくり返す。
 ……反比例するように、そう、反比例するように……何でも話す母と……

 
 大学生になり家を出て、私は母に秘密が増えた。

「ねえ、何してたの? これは何? ママこんなもの知らないわ。誰と買ったの?」
 
 母は私のことを、何でも知りたがった。
 友達、学校生活、日記の中身――私に恋人ができて、抱き合ったことさえ、きっと。
 私は必死に隠しだした。そこに心があるのだと知ったから。

 ふしだら、裏切り者、信じていたのに、ずっとずっと――
 
「ママは、ずっとひなを愛してきたのに、どうして、どうして裏切るの」
 
 やっぱり私を捨てるのね。私は何も言えなかった。呆然と、打たれた頬のしびれを感じていた。
 
「あんたなんて私の子じゃない」
 
 大嫌い、大嫌いよ――散乱した部屋の中で、床にうずくまって言った。
 祖母のあばずれ、と言う声が聞こえた。
 
 私のもう一人の祖母――母の母。
 彼女は、母が七つの時に、男と一緒に消えた。子どもの母を置いて消えた。
 
「お前は卑しい血をひいてるよ」
 
 私は父方の祖母から教えられた。
 ちゃんと知ったのは二十歳の時だった。私は実家に帰って、母とふたりお茶を飲んでいた。

「ねえ、ひなのおばあちゃんは、ママを捨てていったの」

 ひなのおばあちゃん、母は自分の母をそう呼んだ。父方の祖母のことは、けして私のおばあちゃんと言わなかった。
 
「とってもきれいだったの。でも、男にだらしない人で、私をいつもほったらかした。だから私はね――絶対子供をほったらかさない母親になるって決めたのよ」
 
 ――ねえ、幸せでしょう。
 母の目はそう言っていた。
 
「ママ、おばあちゃんのこと大好きだったわ、でも憎くて仕方ないの。ときどき、憎くて、憎くて……たまらなくなる」
 
 母は、遠くを見ていた。それから不意にぐるりと私を見て言った。

「ひなは、おばあちゃん似ね」
 
 三日月に反った目が、私をとろけるように見つめた。
――おばあちゃんの名前、みどりっていうの――


後編

 昨日、母が私を訪ねてきた。
 母は青の服を着た私に、顔をしかめた。
 
「また、そんなださい色の服を着て」
 
 似合わないわと言った。けれど私は本当は、ずっと青色が好きだった。
 
「女の子なんだもの、愛されるようにかわいくなくちゃ」
 
 母は、私に女の子らしく、かわいくあることを求めた。

「いやらしい。ひなにはママがいるから、男の子なんていらないでしょう」
 
 一方で母は、男に愛されることを否定した。私が男と話すのさえ、嫌っていた。
 でも、私はずっと男に抱きしめられたかった。「安心してここにいていいよ」と言われたかった。
 
 結婚を考えている人がいる。
 私は母に言った。
「聞いてないわ」
 と叫ぶ母に、私は続けた。
 仕事が一段落したら彼の元へ行って結婚しようと思ってるの。
 
 彼の新しい勤め先は実家からほど遠い北の地だった。
 母はひたすらに反対した。
 長い長い押し問答の末、母は「それなら」と言った。

「ママも連れてって。どこだってひなとママは一緒でしょう」

 ねえ、きまり――何とか妥協した母に、私は首を振り、彼と二人でやってみたいと言った。
 母は悲鳴をあげ、空になったマグカップを振り上げた――
 
 蛇口を閉めた。
 ぼんやりすると、私は水をずっと流している。古びた蛇口はしまりがわるい。しずくがぽつぽつとマグとシンクに落ちる。しめった音が、何度もする。
 何時間にも渡る恐慌だった。
 結局、母は出ていった。
 
「ひなはこれがいちばんよね」
 
 母のいれたココアは久しぶりで甘くて、舌に残った。
 日は落ちる。夕日が射し込んで、薄暗い部屋を赤く染めた。
 
「がんばってきたのに……」
 
 また声が聞こえた。去り際の母の声だ。
 産むんじゃなかった、かなしい小さな声で呟いた。
 
 久しぶりの母の背は薄く小さかった。いつものまとめ髪は、乱れていた。よろよろと出ていく背を、私はじっと見送った。
 
 夕日の射し込むキッチンで、母がシンクに立ち尽くしている。幼い私が駆け寄る。
 母は水を流しっぱなしで、声をかけても聞こえていないみたいだった。
 
「お母さん、見てみて!」
 
 その日はテストで百点を取った。でも母は返事をしなかった。暗くなってもずっと。

「ねえ、愛してるのよ」
 
 母は何度も私に言った。

「ひなもママを愛してるわね。ひなはずっと一緒にいたいわよね」

 母は、私のことを何でも知ろうとして、そして何でも知っていた。
 でも私が本当にほしいものは、ずっと知らない。
 
 派手な巻き毛の女が、玄関から出ていこうとする。青い服の女の子がそれを追った。
 女はついてこないで、とすら言わなかった。
 ドアの向こうに立つ男に、極上の笑みを見せつけた。何か聞く男に、気にしないで、と言った。
――ママ!
 幼い顔は涙にまみれていた。細面の、薄い顔――
 蛇口から、しずくはまだこぼれていた。辺りはとうに暗くなっている。
 
「ちゃんと私を見て」
 
 私の声に、幼い悲鳴が重なった。



完.

