茜さす、かな
一
私のそばにはいつも茜ちゃんがいた。
「茜ちゃん。加奈子の面倒見てくれてありがとうねえ」
これは、母さんの口癖。茜ちゃんの家と私の家はご近所さん。茜ちゃんのお母さんと、母さんは仲がよかった。同じ年に子供ができた時は、大喜びだったそう、「あなたのところと一緒なら安心ね」って。
そして産まれたのが私と茜ちゃん。私より誕生日の早い茜ちゃんは、私のお姉ちゃんみたいな存在と母さんが言った。実際茜ちゃんは私のお姉ちゃんだった。お姉ちゃんという言葉が、私の面倒を見るという意味だったなら。
小学生のころ、私は授業で先生に指されるといつも泣いていた。この癖は、同じように泣いていた他の子達が泣かなくなっても、そうそう抜けなかった。泣いても何も変わらないですよ、先生が言った。泣けば先生許してくれるもんね、同じクラスの子が言った。
思えば、幼稚園のお遊戯もそうだった。入園式や入学式の写真に写る私は、いつも泣きっ面で鼻水の跡がある。私は一人では何にもできない子供だった。
「ほら、かな。て、つないでてあげるからがんばって」
茜ちゃんは何かある度に、決まって泣き出す私の手を握ってくれた。いつだって、駆け寄ってきてくれた。
「かなのめんどー見るのが、あかねのしごとだから」
茜ちゃんの口癖だ。母さんは茜ちゃんをほめた。茜ちゃんのお母さんもきらきらした顔で茜ちゃんを見ていた。皆、茜ちゃんを頼りにしていた。
「茜ちゃんはいい子ね。加奈子は本当に甘ったれで……いつもごめんね、よろしくね」
母さんはいつもこう言って私をお願いした。膝を曲げ、茜ちゃんと目を合わせて。そして茜ちゃんをたくさん褒めた。
「しっかりしていて、本当にうらやましいわ。……うちのは、ふふふ、本当にダメな子で」
茜ちゃんのお母さんはその度、ううんそんなことないわよと言った。うちの子は、家では何にもしないの――母さんと茜ちゃんのお母さんの話は長くって、私たちの話からご飯の話になって、また私たちの話になったりした。何を話しているのか、よくわからなくて私は首を傾げていた。茜ちゃんは時々話に入っていた。
「あんたは、本当に茜ちゃんがいないと何にもできないわね」
自分でもがんばりなさい、情けない。母さんはたびたび私にこう言った。それは、茜ちゃんの話をしていた時や、授業参観の後、ただ二人でいた時などに気紛れにやってきて、大体が外で歩きながらだった。夕焼けが横にどこまでも広がっていた。そのせいか、真っ赤な夕焼けを見ると、母さんのまねをしたくなる。
小学校に入るとき、母さんは私と茜ちゃんを同じクラスにするように頼んだらしかった。茜ちゃんに見ていてもらわないと、そう言って。私は、新しい出会いの期待よりも一人が怖くて仕方なかったから、その事にただただホッとした。
茜ちゃんは変わらず私の面倒を見てくれた。私も茜ちゃんにくっついていた。それでも、茜ちゃんには友達が多かった。そして友達を作れない私を、よく仲間に入れてくれた。友達は、ずっと茜ちゃんの友達のままだった。私はうまく会話についていけなくて、よく嫌な顔をされた。茜ちゃんは、友達と話すのが楽しいみたいだった。それでも私の事も会話に入れてくれた。私は何も上手に返せなかった。茜ちゃんはえらいよねぇ、私がいない時の、茜ちゃんの友達の言葉。私は教室の扉の影で、偶然それを聞いてしまった。
茜ちゃんは、私には茜ちゃんがついていないとだめだと言った。そしてこの頃から、茜ちゃんは二人でいると、時々私をはねのけたり、私の腕をつねったりするようになった。怒らせたのかと思ったけれど、二人じゃなくなると笑ってくれたから、わからなかった。母さんに相談すると「茜ちゃんがそんなこと本当にしたの」と信じてくれなかった。びっくりして、本当だよと言うと、顔を渋くして、「まあ、もししたっていうなら、あんたが駄目な事したんでしょう」あんたは茜ちゃんに迷惑をかけてるから、そこで話が終わった。
