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迎陽花 秋~october~ 一話

一話

 光のどけき、うららかな午後のことであった。
 女生徒たちが、学園のカフェのテラス席にて、何やら一生懸命話し込んでいる。華やいだ様子に反して、彼女たちの表情は戸惑いに満ちていた。

「梅園さんに圧されて受け取ってしまったけれど」
「どうしましょう?」

 彼女たちのテーブルには、大量の無花果の入った籠がのせられていた。ちなみに梅園さん、とは彼女たちの通う学園の庭師である。人の良さそうな赤ら顔の中年の男で、庭でとれた自信の果物を差し出すのがクセであった。今日も今日とて、彼の犠牲者となった優しい彼女たちは、口々に嘆息した。

「いただくにしても、ナイフとお皿が必要よね」
「でも、こんなところで。さすがに恥ずかしいわ」
「クラスに持って帰ってどこに置きましょう? 困ったわ」

 無花果特有の甘い水の香りが、鼻先をやわく撫ぜる。とろけるように、甘美な感覚だ。ここが学園でなければ、まっすぐ使用人に差し出したろう。皆の視線が気になる。幾度目かの大きなため息をついたとき、周囲のくすくす笑いがざわめきとなった。思わず赤面を強めた時、目の前に大皿を大量に積み上げたカートが進んできた。

「あっ!」

 あまりに大量にのせているので、運び主は見えない。それが、皆の笑いの理由だった。しかし、周囲も彼女たちも、それが誰かはわかっているのだ。こんなことをするのは、一人しかいない。

「赤城さん!」

 カートが通りすがる瞬間に、ぴたりと止まる。
 声をかけたのは、理由はなく、ほぼ天啓に近いものだった。しかし、なにかすがろうとさせる力が、「彼女」にはあるのだ。
 大皿たちの後ろに立つ少女は、くるりと振り返った。

「なんですか?」

 淡いすすき色の髪が、日に照らされ白く透ける。申し訳程度のお下げが揺れた。少女は不思議ないつもの目つきで、彼女たちを見た。それから、テーブルに置かれた無花果も。
 彼女たちは、それを確認し十年来の友人のような心地で、少女――赤城に続けた。

「梅園さんにいただいたの。でもどうしたものかわからなくて」
「少し、いただいてくださらない?」

 そう言って果物を指した。赤城は今一度、無花果を見て、それから彼女たちを見る。

「すみません、今おなかいっぱいなので」

 ぺこりと頭を下げた。周囲から笑いが漏れる。ほがらかな笑いだった。彼女たちも、気にした風もなく、くすくすと笑い出した。やだ、赤城さんたら、そう言う意味じゃないのよ――と言おうとしたときだった。

「でも、皮はむかせていただきますよ」

 そう言って、てくてくと歩いてきた。手を合わせると、一つ無花果を手に取る。ヘタをひっつかんで無花果の実をむきだした。流水のような、無駄のない一連の動きに、彼女たちは、呆気にとられた。周囲も沈黙する。そして、赤城が「これでかじるといいですよ」と言ったところで、どっと笑いが漏れた。彼女たちも笑い出す。

「やだ、赤城さんたら」
「相変わらず、大胆だわ」
「今、どうなさったの? 早業ね」
「こうしてむくんです」

 赤城はもう一つ、ずるりとむいて見せた。手さばきの見事さに、彼女たちは目を輝かせた。

「私の分、もう一つむいてくださらない?」
「私の分も!」

 口々に、彼女たちは差し出した。赤城はお手玉をするようにむいては差し出すを繰り返す。

「手慣れてるのね」
「この季節は、よく頂きますから」
「こうして? あなたの『主』のお庭で?」
「はい」
「お叱りになられなかった?」
「果物は土のものですから。私の行儀についてはしょっちゅう叱られました」
「まあ!」

 彼女たちはころころと笑う。

「おもしろい方」
「やっぱりあなたは、私たちとは違う経験をなさってるのね」
「そうですか」

 赤城の、しなるように無花果をむきながらの返事に、彼女たちはまた、楽しげに笑った。
 彼女たちの言葉に、神経をとがらせるものもいるだろう――たとえば先に口にのぼった赤城の『主』であるとか、外部生など、この学園で下層とされるものであるとか。
 しかし、彼女たちには、全く悪意がない。ただ自分が思った、そのとおりのことを述べているだけなのだ。また、彼女たちも、ほかの生徒にはもっと神経質にするだろう。
 しかし、赤城の前では、そういった気遣い、というものがすべて取っ払われてしまう。それが彼女たちには心地いいのだった。

「あなたって本当につきあいやすい方」
「あなたのご主人様――碓井君があなたを重宝なさるのがわかるわ」
 
「そうですか」
「ええ。私たちもあなたのような方がほしいくらい」

 毒気のない彼女たちの笑みを受け、赤城は無花果をむき終えた。取り出したるハンカチで、手を拭くとカートに戻る。

「では、私はこれで」
「ありがとう、赤城さん」
「いいえ。――食べすぎには、お気をつけて」
「ごきげんよう!」

 そう言うと、また颯爽と巨大なカートを押して去っていった。彼女たちは、ほがらかな気持ちでそれを見送り、そして各々、手に持ったむきだしの無花果を見て、我に返る。

「ああ、つい楽しくて頼んでしまったけれど」
「どうしましょう、これ」
「かじるのは恥ずかしいわ」

 注目が集まったぶん、余計にいたたまれない気持ちになり、彼女たちはふたたび赤面するのであった。



二話

 所用を終えると、赤城は校舎に向かった。
 自分のクラスと、『主』のクラスで鞄をとると、廊下に出る。ゆっくりと視線をめぐらせながら歩き出す。窓と一年生のクラスに両脇を挟まれた廊下の突き当たりで、ちょうど少年たちが談笑していた。

「坊ちゃん」

 赤城が声をかける前に、彼らはうっすら気づいていたらしい。予定調和の瞠目のあと、笑みを浮かべた。

「碓井君、君の使用人が来てるよ」
「仕事熱心でうらやましいことだね」

 そう言って、集まりの奥にいた少年をつついた。つつかれた少年は、困ったようにはにかんで見せた。

「もう、からかわないでくれよ。じゃあ、皆。また明日」
「ああ、またね」

 朗らかな笑みを浮かべ、彼は皆に手を振った。そうして、ついと廊下を歩き出す。いっさいに気を払いつつ、やわらかな動きだった。赤城は、少年たちに会釈をすると、後につづいた。
 人の波をかいくぐり、学生寮に近づくほどに、彼の歩調は速まった。学生寮の、特に高級の位の棟は入る人間が限られるため、人気が少ない。だから、彼もまた、気がゆるまると言うものだった。

「遅い。何してたんだ」

 桜の葉の緑は、黄色じみてきており、あたりの景色を物寂しく穏やかに整えていた。
 ひときわ大きな桜の木の下で、彼はくるりと赤城を振り返った。
 秀麗に整った顔立ちは、高貴さと愛嬌を絶妙に兼ね備えていたが、今は不機嫌な陰を落としている。

「すみません。皿を片づけていましたもので」
「皿? おまえは僕に仕えてるんだぞ」

 甘さの残る澄んだ声は、冷たい苛立ちに満ちている。赤城は、動じた様子もなく「はい」とうなずいた。

「もちろんです、坊ちゃん」

 さあと風が吹く。赤城のすすき色の髪と、彼の黒髪が揺れた。彼は、舌打ちをこらえるように頬をゆがめると、ふんと鼻をならした。そして、ずいと赤城に向かい、指を指す。

「自覚を持てよ。僕は、誰にでもへいへいする犬はいらないんだ。僕の価値が下がるからな」
「はい」
「お前はこの、碓井由岐治に仕えてるんだぞ! わかってるのか?」

 ずいずいと一言一句、指で示しながら赤城に言い含めた。赤城は静かな様子で、押し引きする主の指先と、強い眼孔を見ていた。

「わかってます」
「ふん。わかってないだろ。覇気のない目しやがって」

 赤城の主である彼――由岐治はそこで矛をおさめた。人の気配がしたのと、これが彼らの常であるからだった。由岐治は歩き出す。いらいらとした足取りを優雅な陰にひそめていた。

