あなたの女
アイラインを引き、マスカラをつける。思う。
今が一番の“着どき”だと。
今着るべきだと、いや着なければならないと思う。それは、きっと皆そうだった。
メイクを終える。振り返って、食卓がわりのローテーブルに肘をついているあなたに、わたしはぎゅっと抱きついた。
「何?」
朝は不機嫌なのは、どんな夜の後でも一緒だった。でもこんな日は少しでも抱きしめ返して欲しいと思った。
親に、何か悪いことを言う前の子どもは「出ていけ」という言葉を内心恐れている。わたしもそうだった。
「キスして」
「やだよ」
唇を、あなたの頬にほんの少しくっつけると、薄く赤がついた。まだメイク前の熱い肌。あなたは顔を背けてぬぐった。いつものことだった。それが今日はなにかとても傷ついてしまって、わたしは悲しい顔をしてしまう。わざとらしいのは嫌い。あなたは、少しばつが悪そうにもう二度三度、今度は丁寧にそこを撫でるとわたしを抱きしめた。強く抱きしめられると、胸がつまるように苦しかった。ひとつにまとめただけのつやのある黒髪から、少し辛味のあるハーブとシトラスの香りがした。頬をすりよせると、たまらない気持ちになった。
「メイクとれるよ」
幾分目の覚めてきたらしいあなたが言う。声に気づかいの響きがそっとのっているのを感じながら、わたしは「うん」と頷いた。
「今日は遅い?」
「うん」
あなたは知っていた。わたしの同僚が産休に入ったのだ。だからその穴埋めに、こんな休日にもわたしは行くのだ。あなたは中途半端に確認する。さぐっても仕方なくてただこわくなるだけのことを。だからわたしは確かめたくなる。けれど踏み出そうとして戻して、それの繰り返しだった。
「行かなきゃ」
そう言って、わたしの体を離した。ついでのように、そっとわたしの目を覗き込む。
きっとつり上がったアーモンド型の目。その勝ち気な瞳に、わたしの顔が映り込む。見たくなくて目を閉じた。するとあなたは今度こそわたしの唇をふさぐ。そうしてキスをしながら、わたしは結局あなたの首に強く手を回し直す。
離したくない。
でも、彼女はきれいだった。
アイラインを淀みなく引くたび、マスカラを睫毛にのせるときに思うのだ。
「今がウェディングドレスの着どき」だと。
そしてそれは彼女もそうだった。
けれどそのたった一言が怖かった。言うことをためらうようになった。あなたとの距離をはかりかねて、わたしは混乱する。
学生の頃、些細な嫉妬やすれ違いで喧嘩をしていた。あの時も必死だった。けれども、どれほどわたしたちは多くのものを持っていただろう?
唇を離して、「行くね」と言った。急がなければならなかった。
「行ってくるね」
もう一度繰り返すと、あなたが頷いたのがわかる。いつもそうだった。
「ねえ」
靴を履こうとしたとき、あなたがわたしに不意に声をかける。肩越しに振り返ると、あなたは
「唇直しなよ」
と言い、唇を少し誇示するように突きだしてみせる。それから悪戯っ子のように笑った。
その笑みにわたしはうまく笑い返せたのか、わからない。無性に泣きたくなったから。
男になりたい。
いっそ男になりたいと叫びだしそうだった。
あなたにすべてを与えられる、あなたにふさわしい存在になりたかった。
けれどもあなたといる時のわたしは女だった。
どうしようもないほど、あなたの女だった。
了.