私はあの時、声が出なかった。驚き過ぎたんだと思った。でも、今ならあれは呆然としたんだとわかる。
私は茜ちゃんに悪い事をしているらしい。それでも、腕はつねられると痛かった。気付かれないのは、泣きたかった。茜ちゃんに、悪い事をしないようにしようと思った。
二
「加奈子ちゃん、包丁上手だね」
ある日、家庭科の授業で同じ班の子にほめられた。
茜ちゃんと違う班で、すごく不安だった時の事。その子は仁美ちゃんと言って、私と一緒で、よく家のお手伝いをしている子だった。私は一人じゃ何にも出来ない子供だったから、いつも母さんのお手伝いをしていた。ほめられたことは少ない。だからほめられて嬉しかったけど、同時に少し怖かった。
それから私は、仁美ちゃんと少しずつ話すようになった。茜ちゃんなしに人と話すことなんてなかったから、不安だったけど、段々慣れた。仁美ちゃんは、茜ちゃんや茜ちゃんの友達みたいに、にぎやかな子じゃなかった。でも、話しているとほっとして胸が温かくなった。茜ちゃんに頼らずにできた友達。とても特別に感じた。
仁美ちゃんの事を、もちろん私は茜ちゃんに話した。本当はずっと友達を紹介してみたかった。私にも友達を作れたよ、と言いたかったのかもしれない。けれど、茜ちゃんと仁美ちゃんは気が合わないみたいだった。三人でいる時、茜ちゃんはいつもどこか怒っているみたいだった。仁美ちゃんに、「ふうん」「へえ、そうなんだ」しか言わなかった。逆に、茜ちゃんがにこにこして仁美ちゃんに話しかける時は、私は輪に入れない。皆で仲良くはできなかった。私はどうしていいかわからなくて、ただぼんやり茜ちゃんを見ていた。きっと喜んでもらえると思っていたから。
中学年になって、生徒の自立と平等の為、と先生が茜ちゃんと私のクラスを分けた。代わりに私は、仁美ちゃんと同じクラスになった。私は仁美ちゃんとますます一緒にいるようになった。仁美ちゃんと話すのは楽しかった。茜ちゃんも、自分の友達に会いによく私のクラスに来た。茜ちゃんは私と仁美ちゃんの輪に入らなかった。でも、自分の輪に私を呼ぶかこっちにやってきては、私を引っ張っていった。
「何してるの、ほんとにかなはとろいなあ」
それでも、茜ちゃん達の輪に私が入れるわけじゃなかった。かなは本当に何もできないね、茜がいないとだめだね、茜ちゃんは言う。茜ちゃんは私の事が嫌なんだろうか? でも、誰にも聞けなかった。悲しかったし、仁美ちゃんにも悪かった。どうして茜ちゃんは私を放っておかないんだろう? 放っておいた方が、茜ちゃんだって、楽なはずなのに。私も、居心地が悪い思いをしなくってすむのに。茜ちゃんといる時に、辛いことの方が多くなってきていた。
三
遠足で、仁美ちゃんと食べる約束をした。誘ってくれて嬉しくて、わくわくした。当日、どこで食べようか仁美ちゃんと話していると茜ちゃんがやってきた。
「ほら、かな。早く行こうよ」
私は、咄嗟に「えっ」と言ってしまった。だって何も言われていなかった。茜ちゃんもてっきり他の子と食べると私は思っていた。茜ちゃんは赤色のリュックを背負って、じっとこっちを見ていた。私が茜ちゃんと食べる事が当たり前という顔だった。仁美ちゃんが、小さな声で私の名前を呼んだ。茜ちゃんは、仁美ちゃんの事を見ずに、私にだけ聞いた。
「かな、どうしたの」
あの、えっと、何となく言いづらくて口をもごもごさせていると、段々茜ちゃんの表情が険しくなってきた。言いたいことあるなら早く言って、尖がった声で私を急かした。
