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雪の花

前編

 秀子の兄の清作が帰ってきたのは、年の暮れのことであった。秀子がもう寝ようと、戸締まりの確認をしようとした時である。遠くから、砂を踏む音が聞こえた。戸を開けると、薄暗がりから、身にしみるような寒さとともに、一人の青年がこちらへ向かってくる。

 秀子は、はじめそれが誰だかわからなかった。

「秀ちゃん」

 懐かしく、優しい響きで青年が自分を呼んだ。秀子は駆けだした。

「兄さん」
「秀ちゃん。大きくなったね」

 大きくお辞儀をした秀子に、清作はまぶしげに言った。秀子は得意な気持ちになった。秀子と清作が離れたのは、秀子がいまよりうんと背も低かったころであった。

「兄さん、会いたかった」
「うん、僕も会いたかった」
「ひとつも帰ってきてくださらないんだもの。さびしかった」

 清作は微笑した。冬の空のような、さびしい笑みであった。秀子は打ち消すように、努めて明るい声を出した。

「どうです。秀子、大人になったでしょう」

 秀子の言葉は、問いの形を取っていたが、ほしい答えは決まっていた。

「ああ。もう立派なレディだね」

 清作の言葉は、秀子の願い通りのものであった。秀子はうれしくて仕方がなかった。清作が学校に行ってからのこの数年、大人になるように頑張ってきた。母は、秀子を家から出すことを嫌ったため、秀子はずっと一人でいた。村の子どもたちとも遊ばなかった。元より秀子の家は余所より少し大きく、離れていたので、自ら行かねば誘われることもなかった。秀子はさびしさを紛らわすように、病気の母を看病し、家のことをした。ずっと一人で退屈なので、掃除をしに行くふりをして、隠れて本を読んだ。清作の部屋に残された本である。読んだといっても、書かれている字を、絵のようになぞるだけであった。秀子は字が読めない。秀子が清作の本を読むことを、母はたいそう嫌ったが、秀子は学校にも行ってみたかった。

「お前には、何としてもいい嫁ぎ先を作ってあげますからね」

 それが母の口癖であった。秀子は嫁になど行きたくなかった。ただ、この村の外、いや、家の外から出ていきたかった。そうして友達の一人でも作れたら、どれほど幸せだろう。

 清作が帰ってきたのは嬉しかった。

「兄さん、いつまでいられるの」
「うん。明日の朝まで」
「明日」

 秀子は落胆した。嬉しかった分、さびしさが大きくなった。気落ちしたのが見えたのだろう、清作が励ますように重ねた。

「今夜はここにいるとも」

 秀子は顔を上げ、笑って見せた。清作は、今夜はここにいる。秀子は少なくとも、今夜は一人ではないのだ。秀子は励まされた。

「母さんは」

 清作がとうとう尋ねたのに、秀子はぎくりとした。

「母さんは、もう休んでおられるわ」

 おずおずと遠慮がちに、そう答えた。母は清作の名を出すのを嫌っていた。二人が会うことで、清作が帰ってしまうのが怖かったのである。清作は秀子をじっと見ていたが、

「うん。そうか。それなら明日挨拶をしよう」

 と答えた。清作がすぐに引き下がったのに、秀子はほっとした。

「さあ、兄さん。中へ」

 そうして自分たちがいまだ外にあったことを思い出し、秀子は急ぎ招いた。

「兄さん、学校の話、聞かせてくださいな」

 同じ部屋に寝たいという願いを、清作は聞き入れてくれた。秀子は清作の部屋に布団を運び込み、しきりに話しかけた。清作はひとつひとつ丁寧に答えてくれた。このように人とやりとりするのは数年ぶりで、秀子は寝られなかった。

「僕は、秀ちゃんの話も聞きたい」
「秀子の話なんてなんにもないですもの」
「それでも聞きたい」

 秀子はためらった。清作の話に比べて、秀子の毎日は何とも味気なかった。秀子の心は弱った。その弱気を清作に打ち明けてはならぬと思った。秀子には話せる人は一人もいない。本当は聞いてほしかったが、今度いつ会えるかわからぬ兄に、弱音を吐くのは決まりが悪かった。

