kill_and_kiss

一話

 あの時、私はきっと彼女にキスすべきだったのだ。

 いつだって死にたがっている子だった。

 彼女と会って、私は変わった。一人ではなくなった。

 それでも、彼女はいってしまった。


 いつも、机に仰向けに倒れるように寝ていた。あの時、何を見ていたのだろう。

 死ねないなら何より強い絆を、死に負けない傷を君に与えてしまえばよかった。


 あの時私はあなたにキスすべきだったのだ。

 叫びたいほど、あなたといきたかったのだから。


 彼女が好き、きっと一生好きだった、なのにどうして どうしてあの時言うことが出来なかった、のは、

 私の16才の時が知っている。

 私の少女が、ずっと大切に抱えて眠ってしまったそれを、当然のように手にしていたからだ。


「ここでよろしいですか」
「ええ」
「どうしましたか」
「いいえ、少し、なつかしくって……ほんの少し見て回ってもいいですか」
「構いませんよ……冷えますね。ストーブをつけましょうか」
「いいえ、大丈夫です。少し、見るだけですから」
「そうですか、では……私はあすこにいますから、また声をかけてください」
「ええ、ありがとうございます」

 おかまいなく、

 そうですか、

 ええ、

「ではまた、お呼びしてください」

 私はあすこにいますから、
 一礼、互いに目をあわせるだけの気のおけない会釈であった。用務員室を指差しゆびさし、そこへ向かい歩き始めた。初老の曲がった痩躯を一先ず見送ると、また、中へと目を向けた。

 2-f

 見上げると、クラスの標識すら変わっていない。取り残されたようにそこはあった。
 その間にも、用務員の男性の遠ざかる足音を背越しにじっと感じる。、実際に感じていた音の長さより、初老の小さな背の用務員室に引っ込んだのは早いのであるが、むしろ聞くのは彼のそれ自体ではなく不思議な凍えた残響を、目の前の意識に投射しているのであった。
 中へと歩みいる。スリッパ越しの足音を、寒風が凍らせ落としていく。音は甲高く、そして耳の遠くへ響いていく。


二話

 教壇の前二列目、窓際から二列目の席、そこに彼女はいつも寝ていた。

 仰向けに上体を机に預けて、足先を半端に床と向かいの席との間をふらふらさ迷わせていた。擦りきれた上履きの爪先の赤、黒く薄汚れたあの色を、ゴムのささくれを、いまだに覚えている。

 ふらふらと揺れる残影、窓の外へ抜けた彼女の口ずさむ歌。ほそく、わらべ歌のようなしらべがゆっくりと流れ込んでくる。

 そうだ、確かにここにいた。

 確信のように思う。

 確信は確認で、確認はまた確信であった。

(確かに、そこにいたのだ)

ふと 音も風速もない風が頭上をくるりと弧を描いて扉の外へと抜けていった その風にさらわれるように思考は浮上し、旋回し、くるくる回っていく 白い残影が走り行く、それを追うように思考は回り回り

 栗色の髪がフレームインする回ってまた見えなくなるジャングルジムの中にいるように、景色は断片的だった 白のシャツ、紺のつけ襟、えんじ色のタイ、紺のプリーツが同じように回りながら輪に入り、また抜けていく

 逃げる金魚のひれのようなそれをつかまえてつらまえて、それがすべてひとつのピースになる――――ひとりの少女。

「彼女を見つけたのは、ある日、本当にある日の偶然のことだった。彼女はエフ組の教室、奥から二列、前から二番目の席に仰向けに寝転んでいた。逆さまの目とわたしの目が合う。むっくり起き上がったかと思うと『二年?』と聞いてきた。思いの外、話しやすい子だった」

「彼女は見ればいつでも手首や腕に傷があり、私の前でも平気で切った。『血がなくなってしまうよ』というと、『それでもいい』と言った。投げやりなのに拗ねたような口ぶりだった」


「私の手を握った。『つめたい』とだけいった。そうしてはにかむように笑った。大きな犬歯は、彼女の唇を少し捲らせる。その上唇の赤い色を見ていると、私は今までとてもさみしくて歪だったことを思い出した。」


「あなたが私の腕を切った。怖かったけれど、解放された気がした」


「放課後、彼女と会う。彼女はいつも机の上に仰向けに寝ている。私が来ると起き上がる。彼女が私の腕を切る。私はあなたの腕を切る。流れる血を二人で眺める。同じ一枚のティッシュに落ち染み込んでいく赤色を見ていると、なんだかこの行為が儀式のように感じた。それ以外は私たちはずっと互いの肩にもたれあっている」


