ホタル
一話
「なぎちゃん、久しぶり!」
夏休みがはじまって十日ぶりの再会だ。
にこにこと手をあげる律子を見て凪は思う。
さして遠い間じゃない。なのに、毎日顔を合わしていた相手と、間をおいて会うのって、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。
凪は、あえて大げさに笑顔を作り、律子に抱きついた。
「りっちゃん会いたかった!」
「あはは、なぎちゃん甘えん坊」
お互いの肌は、日焼けして、カサついていた。外に出てまもなくだから、まだ汗にねばついていない。
「キャンプ、楽しみだねえ」
「うん」
今日から三日間、凪たちはキャンプに行くことになっていた。
西小学校の夏の行事で、参加は有志だが、毎年、多くの生徒が集まっていた。
凪は、四年生になってはじめて参加を決めた。
「でもちょっと緊張するかも」
「なんで? おばけ?」
「やめてよ! そうじゃなくてさ……」
「ああ……」
口ごもる凪に、律子は意味深に笑った。どんと肘で凪を小突く。
「狭山が来てるもんね」
ほら、後ろ。
耳元でささやかれて、凪は心が真っ赤になったような気がした。
さっきまで気にもとめていなかった後ろの気配が、ひどくざわついたものになる。
後ろを振り返るのさえ、躊躇している凪を、律子が笑う。
「告白するの」
「まさか!」
思わず大きな声が出た。聞こえていないか、慌ててあたりを見回す。
すると、ちょうど目に入る。
リュックを背負って、友達と話していた。
こちらは見ていない。
焼けてる……ぼうっと相手のボーダーのTシャツと、そこからのびた骨ばった腕を見つめる。
どん、と背に衝撃が走る。
「しなよ。そのためにきたんでしょ」
「無理だって……」
律子がけらけらと笑う。そして、凪の腕を引いた。
「バス行こう」
「待ってよ」
ちょうど、バスの方向にいる。だから、通り過ぎることになるのに、律子は気にした様子もなく、凪を引っ張っていく。
二話
「おはよう!」
律子が、そこに向かって声をかけたので、凪は心臓が飛び上がらんばかりだった。
律子の声に、その集団がくるりと振り返った。
「りっちゃんらか。黒くて誰かと思った」
「はあ? そっちこそ真っ黒すぎ。プールどんだけ行ったんだって」
「サッカー。プールとか行く暇ないです」
「ほーん、そりゃおつかれ。昨日寝れた?」
「子供か。バチクソ寝たって」
集団の中で、一番律子と仲良しの伊藤が笑って話している。凪は身の置き場がなかった。けれども、どうしても、集団の後ろに、立っている狭山に目が行った。
つまんなそうに、この話を流している。
それだけで、心がしおれそうだった。早くこの場をさりたい。でも、ずっと同じ場所にいたい、そんなあべこべな気持ちがあった。
(こんなつまんなそうにしてるのに、絶対にないよ)
凪は律子の背をややうらめしげに見た。
「狭山ってさ、なぎちゃんのこと好きらしいよ」
律子に耳打ちされた。
夏休み前のことだった。
「えっ?」
「マジだよ。伊藤が言ってたもん」
内緒に言われてたから、内緒ね。
凪は狐につままれたような顔をして、ちょうど伊藤と話している狭山を見た。
狭山は、いつもどおり、何かけだるそうに伊藤に肩を組まれていた。
でも、けっしていやなかんじではなく、口元には笑みが時々浮かんでいた。
狭山君が、私を好き?