 清作は秀子の顔をじっと見ていた。秀子は、俯きがちに、そっと清作の顔を見た。

 灯りもない夜中だというのに、清作の顔がはっきりと見えた。清作は神妙な顔をしていた。秀子は不安になった。

「秀ちゃん」

 清作はようやく口を開いた。落ち着いた声が、しんと静かな部屋に落ちた。

「強くおなり」

 秀子はその言葉に、とっさに反発を覚えた。しかし、兄の目を見ていると、怒りは形になることをやめた。

「秀ちゃんは、きっときれいになる。幸せになる。だから、強くおなり」

 そう言うと、手をのばして秀子の頭をなでた。手つきは慈しみに満ちていた。秀子は俯き、それから何度もうなずいた。清作は、それに満足げに笑った。


 その日は手をつないで眠った。清作の手は冷たかったが、秀子はかたく握って離さなかった。

後編

 翌朝、「秀ちゃん」と呼ばれた気がして目をさました。しかし清作はそこに居なかった。母にもう挨拶にいったのだと、秀子はあわてて身支度をした。朝餉の用意を手早くし、秀子は母に粥を持っていった。

「おはようございます」

 二人に声をかけたつもりであった。しかし、そこにいたのは母だけであった。

「おはよう。秀子。どうかしましたか」

 清作はどこに行ったのであろう。視線をさまよわせているのに、母が気づき尋ねる。

「兄さんは、挨拶に来ていませんか」

 母の眉間に深いしわが寄った。もしやすでに諍いが起きたのであろうかと思った。

「来るわけがありません」

 ぴしゃりと言うのに、秀子は反論した。

「明日の朝に挨拶すると、言っていました」
「何を言っているんです。ふざけるのはやめなさい」

 母の声に怒りがにじんだ。

「ふざけていません」

 秀子も負けじと返した。母は、何か言おうと口を開いては、首を振って閉じる、という行為を繰り返していた。

「清作は来ません」

 そうしてようやく吐き出された言葉はそれだけだった。秀子は、その様子に母も兄が心配なのだと少し嬉しくなった。

「来たんです。昨日の夜、母さんがお休みになった後に」

 母の眉がぴくりと動いたのに励まされ、秀子は言葉を続けた。

「清作が」

「はい。たくさんお話ししました。もちろん、母さんにも挨拶すると言っていました」

 母の顔がこわばった。秀子は、ようやく通じたと安堵したが、母のこわばりが尋常でないことに気づいた。

「追い出して」

 ぽつりと母が呟いた。え、と聞き返そうとしたとき、母は狂ったように叫びだした。

「追い出しなさい! 早く追い出して!」

 秀子は何を言われたかわからなかった。母は力の入らぬ体を無理に起こそうともがいた。

「母さん、やめてください!」

「追い出さなければ! 清作を早く!」

 抑えようとした秀子の頬を張った。秀子が動揺している隙に、秀子を支えに、母はよろりと身を起こした。そうして、壁を支えに歩き出した。母のどこにそんな力があったのか、秀子は呆然と見ていた。

「母さん、無理をしてはだめです! それに兄さんはいません!」

 秀子はとっさに叫んだ。先とは真逆の言葉だった。

「馬鹿おっしゃい」

 母は止まらなかった。家の中を這うように進み、部屋を確認していく。秀子は、わけもわからぬまま母を支えることしかできずにいた。

 しかし清作はどこにもいなかった。秀子の心中は安堵と不安がないまぜになっていた。

「もう逃げたのかしら。とんでもないこと。もしかくまったと言われたら」

 ひゅうひゅうと危うい息をしながら、ぶつぶつと母は繰り返し、今度は玄関に向かった。秀子は母の言葉の意味を尋ねたかったが、それより先に、母は全身を使って玄関を開けた。

 一面の白が広がっていた。

 雪が、見渡す限り深く降り積もっていた。

 秀子は母を支えながら、その光景に釘付けになっていた。母もまた、呆然としていた。

 どれくらいそうしていたのか、遠くから、

「おうい、おうい」

 とよぶ声で、秀子達は我に返った。体がしびれるほどに凍えていた。声の主は駐在で、声のあとを追って、その大きな体を現した。

「大変だ。奥さん。しっかりしておくれよ」

 手紙を持って、広げるより先に、駐在は内容を読み上げた。

 清作が獄死したとの報せであった。

 秀子にはその言葉の意味がわからなかった。ただ、視界の白を見ていた。白は曇りなく、ただ駐在の足跡のみが残るばかりであった。


了.