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狂態カンセン


 親友の明子が、狂った。前触れもなく、昨日、映画を見に行こうと約束し、別れたところまでは普通だったにもかかわらず。

 尤も「狂った」という言葉から、およそひとが連想する様な激しいものではない。ただ、今目の前に立つ明子と昨日までの明子、そして明子の言動を合わせて、それ以外に形容する言葉が見つからなかった。

「なんだか、殺されるような気がしたの」

 そう明子は言った。真っすぐに奈緒を見つめる目は、声音と同じく至極真面目だった。

 奈緒ははじめ、何を言っているのだろう、そう思った。視線を明子の目から、明子の服装へと移した。明子は冬物のコートに、マフラーをまいている。明子が、時折縛る様に巻きなおすマフラーの隙間から見えた首は、タートルネックのセーターで覆われている。

 季節は、桜の葉が青々としてきていた。日差しは、春の面影を忘れさせるほどに暑い。

 当然だが、マフラーとセーターから飛び出した顔は、汗に濡れそぼり、蒸気がもうもうと立ち上らんばかりだった。

「なんでそんな恰好してるの」

 五分以下の沈黙の後、奈緒の口から漸くこぼれ出た言葉だ。そして、それに対しての答えが、冒頭のそれである。

 朝起きると、明子は誰かに殺されるような、そんな妄想に取りつかれたらしい。見知らぬ人間に、背を刺される。

「背にぶつかられた、そう思ったら、私は刺されていて。熱い、そう思った瞬間、心臓がそこに移動したみたいに脈打って、温かい液体が腰や足を伝っていって。わからないまま、私は咄嗟に足元を見て、それで血だって気付くの」

 あるいは、喉を裂かれ、胸を突かれ……バリエーションは様々だった。同じなのは、噴き出す赤い血――特に喉からが壮観だったそう――止めようにも止まらず、体は震えだし、冷え、痙攣しだす――どうやら、ずいぶんリアルな妄想だったらしく、説明しながらも、明子は着ぶくれて太くなった腕を何度も擦っていた。血の類の話があまり得意ではない奈緒は、明子の言葉に少しめまいがし、不快になった。しかし、目の前で、ぐずぐず明子の顔を濡らし、鼻の下のくぼみにたまり、また涙の様に睫毛にまとわりついている汗が日に照らされ光っているのを見ていると、そう言っていられない気もした。

「それで……私、怖くて。少しでも、隠さなきゃいけないように思ったのね」

 マフラーを鼻の下まで持ち上げた。ついでにさりげなく鼻の下のくぼみに溜まった汗をマフラーで拭ったのが見えた。毛糸に雫の光が幾分移動する。

 明子は、暑さなどは感じていない様に見えた。それよりも、自身を襲う、「殺されるかもしれない」という妄想を取り払う方が重要なのだ。

 しかし、そんなもので果たして、守れるものだろうか。

 守れない。守れるわけがない。

 奈緒は瞬時に思う。厚手の服を着たところで、刃物に太刀打ちできるはずもない。明子のそれは聊か「ずれた」対応に感じた。言ったところでどうしようもないので、口に出しすらしなかった。家を出なければいいだろう、という言葉は、今日外で会う約束を取り付けた昨日の奈緒自身の言葉を裏切るものだった。

 ただ、見ていて暑いのだ。見たくはない。しかし映画は見たい。そして元来、奈緒は消極的で慎重派だった。異様さを指摘して傷つけはしまいか、そんな懸念がわいた。迷った奈緒のとった行動は、目をそらすこと――それは現状にも、明子の姿にも――と、そして

「あ……そう、まあ、とりあえずいこっか」

 いつも通りを装う事だった。その臆病な行動に罪悪感がそっと追いかけてくるが、見ないふりを決め込んだ。だってどうしようもないではないか、そんな自己弁護で叩き伏せた。とりあえず暗い所、そして涼しいところへ行こう。集まる奇異の視線も熱気も、すべてそこが解決してくれるだろう。




 甘かった。

 奈緒は心のなかで、そう強く断じた。断じたのは初回の明子の奇行に対するおのれの対応に対してで、そして今まさに十一回目の奇行に遭遇していた。十一回目の奇行、それは初回とあまり変わってはいない。しかし、変わってはいないからと言って軽度ととられるべきではない――少なくとも奈緒はそう思っている――無論尚更酷くなっていくよりはましに思えるであろうが、明子が異様な様相であることに変わりはないのだ。

 その異様な様相を、毎度ぴたりと寸分たがわずされる、という心理的負担は中々のものであるらしく、奈緒は最近出がけにお腹が張るようになった。

 そして、尚悪いことは、明子は変わるまいが、季節は変わるということである。季節は若葉の色濃くなる、初夏に入っていた。

 もうもうと明子から立ち上る湯気が、会うたびに肥大していく。それは明子の自意識の膨大、明子自身の膨張であり、奈緒の体感でいうと明子は今力士よりも大きかった。

 隣に寄るだけで熱い。気温も暑くなってきたというのに、明子のそばはより熱いのだ。自ずと周囲が避けていく。避けていくだけならまだよいが、わかりやすく迷惑そうな顔を見せ、または気触れを見る目でこちらに視線を寄越す。その笑顔になりきらない、嘲笑や怖れの混じった顔を向けられるたびに、奈緒は自分のことではないというのに、奈緒の全身まで熱をもった。明子の膨張した己は、奈緒にまで及んでいるのだから仕方がないのかもしれない。