凪はびっくりしてしまった。
狭山に好きな人がいるなんて。それも自分……
そう思った瞬間、何かものすごく、くすぐったいものが、凪の胸を走りぬけた。
ふわふわとした、甘い感覚。
不意に、狭山が顔を上げた。
自然、目があう。
伊藤が、狭山を意味有りげに小突いた。狭山は小突き返す。
ただ不快だとか、そういう感情じゃない、狭山の表情は少し複雑だった。
その顔の意味を考えた時、
(あっ)
凪は、狭山の顔がまともに見られなくなっていたのだった。
三話
好かれたから、好きになるなんて、なんだか浮かれてる。
そんな気持ちだってあったけれど。
狭山のことをよく思い出すのだ。
たとえば、四月の五十メートル走で、一緒に狭山と走ったときのこと。
狭山は足が速かった。狭山の細身の背は、ぐんぐん遠くなった。焦りと恥ずかしさでいっぱいになりながら、凪は走っていた。
なんとかゴールして一息ついたら、とっくにゴールしていた狭山が、ゴールラインでずっと立っていた。
なんだろう、凪は不思議に思って狭山を見た。狭山も凪の顔を見る。
そして何も言わず、伊藤たちのところへ行った。
何だったんだろう。そう思ったけれど、何だかあたたかかった。
他にも、となりで合唱の練習をしたときの歌声とか、給食のとき、配膳を手伝ってくれたときのこととか、いろんな狭山のことが思い出された。
凪は、ずっと自分が狭山を見ていたことを知ったのだった。
「そろそろバスいこ」
「おう。吐くなよ」
「酔い止めもってるから!」
「じゃー」
「うん、いこーなぎちゃん」
「う、うん」
律子が伊藤たちに手を振った。凪はそれに合わせて、手を振る。
一瞬だけ、狭山がこっちを見た気がして、凪はどきりとする。慌てて顔をそらして、律子のあとに続いた。
「ひひひ」
律子が凪を小突いてきた。凪はかっかとして、律子の腕にすがった。
バスに揺られながら、凪は思う。
これから、三日、狭山といられる。
狭山と、少し話せないか……想像の中なら、ずっと強気でいられた。
律子の頭が、凪の肩に乗っかってくる。乗り物が苦手な律子は、いつもひたすら寝ていた。
律子の頭が揺れないように、凪は体を固定した。
目線だけで窓の外の景色を見る。
木々の緑がきれいだった。
「あっ、なんかいる」
木々の向こうに、なにか小さな影が通り過ぎたのが見えた。
「なんだろう」
律子を起こさないように、目だけ一生懸命に動かして、凪はその姿を追った。
「あっなんか走っていったよ!」
「なになに、熊?」
後ろの座席の子たちも気づいたのか、窓に取り付いて口々に話している。
「たぬきじゃないかな?」
誰が言い出したか、たぬきの説が高まり、たぬきということに落ち着いた。
「たぬきかぁ」
あとで律子に教えてあげよう。
凪はまた、景色に目を移していった。
四話
キャンプ場について、先生からの挨拶がすむと、まずはお昼ごはんの準備となった。
「お腹マジ減ってんのに、支度とか……」
「減ってるの? 酔わなくてよかったね」
「それはそうだけど……」
虚無の表情で、薪を切る律子に、凪は大笑いする。
「あっ笑ったな、人の不幸を。なら、これを切れ!」
「はいはい」
にゅっと差し出されたナタと木を受け取る。
軽く受けあったものの、凪はナタに身構えていた。
しかし、自分だけ切らないのも卑怯だし、何より、やってみたい気持ちもある。
意を決して、木にナタをあてがい、とんとんと丸太に叩きつけた。
「うまいじゃん! なぎちゃん木こりの才能あるよ」
「ふふん」
やってみると楽しかった。
凪は調子づいて、何本も薪を切った。
「やってんなー」
ふいに後ろから声がかかって、凪は驚いた。振り返ると、伊藤たちだった。
「わっ、急に声かけないでよ。危ないなあ」
「りっちゃんサボってんじゃん」
「サボってないですー応援してるし!」
「牧田さんばっか切ってるし。なあ」
伊藤に急に声をかけられて、凪は慌てた。
「ち、違う。私がずっと好きで切ってるだけで」
「え、ほんとー?」
「ほんとだし! なぎちゃん超プロってるんだから」
