おいで、イカロス

一話 対翼と四翼

 ――ねえ、覚えてる?
「とりわけ、またがない四翼は、ろくなものにならない」
 そう、言われたね――
――覚えているよ。だから、私、お前が嫌いだった――
――なら、初めて飛んだときのことは?
 沈黙、いいえ、それは果てのない無言だった。



「今日は風が湿気ている」
「重いな。飛びづらくなるわ」
「これは雨がくる。早くに行かなければ、荷が濡れてしまう」
「ああ。急がないといけない」

 ユニとアンリが、空を見上げて、そう言った。重々しい空気につぶされるように、ずしりと低い声だった。二人は両手に荷を抱えている。食料や織物は、他の村との交易に使う。彼女たちは守るように、荷をさすった。

「飛べそう?」
「四翼は無理ね。こうも重くては」
「ああ、今日もたくさん、私たちが飛ばなくてはならないわ」
「いつものことだ。いない日の方が、気分はいいけれど」

 ジュンとジュリが、二人で一つの荷を抱えてやってきて、ユニとアンリに問いかけた。しかし、ユニとアンリのそれに対する答えは、返答ではなく、半ばふたりごとであった。二人は、後ろなど見ていなかった。

「いや、これくらいの重さなら、私たちも行けるわ」
「何か行けるの? 行けても一回や二回でしょう。数に入らない」
「やらなくていい人ほど、元気でいられる」

 ジュリが、二人ごとに割り込むと、ため息をついてアンリが返した。ユニが冷笑する。それ以降、全く後ろをかえり見ないで、断崖の縁に立った。

「それでも、四翼の為に、今日も飛ぶわ」

 ユニとアンリは、翼を広げると、宙に浮かんだ。翼に揺らされるように、体を左右に揺らし、安定をはかると、一気に崖の向こうへと飛んでいった。

「ちくしょう!」

 ジュンは、荷を置くと、石を掴んで、二人の立てていった風の余韻に向けて投げつけた。石は放物線を描いて、落ちていく。

「バカにして! おまえ達の服を、誰が縫ってると思ってるんだ」
「よしな、ジュン。あんな奴ら、成人までだ。今に私たちが追い抜いてやるんだよ」

 ジュリが、ジュンの背をさすった。ジュンの右肩と、ジュリの左肩には、それぞれ翼が生えていた。白く濡れたそれは大きく、対翼のものにもひけを取らなかった。
 ジュンとジュリは、月またぎの四翼だった。
 二人は、荷を二つにわけて持つと、体の側面をぴたりとくっつけた。ジュンの右腕と、ジュリの左腕に血管が浮き、互いを結びあわせていく。血管は結び合わさる端から同化して消えていき、つながった部分は白く変色していく。そうして、肩から足首までが同化すると、二人は翼を広げた。翼はうなりをあげて、大きく羽ばたき、あたりに風を起こした。二人は同時に地を蹴ると、宙に浮かんだ。落ちるように、ゆっくりと崖から離れていく。大きな羽音を立てて、向こうの村まで飛んでいく。

 ニアとトゥは、そんな彼女たちの姿をじっと、見送っていた。二人は荷を抱え、向こうの村を目を眇めて見ていた。二人の肩にも、片翼が生えていた。二人の持つ荷は、ジュンとジュリよりももっと少なかった。
 だから、ずっと先に来ていたのに、四人に飛行を譲り、待っていたのだ。