 また、同時に怒りもわいた。心情的には、彼等に共感するところが大いにあったというのに、不思議なことだ。だが、失敬だという義憤を友人のために抱ける自分でいられることにホッとした。






「おいしいね」

 おいしいわけなかった。クレープを食べる明子に奈緒はとっさに言葉をぶっつけそうになり、急ぎ飲み込んだ。

 もわりと湯気が立ち上る。一人蒸し風呂を作り上げているそのなかで、もうもうと汗に顔をべったりとはりつけるように濡らして、眼鏡を曇らせながら、べとべとと唇をクレープのクリームで汚している。

 そんな人間と天気のもとでクレープを食べて、食欲減退の激流を食らわない人間が果たしているのだろうか?奈緒はえづきそうになるのを必死で耐えた。明子は私の気持ちをわかっているのだろうか。非難めいた視線を思わず投げそうになり、目をそらした。

 するとおなじくクレープを食べていた客の一人と目があった。相手は目をあわただしくそらした。口許は笑っていた。気まずそうにしているが、気まずい、という様子を自身の連れに見せてあえておどけている、こちらを無視した気まずさだった。



 瞬間、体がカッと熱くなった。思わず力が入り、手の中のクレープのクリームがにゅっと飛び出した。こぼれる、それで「落ち着け」と自分に言い聞かすことができた。

 奈緒はクレープを持つ手の生温さを感じながら、自分の胸に沸々わく気持ちを、こなそうとする。周囲のジロジロとした視線。嘲笑。嫌悪、奇異。ただ異質なものを見るのに、どれほど多くの感情を人は多彩に使うのか。それだけでも居たたまれなく、神経が苛々と尖ってしまうのに、それが自分にも向けられている。それが突然どうしようもなく許しがたいものに感じた。

 クリームは暑気と奈緒自身の体温によってどろりと溶け始めている。それがまた不快だった。不快だ、そう思った瞬間、不意に、――なぜかこれが明子のせいだと思った。

「どうしたの」

 我にかえる。気づけば奈緒は立ち上がっていた。

この目の前の着だるまの服を、引っ付かんで服をひっぺがしてやりたい。服をとられ、昔の時代劇よろしく「あーれー」と地面を転がっていく明子のイメージが我に返った後からついてきた。奈緒はその残像を追いかけたまま、何をしようとしたんだろうととぼけたことを心のうちでぼんやりと呟いた。

 暑い。次に出たのがその言葉だった。

 そうだ、そもそも今日は暑いのだ。暑いから気が立ってしまうのだ。

 だから、これは暑さのせいなのだ……奈緒は心の中でぶつぶつ繰り返した。




 明子のことを、他の友人には話すことはできなかった。

 実際、話すこと自体は出来た。明子は菜緒以外の前でも終始あの調子である。だから、明子のことを話さないのは、相手がいないから、という理由ではなかった。

 たいてい話す相手が、甲虫の背のようにきらきらとした好奇や嫌悪の光を角膜の下に覗かせているのがわかるからだ。

 もちろん、どちらが口火を切るか、ただ迷うばかりの相手もいる。そんなときはただ二人とも「どうしちゃったんだろうね」「明子ね」とばかり繰り返す。それらは、終始不毛で実のない会話の応酬となり幕を閉じるが、そういう相手の方が、菜緒はむしろ気が和らぐような気がした。ただ、心配だけがそこにあるのがわかったからである。

 菜緒が、その「甲虫の視線」に気づいたのは明子のことを共通の友人に話していたある時のことだった。

 互いに腹の探り合いのような会話、「明子ね」「やっぱりまた?」と当たり障りなく、心配の素振りを見せ合うだけの会話は、ただ不安を見せるだけの友達と何らかわらない。しかし。

 なぜだかその友人とは、やっぱり話すことはできないという実感を、話そうとするたびに深めてしまうことに気づいた。この時菜緒は相手の目に――もしかしたら互いにかもしれないが――友人が変わってしまったことへの「不安」以外のものを見つけたからだ。

 それは「愉悦」「好奇心」といった類いのものと――それと、紛れもない「嫌悪」の情だった。

 彼女たちと話す目を見るたび、それらが、玉虫の艶のようにきらきらと、心配のフィルムの下からちらつく。すこしでも、明子の奇行に対する情報を手に入れたいとする残忍で無邪気な光。食い物にする、獲物を待つ蜘蛛の目。

 菜緒はその目に耐えられなかった。明子に対する義憤と、友人達の嫌な部分を見たことへの失望そして同時に覚えたのは屈辱感だった。義憤や失望はよかった。まだ自分が正しく明子へ友情を抱いていることへの信頼を深められた。しかし、屈辱感。これは、喉に刺さった小骨のように菜緒の心に不快さをじくじくとためさせた。甲虫のようにきらきらとした彼女たちの好奇と嫌悪の目。その妙になまめいた光が、自分にも当てられ始めていることに、気づいてしまったからだ。




 どうして明子はこうなのか!?