「間抜け、このうすら馬鹿。僕ほど寛大な主はいないぞ。お前なんか、どこでもやっていけるもんか。この――」
「坊ちゃん」

 ぶつぶつと小声でささやき続ける主に、赤城は返す。歩調はそのままに、由岐治はちろりと目線を流した。

「悪口を言うのはよしなさい。後で落ち込むんですから」

 やわらかい声音が、由岐治の脳を撫ぜた。思わず立ち止まった由岐治に、赤城もまた立ち止まる。由岐治は口を開いては閉じ、そして怒鳴った。

「するもんか! 少なくともお前相手に、そんな気持ち持ったことないね!」
「そうですか」
「そうだ!」

 がなりたてるので、近くの木から鳥が飛び立った。枝がしなり、葉が揺れる音がする。

「坊ちゃん、帰りましょう。じき、ご飯になりますから」
「うるさい……」

 なんとなく間抜けな気風になり、意気がそがれた由岐治は頭を抱える。赤城に促され、由岐治はふらふらと歩き出した。

「くそっ、このろくでなしが。絶対、この僕がお前を追い出してやるからな」
「それはなりません。私は坊ちゃんの使用人ですから」

 由岐治の苦悶の声が秋の空に抜けていった。

三話

「なんだこれ」

 食事を終え、優雅な一人部屋に戻ると、テーブルの上にのせられたものに、由岐治は目を丸くした。青みの残った三角の柿が、籠にたっぷり積まれている。主のうろんな目に、赤城は鷹揚に返した。

「柿です」
「見りゃわかるそんなの。どこでどうしたかって聞いてるんだ」
「梅園さんにいただきました」
「捨てておけ」

 吐き捨てると、由岐治はソファに座りこんだ。赤城は、てくてくと近づくと、ほどいたネクタイを受け取る。由岐治は組んだ足をいらいらと上下させた。

「もったいないですよ」
「なら受け取るな」
「美味しそうでしょう」
「うるさい! そもそも渋柿だろ! どう食えってんだ!」

 赤城が柿を指すので、由岐治は叫んだ。余りに声が大きかったので、しんとした室内に反響した。由岐治は、いささか決まり悪そうに指先をかむ。

「あのジジイ、何でも押しつけやがって。こっちはボランティアじゃないんだぞ」
「木になってるものですから、安全ですよ」
「人からもらったものなんて、信用できるか」

 息をつくと、ぶつぶつと呪いの言葉を吐き出している由岐治に、赤城は首をわずかに傾けると、ソファの隣にとんと腰掛けた。

「おい。誰が座っていいって言った」
「坊ちゃん」
「聞け。いいか、床に座れ」
「どうなすったんです」

 両手を自身の膝の上にのせ、赤城は由岐治の顔を見つめた。常に伏し目である彼女の目つきには、由岐治の顔は映らない。しかしそれが、人への気後れや無礼からくるものではないということは、彼女の目が伏せられながらもまっすぐ人を見ていることからわかった。
 この目だ、と赤城の目を見て人は言う。この目に見られると、人は何故かふわふわとして、開け放たれた心地になるのだ。
 それは彼女の主である由岐治も例外ではない。しかしながら、彼には強みがあった。彼女への慣れと、恐ろしき利かん気である。

「別に」

 由岐治は心の扉をわずかに開け、そしてそっぽを向いた。すなわちわずかに甘い声で、顔をそらしたのである。

「そうですか」
「聞けよ!」

 由岐治はぐるんと振り返った。足を組んだまま返ったので、バランスを崩して赤城の方へ倒れ込む。赤城は由岐治の腕をつかんで、体を支えた。

「おっと」
「うわっ、離せ! バカ!」
「ありがとう、でしょう」

 由岐治の体を定位置に戻してあげながら、赤城はのんびりと返す。由岐治は膝を抱えようとして、まだ制服であることに気づきやめた。

「なんです、坊ちゃん」
「なんでもないって言ってるだろ!」
「そうですか」
「だから聞けっていってんだろ!」

 らちのあかない押し問答に、息が切れるのは主の由岐治ばかりであった。赤城は平素のまま、由岐治の背をさする。由岐治も疲れたのか、したいままにさせている。

「坊ちゃん、お茶飲みますか」
「なんだよお前……」

 否定のないのは、肯定の意だ。赤城は立ち上がると、お茶の準備をしだした。由岐治はソファで膝をかかえて座っていた。

 ◇◇

「犬みたいな奴は、生きている価値がないと思う」

 お茶を飲みながら、ふいに由岐治が怒りだした。開いた扉の隙間から、なにか引きずりだしてもいい気がすると思ったのだろう。演説の体で語り出した言葉に、赤城は静かに耳を傾けた。

 ――つまりな、人間に生まれたくせに、人にへつらって顔色ばっかりうかがっているやつのことだ。あいつらはいったい何をしてるんだ? すすめられた菓子をひっきりなしに食べてさ。あんなことをして喜ぶ奴なんて自分を人間扱いしていない証なのに、友達になれたとか好かれてるだとかなんだか言って、自分を切り売りすることを楽しんでやがるんだ。
 もっと最悪なのは、自分でやっておいて、自分は「犬にされた」と恨みに思う奴だ。なんだってそんなに自分優先でものを考えられるんだ。本当に吐き気がする。――

「結局あいつらは自分がかわいいだけの偽善者だ。皆死んじまえばいい」
「そうですか」
「返事するな。お前に話してない」

 今日は――いや今日はいつにもまして饒舌だった。よっぽど疲れているな、と赤城ははやくに茶を引き上げることを考えた。由岐治は、カップを干すと、ソーサーの上に置き、息をついた。
 由岐治が情緒乱れているのはそう珍しいことではない。ただ常と違って、ずうんと重い何かを感じる。赤城の観察をよそに、由岐治はふうと息をつく。

「言われる前に、つげよ。気が利かないな」
「はい」
「それでその飼い主だ。そいつだって――」

 由岐治の演説は、赤城の寮の点呼まで続いた。

 ◇◇

「ひばなちゃん。干し柿かい」
「はい」

 赤城が一階からベランダを見上げていると、向こうの庭から、汗をふきふき梅園がやってきた。涼しくなったとはいえ、肉体労働にならした体は代謝がいい。ちなみに、ひばなとは赤城の名前である。
 赤城の頭上には、大量の干し柿がつるされていた。

「たくさん干したなあ。場所、よくとれたもんだ」
「できたらお渡しする約束をしたんです」
「そりゃいいね。本当に、美味しいと思うから、楽しみにしておいでよ」
「はい。あなたにも持ってきますよ」
「ありがとうね。いやあ、大事にしてもらうと、嬉しいね」

 梅園は、顔を真っ赤にして笑った。赤城はその顔をまっすぐ見つめると、「梅園さん」と問いかけた。

「ものをあげると嬉しいですか」
「うん? そうだねえ」

 梅園は、幼さを懐かしむような、ちょっとまばゆい目をしていた。首にかけていたタオルで額をふくと、「うん」と言葉を探した。

「俺は好きだな。だって、ものをあげるのは気持ちだから。だから、もらうのも嬉しい」
「そうですか」
「ひばなちゃんもそうだろ? だからこうして干し柿にしてくれたんだ」