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足跡のかげ

一話

 祖母の家は、小学校の通学路の坂道を、右に抜けたところにありました。ささやかに植木の植えてある小さな白い家に、祖母は祖父と二人暮らしていました。
 私と翔は帰り道、祖母の家に遊びに行きました。少し悪い子になった気がして、得意な気持ちになったのを覚えています。
 祖母はいつも私と翔を歓迎してくれました。「よく来たねぇ」とドアを開け、笑顔を向けてくれました。祖父は無愛想で口べたなひとでした。だから、私たちが来ると、「来たか」というとむっつりと黙り込み、新聞を読むふりをしたり、部屋にこもったりしていました。
 私たちは祖母が大好きでした。祖母は私たちにいつもあたたかな笑顔を向けてくれたからです。

二話

 私が六年生になる頃、母はもう祖母の家に遊びに行かないようにと言いました。理由は、「おばあちゃんは病気になったから」ということでした。
 祖母が足を折るけがをして、それまで入院していたのが、ようやく退院できたころのことでした。母の連れていってくれる時にしかお見舞いに行けなかったので、翔はようやく自分で会いに行けると、喜んでいたばかりです。
 その時には私はすでに、友達と遊ぶことが楽しかったので、祖母の家を訪ねることは少なくなっていました。けれど三才下の翔はまだまだおばあちゃんっ子で、祖母が入院するまでは、ことあるごとに、祖母の家を訪ねていました。

「あの子はちゃんと友達がいるのかしら」

 とは母の口癖でした。それくらい、翔は祖母の家を訪ねていたのです。祖母も、変わらず翔をあたたかに迎えていました。
 けれど、その日母の制止が入ってから、翔は祖母の家を訪ねることができなくなりました。

「病気なんて、おばあちゃんは元気だったよ」
「元気に見えても病気になったのよ。だいたい翔、元気だったって言うけど、いつ遊びに行ったの。いつまでそうしておばあちゃんの家に遊びに行っているの。友達と遊びなさいと言っているでしょう」

 思わぬところから、責められて翔はぐっと詰まりました。

「でも、病気なんだったらお見舞いにいかなきゃ」
「行ってはいけない病気なの。とにかくこれからは母さんに黙って、行かないこと」

 いいわね、母は言い話を終わらせました。母に厳しく言われては、気の弱い翔はのみこむしかありませんでした。私は翔に、少し同情しました。けれど同時に、母の言うことが妥当にも感じていました。
 私は、母の言う祖母の病気とは、翔に祖母離れをさせる口実だと思ったからです。翔は祖母から離れるべきだと、私も思いました。
 祖母が心配でなかったわけじゃありません。ただ、祖母が本当に病気だなんて、現実と思えなかったのです。

 母は、私と翔に祖母の家を訪ねないように言いました。しかし、代わりに祖母の家によく通うようになりました。翔にはそれが不満だったようで、何度もお見舞いにつれていってくれるよう頼みました。

「だめだと言っているでしょう」

 母はとりつく島もありませんでした。しかしある日、翔が泣きそうになっているのを見かねて、父が母を取りなしました。

「翔は義母さんが好きなんだから、何も知らないで会えないのはかわいそうだ」

 と言いました。母は全くきのりしない様子でしたが、父と話し込んだあと、ようやくうなずきました。翔は喜びました。私もまた、翔が喜んだので、嬉しく思いました。



三話

「聡! おかえり」

 祖母は翔を見て、そう言いました。ベッドに寝ていた体を起こして、翔を手招きしました。翔は、ぽかんとして立ち尽くしていました。私もまた、動くことができませんでした。祖母は翔を誰かと間違えたのかと思いました。でも、祖母が私たちを間違えたことなんて、一度もありませんでした。祖母は少しやせていて、顔つきが変わって見えました。

「おばあちゃんは忘れてしまう病気になって、もう、あなた達のこともわからないのよ」

 祖母の家を見舞う前に、母は丁寧に私たちに教えてくれました。けれど、その意味を実のところ全くわかっていなかったのです。祖母が私たちを忘れるはずがないと信じきっていたのです。

 祖母は笑って翔を出迎えました。けれど、呼んだのは翔ではありませんでした。私は、祖母に「なにいってるの、おばあちゃん。間違えてるよ」と言いたかったけれど、何も言葉が出ませんでした。それくらい、祖母が自然な顔をしていたからです。この祖母の反応は予想外のことだったのか、母も顔をこわばらせ固まっていました。その母の顔を見て、私はもっと不安になりました。
 翔は、何もわからないまま、おずおずと祖母のもとへ行きました。そして、祖母が