「茜ちゃんと、私、一緒に食べるの?」
だから、疑問がそのまま口をついて出た。すると茜ちゃんの眉間の皺がのびて、目が大きく開かれた。そのまま顔が固まってしまった茜ちゃんに、仁美ちゃんが聞いた。
「あの、私と加奈子ちゃん約束してたんだけど……沢木さんも約束してたの?」
私が言いたいことを、仁美ちゃんが言ってくれた。少しだけほっとした。けど、仁美ちゃんがそう言った瞬間、茜ちゃんの顔が赤くなって、大きくゆがんだ。祭の鬼のお面みたいな、それくらい怖い顔。私は咄嗟に息をのんで、身構えてしまった。
「――ふうん。そう」
でも、茜ちゃんの口から出たのはたったそれだけだった。本当はもっと大きなものを無理やり型に押し込めたみたいな、そんな声だった。
茜ちゃんらしくない声に、私が不思議に思う間もなく、茜ちゃんは背を向けて行ってしまった。小さくなっていく茜ちゃんの背を、私は見送った。
気まずい雰囲気のまま私は仁美ちゃんとお弁当を食べた。仁美ちゃんは、茜ちゃんと約束してたの、と私に聞いた。私が首を振ると、そっか、とつぶやいて、少しの間、何か考えていた。そして、後で話してみたらと言った。楽しみだった遠足が、喉に小骨が刺さったみたいに後味の悪いものになってしまった。仁美ちゃんに謝ると、いいよと笑ってくれた。
集合の時、茜ちゃんは友達と笑って話していた。話しかけようと思ったけど、やめておいた。一瞬だけ目が合ったけど、すぐにそらされてしまった。帰り道、二人っきりになって、私は茜ちゃんに謝ろうと思ったけれど、茜ちゃんが謝らせてくれなかった。全身から、針みたいなものが出ている様だった。
茜ちゃんはそれから、私を誘いに来ることはなくなった。ほんの少しほっとしていた。これで心配せずに仁美ちゃんといられるし、茜ちゃんに悪いと思わなくてすむ。茜ちゃんだって、こっちの方がきっといいはず、そう思った。
それでも茜ちゃんと私は離れる事はなかった。私の家と茜ちゃんの家では、ちょっとした時に、一緒にバーベキューをし、旅行に行くことが当たり前だったからだ。
茜ちゃんは、私と二人になるとやっぱりものすごく冷たくなった。「あんたはいいよね」茜ちゃんの言葉は前よりきつくなった。「近寄らないで、イライラする」腕をつねる代わりに、言葉でいっぱい刺してくる。触るのも嫌だと言うように頑なに私を突き放した。茜ちゃんはここにいる私じゃない私にさえ、怒っているみたいだった。何回謝ってもおさまらなかった。けれど、母さんたちの前だと、またにこにこするのだ。皆といる時と私だけの時、顔をつけ外しするみたいに茜ちゃんの表情は変わる。私は茜ちゃんがそうする意味が、段々わかってきた。そして、茜ちゃんが怖い、そう思うようになった。
赤ちゃんが出来たのよ、六年生の春、母さんが言った。嬉しそうだな、私は晩ご飯を頬張りながら思った。茜ちゃんのお母さんも赤ちゃんが出来ていたらしく、また同い年だった。来年の冬、弟が産まれて私はお姉ちゃんになった。母さんは男の子だった事をとても喜んだ。一足先に女の子を産んだ茜ちゃんのお母さんは、おめでとうと言いに来た。男の子っていいわね、と言う茜ちゃんのお母さんに母さんは、女の子二人もいいじゃない、華やかよねえと言った。茜ちゃんは、少し遠くから私たちを見ていた。睨んでいるようにも、興味がないようにも見えた。
この頃から、茜ちゃんと一緒にいる事はめっきり減っていった。受験する中学校が離れたからかもしれない。家族での集まり自体、忙しいからとなくなったせいもある。受験が終わったら、また集まるのかな、ほんの少し憂鬱な気持ちで、私は勉強に励んだ。けれど、中学生になる頃には、茜ちゃんと会う事は、ぱたりとなくなった。母さんは弟に一生懸命で、私に何か言う事も少なくなった。正直、全部に私はほっとした。