「そうなん? 見せて」
「えっ」
伊藤が身を乗り出し、凪の隣にしゃがんだ。伊藤の顔を見ると、にこにこと目で促された。
凪はおずおずと木を切り出した。
さっきよりややぎこちない音が響く。
「へーうまいなあ」
伊藤は感心したふうに見ている。凪も調子が出てきて、さっきと同じように切り出した。
「ね、うまいでしょ」
「うん。意外」
「意外って何よ」
「りっちゃんのほうが得意そうじゃん」
伊藤がすごい形相で、木を手で裂く仕草をした。
「テメエ、ぶっとばすぞ!」
律子が伊藤に掴みかかる。凪は笑いながら、次の木に取りかかった。
「あれ?」
「どしたの、なぎちゃん」
「うん。これ、すっごいかたい」
硬いかたまりのようなものが木にあって、刃を通したはいいが、そこから進まない。
ひこうと思っても、抜けなかった。
凪は困ってしまって、木の刺さったままのナタを少し持ち上げた。
「大丈夫? ちょっと貸して」
律子がナタと木を掴んで引っ張った。びくともしなかった。
「かった。伊藤、抜いてよ」
「しかたないなあ」
伊藤は律子からナタをパスされると、律子と同じように抜こうと試みる。しかし、やっぱりびくともしなかった。
「抜けてないじゃん」
「いや、まだ本気じゃないから!」
わいわいと騒いでいると、向こうから薪を持った伊藤の班の相澤たちがやってきた。
「伊藤くん、さっきからさぼんないでよ」
「あ、ごめん!」
伊藤は謝ると、凪にナタを返した。
「ごめん、これ、抜けなくてさ。手伝ってもらってたんだよ」
「そ、そうなの私が……」
律子が相澤に謝る。凪もうなずいた。相澤は冷めた顔をした。
「自分の班の子に頼んでくれる?」
「遊んでたら日が暮れるから」
「いこ!」
相澤たちは、伊藤を連れて行ってしまった。
「あんな言い方なくない?」
律子は不満げにもらした。凪は、原因が自分にあるので、たいそう居心地が悪かった。それでもナタは抜けない。班の子みんなに頼んでみても、抜けなかった。
「うーん、先生に頼んでくる」
律子はその場を離れた。凪は、待っている間、ナタをこんこんと丸太に打ちつけていた。
ふいに、後ろから手がのびてきた。
「えっ」
「貸して」
振り返って息をのんだ。
「狭山君」
狭山は凪の言葉には応えず、凪の手からすいとナタを取った。
「離れてて」
「う、うん」
有無を言わせない調子だった。おろおろと凪が丸太から離れると、狭山は肩くらいまでに掲げたナタを、思い切り丸太に振り下ろした。
大きな音が立った。凪は、やや呆然とそれを見ていた。ナタが、木の半分まで食いこんでいた。
もう一度振り上げる。
また、ナタが進む。狭山は次はもう思い切り振らなかった。
ならすようにとん、とんと叩きつけると、木がまっぷたつに割れていた。
「すごい」
驚きの中で、言葉になったのはそれだけだった。狭山の横顔をじっと見ていた。
狭山はナタを置くと、そのまま歩いていってしまった。
「あ、ありがとう!」
なんとかかけられたのはそれだけで、狭山はそれにも返事をしなかった。
凪は割れた二つの木を持った。じいんと胸にしみるような心地がした。
「あれっとれてる!」
帰ってきた律子が、驚きの声を上げた。凪の持つ木と、ナタを見て、首をかしげた。
「狭山君がさっき……」
妙に気恥ずかしい思いでそれを言った。律子はぽかんと開けていた口を、笑みの形に変えた。
「まじか」
どんと小突いてくる。
「うん。なんかふらって来て、切ってくれた」
凪は自分が笑っていることに気づいた。
「すごい力で振り下ろしてね、二つに切っちゃったんだよ」
「ほうほう。すごいじゃん」
恥ずかしかったが、凪もこの嬉しさを誰かに伝えかった。声が弾むのを止められなかった。
「かっこよかったな」
「ひひひ。そうか!」
律子が嬉しそうに肩を組んだ。
凪はくすぐったくて、嬉しくて仕方がなかった。
五話
「ねえ、なぎちゃん」
お風呂に浸かりながら、律子は凪に話しかけた。凪にすいすいと顔を寄せると、耳打ちした。
「これからさ、狭山に告白しなよ」