二話 またがない四翼

 この村の人々は、皆、一様に翼を持って生まれてきた。
 村は大地から高く盛り上がり、四方のうち三方は断崖、残りの一方は斜面となっている。西と南の断崖と、東の斜面は、他の村へつながる陸に続いていた。他の村へ向かうには、西か南の断崖から飛べば十分、東の斜面を使えば二時間であった。斜面には危険な野鳥や野犬が出る。翼を持つ彼らが、どちらを利用したかは、想像に難くない。
 翼を持つといっても、一対の翼を持つものと、片翼のものがおり、前者は対翼、後者は四翼と呼ばれた。
 翼の数は、卵のなかで決まり、対翼のものは一人、四翼のものは決まって二人で生まれた。四翼は片翼で生まれ、成人し、対の翼を得るまでは、ともに生まれたものと二人でなければ飛ぶことができない。
 四翼のものは、対翼のものと違い、肩に翼がある。二人で飛ぶためだ。二人で飛ぶ分、飛行力は落ちた。だから、対翼のように荷運びの仕事をこなすことができない。そのため、四翼は村で、飛行の役目を終えた年長者とともに、飯を作り、服や寝具など売り物を仕立てる。
 四翼は、行くことはできても、帰ってくることはできないのだ。だから、危険な東の斜面を恐々と登り、戻ってくる。それでも、四翼は七日のうちの二日は荷運びの仕事をする。飛行訓練のためだ。
 十六の年にくる、成人の儀の為だった。

「四翼は成人すれば、対翼になれる」

 四翼の背中には、対翼の種子が埋まっている。自立心旺盛なものだけが、それを咲かせて、対翼となれるのだ。
 それは、四翼の希望であり、また試練でもあった。
 四翼は、対翼に生かされている。それ故に、対翼には頭を下げて生きていかねばならない。
 ジュンとジュリのような、克己心の強い四翼は、必ず神のお眼鏡にかなうだろう――なら、自分はどうか? トゥは考える。しかし、答えはでない。
 四翼のうちにも、序列というものがあった。それは「またぎ」である。卵のうちから四翼として生まれるとき、ともに生まれるものと、月日、時刻が、またいでいればいるほど自立心があり、よいとされていた。
 「またぎ」は月、日、時間の順番に序列がつけられる。
 ジュンとジュリは、六月三十日十一時五十分と、七月零時十分にそれぞれ生まれ、優秀な月またぎとされた。
 そして、ニアとトゥはまたがない四翼だった。二人は、同月同日同時刻に生まれた。
 またがない四翼は、依頼心が強く、自立心がない、だから成人しても対翼にはなれない――そう言われていた。

「ニア、行こうか」

 トゥは、ニアに声をかけた。
 ニアは返事をしなかった。しかし、歩を進め、崖の端へと寄った。ニアは、トゥのことを見ない。いつからか、見なくなった。
 トゥはニアに体を寄せた。魚がはねるような音をさせて、血管が結びつき、体が同化していく。この感覚は不思議だった。体が自分のものだけではなくなり、相手の意思が流れ込んでくる。また、相手の中にも、自分が入り込んでいく。結びつくのは体側の血管だけではない。意思もまた、何本も糸を伸ばして互いに絡み合い、同化していくのだ。
 この時、ニアはトゥになり、トゥはニアになる。自意識は浮遊し、空を旋回し、そして一つの体へとまとまっていく。互いへの反発もなにもかも遠く、強く響き合い一つの槍のように鋭く神経を高めていく。
 翼を広げた。ぶんとうなりをあげて、羽ばたきを始める。そうして、力がたまった頃、ふたりは地を蹴った。ジュンとジュリよりも、低く落ちていく、そうして、また舞い上がる。落ちてはまた少し上がりを繰り返して、降下して飛んでいくのが、四翼の飛び方の特徴だった。隣の村まで保てばいい。翼を動かして、重たい風におされながらも、どうにか気流にのる。
 二人に言葉はいらなかった。
 トゥはニアと飛ぶのが好きだった。それは、誰にも言うことはできなかった。それは「恥」というもので、四翼なら、誰しも持っている認識だった。
 けれど、また四翼なら、誰しも自分のように思っているはずだと、トゥは思っていた。
 ――とりわけ、またがない四翼はろくなものにならない――村のものが言う度に小さくなるこの身が、大きく広がる気がするのだ。
 どこまでも、飛んでいける、そんな気がする。皆、四翼をバカにするけれど、自分は違う。トゥは四翼であることに肩身を狭い思いこそすれ、嫌ったことはなかった。ニアがいるからだ。
 それは、いずれ対翼になっても変わらぬ絆だと、そう信じていた。