 梅園はつるされたオレンジ色の果物が揺れるのを、愛しげに見つめた。

「ものあげると、無碍にされることもあるよ。ひばなちゃんの時には、まだつらいかもなあ。でも、たくさん生きてると、それでもいいかと思えるようになる」

 梅園は、ぽんと赤城の肩をたたいた。赤城は「はい」とうなずいた。梅園も「うん」と励ますようにうなずいた。

「ひばなちゃん、いくつだっけ」
「十四です」
「そうか。それで坊ちゃんにお仕えするのは、大変なときもあるよなあ」

 干し柿が揺れる。赤城は梅園の顔を見あげる。梅園は、干し柿を見上げていた。意識的に、そうしていた。

「うん、大人から見ると、大丈夫だと思うけど。まあ、疲れたら休みなさい」

 ははは……梅園が大きな照れ笑いをするのを、赤城はじっと見ていた。
 風が、ゆったりと吹き抜けていった。
 チャイムが鳴る。赤城は校舎の中へ向かった。今どっぷり暗いところにいる、彼女の主のもとへ。

 小さな――しかし確かに大きな事件が起こったのは、週末だった。


四話

「誕生パーティーですか?」
「ああ、友達のな。第二寮のホールで、週末にやるんだ」

 肩をすくめて笑う目の前の男に、由岐治は「はは」と笑みを返した。笑みの奥に苦い気持ちを押し込めていた。的確な説明と、その仕方から、ありがたくも、次の言葉が読めていたからだ。

「君も来い。星雲館ではお世話になったし」
「いいんですか?」
「もちろん。皆、君たちの話を聞きたいと思うんだ」
「光栄です」

 予想通りの言葉に、由岐治は待ちかまえていたように驚き、またはにかんで見せた。相手は、片頬を上げ、くいと笑ってみせる。キザ野郎め、かっこいいと思ってんだろう。由岐治は内心毒づいた。相手はジャケットのポケットからチョコバーを取り出すと、小さくひとかじりした。

「パートナーはあの子にしてくれな」
「はい、それは」
「あっ。ほかに意中の子がいた? 悪いけど、今回はうまく言い訳してくれ」

 どうでもいいから、さっさと行けよ、と言うわけにもいかないので由岐治はあくびを殺すように笑みを浮かべていた。

「はい」
「じゃあな、楽しみにしてろよ」

 ジャケットにチョコバーをしまい、彼は由岐治に背を向けた。
 片手を上げながら去る背は、自らが伊達男であることを存分に理解していた。通りすがりの女子生徒も、きゃあと気楽に声をあげては、彼に手を振られている。由岐治はその背が振り返りそうにないな、というところでようやく息をついた。
 相羽亮丞――相変わらず、油で磨き上げたような艶々した男だ。由岐治の二年先輩だが、あれが生徒会長だったというんだから、学園も終わりだ。

「坊ちゃん」
「いたのかよ。もっと早くに出てこいよな」

 ひょいと木の陰から、赤城が顔を出した。記述が遅れたが、由岐治は学園のカフェのテラス席から、すこし外れた所にいたのだった。ゆるやかな日差しが、赤城の顔に葉の陰をつくっていた。
 うんざりしきった様子の由岐治に、赤城は尋ねた。

「パーティーですか」
「ああ。おまえも来いよな、腹が裂けそうなほど不本意だけど僕の同伴者にしてやる」
「おいやですか」
「は? イヤに決まってんだろ」
「パーティーがです」

 赤城の問いに、由岐治は苦い顔をして黙り込んだ。あたりにスパイでもいないかというように、神経をとがらせて、「それは」と返す。

「ありがたいことだからな」
「おいやならいやと言っていいんですよ?」
「できるわけないだろ!」

 肩を怒らせて、由岐治はそっぽをむいた。赤城はそんな主を見ていたが、てくてくと近づいてきた。じっと由岐治を上から下まで眺める。

「何だ」
「スーツを考えていました」
「ふん」

 由岐治は鼻をならす。いささか空気がまろくなっていた。すたすたとテラス席をすり抜け、カフェの中へと歩き出す。

「気取りすぎたのはやめろよな。選んだらちゃんと事前に僕に見せろよ」
「はい」

 ◇◇
 
 週末、由岐治と赤城は第二寮のホールへと向かっていた。由岐治は、スーツに身を包み、赤城は制服姿である。

「みっともない。これが僕の同伴者とは……」
「これが私の正装です」
「せめてそのださいお下げをやめろよ。結ぶほどの長さじゃないだろ」
「すっきりするでしょう」
「剃れよ」

 ぶつぶつと文句をたれながら、由岐治は廊下をいく。

「雑然としたところだな」
「そうですか」
「いかにもってかんじだ」

 この学園には、寮が三つあり、第二寮は、学園で中からやや上にあたいする生徒たちが住んでいる。廊下や広間には、高級そうな調度品が置かれている。しかし、そこに子ども特有の熱気がうずまいているので、どうにもアンバランスな空気を醸し出していた。
 ちなみに、由岐治が普段住んでいるのは第一寮で、赤城が住んでいるのは第三寮である。
 由岐治は気が重すぎるらしく、二人きりなのをいいことに重い息を何度も吐いていた。
 ホールの扉の前で、派手なスーツをまとった男がこちらに背を向けて立っていた。言うまでもなく相羽である。注視すれば、いつもの通りチョコバーを小さくかじっている。

「相羽先輩、こんばんは」
「よう」

 相羽は、いかにも偶然といった調子で肩から振り返り、にっこりと笑った。由岐治はおえっとやりたくなるのをこらえ、続ける。

「お招きいただいて、ありがとうございます」
「当然だろ。いい趣味だな」
「恐縮です。先輩こそ、素敵なスーツですね」
「いいだろ、新調したんだ」

 相羽はぴっとジャケットを示してみせる。どうせそれが言いたかったんだろ、由岐治は心で毒づいたが、口ではつらつらと褒めあげるのだった。

「ああ、ちゃんと彼女も連れてきてくれたな」
「おひさしぶりです、相羽先輩」

 赤城はぺこりと頭を下げた。かがむように赤城の顔を見た相羽は、「またあえて嬉しいよ」と言って笑った。赤城は「はい」と頷くと、ちらりと相羽のチョコバーを見つめた。

「チョコ、お好きですね」

 由岐治からすると、とても余計な話の広げ方をしてくれた。相羽は、口角を上げると「気になるか?」と尋ね返す。心底どうでもよかった。

「いつも食べてるので」
「ああ。どうにも好きなんだ」
「たくさん食べますか」
「一日一本まで。バスケットマンだからな。節制しないと」

 ならやめろよ、と由岐治は思った。いじましくちまちまと食べている理由を知ってしまって、由岐治はうんざりした。相羽はチョコバーをジャケットのポケットにしまう。
 
「来な。今日のホストに紹介しなくちゃ」

 そうして扉は開かれた。

 
 ホールの中は美しかった。騒ぎやすいようカジュアルにまとめられた中に、ところどころ飾ってある花が、空気を統一していた。ホストはなかなかに趣味がいいな、と由岐治は思った。まあ今から騒げば台無しになるんだろうが。由岐治は赤城に「あんまりきょろきょろするな」と耳打ちした。
 相羽に誘われるまま、ふたりはホールの中心へ向かう。そこには華やかなドレスに身を包んだ女生徒たちがいた。

「リサ!」
「先輩、こんばんは」

 相羽は、中心にいる、ひときわ美しい装いをしている少女――リサというのだろう――に声をかけた。彼女は首を傾げて笑うので、白い髪飾りがひらひらと揺れた。

「遅かったですね」
「悪い。ちょっと連れを待ってたから」
「エナですか?」

 一瞬、由岐治はほんの少し怪訝に思った。エナ、と言う言葉がでたとき、空気が硬くなったのだ。主に、少女の周囲の空気がである。
 相羽は木にした様子もなく、片眉をあげ、「違うよ」と言った。