「えっ……だからそれは……」
「まあ、聞いてよ」
律子の目は本気だった。
「ここってさ。ホタルがすごい見れるとこあるんだよ。池のとこ」
「うん」
「でね、好きな子と一緒に見たら永遠に結ばれるんだって」
律子は凪の手をとった。
「もうそこでいくしかなくない?」
「でも、そんないきなり」
「私はずっと前から考えてたし!」
律子の手はお湯に負けず熱かった。
「絶対うまくいくと思うよ。そしたら、三日目のお祭りとかも一緒に回れるじゃん」
「……」
ホタルのことは、凪も知っていた。好きな人がいるというのは、そういうことだ。
「もう交代になるからはやく出てよね」
「はーい。……考えててね」
相澤たちに言われて、話は打ち切りになった。
しかし、凪の頭の中で、ずっと律子の言葉は残っていた。
あとで加えて律子が話したことによると――夜、お布団に入る前の自由時間、その時を狙って行くらしい。
狭山のことは、伊藤に頼むそうだ。
レクリエーションの時間中、ずっと考えていた。狭山の姿が、視界にはいるたびに、心が揺れた。
今、ここでいくしかないかもしれない。
もっと近くなりたい。
相澤たちと話す狭山を見て、そう思った。
「よし! まかせといて!」
律子にその旨を告げると、待ってましたとばかりに、律子は伊藤にLINEをした。
伊藤からの返事が返ってくる数分間、ものすごく長いものに感じられた。
「わかったって!」
凪はもう戻れないと思った。
体中から心臓の音がした。顔が真っ赤なのがわかった。
それでも、凪は髪をとかし、リップクリームを塗り、少しでもきれいに見えるよう努力して、例の池へと向かった。
池にはぐるりと柵があって、律子とそこにもたれた。
「大丈夫だから」
律子が凪の背をさすった。怖くて仕方なかったが、同時にワクワクするような、そんな気さえしていた。
あたりは暗くなりだしていた。
しかし、ホタルはいない。
狭山も来なかった。
凪は不安になりだした。律子はずっとスマホをいじっている。
凪は、悪い予感を信じなかった。
「何やってるんだろうね」
律子がふざけて言うのに、凪は笑い返した。笑えているのか、わからなかった。
それでも、待っても待っても、狭山は来なかった。
あたりは真っ暗になっていた。ホタルもでなかった。
しばらくして、黒い人影が近づいてきた。
律子は、嬉しそうにして――それから顔をしかめた。
「伊藤」
「ごめん。ちょっと」
伊藤が、律子を連れて行った。
律子は何か怒ったように言っている。
凪は一人、柵にもたれながらぼんやりしていた。
自分の手さえ見えない暗いところだ。こんな危ないところ。
律子はものすごく落ち込んだ顔で戻ってきた。
「ごめん。来れないんだって」
「うん」
聞こえていた。
『行きたくないんだって』
伊藤自体、こういうことに乗り気ではない、そんな様子だった。
「本当にごめん」
「ううん。帰ろう」
涙が目元に浮かんでいるのがわかった。なのに、声も震えないのが不思議だった。
こんな泣き方もできるんだと自分に感心していた。
先生たちにばれず、叱られなかったのは幸いだった。
凪はそうそうに布団に潜り込んだ。
舞い上がった自分が恥ずかしかった。
六話
それから明けて二日目のことは覚えていない。ひたすら、律子が自分を気にしているとか、相澤たちが、部屋を抜け出して狭山たちのところへ遊びに言ったとか、いろんなことが凪の頭に留め置かれたが、ただつらいだけで、凪の気持ちを前向きにはしなかった。
そうこうしている間に、三日目の祭になった。
皆が楽しげにキャンプファイアーを囲んで踊っているのが小さく見える。
凪は遠く、遠く離れた茂みから、律子とそれを眺めていた。
凪は、ようやく帰れると思うと律子に申し訳なくなってきた。
律子は自分を思ってくれたのに、自分のせいでまったく楽しくなかっただろう。
「りっちゃん、踊ってこよう」
「なぎちゃん」
「私のせいでごめんね」
「ううん、本当にごめんね」
でも、本当に狭山は――
「それはもういいの」