 少女はくるくると回り、白い霞のなかまた消えていった。溶け込んだのか速く消えたのか、定点に立つ自分にはわからない……

 けれども、

 彼女だ

 確認でも承認でもなく、泣きたいような発見の叫びであった。

 あふれでたのは紛れもない、感傷であった。


「一人ぼっちの家のなかは憂鬱だ。彼女、何をしているだろう」


「もたれあうとき、手を繋ぎあうのはくせになっていた。彼女は私の手を強く握ると、死ぬときは一緒だよと言ってくれた。嬉しかった」

「彼女が私の知らない間につけた傷が憎い」

「彼女が遠くに感じる。変わらず手を繋いでいるのに」

「ルクセンブルクの空を見たいと彼女が言った。どこを見ているかわからない目で、彼女はその日ずっと仰向けに寝て、足先を隣の机と床の間で、ふらふらさせていた。それ、どこだっけと言うと知らないと言った。知らないところだからこそ見たいのだという。

『知らないところの空は知らない色なのかな』

 なぜか答えられなかった。私は何か気まずく落ち着かなくて苦しかった。『一緒にいこう』それがどうしても言えなかった。

他にもたくさんの気持ちがあったがら言葉にならなくてのどがつかえ、胸の内の気持ちが、膨張した。」

 「さみしい」

 「彼女が死んだのはこんな冬の日のことだった。

 唐突に、これといった前触れも特別さもない訪れだった。

 私たちのつながりを知る人はいなかった。聞いたのは全てがすんだあと、冬休み明けの日のことだった。」


三話

「are……」

 舌がつんと痺れた。何気ない発音、意味のない発声であり、声がどうなるか試したい、だけのようにも見えまた本当に、「なにかを戻したくて」呟いたようにも感じた。

 ただ舌先が冷え、口内の粘膜の動きはぎこちないとわかっただけであった。それでも一先ず満足したように、歩を進める。

 氷のなかに落ちたように、静かで真昼だというのにどこか暗く仄白い空間、通りすがりに机に触れれば氷のように冷たかった。

 確かに彼女はここにいた。


 本当はあの時、わたしはキスすべきだったのだ。一緒に行ってあげられない自己嫌悪で彼女と平行線下の床を見つめているのではなく……
 遠く焦がれるような自責の念に揺られているくらいなら……


「ルクセンブルクの空はどんな色かな」

 彼女は言った。そこってどこなのと尋ねると「知らない」と返ってきた。知らないところだと、そしてだからこそ行きたいのだと、

「知らないところの空は、知らない色をしてるのかな」

 そう言うとすっと目を閉じた。白いまぶたに青の静脈がうっすらと浮いていた。
 一緒に見に行こう、と言えなかった。のどの奥でつっかえて胸を圧して苦しくてただ彼女のアーチ状のまつげを、薄い雨の日のさくら色、所々噛まれて梅色に変じた唇を、顔の中心を白い滝のようにすっと通る鼻筋を、遠くの窓越しに重ねて見ていた。吹奏楽部の誰かがたてたfaという間の抜けた練習の音が耳に届いた。


四話

 いきるかしぬかだと、何となく生きると選びづらい。正解だとわかっているから、選びづらい、そんな気分ばかりの時だった。
 
 きっと、わたしの中の鏡が反射したに過ぎない。

 わけもなくひかれた。

 彼女は、わたしの中の鏡が、わたしの内の希死念慮を映し出した姿に過ぎないのかもれない
 とさえ。

 わけもなくひかれた。今でもわからない。けれど彼女は間違いなくここにいたのだ。

 彼女はたしかにそこにいたのだ。はたして幻想のようにそう信じた。


 冬がカチカチと鳴った。空は凍てついた氷のように青く青く冴え、地面に近づくほど白く染まる。

 あなたはぼんやりとカッターナイフを眺めていた。時折手の甲を切っ先で引っ掻いた。ひまだったから、というような余りに手慰みの手つきだった。時がすぎるほど不規則な赤い筋はたっぷり浮かび交差していった。
 わたしはリップクリームを塗っていた。指先に取り出して塗るそれは、わたしに指先の始末を手間取らせた。
 見ると彼女の唇はカサカサに乾いていた。

「塗って」

 彼女は言うと体をこちらへ向けた。唇に触れた。薄皮の浮いた唇は痛そうで、塗るわたしの指先の方が怖じ気づいた。彼女は目を閉じてわたしの指に応えていた。

 彼女の気持ちを知りたくて、わたしは腕を切った。でこぼこ浅い凹凸が、腕に刻まれていく。触れるとギロのように、響く気がした。
 手首の傷をなぞった。ばれたらどうしよう、でも気分がよかった。怖い分、よりずっと気持ちがふわふわとしていた。