「友人のために、サプライズゲストをさ」

 目配せするが早いか、相羽は由岐治と赤城を前にいざなった。おされるように、二人は彼女たちの前に出る。ひとりが「まあ」と声を上げた。

「碓井君と赤城さんじゃない!」
「こんばんは」

 由岐治はいたたまれなさを隠し微笑んだ。初々しさに、彼女たちは色めき立つ。つまり彼女たちは由岐治より上級生だ。おそらく。

「噂の“主従探偵”に会えるなんて、光栄だわ」
「いえ、恐縮です」
「かわいらしいわ!」
「おいおい、あまりからかってやるなよ」
「あら、相羽先輩、やきもちですか?」
「何でも一番がお好きですものね」

 ほーほほほほ……高い笑い声が、ホールに抜けていった。前言撤回だ。このパーティーにいいところなんてひとつもない、由岐治はめまいを覚えた。サプライズゲストとやらの自分をおいて、盛り上がっている相羽たちから目をはずすと、ちょうど先の少女と目があった。今日のホストだ。にこりと困ったように微笑まれ、由岐治も笑みを返す。

「こんばんは、碓井君。お噂はかねがね」
「光栄です。お誕生日おめでとうございます。矢絣先輩」
「あら、ご存じでしたの?」
「生徒会の書記をつとめておられる先輩を、知らない生徒はいませんよ」
「まあ、悪いことはできませんね。でも、こうしてお話しするのは初めてですね」

 さっきまでがひどかった為に、気楽に話せた。こういう効果があるから、ああいうランチキも許されるのかもしれない。由岐治は遠く思う。矢絣は、微笑したまま赤城のお方へ顔を向けた。

「こちらは、赤城さんね。初めまして、矢絣理紗です」
「初めまして。赤城ひばなと申します。このたびはおめでとうございます」
「あら、ありがとう」

 すこし矢絣の空気がくだけたのは、赤城の「身分」ゆえと、彼女たちが同輩であることが大きかった。

「お二人とも、週末にありがとう。相羽先輩が無理を言ったのではなくて?」
「いえ、お招きいただき光栄です」

 答えながら、由岐治はその内輪の言いようが気になった。さきの違和感といい、二人はなにかあるのだろうか。考えつつ、談笑を続けた。

「では、また」
「楽しんでくださいね」

 話を適当に切り上げ、由岐治はその場をあとにした、相羽は勝手にどこかへ行っていたので、もう放っておいた。
 


【二話へ続く】

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everything's no change

環状線

 環状線、
 私は電車に揺られていた。右肩にほおをもたれさせた。イヤホンの右耳の方の響きが強くなった。

「お姉ちゃん、もう駄目かもしれない」

 母が言った。
 昨日のことだった。母は、見舞いから帰ってきてからずっと、リビングで黙り込んでいた。よくあることだと、私は冷蔵庫からお茶を取り出した。
 母は、ふいにその言葉を吐き出した。
 ひときわ強く、電車が揺れ、肩に頭を打つ。肩の位置を調節する。少し、音が遠くなった。

 お姉ちゃん、もう駄目かもしれない。



 私の姉は病気だった。私が生まれる前から、生まれてからも今までずっと、病気だった。
 姉といえば、ベッドに横たわっている姿がまず浮かぶほどに、姉とそれは同化していた。
 しかし、姉の病気がいよいよ、姉を殺す。
 母は途方にくれたように、愕然と泣きながら言った。私はそれを、ぼんやりと聞いていた。
 とうとう、または今さら――来たか、そんな風に思いながら。

 私にとって姉は、遠く無関係であり、同時に厄介なしがらみだった。

 人生――人生というには短いが――というもので、私には学んだことがある。
 一つ、人というものは、何かしら交流を持ちたがるし、何かしら向上したがるものだということ。そして、大多数の人がそれを「いいこと」だと信じていること。
 二つ、人は「恵まれない人間に比べた自分や他人」というものが、とても気になる生き物らしい、ということ。

 人生で何度も繰り返し言われる言葉というものが、人にはあると思う。
 私の場合は、「もっと頑張りなさい」「感謝しなさい」「もっと打ち明けなさい」だった。
 
 私に与えられた言葉たちを、噛み砕くとこうだ。

「あなたのかわいそうな姉の分まで、恵まれているあなたは頑張らなくてはならない」
「恵まれない姉を持つあなたには苦しみや罪悪感があるはずだ」

 ここまで言うなら理不尽な言い方であるが、これをさっきの言葉たちに置き換えると、はっきり正論になってしまう。
 こういったことを言う人ほど、何か罪の意識でもあるのではないか、私は思う。
 しかし、それこそが人が交流を持ちたがり、向上したがる生き物のゆえんなのかもしれない。
 人は常に見えない恵まれない何かにたいして申し訳ないのだ。
 それが私の場合、あまりにわかりやすく姉と言う形で視覚化されていただけだったのだろう。

 姉。
 姉に比べ、なるほど私は健康体で、「元気だから何でもできる」のだそうだ。
 しかし、こういう事を言う人たちに思う。姉をそこまで哀れと思うなら、どうしてそれで私に頑張らせるのだろう?
 あなた達の罪悪感を、何故私が支払わねばならないのだろう?
 それが一切合切わからなかった。
 私に「頑張れ」と言うことで満足し、自分達が頑張らない理由は何なのだ?
 そこまで姉が好きなら一度見舞いにでも行ってやればいいと思った。
 しかし、彼らはどうやら彼らは私に頑張らせることを頑張っているらしかった。
 彼らが姉の目を見ることはなかった。
 私は姉を哀れに思わない気持ちがみじんもないではなかったし、健康に感謝する気持ちも人並みにはあった。
 けれども、だからといって、他の大勢よりたくさん努力をしなければならないとは思わなかった。そこに姉は一切関係なかった。
 やれ頑張れ、頑張ればもっと頑張れと言われる。
 そこまででもたいそう不満なのに、頑張れていいね、と感謝まで強要される。
 そんなバカなことがあるか、そう思ったが、そんなバカなことが私の人生ではずっと続いた。


 私はそんな生活から脱け出したかった。
 だから、私は潔く逃げることにした。二度と姉のことで煩わされてたまるものか。誰も私を知らない所へいきたくて遠方の高校へ私は進学した。
 しかし、姉が死ぬらしい。これは一体どうしたことだろうか。
 これで全てがおじゃんか、と思った。同時に何も変わらないだろうという諦念と期待があった。

「休みたい?」

 部活の先輩である上坂は不機嫌そうにそう言った。当分、週に一度は休みをもらいたいという相談という名の報告をしに行ったときのことだ。

「姉が病気で、危なくて」

 事情の説明を始めると、上坂はしかめ面を急いでほどいた。そうしてわかりやすく心配の色を顔に浮かべる。私の手を握って、「大丈夫?」とまで尋ねてくれる。さっきまでの不機嫌を帳消しにするような優しさだった。

「昔から悪いんで」

 私は軽く笑って答えた。すると、上坂は

「ああ、そう……」

と気まずそうな顔をして手を離した。それは、明らかな私への失望の態度であった。
 上坂は、「お姉さんかわいそう」という空気を、離した両手のうちでこねまわしていた。「かわいそう」は、病気に対してではなく、私のような妹の存在に対してだった。まるで、自分が姉自身になったかのような、そんな顔を見ると

(なら今、泣いてもいいのか?)