 明子のもとへ歩いていくときの、自分の気持ちを明子は考えてくれたことがあるだろうか?

 奈緒は二十メートル向こうの明子の、遠近法の狂った姿に、いつも足がすくみ、怯んでしまう。その怯みを感じなかったことにして、時に恥じ入ったりもして、気だるまの友人の元へなに食わぬ顔で

「待った?」

 と聞くのだ。

 すると、相手はドロドロと伝い落ちる汗、もうもうと上がる湯気、汗の滴る唇で

「おはよう」または「ううん」と言うのだ。明子は最近、サングラスまでかけ始めた。暗色のそれは、ほの白い蒸気に呼吸のたびに覆われてはは引き、覆われては引きを繰り返すのだ。

そこ満ち引きを、奈緒は暗澹たる気持ちで見つめるのである。本当に明子はわからないのだろうか?自分のこの愛と気遣いに!



 奈緒は悔しい気持ちで一杯だった。こちらがこうして気をもんでいる間も、明子はまた何処かで、そしらぬ顔で、着だるまになって闊歩しているのだ。奈緒の知らないところでも!どこでも、あの姿で!歩いているのだ!

 ふと、それは奈緒のなかでひどく許しがたいことに思えた。酷く自分に対して身勝手で、思いやりのない行動に感じた。



そうだ。私がここまで気をもんでいるのに。

明子は自分ばかり気にかけている。自分のことばかりで一生懸命なのだ。

それまではそれでいい、そう思っていた。思い通せると思っていたが奈緒はそれが

大層不思議になってきていた。

 どうしてどうして、こちらの気まずさを明子は少しも考えないのであろうか?

 いっそそれは悪意ではないか。悪意といってもいいのではないだろうか。

 しかし、はっきり形にするのを恐れる。 なぜなら一度奈緒のなかで、感情を悪意と定義付けてしまえば、もはやそれは悪意にしかならなかった。それをひどくおそれた。恐れたからこそら今まで明子の行動に意味も定義もつけないよう努力してきたのだ。考えることを放棄したのだ。

 明子の傍にいたかったから。

 それだというのに、明子は、明子は…………



 どうして明子はこうなのか!






明子と大喧嘩をした。結果として二人ともワアワアと泣いた。

 実際には大喧嘩というより、奈緒が一方的に怒鳴り付けたに等しかったが、奈緒のなかでは大喧嘩もそれも大差のない、感情をそのままぶっつけるに過ぎない出来事にすぎなかった。

「でも、でも仕方がないの」


 明子は呆然として、それからさめざめと泣き出した。思いもよらぬところからいじめつけられた、不意打ちを食らった顔をしていた。

そうして涙をしみじみ、さめざめと流しはじめ、呟いたのがその言葉であった。

「どうしても怖いんだもの」

 しくしくと、本当にしくしくと泣く人間を奈緒はこの時初めて見た。そして、それが大層胸に堪えるものであることも知った。

 奈緒の吐き尽くした胸のうちは、空洞になっていた。そこに明子の涙はさみしい響きで潜り抜けていった。

 奈緒は明子の背をさすった。さまようような手つきであった。拒絶されなかったことにわずかな安堵を覚えた。

 明子は全身がじっとりと濡れ湿っていた。全身は熱気球のようであるのに、表面は冷えた汗のために、わずかにひんやりとした心地を与えた。

 気球の丸い背がひくひくとおこりのように上下するのを居心地の悪い思いで奈緒はさすり続けた。

 こぼれでたのは、

「ごめん」

 という、謝罪の言葉であった。すると本当に自分が申し訳ない気持ちになって、奈緒は余計にかなしくなった。







 連続するガタンという音の間に、物を落っことすようなゴトンという音が入る。音に僅かに遅れるように奈緒の体は弾んだ。腹の奥で落とし物をしたようにうらうらと内臓が揺れる。舌の奥を押されたような妙な心地を抱える。飲み込むものもないのに飲んだような気がする。電車は時々苦手だった。

 電車内はまばらに人が散っており、二、三歩よろければ人にぶつかる程度の密度である。明子の周囲にだけ人はおらず、明子を中心に半径一メートルくらいの円ができていた。その円のなかに食い込むように、奈緒は立っていた。もうもうとした蒸気の熱気に体を半分濡らされるような心地で、明子のとなり、拳一つ分あけた距離にいた。

 電車が開く。一瞬涼しいような錯覚の後に、追うようにして、地下鉄と季節特有の熱気がむわりと入ってくる。

乗客はそれに押されるように、あるいはかきわけて泳ぐようにして、降り、または乗車するのである。

 この駅での乗車率は高い。必然的に元いた人が押されるかたちになり、奥に追いやられる。そうして寄ってきた人の波に押され、一人の乗客が明子にぶつかり、靴のかかとを踏んだ。吊革につかまっている明子の体がゆれ、靴が半分脱げる。必然的に前のめりになり、明子に対面で座っていた男性客が、後ろに仰け反るように身を固くした。

 明子は黙って靴を履き直した。押した当人である少女は、「うわ」と言って身をよじるように明子から出来る限り離れ、身震いするように明子に当たった腕を振った。一緒に乗り合わせていた友人に「何か濡れたし」