 脱衣場で母と居合わせて、ギクリとした。脱衣場は洗面所と合同だった。髪を拭いているふりをして、腕を隠しやり過ごした。

「ちゃんと浸かったの」

「うん」

 早く出ていってくれないかな、そう思いながら洗面所の水の流れる音を集中して聞いていた。

「早く拭かないと湯冷めするよ」

 すれ違う寸前、自分の腕を隠すタオルをじっと見た気がして、心臓が跳ねる。しかし母は何もいうことなく去っていった。ホッと息をつくと、急ぎ体をふく。下着を身につけ、パジャマを着る。部屋に戻るのが怖かった。

 部屋に入ったとき、母はちらりとわたしを見たが何も言わなかった。

 その日はずっと緊張して過ごし、できる限り早くに布団に入った。

 もう切るのはやめよう。そう思った。ばれそうになるたびに思った。彼女はこれをどうやり過ごしているのかも気になった。結局やめられず、彼女にならって手首にカッターを滑らせる日々だった。真似ごとの浅い傷は、時間がたつと虫刺されのように縁がぷっくりと膨らんだ。

 今日は空の写真が送られてきた。その日食べたもの、その日心に残ったこと、何でもいいから知りたいと言った。すると、彼女は時々こうして写真を送ってくれるようになった。

 それはわたしに直接送られてくるわけではなかった。彼女のTwitterにのせられるのだった。

 彼女のTwitterは、「苦しい」と「死にたい」とリストカットの画像で埋まっている。けれど、こうして空の写真が貼られる。それはわたしのものだった。中指と親指を合わせた、歪な手の形がうつりこんでいるのが、その証だ。これは、わたしと彼女の内で共有しているポーズだった。こうしてわたしたちは離れている間でも繋がっていた。わたしはそれが嬉しかった。彼女の写真の綺麗さだとか、合図だとか、そういった表面的なものがではなく、こうして送られる写真が、自分が彼女の生活のうちに染み込んでいる気がして、彼女を変えたことの証な気がして嬉しかったのだ。


 Twitterのタイムラインに流れた、伝って流れる血の画像。わたしはすぐにLINEを開き、彼女へのメッセージを打ち込んだ。


五話

「ねえ、腕を貸して」

 彼女がある日そう言った。手にはカッターナイフが握られている。彼女の様子は、手に持つものに反して迫真さもなく、無邪気なものだった。怖かった。けれど、わたしはどこかぼんやりとして、言う通り彼女に腕を貸した。

 その日初めて、彼女はわたしの腕を切った。そしてかわりに、わたしは彼女の腕を切った。

 彼女の腕は全体傷だらけで、むしろ健常な肌がぼこぼこと盛り上がっているようだった。傷と傷のすきまをぬうようにわたしはカッターナイフを押し付けた。彼女がわたしにしたような強さではなかった。けれどわたしの全力だった。

 いつもより血が止まらなくて、初めて血が肌を伝い流れた。じっと流れていく赤色二筋を見ていると、心があらわれていく、そんな気がした。

 右ななめ、左ななめ、右横、左横、時々重ね、銀色の刃をうでにすべらせると、じんわりと赤い線を作り始め、次第にぷっくりと赤い玉に集まる、重ねたところは大玉になった。

 暫くすると耐えていたものを失ったかのように たた、たた、と玉は筋となり滑り落ちて行く。仰向けにした内腕の裏側までたどり着くと、またひとかたまりの滴となって、落ちる準備を始める。

 それを、恍惚とした気持ちで眺めていた。


六話

 互いの腕を切りあうのはもはや習慣であった。相手に身を委ねることは、不安感より、快感の方が大きかった。信頼する、いい人間になれた気がした。

 時折強く刃を立てるふりをして加減を探りあう。向こうはびくともしていない。私は一度強く押さえつけられたときびくりとした。それが伝わったのか、二度とその強さではしてくれなくなった。

 一度、前みたいにしてくれと頼んだ。彼女はしてくれた。けれど、実際には表向きだけそう見えるようにだった。

 私は怖かった。「こいつはついてこれないやつだ」と思われるのが怖かった。


 布団をまくりあげられた。バレた。手にはこうこうと明るいスマホ、誤魔化しようもなかった。咄嗟に苦い気持ちが顔に出て、余計に相手の眉を吊り上げさせた。

「何やってんの」

 こんな時間まで、付け足された言葉はひどく刺々しい。

「何も」

 咄嗟に出た言葉は弱く、また歯切れが悪いもので自分でもまずいのがわかった。

「最近気づけばケータイばかりいじって。そういうの中毒っていうのよ」

 うるさい

 相手の断定的な言葉の羅列に、心のどこかが叫んだ。けれど、表面のわたしはすっかり縮み上がって「はい、はい」を繰り返していた。

「何してたか見せなさい」

 手をぬっと出されて、わたしは固まった。向こうはさも当然であるという風に、手を差し出した姿のまま、こちらが従うのを待っている。

「いじるな」

 瞬間に、ホーム画面を押そうとしたのがばれ、強いドスのきいた声で圧される。

「見せられないようなことをしてるの」

 あんたおかしいんじゃないの、

 重ねられ、頭の中が空気を詰められたようにいっぱいになり、後頭部が焦げるような熱を帯びた。胸が棒でずっと抉られているような不快な痛みが走る。ドクドクとした血の音が、体の外で聞こえる気がした。