 そう聞きたくなる。
 私が今泣いたところで上坂が何となく満足するか、内心困るかのどちらかしかなかった。そのこと自体を上坂だけがわかっていなかった。
 こういう手合いにかかずらわっているのは疲れる。
 私は一礼すると、背を向けて歩き出した。カーデのポケットから取り出したイヤホンをつけて、音量を三上げた。響きが悪くなってきた。買い換えなければならない。

 ほぼ無人の電車の中、黄色の西日が柱のかげをかわるがわる射し込ませた。

 白米は新米なれど誰も喜ぶものなし。

 ご飯を食べる。握り飯を食む。固い冷たいご飯だった。
 いつものことながら、母は家にいない。ただ、もっといなくなった。もっと上の空になった。
 カップラーメンにはもう飽きていたので、昨日飯を炊いた。
 姉が死ぬ。しかし、くるくると食糧だけ、いつものように買い足されている。新米の季節だった。
 私は一人、それを炊き、今日もまた食べた。
 ふと、姉が食べているご飯は味がついていなくて不味かったことを思い出した。

 姉の見舞いの前日の日の事だった。
 白く冷たく、病気のにおいの麻痺した部屋。
 姉を見たとき、「ああ、死ぬな」と思った。
 もはやそれは確信に近かった。母の涙の重さがようやく追い付いてきた。あの時はただ涙に困っていただけだった。
 私は母と二人、ゼリーを持って見舞いに行った。
 高校に入ってから、通う間がなかったので、幾分久しぶりの見舞いであった。
 何故、母が私を呼んだかもわからない。体裁だろうか、そう思うほど、母は道中、何も言わなかった。
 痛々しくもない、ただ気後れする沈黙の中、私達はひたすらに電車に揺られていた。

 正直なところ、私は姉自身のことをどう思っているか、よくわからない。
 しがらみであっても、姉の人格がわたしを煩わせたことはなかった。
 温厚なのか疲れているのか、いつもおっとりとして、姉のまわりは静かだった。私より年上のせいなのかと思ったが、私より四つ上の近所の高木さんは、少し年代が違うだけの女の人だ。どちらかというと、姉のそれは職員室の隅にいつも静かに座っている、「おじいちゃん先生」の北見のそれによく似ていた。
 姉はいつも病院と家を行き来していた。だから、あまりに姉と病院というものが身近に結び付きすぎていて、母に「駄目かもしれない」と泣かれて、神妙に病院に呼ばれても、私は何とも思わなかった。
 いや、何かいやなものを感じてはいた。けれど、そんなもの嘘の危機感であったと、姉を見た瞬間に悟った。
 姉は死ぬ。
 するとその瞬間、不思議に、私のなかで感動が生まれた。何故か突然、姉がとても慕わしい存在に思えたのだ。
 私の感傷に気づいた母が、何か理由をつけて病室から出させた。私は姉を気遣い、何気ない顔をよそおって、外へ出た。少しこの感動に流されてやれば、涙まで浮かびそうな気分だった。私は同時にそんな自分の心の動きにぞっとしていた。
 今泣くのは気持ちが悪い。それはずるく卑怯な行為だった。私はこの姉がいなくてもずっと平気で生きてきたし、生きていけるのだ。
 買ってきたゼリーが、姉と私の距離だ。
 イヤホンをつけて、音量をガンガンに上げた。ずれてついたイヤホンから音漏れがして、通りすぎた誰かの見舞い人が、私をちらりと見て去った。
 私は姉のがりがりの体を憎んだ。黄色く、浅黒くなってしまった肌を憎んだ。もっと健康体で死んでくれたらよかったのだ。私が申し訳ないと思わなくてもすむような、そんな体で。


友達

  友達は好きだ。でも同時に鬱陶しくて、ひどく寂しかった。

 上坂や学校の担任から、私の事情はそれとなく漏れ出していた。無論、他人は他人にたいして興味を持たない。だから、友人をのぞいては、声をかけてくるひとが関心を寄せているのは「病気で死にかけの姉がいる」という点だった。
 その友人はと言うと、

「何で言ってくれなかったの?」

 と泣き顔から怒り顔まで様々で、私を抱きしめるものまでいた。
 何で言わなかったか、そんなもの、「姉を忘れたかったから」以外にないが

「重すぎて怖くて言えなかった」

 以外には言えそうにない空気で、とことん弱った。
 そうでなければ、「そんな大変な姉がいるのに自分達とニコニコ笑っていた私」を友人達は認められないのだと気づいてしまったのだ。友人達は、やっぱり大多数の善良な部類の人間だった。
 その善良さというものに、何となく心が温く感動に包まれた。しかし同時に、一気に窮屈に冷えていくのも感じていた。
 こんな風に生まれたかった。
 優しい人間に、生まれたかった。私の代わりに泣く彼女たちを見て、そう思った。
 姉の姿を思い出せば、尚更だった。

 明日、明日か、それとも今夜?
そう思いながら布団に入る日は窮屈だった。明日であればと布団のなかで思い、今夜であればと今日の昼に思う。
 どうせ死ぬならば、来るなら今という時があったが、死はそんな都合よく訪れるはずがないとも信じていた。きっと一番、迷惑な時に来ると信奉していた。
  
 環状線、まわる。
 通学電車の中では朝でも夜でも眠ると決めている。朝、乗り込む駅はまだ電車の混む前にあり、あいているため座ることができる。座って眠るために、二時間近くかかる通学の電車を、念を入れて通常より早めてさえいた。
 だから、私は通学中はいつも目を閉じている。
 ひときわ日差しが強く差した。眩しくて、私は目を開けた。元より目を閉じていただけで起きていたので、あっさりとした開眼だった。
 目の前にブレザーのジャケットとシャツ、チェックのネクタイが広がる。見慣れたデザイン。隣駅が最寄りの、西高の制服だった。
 通学ラインが同じで、志望校の一つだったのでよく覚えていた。目の前に立っているのは男子校生であるらしかった。差し込む日差しの強さに、同じく顔をしかめているのがわかった。少し遊ばせた髪の毛先が、薄く日に溶け込んでいる。
 トンネルに入る。視線を外して、私はそっと目をおさえて俯いた。

「あ、今日は秋刀魚だね」

 ある日の見舞いの帰り、近所の家を指して言うと、母がほんの少し口元を動かした。眉毛が下がるに合わせて、ぴくりと痙攣したようなそれは、能天気な私に対するいやな笑顔、といった具合だった。類語を引くなら「皮肉っぽい」、それであった。
 姉のためにそんな風にしか笑えない母がかわいそうだった。実際に母がその顔をしたくてしたわけでないことを半分だけ感じたからだ。
 

everything's no change

 飴を舐める。口に転がす。
 姉のうちへ何かが抜けて消えていく、そんな気がした。
 そうして空を見上げると、夕日は橙と黄色から、うすむらさきと紅のグラデーションにかわっていた。
 雲が、むらさきの空の肌の中で鱗のように、赤い。
 ちらちら、きらきらと生き物のようにけば立っていて、思わず足を止めた。
 耳の奥で音がする。どこか遠く、脳を音と一緒に影に置いてきたような、そんな気がした。まばたきと共に、うろこ雲がばらばらと落ちてくる錯覚にとらわれた。大きくまばたきするほどに落っこちていく気がした。
 何も言えなかった。言うこともなかった。
 ただもう少しここにいなければならない。あの空を見ていなければならない。茫然と空と顔を平行線に近づけながら、そんな気がした。
 姉は呆気なく死んだ。ドラマやドキュメンタリー番組の奇跡の回復なんてものは、大抵が嘘っぱちだとわかった。
 母は姉の顔を、優しく二度三度撫でた。
 母には、もう泣く気力はないと思っていた。母は、暗くおちくぼんだ瞳を濡らして、