と耳打ちした。聞こえてもかまわない、そんな風な囁き方であった。

 奈緒は明子の手を握った。明子の固く縮こまろうとしていた身が、奈緒の方へ向いた。驚いたとも、迷子のようともいえる表情であった。奈緒はそれには知らない振りをした。なにもかも知らない、といった顔をするように努めた。握った手は、じっとりを通り越してぬるぬるとしていた。時折、手首から伝った汗が重なった手の隙間をほとほと伝った。そのたびに、手首、頬、肩や背など奈緒の体は生理的に震えようとするが、それらを理性で抑え込んだ。

 電車に揺られていた。明子が顔をぬぐうのがわかった。汗かと思ったが、鼻をすする音と、電車の揺れとは違う規則的な震えが、明子から伝わってきて、泣いているのだとわかった。

 奈緒は素知らぬ振りをして手を握り続けた。恥ずかしく、そして誇らしい気持ちで一杯だった。





 喧嘩をしてから、改めてよく見て、明子が周囲の奇異の目線に気づいていないわけではないことに気づいた。明子は、他人の目が残酷な光を覗かせたとき、マフラーの内に、サングラスの内に隠れるように身も視線も竦めるのだ。

 奈緒は周囲ばかり気にして、一切気付かなかった自分を恥じた。

 明子を勇気づけるように、奈緒が手を握る。首を竦めたとき、呼び出すように声をかける。すると、明子はぴくりと動いて、それからはにかむのであった。迷子の子供が名前を呼ばれたような顔を、おろおろとした挙動で見せる。

 明子のその顔に、窺うように奈緒の目を覗き見るしぐさに、奈緒はかつての明子の面影を見た。すると、何やら心がほどける心地がし、誇らしくなった。

 サングラスごし、結露の向こうで伏し目がちの黒々とした瞳を見つめ、これでいいのだと思う。

 未だに、明子のもとへ歩いていくとき、足がすくむ。明子が奇異の目線にさらされていると、自分の首が燃え上がるように熱くなる。けれども奈緒は、明子の傍にいてやらねばと思う。

 それは、着ぐるみの奥、気遣わしげにこちらを見る明子の視線が、竦める身があるから。 だから実際に、奈緒はもはや自分への関心などなくてもいいとさえ思えるのであった。



 お皿の上に横たわっている茶色の丸い存在たち。自分が主役であることを理解している堂々たる振る舞いながら、可憐さを決して失わず、はにかむようにこちらに微笑んでいるかのようで、皆まずスマートフォンのカメラを向ける。

 奈緒も例外ではなく、可憐に着飾ったそれらをカメラにおさめたのち、ナイフとフォークを持って、当たりをつけようと目を巡らせた。

 迷っていたが、クリームが溶け始めたので、結局一番端にいるものに決めた。たっぷりとしたその体にナイフをいれると、焼き目とクリームがさふりさふりたぷりたぷりと音を立てた。

 そうして、ふわふわもちもちと所在投げに、大きな塊とフォークに押さえられた小さな塊に切り分けられた。断面から熱々であることを示すように湯気が上がってきて、手のひらに熱が伝搬する。奈緒は、小さな塊の方に、たっぷりとクリームとメープルシロップをからませて、頬張った。

「おいしいね」

 対面で同じ動作をしていた明子が、大袈裟なほど感動した目で訴えてきた。実際は明子のサングラスは曇っているのでそう見えないのだが――見えなくても存外見えるのだと奈緒は最近学びつつあった。

「うん、おいしい」

 奈緒は笑い返した。

 休日、奈緒は明子とパンケーキを食べにきていた。隣の客は仕切りを作るように、明子と自分の間に鞄を置いていた。席と席の間隔は十分に広い。そんなもので陣地取りをしなくとも明子が向こうに食い込むこともないだろう。少し嫌な気分になった。

 それ以外は楽しいお出かけだった。このお店に来るまでも、お店に並んでいるときも、ずっと奈緒は明子とおしゃべりをしていた。いろんなことが話せまた聞けて、嬉しかった。ずっと手は繋いでいた。



 店内は涼しかった。焼きたてのパンケーキの熱で汗ばんだ肌がエアコンの冷気によりまた冷やされる。

 それでもまだ暑さが買った奈緒は、自身の長袖の袖をつまむと、パタパタと風を送りこんだ。





学校での明子も相変わらずである。手を振り振り近づく巨体に、咄嗟に身構える気持ちをほどくのも慣れた。

「奈緒ー」

 明子が奈緒を呼ぶ高い声が、辺りをまっすぐに抜けていった。ふいに日差しが一際強くなった。つられるように、時期外れの蝉が季節本番の鈴虫に合わせて大きく鳴く。りんりんと、不協和音とも輪唱ともつかない大きな音の波を背に、明子は奈緒に追い付き、はにかんだ。

 夏休みは終わったといえらまだまだ暑い。奈緒はカーディガンで軽く額に浮いた汗を押さえた。




10

 何たることか。明子がマフラーをしていないのである。奈緒は久しぶりに明子の顔の全面を労苦なく見た。唇が言葉に合わせて動くのを明瞭に見た。それは、奈緒に晴れやかな笑顔を浮かべさせた。そして同時に、どこかすっとしない、ぎこちない予感めいたものを与えた。