仁美ちゃんとは中学が離れたけど、時々連絡を取り合っている。茜ちゃんとは、連絡を取っていない。いつもそばにいたから、電話も余りしたことがなかった。時々、茜ちゃんを見かける。私と違う制服を着た茜ちゃんが、家の中へ入っていく。一度声をかけた。茜ちゃんは、もうあの時の様に怖くはなかった。けど、ほんの少し遠くて懐かしい人に思えた。
四
――あかねちゃん。
私を呼ぶ声。幼馴染の加奈子は、私の根幹の象徴だった。
加奈子と知り合ったのは、私が私になる前。私が自分を茜と知った時には、私は加奈子を加奈子だと知っていた。加奈子は一人じゃ何にも出来ない子だった。すぐに泣いて、私の袖を掴む。先生に指名されたら泣く。グループが私と外れたら泣く。とにかく泣いた。泣けばいいと思っているの、と加奈子の母親が加奈子に言う。加奈子がそう思っていない事くらい、私は知っていた。大人も周りの子も知らない加奈子のことを、私は知っていた。加奈子は、よく私の手を握って言った。涙と鼻水が私の手に落ちた。
「できない、こわい。でも、本当はわたしもやりたい、でも、うごけない」
母さんに言っても、弱虫って言われるだけだから、そう言って私にだけ教えてくれた。私は加奈子の手を握って、大丈夫、かなだって出来るよ、あかねがついてるでしょ――何度も繰り返した。
そう、私は私をあかねと呼び、加奈子をかなと呼んでいた。加奈子は、私を今でも茜ちゃんと呼んでいる。
加奈子の事は、どう思っているのかわからない。友達とも違う気がする。後でできた友達と、どう考えても加奈子は違う存在だった。ただ、ずっと一緒だった。ずっと私が面倒を見てきた。加奈子が、ずっと私についてきたのだ。
「あかねちゃんとはなれるのやだぁ」
加奈子は本当によく泣いた。鬱陶しい時もあった。私だって、辛くって怖い時だってある。でも、加奈子にはそれを見せられなかった。私が一緒になって泣こうものなら、皆にがっかりされるから。加奈子の親も先生も、私の親も皆しっかりした強い私を望んでいた。私がしっかりしていれば、皆褒めてくれるし、自慢の子になれる。そう思っていた。
「あら、そんなことないわよ。うちの子、家では何にもしないの」
かなこちゃんは、お手伝いいっぱいして、優しい子よね――母が加奈子の母にそう言った。――そんなあ、加奈子は他に何もできないから、茜ちゃんはいっぱいお習い事してるもんねえ――加奈子の母はそう続け、私に首を傾け聞いた。私はとりあえず笑って頷いた。加奈子の母は、加奈子の事をよく悪く言った。優しい人だと思っていたけど、親の話がわかってくると、この人が話す時は妙に空気がねっとりして、居心地が悪くなった。きっと私を褒めるのと、同時に加奈子をけなすせいだ。その割に、加奈子が褒められた時は悪く言いつつ声が甘ぁくなってぞっとした。でもこの時は母の言葉の方が気になった。
私はいい子でいたつもりだったけれど、母にとってはそうじゃなかったらしい。習い事も加奈子の面倒を見るのも頑張っているのに。少し呆然とした。温かなものが逃げて行ってしまう、いや、そもそもそこには何もなかったかのような気持ちになった。少し落ち着かない気持ちで加奈子を見た。加奈子はモンシロチョウを見ていた。
家に帰って、私は母に聞いた。――私、何もできていない? ―― 加奈子よりできていないの、この言葉はのみ込んだ。振り返った母は眉を不快そうに顰めていた。
「そうね。あんたはなんでもできるけど、優しさがないのよねえ」