三話 半身

 それは、いつもと同じ帰り道のはずだった。
 荷運びを終えた四翼達が、野鳥の群に襲われた。野鳥達はこの時をずっとはかっていたようで、迷いなく、四翼達を攻撃した。
 皆必死で追い払い、逃げては、村へと帰った。
 しかし、このことで、ジュンとトゥが重傷を負った。対翼が炎を持ち、追い払って、ようやくの救出だった。二人とも、翼をちぎられ、背中を深くえぐられていた。
 四翼の背中の対翼の種子は、野鳥や野犬の好物だった。
 二人の背の種子はすでに奪われていた。とりわけジュンは重傷で、ずっとひどい熱にうなされて、もうなにもわからないようだった。

「ジュンはもうだめだ。もって一晩、せめて楽にいかせてやれ。トゥは、助かったならば、引退したものと一緒に、家仕事に回ってもらう」

 村長の精一杯の温情だった。
 ジュリは泣いた。からだが千切れんばかりに泣いて、ジュンの手にすがった。ジュンは、手を握り返すことさえ、もはやできないようだった。
 ニアは、トゥの背を見ていた。布の巻かれた背は、赤い血がじっとりとにじんでいた。青ざめた顔で、トゥは、ニアを見上げた。そうして、唇をわずかにゆがめた。笑ったのだと、ニアにはわかった。ニアが手を握ると、汗が浮いて、冷たかった。その時、ニアは自分の心臓が、杭で打たれたような心地がした。体がふるえだして、止まらなかった。
 夜が明ける前に、ジュンは息を引き取った。ジュンの土気色の死に顔を、朝日が照らしていた。ジュリは呆然と、昨晩と同じ姿勢でその手を握っていた。それは、さらに一日明けても変わらなかった。
 アンリとユニが、ジュンの遺体を担ぎ上げた。二人は、荷運びをしてきた後だった。ジュリは、遺体を追いかけたが、アンリとユニは速かった。ユニの腕には、あの日の火ぶくれのあとがあった。

「いつまでそうしているの」
「お前は、生きていくのだから、そろそろ義務を果たせ」

 ジュリは、必死で二人の後を追いかけた。しかし、すでに遅く、北の断崖から、ジュンの遺体は投げ捨てられた。
 ゆっくりと落ちていくジュンに、ユニとアンリが一礼をした所で、ジュリは北の崖の縁に縋った。声にならない声は、確かにジュンの名を呼んだ。

「四翼は楽でいいわね」

 ユニの言葉に、ジュリは叫んだ。己の肉体を裂くような、すさまじい叫びだった。ジュリはユニにつかみかかった。ユニは冷めた目で、ジュリを見た。

「お前にわかるものか! 半身で生まれた私たちのことなど、わかるものか!」
「われらは、ひとりで生き、死ぬのみ。そんなこともわからないお前たちが、われらと同じ対翼になる夢を見る。この屈辱は、お前にはわからないでしょうね」
「うるさい! だまれ、だまれ!」

 ジュリは狂ったように叫ぶと、くずおれて泣いた。地面を割るような泣き叫びかただった。アンリは、ジュリをにらみ、それからジュリの脇を通り過ぎた。

「お前のような甘ったれの為に、それでも飛ばねばならない。私達こそ、あわれよ」

 アンリとユニは、ニアの脇を通り過ぎた。水をくみに来たのだった。ニアは、ジュリの背を見つめた。あれほどに強かったジュリが、小さくなってふるえている。その気持ちは、おそらく自分にしかわからない、そう思った。ジュリの左肩に生えた片翼が、悲しくわなないていた。
 ニアが小屋の中に戻ると、トゥは眠っていた。ニアはとっさに、トゥの口元に手をやった。息で湿りを帯びたのを確認すると、手を離した。トゥの前髪をなでて、額に濡れふきんをのせる。ニアはじっとトゥの眠り顔を見つめていた。トゥの顔を、こんなに見たのは、いつ以来であったろう。そんなことを考えた。
 トゥの頬に、滴が落ちた。ニアの涙だった。滴は横向きに伝っていった。ニアはそのことにも、何か無性にさみしく感じていた。
 ずっと不快だった。傍にいることも、二人でなければ飛べないことも、すべてトゥのせいだと思っていた。
 トゥともう飛べないとわかって今、ずっとトゥと飛んでいたかった自分に気づいた。トゥと飛んでいるとき、幸せで、だから不愉快だったのだ。そしてそれはきっと、トゥがこんなことにならなければ、一生わからない気持ちだった。そんな自分が怖かった。
 今の自分なら、あの時ちゃんとトゥの手を引いて逃げたのに、どうして、それが出来なかったのだろう。
 ニアは、トゥの手を握った。トゥは眠っている。きっともう二度と、間違えたりしない。