「頑張ったね」

 と言った。手は震え、あとは言葉にならなかったようで、そのまま姉のそばにくずおれるように座り込んでいた。
 それから、ほぼ無意識のように立ち上がって、辺りを取り巻く、医者や看護師の人達にお辞儀をした。彼らは沈痛そうに頷いた。
 どこか慣れた心痛の表情だったけれど、彼らの顔を見て、「この人たちも年をとったんだな」という感慨が、何となく浮かんだ。
 姉といっとう親しくしていた看護師は、この間産休に入ったばかりだった。姉の名前をもらわれたらゾッとするな、と考えてすぐに「ありえない」と思った。
 その瞬間、姉のことを心底哀れに思った。
 姉はひとりで行ってしまったのだ。

 母は泣いた。もはやそれは、益体のない涙だった。泣いて泣いて、泣く先に残るものは何もないとはっきりわかる、そんな泣き方だった。
 見返りなんてもう求めようはなかった。それでも泣いた。私はそんな母を心から哀れみ、羨ましがった。
 自らの分身のようなわが子とはいえ、別の人間のためにそこまでの涙を、その涙でもう一度“産みかねぬ”という勢いで、身を削って流す――そんな芸当を、そこまで自分を他に持っていかれる生き方をしている母に、純心に感心したのであった。

「行ってきます」

 言葉は確認で、誰に向けたものでもなかった。
 ほぼ灰色となった髪をそのままに、母はぼんやりとリビングの椅子に座っていた。
 特別に声をかけるのは戸惑われた。肌は緑がかって白く、暗くかげり、頬はやつれ、唇はいつもうっすらと開いている。目だけ大きく開かれている。だというのに、どこも見てはいないのだ。目の下のしわとグラデーションになった黒い隈を見る。

 姉の葬式の日、

「納骨はせないかんよ」

 と伯母が言った。
ぼんやりと真っ黒な目をした母はそれを聞いていた。いつも無神経な野太さのある伯母の声が、私はずっと嫌いだった。

「お母さんを支えてあげないかんよ」

という言葉は、私の肩を掴んだ力と同じく強く、彼女にとってはそれが正義であることがわかった。
 葬式という一時的な意識で出来ているそれで以て、このときばかりこちらの内側に入り込もうとする伯母に、私はしらけた。
 母の肩を抱くことも丸く小さくなった背をさすることも私には出来ない。母も私の肩を抱かなかった。けれど、それでいいとも思った。
 私は言葉も温度も持っていない。
 父がいれば、そう思ったが、父はめっきり家を空け、仕事に明け暮れていた。

 環状線、めぐる。
 不意に電車がとても強く揺れたので、目を開いた。何やら一時停止をしていたらしい。私は目覚めていて、目を瞑っていただけだった。だから目を開いたのは、目覚めたからではなかった。
 目の前には見慣れた西高の制服、何となく私は視線を上げた。
 全く違う人だった。
 私はイヤホンを調節して、そっと目を閉じる。
 そうして電車はまたゆっくり動きだし、線路の上を進んでいった。 


了.

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小槻の活動報告

こんにちは、小槻です。

今日も今日とて、イベントに向けて作業してました。

作品制作は進んでるのですが、お品書きをどうしようかな~といまだに考え中で、それについては、いっかなすすんでおりません…

といいますのも、短編は、短編小説集として紹介しようと思うのですが、その中の作品紹介をどれくらいしようかなってことに悩んでるんですよね。

でも自分は、あらすじというものを考えるのが昔から苦手でして…… どうしたらより興味を持っていただけるかなあ、とうんうん頭をひねっております。

しかし、タスクが先延ばしになってるのも気持ち悪い。日数もないしいい加減、早いとこ決めなければと思うのですが……(-_-;)

つい、作品作りの方に逃げ……



頑張ります。


【花あかり】より茅根です。



最近、というかここ数日、絵の主線の太さを変えました。今まで主線の設定は太めにしてそこで強弱をつけていたのですが、元を細くして後で強弱をつけるというやり方にしてみました。

もともとアナログで、がっがっと強弱付けて描く癖があったので、デジタルでもそれに近い感じでできないかな、と思っていろいろしてたんですが、たぶん現状このやり方が一番いいかな?と思います。

あと久しぶりに自分のアナログ見てたら、思ったより線太くないなと思ったので、デジタルでむしろ、基本の線の設定が太かったのかもと思ったのも大きいですね。細い線の設定でも筆圧で強弱はつきますし

私は下書きの線が多いので、正しい線を見つけるのに苦労しますが、そういえばペン入れするときは、アナログあんまり下書き線書かないようにしてたな…と思い返したり……ん?答えが出ている??私は何をしていたのか



とまあぐるぐる回りつつ、新しいやり方、気に入っています。イラスト描くのがもっと楽しくなりました。



では、頑張ります!

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やっちゃった。

前編

「何よ、そんなに怒らなくったっていいじゃない!」

 怒りで甲高く上ずった叫び声と、困惑混じりのざわめきが辺りにこだました。
 騒ぎの中心にいるのは二人。その内の一人であり、叫び声をあげた本人である大城は、もう一人である佐々木を睨み付けた。
 その目には薄らと涙が浮かんでいた。顔を真っ赤に上気させ、何事か叫んでいる。時おり湿る声は、彼女が怒る様子を見せながらも泣きそうである事を示していた。
 佐々木はそんなことには目もくれず、泣きながらただ手の中のものを抱き締めていた。周囲は何事かという目で二人を少し遠巻きに見ていた。


「何をしているの!」

 騒ぎを聞きつけたのか、教師が一人そこにやって来た。気づいた大城は、また言葉を続けようと吸った息を止め、しばらくしてそのまま吐き出し俯いた。

「先生、佐々木さんが」
「大城さんを叩いて」
「大城さんが佐々木さんのを壊した?」

 口々に外野は、自分の知った情報を告げる。断片的なそれらの間を埋めるために、教師は二人の間に割って入った。
 佐々木はおとなしい生徒だ。その子がこれほど泣いているのは珍しい。
 おおかた、大城が何かしたと見るのが妥当だろうと見当をつけた。実際大城は場を乱すことがよくあって、クラスにあまり溶け込めていない。教師は大城に尋ねる。

「どういうことなの?」
「……」

 大城はなにも言わない。教師に素直にすべて話したくないという意地と、話したら言葉以外も溢れそうだったからだ。
 佐々木は未だずっと泣き続けていた。時おり呼吸に関し心配になるほど、ひどくしゃくりあげるので彼女に聞くのは無理だと教師は判断し、大城に再度尋ねた。

「大城さん」
「……私が、佐々木さんのノートを破っちゃって」

 大城は尖らせた唇から、ぶつ切りに言葉を吐き出した。その言葉に、見れば佐々木の手を見る。注視すれば何か破れた紙屑のようなものを確認できた。教師は、なんだノートか、と思った。思ったが、一応言わねばならないだろうと、大城に向き直った。

「それはいけないわね」
「……」
「人のものを壊すのはいけないことでしょう?」

 教師の言葉に、ぐっと息を飲み込んだ。大城の背中は丸くなる。

「でも、佐々木さんだって私をぶった!」

 張り上げた声には、明らかに涙が混じっていた。さっきまでふてくされて教師に答えていた大城の口調が一気に子供らしい響きになる。

「ちょうだいって一枚破っただけなのに、佐々木さん、私をぶった! いちまいくらい、くれたっていいじゃん! 佐々木さんだって悪いもん、おかしいもん!」

 大城は頬を押さえた。それから、耐えきれないようにしゃくりあげ始めた。教師は大城の背をなだめるように二、三度撫でると、

「それでも、相手が嫌だったことをしたら、謝らないといけないわ。そういう風に、開き直っちゃダメ」

 大城はヒュッと小さく息を飲んだ。教師はそれから、佐々木に向き直る。

「佐々木さん、本当なの」

 大城の話に食い違いがないか、確かめようとした。佐々木は顔をあげずにずっと泣いている。もう一度呼び掛けたが、返事はない。少し教師の声に焦れた音が混じる。

「あってるのね? 先生、言ってくれないと、そうとるけどいいのね?」

 それでも返事はない。教師はふうと息を吐いて、「じゃあ」と言った。

「――なら、佐々木さんも謝らないとね。大城さんにノートを破られて嫌だったのよね? でも、人を叩くのはダメよ。大城さんだって、悪気があったんじゃないの。佐々木さんと仲良くしたかったの」

