やっちゃった。

前編

「何よ、そんなに怒らなくったっていいじゃない!」

 怒りで甲高く上ずった叫び声と、困惑混じりのざわめきが辺りにこだました。
 騒ぎの中心にいるのは二人。その内の一人であり、叫び声をあげた本人である大城は、もう一人である佐々木を睨み付けた。
 その目には薄らと涙が浮かんでいた。顔を真っ赤に上気させ、何事か叫んでいる。時おり湿る声は、彼女が怒る様子を見せながらも泣きそうである事を示していた。
 佐々木はそんなことには目もくれず、泣きながらただ手の中のものを抱き締めていた。周囲は何事かという目で二人を少し遠巻きに見ていた。


「何をしているの!」

 騒ぎを聞きつけたのか、教師が一人そこにやって来た。気づいた大城は、また言葉を続けようと吸った息を止め、しばらくしてそのまま吐き出し俯いた。

「先生、佐々木さんが」
「大城さんを叩いて」
「大城さんが佐々木さんのを壊した?」

 口々に外野は、自分の知った情報を告げる。断片的なそれらの間を埋めるために、教師は二人の間に割って入った。
 佐々木はおとなしい生徒だ。その子がこれほど泣いているのは珍しい。
 おおかた、大城が何かしたと見るのが妥当だろうと見当をつけた。実際大城は場を乱すことがよくあって、クラスにあまり溶け込めていない。教師は大城に尋ねる。

「どういうことなの?」
「……」

 大城はなにも言わない。教師に素直にすべて話したくないという意地と、話したら言葉以外も溢れそうだったからだ。
 佐々木は未だずっと泣き続けていた。時おり呼吸に関し心配になるほど、ひどくしゃくりあげるので彼女に聞くのは無理だと教師は判断し、大城に再度尋ねた。

「大城さん」
「……私が、佐々木さんのノートを破っちゃって」

 大城は尖らせた唇から、ぶつ切りに言葉を吐き出した。その言葉に、見れば佐々木の手を見る。注視すれば何か破れた紙屑のようなものを確認できた。教師は、なんだノートか、と思った。思ったが、一応言わねばならないだろうと、大城に向き直った。

「それはいけないわね」
「……」
「人のものを壊すのはいけないことでしょう?」

 教師の言葉に、ぐっと息を飲み込んだ。大城の背中は丸くなる。

「でも、佐々木さんだって私をぶった!」

 張り上げた声には、明らかに涙が混じっていた。さっきまでふてくされて教師に答えていた大城の口調が一気に子供らしい響きになる。

「ちょうだいって一枚破っただけなのに、佐々木さん、私をぶった! いちまいくらい、くれたっていいじゃん! 佐々木さんだって悪いもん、おかしいもん!」

 大城は頬を押さえた。それから、耐えきれないようにしゃくりあげ始めた。教師は大城の背をなだめるように二、三度撫でると、

「それでも、相手が嫌だったことをしたら、謝らないといけないわ。そういう風に、開き直っちゃダメ」

 大城はヒュッと小さく息を飲んだ。教師はそれから、佐々木に向き直る。

「佐々木さん、本当なの」

 大城の話に食い違いがないか、確かめようとした。佐々木は顔をあげずにずっと泣いている。もう一度呼び掛けたが、返事はない。少し教師の声に焦れた音が混じる。

「あってるのね? 先生、言ってくれないと、そうとるけどいいのね?」

 それでも返事はない。教師はふうと息を吐いて、「じゃあ」と言った。

「――なら、佐々木さんも謝らないとね。大城さんにノートを破られて嫌だったのよね? でも、人を叩くのはダメよ。大城さんだって、悪気があったんじゃないの。佐々木さんと仲良くしたかったの」

 その言葉を聞いた瞬間、佐々木が突然顔を開けた。涙が散りそうな勢いに、誰もが驚く。

「ノート、いちまいくらいじゃない!」

中編

 涙と横隔膜の痙攣に邪魔されて、ほとんど聞き取れない濁点だらけの発音でそう叫んだ。

「あだし、こののーと、ずっと、ずっとだいせつに、つかってだのに! こわした!だいなしにされた! おおぎさんのぜいで、ぜんぶだいなしになった! これ、ぜんぶだめになった!」