「学校は」

と尋ねるのに、

「うん」

と答えました。

「それじゃあ、わからないじゃないの。本当に口べたなんだから」

 祖母は笑って、話を促しました。翔は何も言えないでいるのに、母がようやく

「母さん」

 と割って入りました。祖母は、一瞬「何」と母に怪訝な顔をしましたが、母のことはわからなくても見覚えがあったのでしょう、顔をじっと見て

「ああ」

 と納得がいったようにうなずきました。母は、「外で遊んできなさい」と翔を促して、そして私に目で合図しました。私は翔をつれて、外に出ました。心臓がばくばくと鳴っているのを感じました。私は、わけもわからないまま、翔の背を押して、小学校へと向かったのです。背を向けた祖母の家になにかおそろしいものを感じながら。

 それから私たちは、小学校の校庭で遊んでいました。二人とも、心ここにあらずでした。

「おばあちゃん、本当に僕のこと忘れちゃったのかな」
 翔がブランコにのりながら、そう呟きましたが、私はなにも返す言葉がありませんでした。
 母が迎えに来たので、私たちは祖母の家に戻りました。祖母の部屋に行くのは怖かったですが、祖母は祖父と一緒にいました。

「どこに行くの」

 と翔に言う祖母に、「聡は遊びに行くんだよ」と祖父がなだめました。祖父の優しい声を、私は初めて聞きました。翔に祖母は「車に気をつけるのよ」と声をかけました。翔があいまいに笑ってうなずくのを、母が手を強く引きました。



四話

「おばあちゃん、翔のことを聡兄さんだと思っているみたい」

 家に帰って、母は言いました。
 聡とは、祖母の息子で、母の兄の名前でした。翔の年くらいの頃に、交通事故で死んでしまったそうです。そして翔は、聡伯父さんにそっくりだったのです。

「おばあちゃん、兄さんのことが好きだった。本当に悲しかったのよ。だから、翔のこと、本当にかわいがっていた」

 母は言いました。とても悲しい声でした。私はその話を聞いたときの不思議な心地を忘れることができません。母の顔が、母じゃなく見えたからです。母が母ではなく、私たちのように子どもだったころなど、当時の私は想像ができなかったのです。
 そしてまた、祖母の祖母以外の顔など、全く考えることができませんでした。

「お母さん、おばあちゃんに言ってあげた? 翔だよって」

 私は尋ねました。けれど母は、目を伏せて首を横に振りました。

「違うって言っちゃいけないのよ。混乱してしまうから」

 ごめんね。
 母は、それきり黙ってしまいました。私もショックで黙っていました。祖母のことをかわいそうだと思いました。母のこともかわいそうだと思いました。何より、翔のことを思うと、どうしようもなく気がふさがりました。
 けれど、このとき一番最初に明るい声を出したのが翔でした。

「おばあちゃんはずっとさみしかったんだね」

 母が顔を上げました。

「翔。あのね」
「うん。わかってるよ。僕は大丈夫だよ」

 翔は笑って答えました。翔の様子はとてもしっかりして見えました。私は翔が、翔じゃないようで、不思議な感慨を覚えました。

 次の日から、翔の帰りは遅くなりました。学校の帰りに、祖母の家に通い始めたのだと、わかりました。母の手前、翔は何も言いませんでした。母が祖母の家にいるような日は避けていたようでした。けれど、私も母も何となく察していました。母は、何もないような顔をしている翔を、以前のように厳しく止めることはできないようでした。
 私は不思議でなりませんでした。あの気の弱い翔に、このような一途さと強さがあるとは知らなかったからです。
 私は、何もないふりをして帰ってくる翔の頬から、涙のあとを探しました。夜、いつも隣で寝ている翔の寝息にそっと耳をそばだてました。翔が泣いていないか、確かめるためです。けれど、翔が泣いているところを見つけることはできませんでした。
 私が祖母に会いに行くのは、母や父につれられてのお見舞いの時だけでした。祖母は聡伯父さんの話をよくしました。

「私が寝ているから、起きて、っていつもこの窓を叩くの」

 ベッドのそばの窓をさして、祖母は言いました。私は窓を叩く翔の姿を思い浮かべました。
 家にいても、友達と遊んでいても、私はずっと翔のことが気にかかりました。翔は私がこうしている間にも、祖母と話しているのだろうか、聡伯父さんのふりをして。そう思うと、私は胸の奥が冷えたようになり、なにも楽しくなくなるのでした。