 その言葉を聞いた瞬間、佐々木が突然顔を開けた。涙が散りそうな勢いに、誰もが驚く。

「ノート、いちまいくらいじゃない!」

中編

 涙と横隔膜の痙攣に邪魔されて、ほとんど聞き取れない濁点だらけの発音でそう叫んだ。

「あだし、こののーと、ずっと、ずっとだいせつに、つかってだのに! こわした!だいなしにされた! おおぎさんのぜいで、ぜんぶだいなしになった! これ、ぜんぶだめになった!」

 しゃくりあげ、顔を真っ赤にして叫んだかと思うと、わっとまた泣き伏せた。教師も、周囲も驚いていた。いやむしろ、正しく佐々木のいうことを理解できなかった。
 私物を壊されたら嫌だ。それは理解できる。しかしたかだかノート一枚。佐々木の泣き方は人生が台無しになったかのようなそれだった。何もそこまで――半笑い、苦笑い、首をかしげる――微妙な空気が辺りに満ちた。

「――まあ、佐々木さん」
「嘘つき!」

 とりあえず教師は、いきすぎたその発言を補正しようとした時、大城の言葉がそれに被さった。

「私のことがいやだから怒るんでしょ! きらってるから、これくらいで怒るんだ! 他の子なら絶対、怒らないくせに!」

 叫ぶ大城の目からは、一種の自棄のようなものが感じられた。いつそれを肯定されても、平然と怒り返せるように。教師は事態がややこしくなった、と思うと同時に、むしろ納得した。大城への嫌悪ゆえの拒絶、佐々木の言葉を正面から受け止めるよりもそう考える方がずっと自然だった。周囲にも多少の安堵の空気が流れる。

「ちがう!」

 佐々木は裏返った声で叫び返す。顔中水浸しで、鼻水も涙も混じっていた。誰かが、うわ、と小さく声を上げた。

「おおぎさんのことなんて、どうでもいい! わたしは、わたしのたいせつなものをこわされたからおごってるの!」
「うそつき! そんなノートどこにでも売ってるじゃん! うそつき!」

 佐々木の言葉に、大城は噛みつく。大城が耳に入れたいのは詳しい内容ではなく、否定か肯定――いや、もはや肯定だけだった。肯定されたくはないが、半端な否定こそが許せなかった。教師は、お互い譲らず自分の言い分を叫ぶ状況を止める。

「やめなさい、大城さん。佐々木さん、そんなこと言ってないでしょう。誰もあなたを嫌ってないわ。落ち着きなさい。佐々木さ――」
「うそつき!」

 佐々木さんも、友達のことどうでもいいなんて言ってはダメよ――教師がそう続けようとしたのを、大城は遮った。教師を、血走り涙の浮かんだ目で睨み付ける。教師は、少し疲れた顔で大城を見た。いい加減にしなさい、そう言おうと口を開いた時、大城が叫んだ。教室中、隣のクラスまで響くような声だった。

「みんな私のこと嫌ってる! せんせーだって嫌ってるんだ! だから私が悪いって言うんだ、佐々木さんの味方するんだ!」

 身体中から言葉を吐くと、大城はわあっと泣いた。泣いて、教室を飛び出していく。

「待ちなさい、大城さん! ――皆、少しの間自習しててね」

 教師は飛び出していく大城の背に声をかけたが、大城は聞かず飛び出していった。その背を見送ったあと、教師はため息をひとつ吐いた。それから、周囲に一声かけ、大城の後を追った。――もう六年生にもなるのに、どうしてこうも問題を起こすんだろうか。放課後にでも、佐々木さんと話し合いをさせないといけない、ああ、手間ばかり作るんだから――愚痴を心の中で吐き出しながら、教師は走った。――佐々木さんも佐々木さんね……意地悪しないでノートくらいあげてほしいわ。もっと優しい子かと思っていたけれど。それに、大城に意地悪したのでなくとも、たかだかノートの紙一枚であんなになるのは正直な話、異様だわ。それとも、そんなに大切なノートだったのだろうか? いや、それにしたって、直してあげないと、佐々木さんは後々苦労する――教師は自分の足音を聞きながら、最近の子は、と小さく吐き捨てた。

後編


 教師の去った教室に喧騒が戻ってきた。動揺や困惑、失笑でできたざわめきは、嫌な雰囲気を作り出した。佐々木はまだそこで泣いていた。佐々木に、少女が駆け寄った。

「元気だして、美保ちゃん」

 佐々木の友人だった。泣いている佐々木の手を握る。

「大城、最悪だよね。大変だったね」

 友人の言葉に、佐々木はぽろぽろと涙をこぼした。受け取ったハンカチで鼻をかんだ。

「何でお前なんかにノートあげなきゃいけないのって話だよね。私だってあげないし」
「……え」
「わかるよ。あんなのに、ノートたった一枚でもあげたくないよね」

 ね、元気だして。そう言って手を握ってくれる友人に悪意はないようだった。まっすぐ気遣わしげに佐々木を見ている。
 ちがう、と言いたかった。でも、言葉にする前に、友人が佐々木に尋ねる。

「でさ、そのノート、そんなに大切なものだったの?」

 そう尋ねる友人の顔は、眉を下げ心配している風だった。しかし好奇心からか、目の奥が少しきらきらしていた。いかに自分の友達の大切なものを自分の憎い相手が壊したか知り、思う存分義憤に燃えて大城を攻撃してやるという、そんな意気込みが見えた。

「ぇ、……」
「ほら、何か記念でもらったとか。だっておかしいじゃん! いくら大城が嫌いでも、そんな誰もノート一枚破られたくらいで泣いたりしないもん」

 友人は、自分の言葉に、佐々木の顔がこわばったことに気づかなかった。佐々木は、少し呆然としながらも、首を横に振った。

「ん?」
「ちがう、思い出があるわけじゃないよ」
「そうなの? ……美保ちゃんって大城のこと、ホントに嫌いなんだね」

 佐々木の否定に、友人は少し目を見開いた。それから、気まずそうに言葉を探し、あいまいに笑った。思い入れがないなら、あんなに泣くのは友人には理解できない行動だった。なら、大城の事がよほど嫌いなのだと考えるしかない。すると今度は、佐々木が予想以上に過激だったことに少し引いてしまった。それが何となく後ろめたくて、気持ちを押し隠そうとした結果の言動だった。佐々木は、友人の心の機微を敏感に感じとり、胸の中をミキサーでかき混ぜられたような混乱と悔しさに襲われた。咄嗟に否定する。

「ちがう、嫌いじゃないよ、ただ――」
「いやいや、隠さなくていいから。私だって嫌いだし」
「ちがうの、私はほんとに――」
「だから、いいって!」

 友人は、誤解を解こうと尚も言い募ろうとした佐々木に、語気を強めて制止した。自分だけいい子ぶられた気がしたのだ。嫌いなことは悪いことじゃないのに、そんな目をしていた。その対応に、佐々木は大城によって開けられた心の穴にドライアイスを押し付けられたような心地がした。

(信じてもらえない)

 自分だけの世界にひとつのノートを作ろうと思った。
 これからこのノートは、私だけのノートになる、そう思うと、なんの変哲もないノートがこれ以上ない特別になった。
 この文字はこの色を使おう、ここは写真のコピーをはって、自分で一つ一つ作り上げていくノートは佐々木にとってひとつの世界だった。その世界がこわされたのだ。

(おかしいことなの……?)