「どうしたの、何か雰囲気違うくない」

 何気なさを装い、そう尋ねると明子は、少し視線を上にさ迷わせ、うーんとうなった。それは決して不快な逡巡ではなかった。このわずかな動作の間に、明子の中に負の感情は見当たらなく、むしろ、逆であった。明子はその変化を、前向きに捉えているように感じた。

 奈緒の心に一抹の希望がわく。このまま明子が戻ればいいのに、そう思った。



 しかし、どうにも奈緒のその独白には、妙な後味の引く余韻があって、奈緒自身それに首を傾けた。



11

明子がまたマフラーをつけている。水蒸気を浴びたように濡れた鼻から額を見て、何だまたかと奈緒は思った。この間のことは奇跡であり、やはり明子は戻らないのかもしれないと、やけに自分のなかで納得した。どうせすぐにこの奇跡は終わると自分で予期しているからこその、あの時の自分は微妙な反応だったのだと、奈緒は理解した。だからこそ、奈緒は諦めに似た寛大な笑顔でもって、明子を迎えた。

明子に変化はない。ただ少し付け加えるなら、時折、ほんの時折快活に笑うようになった。季節は秋も本番である。この時期になると、明子の格好はそこまで周囲から浮かない、奈緒は胸を撫で下ろす。

「それでね、」

 声音を舌の上で転がすように、明子は話す。その様子を見ながら、重い荷を下ろしたような、少々身軽になった心地で、厚手のショールを遊ばせながら明子と歩いた。




12

 それにしても、明子はあれで平気なのだろうか?奈緒はふとしたときに思い立った。

 夏や春にあれだけ着込んでいるのに、冬が同じ装備だというのは随分とわりに合わないのではないだろうか。

 明子はあれで自分の身を守れると思っているのだろうか。

 奈緒は思案する。守れるはずがない。結論を出す。

そうして、その自分の判断をおかしいと思う。服は着るもの、飾るものであり、そんな守れるだとか、そういうものではないはずだ。奈緒は自らのずれた発想を訂正する。

自分の思考をもとの規範に戻して、奈緒は安堵する。よそう。奈緒は思考を止める。第一、そんなことを不用意に尋ねて、明子の状態が悪化しないとも限らない。明子が気づいていないなら結構なことではないか。奈緒は納得する。

しかし、凪いだはずの思考に、また疑問が浮かんでくる。

 あれで平気なのだろうか?

 



13


奈緒の日記

○月△日 明子、変化なし。一緒にパンケーキを食べに行った。

△月○日 変化なし まだまだ暑い。

△月△日 明子、マフラーをつけていなかった。どうしたんだろう。いいけど。

△月□日 またマフラーをつけている。

□月○日 変化なし。大分涼しくなったから、随分と気が楽だ。

□月△日 変化なし

×月○日 明子、変化なし。

それにしても、明子は冬と夏で装備を変えないけど冬は安全ということだろうか?

×月△日 明子 マフラーなし おかしい。何で今?





14



 親友の明子が、狂った。前触れもなく、昨日、映画を見に行こうと約束し、別れたところまでは普通だったにもかかわらず。

 尤も「狂った」という言葉から、およそひとが連想する様な激しいものではない。ただ、今目の前に立つ明子と昨日までの明子、そして明子の言動を合わせて、それ以外に形容する言葉が見つからなかった。

「今日は寒くなかったから」

 そう明子は言った。真っすぐに奈緒を見つめる目は、声音と同じく至極真面目だった。

 奈緒ははじめ、何を言っているのだろう、そう思った。視線を明子の目から、明子の服装へと移した。明子はコートを着ている。コートの襟から見える首は、タートルネックのセーターで覆われていた。そしてスカートとタイツをはいていた。

 季節は、寒風が骨身に染みる頃。

 少々心許ないとはいえ、そこそこ典型的な冬の装いと言ったところだ。

「なんでそんな恰好してるの」

 五分以下の沈黙の後、奈緒の口から漸くこぼれ出た言葉だ。そして、それに対しての答えが、冒頭のそれである。

 朝起きて、支度をしようとすると、日差しが暖かかったそうだ。

「それでね、今日はそんなに着込まなくてもいいかと思って。……でも、ちょっと薄着過ぎたかなあ」

 説明しながらも、明子はコートの上から腕を寒さを示すように擦っていた。奈緒は、明子の言葉に少しめまいがし、不安になった。

 寒くなかったから、ときた。

「日差しなんてあてにならないね」

 両手を擦りあわせ、ふーと息を吹きかけた。そうして奈緒の方を見て、困ったように眉を下げた。

 日差しがあてにならない?何をいっているのだろう。それよりも大切なことが、明子にあったのではないのか、奈緒は呆然と明子を見つめながら思う。



 果たして、そんな装備で守れるものだろうか。



 守れない。守れるわけがない。寒さ?そんなこと言っている場合ではない。



 奈緒は瞬時に思う。ただでさえ、厚手の服を着たところで、刃物に太刀打ちできるはずもない。だというのに、体感温度で、今日の装備を薄くするだなんて。明子のそれは聊か「ずれた」対応に感じた。しかし今さら言ったところでどうしようもないので、口に出しすらしなかった。そもそも一番いいのは家を出ないことなのだから、しかしそれは、今日外で会う約束を取り付けた昨日の奈緒自身の言葉を裏切るものだった。