この間だって、私が疲れてるのに何にも気付かなかったし――そこから言葉は続かなかった。大きなため息を吐き出し、母は洗面所へ向かった。明りを点けるには中途半端な午後の居間は薄暗かった。窓からだけ少し光が入っていた。母の大きな足音と、やけに響く水の音を聞きながら、私はそこに立ち尽くした。
とりのこされた、そんな気がした。
五
小学校に入っても、私は加奈子と一緒だった。加奈子の母が学校に頼んだらしい。見てあげてね、そう言う母の声はほんの少し渋かった。わかった、私ははっきり返事をした。
加奈子がいても、友達はできる。けれど、本当に輪には入れなかった。加奈子は私の友達と気が合わなかったし、私は加奈子を優先しなければならなかった。加奈子が泣けば、遊びに参加できない。どうしても私は他の子より引けを取った。加奈子はそんな事も知らないで、あかねちゃん、とくっついてくる。加奈子を見ると胸の内にもやもやした気持ち悪いものが溜まるようになった。
だから加奈子を少し悪く言われた時、否定できなかった。だってその通りだった。加奈子さえいなければ私はもっと自由だった。皆は加奈子を悪者にすれば、輪に入れてくれた。私の代わりに加奈子は手がかかると言って、皆が労ってくれると心の中のもやもやが、少しすっとしたのだ。
それもすぐに物足りなくなった。もやもやにチクチクした痛みが混じった。心の中だけではもう消化できなかった。私は、加奈子の腕をつねり、きつく詰っては、もやもやを加奈子に投げつけるようになった。余りに強く投げたせいか、いつも一時の爽快感の後、肩が抜けたような不安定な虚しさが残った。加奈子の驚いた顔、戸惑った顔を見ると、私はもう少し頑張れる気がした。夜になると、自分のしている事が誰かにばれやしないか不安だった。罪悪感も少しあった。けれど、朝に加奈子を見るとやっぱり駄目だった。優しくしたい、でも、毎日は無理だった。
そんな時、加奈子に友達が出来た。加奈子はその子といるのが楽しいみたいだった。私といる時と全く違う顔をしていた。
私に、友達だと見せてきた時の顔、今でも覚えている。こんな事おかしいと思った。面白くなかった。加奈子の友達も、笑っている加奈子も全て。私は、加奈子とその友達の輪に割り込んだ。私は加奈子の友達と、加奈子より仲良くならなければならなかった。でも、その子は結局私の友達ではなく、加奈子の友達だった。
だったらせめて、加奈子と引き離そうと思った。加奈子の面倒を見ていたのは私なのだ。加奈子は私が呼んだら、すぐに来なければならない。何より私を優先しなきゃならなかった。それなのに加奈子は戸惑った様な、困った顔をした。今までは笑ってついてきたのに。私は加奈子の笑った顔の何倍もその顔が嫌いだった。
六
中学年、クラスが分かれて初めての遠足。私は友達と食べるつもりだった。けれど母は、加奈子ちゃんと食べるんでしょうとさも当然のように言った。遠足や運動会などの行事でと加奈子は約束するでもなく、ずっと一緒にお弁当を食べてきた。
私は母に、加奈子に友達が出来た事は言えなかった。加奈子が加奈子の友達と食べるのは嫌だ。でも私は当時、加奈子を私の方に引っ張る事に疲れていた。加奈子の事は少し考えるのをよして、気分転換しようと思っていた。なのに、友達と食べると言ったら加奈子ちゃんも誘いなさいと言われた。頷くしかなかった。嫌だった。けれど、加奈子がもし私と食べる気でいたならかわいそうだとも思った。
やっぱり加奈子と食べよう、昔みたいに二人で。
私は友達の誘いを断った。
けれど当日、加奈子は自分の友達と一緒にお弁当を食べた。誘いに行ったら、私がどうして来るのか全く分からないと言う表情をした。加奈子の友達のおずおずとした言葉を、途中で切って戻った。友達に、ごめん、と頼んで入れてもらった。