凪はむりやり笑ってごまかした。
「りっちゃんと楽しく遊びたい」
黙るしかない、そんな様子で律子は黙った。
そして、同じように無理に笑った。
「よし、踊ろう!」
そして、手を取り合って、キャンプファイアーに向けて走り出したときだった。
「痛っ!」
律子が叫んだ。
「りっちゃん?」
「いった……なに?」
律子は片足を持ち上げた。暗がりのせいで、よく見えない。
サンダルを履いた足から、小枝が飛び出している。
「あっ……」
律子が絶望的な声を上げた。凪も肝が冷えた。細い枝だが、たぶん刺さっている。
「やばい。無理……」
律子が泣きそうな声を上げた。凪は一瞬呆然としたが、唇を噛んだ。
「りっちゃん大丈夫だよ。とにかく座れるところに行こう」
凪は律子の腕を、肩に担いだ。
「大丈夫だからね。よっかかって」
凪は律子を背負い、歩いた。律子は片足で、ぽんぽんと歩いた。泣き声が耳元に響いて、凪は悲しくなった。
あんな茂みにいなければ……自分のせいで、律子に怪我をさせてしまった。
絶対に大丈夫、そう声をかけ続け、律子を明るい石段のところへ連れて行き、座らせた。
小枝はやはり、律子の足の親指に刺さっていた。
泣き出した律子の背をさすっていると、伊藤がやってきた。
「どうしたの」
「りっちゃんが、足を怪我しちゃったの」
「えっ! 大丈夫か?」
凪は伊藤があらわれたことに安堵した。
「先生を呼んでくるから、伊藤君ついててあげて」
「えっ」
「おねがい! りっちゃん、絶対大丈夫だからね。すぐ戻るからね」
いうが早いか、凪は駆け出した。
速く、速く!
凪は先生を呼びに走った。
キャンプファイアーのところか、宿泊施設のところに先生はいる。
場所から言って、宿泊施設のほうが近かった。
来た道を走っていると、ちょうど前からきていた人と、ぶつかりそうになった。
「ごめんなさい!」
凪は走って通り過ぎようとした。しかし、はたと思いつき、影に向かって話しかけた。
「ねえ、先生中にいた?」
「えっ」
「先生を探してて……怪我している子がいるから、呼びたいの。いた?」
凪はいっせいに話した。相手が黙り込んでいる。そこで、この人にあせっても仕方ないことに気づいた。
「ごめん、自分で見てくる」
また走り出した。
駆けて、駆けて、あの池の近くにまで来る。
けれど、凪は気もつかなかった。
ここを越えたら、施設につく。そのことのほうが嬉しかった。
そこで、いきなり腕をつかまれる。
「ひっ!」
思わず漏れた悲鳴にも、相手の手はゆるまなかった。
「そっちに高田先生いない。キャンプファイアーの方」
「えっ?」
「救急箱持ってる先生」
声の主は、狭山だった。
「さっき声かけてきたじゃん」
凪が呆然としていると、狭山が憮然と言った。
「はやく行こう」
狭山の顔を見た瞬間、凪は無性に泣きたくなった。
けれども、律子の顔を浮かべて耐えた。狭山に返事はせず、うなずいて、もと来た道を歩き出した。
池を通り過ぎたところで、凪は少し冷静になった。
「ありがとう」
狭山に礼を言った。
狭山が知らせてくれたおかげで、時間を取られなくてすんだ。
狭山は、黙っていた。凪も何も言わなかった。
「急ごう」
と言って、駆け出した。
七話
それから先生を呼び、律子の手当をしてもらっている間、狭山はずっと凪の隣にいた。
凪は辛かったが、律子の怪我が大事ではないと知ったのが、一番安心だった。
祭が終わり、皆で施設に引き上げる。
班の違う狭山と伊藤は、もうそばにはいなかった。凪は律子に肩を貸しながら、歩いていた。
キャンプも今日で終わりだと、はっきりと意識した。
池のもとに差しかかった時、後ろから誰か走ってきた。
「――」
その人はささやいて、走り抜けていった。
瞬間、あたりが一斉に明るくなった。
それは、無数の小さな光だった。
周囲の皆は、全く気に留めた様子もなく、歩いている。けれど、凪には感じていた。
「私も好き」
光が、あたりをひらひらと照らす中―― 凪は走っていった背に、そう返した。
完.