 ただ、見ていて心許ない。だから気になる。そして映画は見たい。そして元来、奈緒は消極的で慎重派だった。明子の対応の悪さを指摘して傷つけはしまいか、そんな懸念がわいた。迷った奈緒のとった行動は、目をそらすこと――それは現状にも、明子の姿にも――と、そして



「あ……そう、まあ、とりあえずいこっか」



 いつも通りを装う事だった。その臆病な行動に罪悪感がそっと追いかけてくるが、見ないふりを決め込んだ。だってどうしようもないではないか、そんな自己弁護で叩き伏せた。とりあえず明るい所、そして暖かいところへ行こう。危険も寒気も、そこが全て解決してくれるだろう。



15

 道を歩けば、人々は、自分たちに奇異のまなざしを向け、そらしていく。自分たちにふれないように、すっと距離をあけすれ違っていく。他人のその行為はもはや奈緒にとってなじみ深いものであった。

 しかし、奈緒はここ数日、意識を新たにして、他人の反応というものを感じるようにしていた。それは奈緒の明子への友情によるものであった。

そして今日、やはりおかしいのだと奈緒は確信した。

 やはりこの事態はおかしい。――明子はやはりおかしい。

 明子の今日の出で立ちは、スウェットに膝丈のスカート、そしてダウンジャケットだった。そんな軽装備であるにもかかわらず、のんびりとした様子で、今も隣を歩いている。

奈緒は一度、明子を傷つけないように気を払いつつそれとなく「薄着で大丈夫なのか」と尋ねてみた。すると明子は笑って

「奈緒のおかげ」

  と言った。その言葉は嬉しかった。しかし、それでも、いやだからこそ、自分への友情のために自らの命を危険になんてさらしてほしくなかった。



 外は、危険がいっぱいだ。それなのに自らの装備を薄くするなんて、考えられないことだ。やはり、正気の沙汰ではないのだ。証拠に皆、明子を避けて行くではないか。

 しかし、そう思ったところで、それを直接言葉にして指摘するのは、やはり奈緒には躊躇われた。明子は自分がおかしいということを気にしている。恥じている。それでいて、やめることができないのだ。その事を先の諍いで、奈緒は知った。そして、そんな明子の理解者になろうと、決意したのだ。

 世界が明子を奇異の目でとらえても、自分だけは、明子の側にいるのだ。その決意は奈緒の中で、いっとう輝かしく、かたい友情の証であった。

 しかし、今の状態を放置することはできない。明子の狂態を受け止めるのも友情なら、今の状態を放置することができない、今の奈緒の気持ちもまた友情なのである。

 なぜなら、命がかかっているからだ。明子の狂態を受け止めてやりたい。しかし、明子の命を守りたい。奈緒にとって一番大切なのは、明子なのだから。



 明子を傷つけずに、察してもらう。そのためにできることは何だろう。



 奈緒は、巻いていたマフラーに薄く隙間を作り、風を送った。知らぬ間に汗ばんでいたらしい。冬の外気は奈緒の湿ったマフラーと肌を冷やした。奈緒はあわててマフラーを強く巻き付けなおした。



 その日の夜、奈緒は決意した。明子に自分がいかに危険であるか気づいてもらうのだ。今度こそ明子を傷つけない。そして明子を守ってみせる。

 そのためには、自分がそれとなく明子に危険だと示す必要がある。奈緒は決意をある固めた。





16



 次の休みの日。奈緒はいつものように、明子を待っていた。今日は、二人で買い物にいく予定だった。今日こそ、という思いがあった。そのせいか、ざわざわという音も少し遠く感じる。緊張のせいか、視界が曇る。

 明子がやってきた。ぼやけて見えてよくわからないが、やはり今日も変化はないようだ。





 気づけ明子!奈緒は遠くからやってくる明子を迎えた。




17


 奈緒は明子の隣で、ほっほっと、息を吐いて歩いていた。いつものように自分たちを道行く人が避けていく。その奇異のまなざしにも、今や二つの意味が込められていることが奈緒にはわかっていた。しかし、本当に気づいてほしい人といえば、今もぼんやりと隣を歩いていた。

 ――明子を救う。そのために奈緒がひそやかな努力を始めて二ヶ月ほど経つ。今のところ、効果はなかった。はじめのうち、明子は少し自分を見つめたが、それだけだった。自分の努力をまったく察さない。

 どうして明子はこうなのか。

――そう、怒りがわかないでもなかった。しかし、奈緒はこの半年でとても忍耐強くなっていたのだ。絶対に明子に気づいてもらう、それまでは耐えてみせる。だから、ただ、努力と忍耐の容量を日に日に増やしていった。ふいに、明子が奈緒へ視線をよこした。奈緒は期待を込めて見返した。

「なに?」

 明子は無言であった。しかし、明らかに、何か言いたげな表情をしていた。ただ、こちらの様子をうかがっているのが、そのもぞもぞと動く視線や顔の向きからわかった。

「なに?」

 奈緒は問い返した。

「ううん」

 しかし、明子から帰ってきたのは否定であった。

「何でもないことないでしょ」

 思わず語気が強めになった。期待をしている分、明子の煮え切らない態度が焦れったくなったのだ。言葉だけでなく視線でも、言葉にすることを求めた。もちろん、一番求めていたのは、明子が気づいて、改めて来てくれることだったが、この際、改めてくれるのは次からでもいい。奈緒はそこまで譲歩していた。