恥ずかしかった。悔しかった。憎らしかった。友達からの好奇の視線、気遣わしげな目――私の存在に疑問しかない、あの目。私は強く奥歯をかみしめた。目から出る代わりに、鼻から涙が出た。湿っぽいご飯を食べながら、許せないと思った。
私を置いて、友達とご飯を食べる加奈子。
存在が消えて欲しいと思う事はあった。けれど今は私が消したいとさえ思った。
加奈子が憎らしい。でも、加奈子が私から離れる事なんてあってはならない。
胸の中のもやもやは真っ黒になって、加奈子との思い出も全部塗りつぶしてしまった。もう私は、加奈子の全てが許せなかった。放っておけばいいと思うのに、目については私を苛々させた。更に家族での集まりが、加奈子と私に嫌でも会う機会を作り続けた。私は二人きりになると、加奈子に鬱憤を全てぶつけた。皆の前では昔の様にしていたけれど、もう私には、昔の私がどんなだったかさえ、わからなかった。
七
もうこれからは加奈子ちゃんと付き合わなくていいわよ。六年生の冬、何気なく母は私にそう言った。加奈子の母のお見舞いに行く話のついでで出た言葉だった。
この年、母は妹を産んだ。加奈子の母が子供を産んだのはそれから少し後で、男の子だった。加奈子の母は、それがわかった時、すごく喜んだそうだ。
――別に、男の子が欲しかったわけでもないけど、あんなあからさまに勝った、みたいな顔されるとねえ。
母は、加奈子の母の態度が気に入らなかったらしい。元々妊娠した時、すぐ対抗する様に作ってきた時点で嫌だったと、最近聞いた。あの人そういう面倒なとこあるのよね――
そんな事はその時の私は知らなかった。たった一言で加奈子とのつながりを切った母に呆然とした。けれど小さく、はいと私の口は答えた。病室で、私は挨拶を済ませると、輪から離れた。加奈子に話しかける気にはなれなかった。一度目が合ったけれど、加奈子はすぐに私から目をそらした。加奈子の母の異様に弾んだ声、母の歯の浮くような台詞が、私の心を上滑りしていった。
私はただ加奈子を見る事しか出来なかった。そして、おそらくそれが最後のチャンスだった。
それからめっきり加奈子と接することはなくなった。時折すれ違うくらいで、あんなに離れられなかったのに不思議だった。私の中に真っ黒のもやもやは居座り続けたけれど、次第に勢いを失くしていき――中学に入った時に、とうとう消えた。
そこには穴が開いていた。もやもやのせいで見えなかったのか、もやもやのせいであいたのかわからない。
加奈子のいない全く違う日常。夜に、帰り道に、ふとした時に、穴は風を通して音を立てる。すると、私は足元が頼りなくなり、喉を少しずつ締められる様な苦しさと、吐き気に似た虚しさに襲われる。
母は妹の世話をしている。特に変わった様子はない、おむつを替える背中を見て思う。
この間、帰り道で加奈子に会った。学校が逆方向の私と加奈子は、顔を合わせる事さえ稀だった。加奈子は少し化粧をしていて、知らない子と一緒に歩いていた。私は声をかけることもできずに、ただ見ていた。顔を上げて、目が合った。
「あかねちゃん、ひさしぶり」
加奈子は、にっこり笑って手を振った。そして、またね、と家に入っていく。加奈子は、私を変わらず茜ちゃんと呼んだ。けれど、その笑顔も、しっかりとした足取りも私の知らないものだった。
私は笑おうとした、笑いたかった。今なら本当に加奈子に笑顔を返せる気がした。けれど私の知る加奈子はもうどこにもいないのだ。
赤く染まった空の下、私は立ち尽くし、加奈子の入っていった扉をずっと見ていた。
完.