五話

 それからしばらく経ったころ、翔は熱を出しました。熱は下がらず、母はつきっきりで看病をしました。

「これ、おじいちゃんとおばあちゃんのところへ持って行ってあげてくれる?」

 母は疲れた顔で、私に頼みました。それは、その日の晩御飯の惣菜でした。祖母が病気になってから、料理のできない祖父のために、母がいつも持って行っているものでした。
 その日はすごい雨で、私は傘をさしていましたが、それでもずぶぬれになりました。祖母の家に着いたときに、ちょうど雨がやみました。凍えるように冷たくなった体で、惣菜のはいった袋を抱えてインターフォンを押すと、祖父があけてくれました。

「ああ」

 と、祖父は私が来たのに少し意外そうな声を上げ、それから「すまんな」と付け足しました。祖父は渡した惣菜の袋を台所に持っていっていき、私の着替えの服を探していました。その間、私はストーブの前に座っていましたが、ふと、話し声が聞こえて、呼ばれるように私は祖母の部屋を訪れました。
 祖母は窓の外をずっと見ていましたが、私に気づくと、怪訝そうな、うろんな顔をしました。

「おばあちゃん」
「だれ?」
「奏」

 祖母は首を傾げましたが、「ああ」としばらくして答えました。わかっているのか、わかっていないのか、わからないその言いように私はじれったくなりました。

「翔ね、熱がでたの。下がらないの」
「翔?」

 祖母はぼんやりと聞き返しました。

「翔ってだれ?」
「翔だよ。おばあちゃんの孫でしょ」
「ええ?」

 私がきつく言うと、祖母はさらに怪訝な顔をしました。私は自分に、落ち着け、と念じました。私は自分がいらいらとしてくるのを感じました。祖母が私に意地悪をしているように感じたのです。私は祖母に、ずっと意地悪をされていると思っていたのです。

「奏」

 そのとき、祖父が私に声をかけました。手には、タオルと着替えを持っていました。そして、部屋の前に立ち尽くしている私の代わりに、中に入っていきました。「どうだ」と祖母に、祖父は尋ねました。祖母は祖父に気づくと、にこにこと祖父に話しかけました。

「あのね、聡と話していたの」

 窓を指さして、祖母は言いました。祖父は「そうか」と言いました。

「寒いから、入ってくるように言って」
「入ってくるわけないでしょ!」

 信じられないくらい大きな声がでました。私は胸の真ん中から頭のしんまで熱がのぼったようになって、言葉をおさえることができませんでした。

「翔は熱なんだってば!聡じゃないよ!ずっと来てたのは翔だよ!何でわかんないの!」

 いいかげんおもいだしてよ!
 私は叫びました。心がいっぱいいっぱいになって狭くなった視界に、祖母の困惑した顔が移りました。その瞬間、私はうずくまって泣きました。六年生になって、こんなに泣いたのは久しぶりのことでした。
 祖父は私を部屋から出しました。ついでに渡されたタオルが、あたたかくてよけいに涙がでました。
 私はくやしくてなりませんでした。間違われてもずっと通い続けた翔が、思い出してくれない祖母が、言ってしまった私が――私たちから祖母を奪った病気が、にくくてなりませんでした。



六話

しばらくして、祖父が部屋から出てきました。祖父はなにも言いませんでした。タオルと着替えを抱えたままの私から、タオルをとり、頭をふいてくれました。それからあたたかいコートを私に着せて、「今日はおかえり」と言いました。
 祖父に促されて、私は外にでました。外は悲しいくらい晴れていました。まだ涙が頬あたりにわだかまっていました。家に帰るまでに泣きやまなければ、と私が鼻をすすった時でした。
 祖母の部屋に続く窓が目に入りました。ここから、いつも翔は窓をたたき、祖母に声をかけていたのかと思うと、悲しくなりました。
 そこで私は目を見開きました。
 足跡を見つけたのです。
 ぬかるんだ地面に、小さな足跡が、家の門から祖母の部屋の窓のところまで、ずっと続いていました。
 私はその足跡を見て、急いで家に帰りました。