 しゃくりあげ、顔を真っ赤にして叫んだかと思うと、わっとまた泣き伏せた。教師も、周囲も驚いていた。いやむしろ、正しく佐々木のいうことを理解できなかった。
 私物を壊されたら嫌だ。それは理解できる。しかしたかだかノート一枚。佐々木の泣き方は人生が台無しになったかのようなそれだった。何もそこまで――半笑い、苦笑い、首をかしげる――微妙な空気が辺りに満ちた。

「――まあ、佐々木さん」
「嘘つき!」

 とりあえず教師は、いきすぎたその発言を補正しようとした時、大城の言葉がそれに被さった。

「私のことがいやだから怒るんでしょ! きらってるから、これくらいで怒るんだ! 他の子なら絶対、怒らないくせに!」

 叫ぶ大城の目からは、一種の自棄のようなものが感じられた。いつそれを肯定されても、平然と怒り返せるように。教師は事態がややこしくなった、と思うと同時に、むしろ納得した。大城への嫌悪ゆえの拒絶、佐々木の言葉を正面から受け止めるよりもそう考える方がずっと自然だった。周囲にも多少の安堵の空気が流れる。

「ちがう!」

 佐々木は裏返った声で叫び返す。顔中水浸しで、鼻水も涙も混じっていた。誰かが、うわ、と小さく声を上げた。

「おおぎさんのことなんて、どうでもいい! わたしは、わたしのたいせつなものをこわされたからおごってるの!」
「うそつき! そんなノートどこにでも売ってるじゃん! うそつき!」

 佐々木の言葉に、大城は噛みつく。大城が耳に入れたいのは詳しい内容ではなく、否定か肯定――いや、もはや肯定だけだった。肯定されたくはないが、半端な否定こそが許せなかった。教師は、お互い譲らず自分の言い分を叫ぶ状況を止める。

「やめなさい、大城さん。佐々木さん、そんなこと言ってないでしょう。誰もあなたを嫌ってないわ。落ち着きなさい。佐々木さ――」
「うそつき!」

 佐々木さんも、友達のことどうでもいいなんて言ってはダメよ――教師がそう続けようとしたのを、大城は遮った。教師を、血走り涙の浮かんだ目で睨み付ける。教師は、少し疲れた顔で大城を見た。いい加減にしなさい、そう言おうと口を開いた時、大城が叫んだ。教室中、隣のクラスまで響くような声だった。

「みんな私のこと嫌ってる! せんせーだって嫌ってるんだ! だから私が悪いって言うんだ、佐々木さんの味方するんだ!」

 身体中から言葉を吐くと、大城はわあっと泣いた。泣いて、教室を飛び出していく。

「待ちなさい、大城さん! ――皆、少しの間自習しててね」

 教師は飛び出していく大城の背に声をかけたが、大城は聞かず飛び出していった。その背を見送ったあと、教師はため息をひとつ吐いた。それから、周囲に一声かけ、大城の後を追った。――もう六年生にもなるのに、どうしてこうも問題を起こすんだろうか。放課後にでも、佐々木さんと話し合いをさせないといけない、ああ、手間ばかり作るんだから――愚痴を心の中で吐き出しながら、教師は走った。――佐々木さんも佐々木さんね……意地悪しないでノートくらいあげてほしいわ。もっと優しい子かと思っていたけれど。それに、大城に意地悪したのでなくとも、たかだかノートの紙一枚であんなになるのは正直な話、異様だわ。それとも、そんなに大切なノートだったのだろうか? いや、それにしたって、直してあげないと、佐々木さんは後々苦労する――教師は自分の足音を聞きながら、最近の子は、と小さく吐き捨てた。