 大城のことは好きでも嫌いでもなかった。ただ、大城だからあれだけ叫べたのかもしれない。佐々木は否定されてしまえば、友人にさえ自分の世界のことを言えなかった。
 教室では、大城と佐々木のことをひそひそと話す声がひしめいていた。大城の真似をして笑う生徒。そして、
「でも、ノート一枚で、怖いよね……」
「ちょっと変」
「いや、大城が嫌いなんでしょ」

 佐々木のことを話す生徒たちの声。
 大城が嫌いだから、やったわけじゃない。わかってもらえない。しかし、それをわかってもらったところで、佐々木の本当の気持ちこそ、わかってもらえない、「変」なものなのだ。佐々木の心を外から圧迫した。佐々木は行きどころのない膿んだ痛みを耐えたくて、胸の真ん中を強くつねった。
 放課後、大城と話し合いをさせられた。その時にはもうなにも反論する気も起きなかった。ただ叩いてごめんなさいと謝る佐々木に、教師はほっとした顔を見せた。大城は赤い目で佐々木をにらみながら私も、と返した。
 けれど、佐々木はもうどうでもよかった。破れてしまった世界は戻らない。誰もそれを弔わない。佐々木は仲直りの握手をした。皮一枚はどうせ何も伝えないから。


了.

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かさぶた

 A村の子供には、意思を持つかさぶたが体に張り付いている。一定の年齢に達すると剥がすための場所へと歩かされる。道がどこへ続くかはわからない。
 そして私はA村の人間で、今年その年齢に達した。


 とわこのかさぶたは、かさぶたの内が膿んで内臓の様になっている。緑の膿が溢れてくさいので、とわこは遠巻きにされている。時々苦しげに呻く声が聞こえる。でも、とわことかさぶたは声がとてもよく似ているから、どっちの声かわからない。とわこは自分のかさぶたが大嫌いだが大好きだ。

 あきらのかさぶたは、半分だけ剥がれている。だから残りが剥がれないようにと、あきらは必死で手入れをしている。私たちはみんなあきらを笑うけど、かさぶたたちは、みんなあきらのとりこだ。私たちのかさぶたの愚痴をよぶあきらを、私たちは最近嫌いになっている。

 さなのかさぶたは、巨大でしかも大きくなり続けている。さなのかさぶたはおどおどゆっくり話す。さなは子供たちのなかで一番かわいくて、本人もそれを知っている。だから不格好なかさぶたのことが大嫌いだ。でも、最近さなのいうことが、かさぶたそっくりになってきた。かさぶたも、むかしのさなみたいに時々早口で話す。

 ひめののかさぶたは、とにかく饒舌で、とわこのかさぶたの事が好きだ。だからとわこのかさぶたの面倒をよく見ている。私のかさぶたとは仲が悪い。ひめのは日に日に無口になっていっている。ひめののかわりに、かさぶたが全部話すからだ。

 私のかさぶたは、いい年なのにうるさいかさぶたを嫌っている。

「私らみたいなものは段々静かになって、肌からはがれるのを待つの」

 私のかさぶたの口癖だ。
 私のかさぶたは、確かにはなさない。声を出す代わりに私にしがみつく。時々かさぶたのつめが、私の筋肉まで食い込むから、私は痛くて正気を失ってしまう。そのたび、ひめのは私の心配をする。でも私は、私のかさぶたの前でひめのに何も話せなくなってきていた。だから大丈夫とだけ言う。ひめののかさぶたは、かわいそうにと私に言う。

 ひめのとは段々気まずくなっている。私はひめのが好き。私と私のかさぶたは、ひめののかさぶたが嫌い。ひめののかさぶたは私にやさしい。そしてひめのは私が好きで、ひめののかさぶたが一番好きだ。

 歩き始めてそれなりに時間が経ってくる。私たちはまだ歩いている。けれど剥がす場に着く前に、剥がれて去っていった子供たちも何人が出始めていた。剥がれて去っていく友人や仲間を、私たちは歩きながら目で追った。それをくりかえすたび、皆のこころは寂しさから嫉妬へと次第にかわっていく。私はただ寂しい、それだけだった。けれど、剥がれた肌はピンク色で、柔らかそうで、痛々しくて綺麗で、まぶしかった。

 ある時とおるが、群れを去るゆうやの背を蹴飛ばした。生まれたての肌についたカスレ傷は痛々しかった。ピンクの肌一面に、じんわりと血がにじんだ。
 ゆうやはおとなしくって泣き虫だ。だけどこの時、ゆうやは泣かずにとおるを一瞬だけ睨んだ。これにはみんなが驚いた。でも、ゆうやは、それから何も言わずに、ただ静かにとおるを見返した。ゆうやはとおるをもはや相手にしていなかった。違う人間みたいで、私はほんの少しぞっとした。去っていくゆうやに、かさぶたたちが、

「生意気だ、生意気だ」

 とはやし立てた。とおるも追いかけるように、

「そうだ生意気だ」

 と暴力的な声で叫んだ。でも、とおるには、ゆうやの背を追うことは出来なかった。




 「もうこんなのはいやだ」

 だいきは最近そう言って、よく怒る。行く先もわからないまま、ただ歩かされているのだから仕方はない。だから私たちは葉っぱを噛んで、おしゃべりをして、暇をつぶす。道の先は考えない。考えたからって着くわけでもなくて、ただ気が滅入るだけの行為だからだ。
 B村に生まれたかった。誰かが言った。B村の子供は一人ひとつの洞穴をふさぐ膜のような姿をしているらしい。巨大な蜘蛛の巣の中央にかかった獲物みたいに。時がくれば離れて飛んでいくことが出来るそうだ。私たちの様に歩かなくて済む。

「羨ましい」

 みんな口々にそう言った。そんな私たちに、

「最近の子は」

 とかさぶたは言う。

 ある日、だいきが、背にあるかさぶたを力いっぱいかきむしった。かさぶたは、

「痛い痛い」

 と泣いた。

「うるせえ」

 とだいきは叫んだ。だいきは取り出したナイフで、かさぶたを無理にはいだ。私はちょうどその瞬間を見た。かさぶたの悲鳴が今も鼓膜にこびりついている。
 気づけば、だいきの大きな背を覆っていたかさぶたは、真っ赤になって地面の上で力なくけいれんしていた。かさぶたからも血は出るのだと、この時私たちは知った。だいきの背からは血が噴き出して止まらなかった。みんなでだいきの手当てをしたけれど、血は止まらずに、熱も出て、結局だいきは道に置いていくことになった。

「ばかなことをしたもんだ」

 と私のかさぶたは言った。痛みの混ざった吐き気がした。だいきの血のすべて抜けた顔が、私の頭に何度もよぎる。

 それから、何度も日はのぼった。
 私はまだ歩いている。ひめのもまだ、歩いている。ひめののかさぶたは、どんどんうるさくなっている。かさぶたが大きくなっていると思っていたら、ひめのが小さくなっていることに、気付いた。私のかさぶたは最近、縁がかゆくなってきた。私の心が浮きたつほど、真ん中のかゆくない部分が筋肉の奥にまで食い込んだ。そのせいか、私は手足がしびれて上手く歩けないときがある。

 私のかさぶたの真ん中は、血がずっとにじんでいて膿んでいる。私はまだまだ歩かなければならない。出来る限り早く着きたいと願い始めている。でも、道の向こう側にはまだ何も見えていない。


了.

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