――気付け明子――気づいたか、明子。



奈緒は自分の目がもはや明子をにらんでいることに気づいていなかった。明子はそれでよけい萎縮するのであるが、奈緒は気づかない。二人は気づけば立ち止まっていた。通行人が、二人を迷惑そうに避けていく。その視線にも、明子はうつむいた。奈緒は、明子が怯えているのに気づいていなかった。というより、そんなことはどうでもよかったのだ。いつものことだったし、それより大切なことがあった。だから、ただ明子だけを見つめて、

「なに。言ってよ」

「なに」

「ねえ、なに?」

 と何度も何度も、何度も繰り返した。雑踏が遠くなる。奈緒は、明子と世界に二人きりのような気分だった。

 そうして、長い、長い時が経って――ようやく、明子が、意を決したように、顔を上げて口を開いた。

「奈緒、いったいどうしちゃったの?」



18

 明子の言葉に、奈緒は虚をつかれた。さっきまで浮かべていた疑問符が霧散した。しかし、その奈緒の様子に今度は明子の方が気づいておらず、言葉をつむぎだした。ずっとせき止めていたのか、一度言葉にし出すと止まらないようだった。明子は、いっそ夢中といっていい、言葉に熱さえこもっていた。



「最初は、私に合わせてくれてるのかなって思ってた」

「だから、悪いなって、でもうれしかったけど」

「でも、最近は――変だよ」

「おかしいよ。私が言うのも何だけど……どうしちゃったの?」



 そうして、すっ、と奈緒を指さした。

 奈緒は、明子の言葉をどこか遠くで聞いていた。あれだけ言葉を乞うたにも関わらず、明子の言葉は上滑りしていくばかりだった。明子の言葉が、奈緒の予想外にあったからだ。雑踏が復活し、奈緒の脳を揺らした。その間に、明子の言葉が、宙で旋回し、そうして奈緒の脳に戻ってきた。

 奈緒はその言葉をゆっくりと咀嚼した。



 咀嚼しながら、ぼんやりと自分の姿を見下ろした。



 上半身には、硬い布素材のシャツの上に厚手のセーターを着て、下半身にはタイツと裏起毛のデニムを履いている。その上から大きめのスキーウェアを身につけ、さらにダウンジャケット二枚と、大ぶりなコートを羽織っていた。首には手編み素材の重いマフラーを巻き付け、頭にはニット帽をかぶっていた。手には手袋をはめ、そして顔には伊達眼鏡をかけマスクを着けている。

 限界の限界まで着込んだ姿は、ぱつぱつとこれ以上なく膨らんで、腕と足の可動域を狭め、よちよちと歩かねばならないほどだった。

 ――季節は、もうすぐ四月を迎えるころであった。

 奈緒はショーウィンドーに映る自分を見た。自分を見て、避けていく人々の姿も、目に映った。そして、明子の顔を見た。曇った視界越しにも、明子が自分をおそれているのがわかった。

 ぽたり、伊達眼鏡から汗のしずくが落ちた。

 その瞬間、奈緒をおそったのは激しい怒りであった。

「なによその目は!」

 思うより早く、奈緒の怒りは言葉に変わっていた。

「あんたのせいじゃないの! あんたのためじゃないの!」

 奈緒は明子を指さした。着膨れした腕は、ぴたりと止めることが出来ず、びいんと揺れた。

 奇異の視線には気づいていた。その事にたいして、羞恥はあった。しかし、そんなものはずっと、ずっとあったのだ。明子が変わってから、そして自分が明子のためにこのような格好をするようになってからもそうだった。奈緒はそれをずっと耐えてきたという自負があった。耐えたのは、奈緒の、明子への友情のためであった。

「あんたがそんな薄い装備でいるから! このままじゃ殺されるかも知れないから! でも、変だって言ったら前みたいに傷つけるかもしれないから、だからこうやって示してたのに! ちゃんと服を着て身を守るように、前の格好に戻らせるために、がんばってたのに! 恥ずかしくても、がんばってたのに!」

 そして、明子を死なせたくないという覚悟だった。

 しかしその明子自身に、こんな奇異の視線を向けられるとは思わなかった。それは奈緒にとってはどうしようもなく理不尽で、悲しく、耐え難いことだったのだ。

「どうしてそんな目で見るの! ひどいじゃん! 裏切り者!」

 奈緒は感情を止めることができなかった。頭がぐらぐらする。それが怒りのせいか、暑さのせいかもはやわからなかった。ひとしきり叫ぶと、今度は涙があふれ出てきた。奈緒はつらくて、ひざまずいてしまった。そうして顔を手袋をはめた両手で覆った。顔を覆うにも脇や肘がつっぱって、よけい悲しくなった。ざらざらとした生地が顔にあたり、涙をじわじわ吸った。



「きちがいかよ」

 通りすがる、誰かがぽつりと漏らしたのが聞こえた。奈緒は涙まみれになった目を見開いた。しかし、胸の痛みに耐えられず、またかたく閉じた。



 ちがう、私はくるってなんかいない。くるっているのは――



 次の言葉は継げなかった。奈緒はうずくまって泣き続けた。


完.

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