四話 成人の儀

「ああ、もうすぐ、成人の儀の時期だね」

 扉の向こうの空の色を見て、サキがニアとトゥに目線をよこした。目が合う前に、すいとそらされる。それだけで、何の意図をもった視線か、わかる。

「まあ、うちには関係ないかもね。ああ、ふたりも抱えているんで、大変だわ」

 エマが自分で肩をたたきながら、滅入ったように言った。誰に向けての言葉か、ニアはわかっていた。それは、隣のトゥも同じだろう。小さくなったトゥを励ますように、ニアは豆をちぎるペースを速め、次の房へと手を伸ばした。
 トゥが飛べなくなって、すでに四年が経っていた。ニアの成人の儀は、ゆうに二年をすぎていた。

 ジュリはあれから二年後、成人の儀を終えた。皆が予想していた通り、立派で雄大な翼だった。ジュリはやせ細った顔で、笑っていた。翼に反して、どこか心許ない笑顔だった。
 ジュリは昨年、荷運びの途中、嵐に見舞われて、かえらぬ人となった。その時の死亡者には、ユニも含まれていた。
 アンリは泣かなかった。遺体さえ戻らず、北の崖に捨てることもできない。嵐の止んだ日に、アンリは荷運びに飛び立っていった。
 しかし、夜中に一人で、アンリがユニの飛び立った西の崖を見下ろしていたのを、ちょうど水をくみに出たニアは見つけてしまった。
 トゥはあれ以来、めっきり体が弱くなってしまった。種子を失った四翼は弱い。日中起きていられないこともあり、よく風邪をひいた。働き手としての役目を果たさない、トゥへの風当たりは強かった。
 ニアはそんなトゥを熱心に看病し、ずっと守ってきた。心身健康であるニアへの風当たりは、トゥへの比ではなかったが、ニアは気にしなかった。
 二人でいられたら、それでいい。自分の誇りなど知るものか。
 そう思っていた。


五話 おいで、イカロス

「成人の儀に出て、ニア」

 トゥが言った。静かな声だった。その日、ニアは高熱を出したトゥを看病していた。
 やっと昼に熱が下がったと安心して、食物をとって室に戻ってきたら、トゥは、体を起こしていた。
 まだ寝ていた方がいい、そう体を寝かせようとした時に、トゥは一言、そう言った。ニアは、トゥの顔を見た。にらむといっていい、見方だった。トゥはニアを見返した。その瞳は静かに凪いでいた。

「今を逃したら、もう飛べない。だから、出て」
「そんなこと」
「できないなら、ニアなんて、もう、いらない」

 ニアの心は、一気に冷たくなった。それは、熱を越えた痛みだと、一拍おいて気づいた。血でも、涙でも、もし心に何かが流れているなら、今ニアの心からはそれが、流れ始めていた。

「いらない。そうだったでしょう。ニア」

 トゥは首を振って、ニアをにらんだ。

「ねぇ、覚えている? 『とりわけ、またがない四翼は、ろくなものにならない』って言われたね」

 ――覚えていた。だから、ずっとニアはトゥを憎んできた。トゥと生まれたせいで、軽蔑される自分が、嫌いだった。ニアの言葉に、トゥは「ふうん」と頷いた。

「なら、初めて飛んだ日のことは?」

 ニアは沈黙した。それは、果てのない無言だった。答えは決まりきっていた。
 あの瞬間に、きっと自分たちはすべてを手にしていたのだ。どうして、憎む必要があったのだろう。そのことを、空を失って気づいた。だから、もう何も求めない。求めなくていいのだ。