後編


 教師の去った教室に喧騒が戻ってきた。動揺や困惑、失笑でできたざわめきは、嫌な雰囲気を作り出した。佐々木はまだそこで泣いていた。佐々木に、少女が駆け寄った。

「元気だして、美保ちゃん」

 佐々木の友人だった。泣いている佐々木の手を握る。

「大城、最悪だよね。大変だったね」

 友人の言葉に、佐々木はぽろぽろと涙をこぼした。受け取ったハンカチで鼻をかんだ。

「何でお前なんかにノートあげなきゃいけないのって話だよね。私だってあげないし」
「……え」
「わかるよ。あんなのに、ノートたった一枚でもあげたくないよね」

 ね、元気だして。そう言って手を握ってくれる友人に悪意はないようだった。まっすぐ気遣わしげに佐々木を見ている。
 ちがう、と言いたかった。でも、言葉にする前に、友人が佐々木に尋ねる。

「でさ、そのノート、そんなに大切なものだったの?」

 そう尋ねる友人の顔は、眉を下げ心配している風だった。しかし好奇心からか、目の奥が少しきらきらしていた。いかに自分の友達の大切なものを自分の憎い相手が壊したか知り、思う存分義憤に燃えて大城を攻撃してやるという、そんな意気込みが見えた。

「ぇ、……」
「ほら、何か記念でもらったとか。だっておかしいじゃん! いくら大城が嫌いでも、そんな誰もノート一枚破られたくらいで泣いたりしないもん」

 友人は、自分の言葉に、佐々木の顔がこわばったことに気づかなかった。佐々木は、少し呆然としながらも、首を横に振った。

「ん?」
「ちがう、思い出があるわけじゃないよ」
「そうなの? ……美保ちゃんって大城のこと、ホントに嫌いなんだね」

 佐々木の否定に、友人は少し目を見開いた。それから、気まずそうに言葉を探し、あいまいに笑った。思い入れがないなら、あんなに泣くのは友人には理解できない行動だった。なら、大城の事がよほど嫌いなのだと考えるしかない。すると今度は、佐々木が予想以上に過激だったことに少し引いてしまった。それが何となく後ろめたくて、気持ちを押し隠そうとした結果の言動だった。佐々木は、友人の心の機微を敏感に感じとり、胸の中をミキサーでかき混ぜられたような混乱と悔しさに襲われた。咄嗟に否定する。

「ちがう、嫌いじゃないよ、ただ――」
「いやいや、隠さなくていいから。私だって嫌いだし」
「ちがうの、私はほんとに――」
「だから、いいって!」

 友人は、誤解を解こうと尚も言い募ろうとした佐々木に、語気を強めて制止した。自分だけいい子ぶられた気がしたのだ。嫌いなことは悪いことじゃないのに、そんな目をしていた。その対応に、佐々木は大城によって開けられた心の穴にドライアイスを押し付けられたような心地がした。

(信じてもらえない)

 自分だけの世界にひとつのノートを作ろうと思った。
 これからこのノートは、私だけのノートになる、そう思うと、なんの変哲もないノートがこれ以上ない特別になった。
 この文字はこの色を使おう、ここは写真のコピーをはって、自分で一つ一つ作り上げていくノートは佐々木にとってひとつの世界だった。その世界がこわされたのだ。

(おかしいことなの……?)

 大城のことは好きでも嫌いでもなかった。ただ、大城だからあれだけ叫べたのかもしれない。佐々木は否定されてしまえば、友人にさえ自分の世界のことを言えなかった。
 教室では、大城と佐々木のことをひそひそと話す声がひしめいていた。大城の真似をして笑う生徒。そして、
「でも、ノート一枚で、怖いよね……」
「ちょっと変」
「いや、大城が嫌いなんでしょ」

 佐々木のことを話す生徒たちの声。
 大城が嫌いだから、やったわけじゃない。わかってもらえない。しかし、それをわかってもらったところで、佐々木の本当の気持ちこそ、わかってもらえない、「変」なものなのだ。佐々木の心を外から圧迫した。佐々木は行きどころのない膿んだ痛みを耐えたくて、胸の真ん中を強くつねった。
 放課後、大城と話し合いをさせられた。その時にはもうなにも反論する気も起きなかった。ただ叩いてごめんなさいと謝る佐々木に、教師はほっとした顔を見せた。大城は赤い目で佐々木をにらみながら私も、と返した。
 けれど、佐々木はもうどうでもよかった。破れてしまった世界は戻らない。誰もそれを弔わない。佐々木は仲直りの握手をした。皮一枚はどうせ何も伝えないから。


了.

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