 家に帰ると、翔の姿を探しました。私たちの部屋へ入ると、翔は布団の中で寝息をたてていました。母がそばにいて、しっと口元に指を立てました。

「翔は外にでた?」

 私が尋ねると、母はいぶかしげに、

「なに言ってるの。外なんてとんでもない。ずっと寝ていたわよ」

 と答えました。私は混乱しました。しかし、そこで、母に濡れた服を見咎められ、着替えさせられました。
 着替えて母がお茶を温めてくれている間、私はふらふらと玄関に行って、翔の靴を見ました。靴の底はなにも汚れていませんでした。



七話

それからほどなくして、祖母は亡くなりました。翔はその時、ようやく泣きました。私は翔の背をずっとさすりながら、どこか空虚な気持ちでいました。
 きっと治ると、そして祖母がまた私たちに「よく来たねぇ」と言ってくれるのを私はどこかで信じていました。けれど、それはかないませんでした。世の中にはかなわないことがあるのだと、きっと私はこのとき初めて知ったのでしょう。

 
時を経て、今の私はあの日の祖母に寄り添えるようになりました。
 けれどもあの足跡――あの日のびていたあの足跡。あれは、いったい誰のものだったのでしょうか。そもそも、祖母のもとを訪れていたのは、本当に翔だったのか――祖母の面影も遠くなった今もなお、あの足跡だけが、私の中でずっと心の中に跡を残しているのです。

了.

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夕暮れトーキ

 目が覚めると、そこには豚の陶器の置物が置いてあった。
 何だこれはと寝起きの認識が曖昧な頭のまま、私は手のひらに収まるそれを、たちまちやってきたごみ収集車へそれを棄ててしまった。


 それが過去の自分の宝物で、昨日部屋の掃除をしている際に見つけ、懐かしく枕の横に自ら置いたのを思い出したのが朝食のスクランブルエッグをみんな平らげ、付け合わせのレタスを1枚端から食んでいる時であった。

「何かとても大切なものだった気がするのだけれど」

 しかしどうしてそれが宝物かは一向に思い出せなかった。

 それはある年の祭の日、その後何度も何度も学生の自分が友人と訪れることになる祭を、まだ十の指で来た回数を数えてたる年の頃のこと、
あれは祖母が私に買ってくれたものであったことを思い出したのは真昼中のこと、母に祭のことを聞かされた為であった。
 祭の、前年文化遺産に登録されたも、今年は雨で全ておじゃんになりそうであると、二、三の寂れた町並みの口述描写に重ねて「寂しいね」と聞かされた時であった。
 しかしどうして祖母がそれを買ってくれたのか。それは当日姉の幼稚園にいた母には一向わからぬことで、私と祖母以外の誰にもわからぬことであった。

「ああそうだ、あの時私が泣いたのか」

 りんご飴が欲しくてぐずった私と通りがかった瀬戸物屋で、涙まみれの私の目を一時、ほんの一時止めたその豚の陶器を目ざとく見つけ、私に買って渡してくれたことを、和室の入り口に姉のヴィヴィアン・ウエストウッドの赤いシャツがハンガーで引っかけられているのを見て思い出したのは、もう夕陽が傾いて空は紺へと姿を変え始め、黒枠の中でニッコリと笑う祖母へ十年来の習慣でご飯を供えに来たときであり、その頃収集車は収集物を収集所に山積みにし、豚はとっくにその中にしっかり埋もれてしまっていただろう後のことであった。
 

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終末セール

 その奇妙な店は、いつもあいているのです。誰のために、さあ。
でも、私のためではないようです。

 ドアの前に向かい、いち、に、さん。小さく数を数えて、私は深呼吸をします。

 カギはかかっていません。私が開けたからです。誰もいません、ええ知っています。

 部屋は真っ暗です。電気はついていません。当たり前です。歌でも歌いましょうか?いいえ、やめておきます。いつ帰ってくるかわからないですものね、ええそうです、そうです……なら、心の中で小さく口ずさみましょう。階段を上がる音に合わせて、わん、つー、すりー、私は数えては、歌っています。
 階段を上がれば、部屋がわかれています。私の目的地は、階段を上ってすぐです、ドアがあきっぱなしの部屋です。あきっぱなし、というより、ここにはドアがありません、何をするか、わからないから。見張る為に開けているのです。
 でも、今は誰もいません。
 私は部屋に入り、服を脱ぎ捨てます。白く染まったセーラー服は、そろそろ洗わねばなりません、誰もいないうちに、そうです。