「私たち、きっと長く一緒にいすぎたのね」

 無言のニアに、トゥは笑った。疲れた笑みだった。

「ずっと私のこと、憎んでいればよかったのよ」
「そんなこと。トゥ、私は、幸せよ。やっと気づけたのよ」

 肩を掴んで言う。目を見つめた。思いをどうしたら伝えられるか、わからなかった。言葉はこれほど正直なのに、トゥの心があまりに遠かった。

「そう。でも、私は、みじめだわ」

 ニアののどは、潰れるように引き絞られた。トゥは、言葉を続けた。

「すごくみじめよ、ニア。私は、ニアのお荷物になるために生まれたんじゃない」
「お荷物なんかじゃない」
「決めるのは私。ニア」

 トゥは決めてしまっていた。トゥの心にはもう触れられなかった。

「翼、鳴いているんでしょう?」

 ニアの背がぶるりとふるえた。ニアの意思に反して、トゥの言葉に応える様な調子だった。同時に、背骨に激痛が走る。対翼の種子のわななきだった。ニアの肩には、もはや片翼はなかった。背は全体がふくれあがって、のびて薄くなった皮膚からは、翼の骨が透けて見えていた。今か今かと破るのを待つ翼を、ニアはずっと押さえつけていた。ふくれて薄くなった皮膚のうちににじむ血と膿を、トゥに隠せるはずもなかった。

「今を逃したら、もうもたない。ニア」

 もう何も言えなかった。

「飛んでね。でないと、私はお前を忘れる」

 成人の儀の日。四翼の子供たちは、一列に崖の前に並んでいた。皆、肩の片翼も落ち、背中には一様に翼が浮かんでいる。四翼の子供は、それまでずっとともに飛んできたものと手を繋いで、それから離れた。飛び立つときは、絶対に互いから離れてが、成人の儀の鉄則だった。
 ニアは、トゥの手を握った。トゥは列に参加できないので、対面だった。年長で、またがらない四翼を、様々な視線が囲う。

「さよなら」

 抱きしめる代わりに、そう言った。そうして、ニアは崖の縁へと向かう。
 背筋を伸ばすと、背中が一際強くうなりをあげた。濡れた小枝が裂け、折れるような音とともに、背中から、何かが強くはがれ落ちて、開放されていくのを感じる。
 押さえつけられ、痛んでいた背骨が、一気に伸びるのを感じたと同時、水があたりに散った。四翼の背中から放たれた。対翼の羊水で、あたりは雨が降ったように濡れた。
 生まれたての対翼の翼はぬれそぼり、しかし生まれたと同時に、本能で羽ばたきを始めた。あたりに濃霧が起こり、虹が浮かんだ。風の音が、これ以上ないほどに、耳の奥を揺らした。
 ニアは、自分の体が浮き上がっていくのを感じた。地面は蹴らない。蹴る必要はなかった。対翼の翼は、たくましく美しかった。
 体が崖から離れると、翼はうなりをあげ羽ばたいた。ニアの体は左右に揺れて気流にのり、安定をはかった。そうして、体が支えられると、ニアの翼は、上昇を始めた。
 その瞬間、ニアは、後ろを振り返った。
 トゥは、彼方に下にいた。歯をくいしばり、にらみ上げたその瞳から、とめどなく涙を流していた。ニアは指先から、しびれるような何かが走ってくるのを感じた。
 トゥは振り払うように、手を振った。行けと、全身が言っていた。ニアは上を向いた。涙で曇る視界を晴らすように、何度も目を瞬いた。
 そうして、ニアの体は、太陽に向かって上昇した。
 ――これから、私はお前を憎んでいく。愛する分だけ、ずっとずっと憎んでいく――
 ニアは天へと上り続けた。対翼の本能のままに、ずっと飛び続けた。もう二度と、振り返ることはなかった。


fin.

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