 私の部屋――私の部屋です。そう、ここ、今誰もいないこの家の二階、階段を上がってすぐのドアのついていない部屋。ここは私の部屋でした。

 私は鏡の前に立ちます。下着姿の女の子が映ります。薄い体です、肌を裂けば、白い骨が顔を出しそうです。どうやら、もうすぐそうなりそうです。
 鏡に触れます、おなかに違和感があります。鏡に映る女の子に、私は話しかけます。

 「いらっしゃいませ」

私が言いました。妙です。「私たち」は客でも店員でもないのに、妙です。
 女の子が笑いました。頭をゆらして笑います。こちらにまで振動が来ます。ぱさぱさ髪が揺れます。
 元気にしていますか。女の子は尋ねます。優しい言葉です。

「おかげさまで、元気です」

私は答えます。ささいなやりとりです。心がそっと温かなものに包まれる気がします。
 今日はどういったご用件で。

「――そちら側に行かせてください」

 そちらがわに行きたいのです。私をそっちのお店に連れて行ってください。女の子は笑ったままです。でも、目から涙がぽろぽろこぼれています。
 笑っているのではなくて、歯をくいしばっているのです。女の子も私も。
 笑っていないのです、笑っていないのです、でも本当は笑っているのかも――いいえ!
 笑っているのです。笑うのです。店員はお客さんのために笑うのです。おきゃくさまはかみさまだから、だから私はお店の人に笑うのです。
 私は店員です、この世界の店員です。だから私は笑っています、ずっとずっとわらっています。
 私は、本当はお客さんとして生まれてきました。でも、いつのまにか店員です。

 どちらでもいいのです、どちらでも私は笑うのです。でも私はこの家に、お客さんとして生まれてきました。そのはずなのに、誰もそれを覚えていません。私はこの世界のこの家の店員です。他はみんなお客さんです。いつのまにか、そうなっていたのです。

 私はお客さんに一生懸命サービスします。私はできのわるい店員です。
 どこでも同じでした。私とおなじセーラー服を着た人は、店員でありお客さんでもあります。でも、私は店員だけです。店員でしか、ありません。
 みんな私をぶちます、お前は出来が悪い店員だと、家の人も、それ以外の所でも。

 つらくなんてありません。 
 けれど、この店を見つけてしまいました。見つけてしまったのです。鏡の向こうの世界、鏡の女の子の住む世界。
 鏡と向き合うと現れ――いいえ向き合わない限り、現れない世界です。これは、幸せでしょうか?それとも不幸せでしょうか……

 ――そっちで働きたいです、私は笑います。
 そちらの世界では、店員もお客さんも、肩書きだけでたがいにぶって慰め合う権利があると聞きました。私はこの店では笑います、店員ですから笑います。それでも、それでも本当は本当は、痛くて仕方がないのです。いたくていたくてしかたがなかったと、気づいてしまったのです――――そう何度も笑いながら志望動機を告げるのです。鏡の向こうに開いている店に。

 それでも女の子は、笑うだけで首を縦に振ってくれません。
 私は鏡を叩きます。お客さんと店員からの折○のあざがあります。私自身、刻み込んだ傷もあります。そっちに行きたくて、そっちで行きたくて、私の手首には無数の赤い線がついています。鏡の向こうに頼んだ回数です。
 のどが苦しいんです、痛いのです。
 お願いですから、そっちに行かせてください。
 


 どうして、どうして、私はこんな目に――――



 そのとき、一階の扉が開く、大きな音がした。


◇◇◇


「――〇月×日午後十八時
 △×市の住宅街、女子中学生が遺体で発見されました。遺体には複数の暴行の痕跡が見つかり、頭部打撲が致命傷となったとみられます。日頃から暴力をうけていたとみられ、女子生徒の母親を虐○、殺人の容疑で逮捕しました。」 

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小槻の今日の進捗報告【だれでも+無料プラン】

こんばんは、小槻です。
毎日たゆまず進めるために、進捗の報告をしたい次第です。
まず、今日も作品移行すすめました。

【箱の中身、感情のありか】

姉妹間のちょっとした軋轢の話です。軋轢というほどでもないか。トゲみたいな感じの一幕です。
クリスタの水彩、難しいけどすごく気に入ってて、楽しく着色しました。
800字程度でさくっとよめますので、よかったら見てみてください(^^)

さてさて、以下、進捗報告です。

Exclusive to users above "Follower"Free

進捗報告です。

Free

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