「ゲームを……」

 していました、は言葉になったかはわからなかった。

「やっぱり」

 相手は勝ち誇ったような、怒りの的をぴったりと当てたような顔をした。

「あんたいい加減にしなさいよ。勉強もしないで遊んでばかりで、何のために生きてるの」
「はい」
「はい、そんな風に言っておけばいいと思ってる」
「思ってません」
「思ってる」
「はい。すみません」
「じゃあどうするの」
「ちゃんと時間に寝て、勉強します」
「ああそう。嘘ばっかり」

 はやくねなさい。問答の末、母は布団に戻っていった。わたしは母の寝息が聞こえるのを確認して、それから布団に潜って頭をがしがしとかきまわして不必要に歯をむいた。
 スマホの画面は暗くなって、通知ランプだけ何度も明滅していた。
 ちゃんと守ったよ、彼女へ語りかけた。彼女のメッセージは「寝た?」で終わっていた。

「ごめんね」

 そっと打とうとしてやめた。目を閉じると涙が二、三粒一気にこぼれ落ちた。泣いているのがばれないように、何度も何度も深呼吸をして、寝息のふりをした。
 感傷なしに何も打てなかった。かわりにぎゅっと強くスマホを握りしめた。


七話

 二人でいるとき、互いにもたれ合うのがクセになっていた。意図したわけでもなくて、そうするのが何となくしっくり来る、そんな気がしていた。彼女の髪や肩がわたしのほおや肩、髪に触れる、血で濡れた腕を風に吹きさらしにして、――そうしていると、ひどく安らいだ。そうしているのが正しい。そう信じられた。

 好き。正しさを言い換えるならそうだった。

彼女に一度、強く抱き締められた事がある。セーラー服の分厚い布越しにも、彼女の体が放たれた弾丸みたいに熱の芯をもっているのがわかった。

 わたしは何も言えなかった。ただ、息をつめてそっと彼女の背を撫でた。

 あなたを愛してる。そう伝わるようにと思った。わたしは彼女を愛していた。彼女はしばらくして、振りほどくようにわたしを離し、追いやった。手の内が広々と寒々しいのを、わたしは夢心地で感じていた。

 言葉で悟る前に、その空気を悟った。その空気は柔らかで、優しくて、少しさみしく。とても貴いものだった。だから人はこの空気の名をそう悟り――また、そう形作るのだ。わたしは彼女を愛してる。

 愛。言葉にすると空気はより甘美に薫るようだった。やさしく美しい空気に満たされ、ふわふわとこの身を抱き締められているようだった。
 わたしは彼女に会うのがいっそう待ち遠しくなった。会えると嬉しくて、手を握りたいような、不思議な心地になった。彼女の手は冷たく湿っているときと、カサついているときの二通りあって、どちらにも熱を与えるように、わたしはその手を両手で包んだ。


 腕を切るのが、不意に悲しくなった。こんなに大切な空気に二人は包まれているのに、どうしてそれを切り裂かなくてはならないだろう。自分の腕はまだ我慢できた、それでも彼女を感じられたから。けれど彼女の腕、彼女の腕を切り裂くのがわたしにはとても苦痛に思え始めたのだった。
 それでも流れていく血の軌跡は止められなかった。また美しかった。それは、彼女との絆そのものな気がして、止めるということは、全てをそうすることだという、危うさもどこかで予感していた。



八話

 その日の彼女はおかしかった。話しかけてもなにも言わず、なにか空気が尖っていた。どうしたの、と聞いても苛立たしげに頭を振る動作を繰り返すだけ。わたしの胸には不安が募った。

 ああ、不意に彼女がわたしの腕をとる、治りかけのかさぶたで一杯のそこを、彼女は何も言わずに滅多切りにした。一筋、二筋、三筋、呼吸もなくされたそれに、わたしはとっさに

「やめて!」

 と叫んでいた。腕をおさえた。手のひらに、溢れてくるものを感じて、ひどく泣きたくなった。彼女はわたしを見ずに空を睨んでいた。けれど、不意に脱力して笑った。諦めたような、そんな笑い方だった。

 わたしはその時、突き放された、そんな気がして「どうしたの」そう何度も繰り返した。それでも答えはなくてわたしは途方にくれた。くれて、くれて、口からぽつりと出た言葉は「ちがうの」だった。

 何が違ったのだろう?(いいえ、そうだ、違った、何もかもこのとき違ったのだ)

 自分でもわからなかった。

「ひどいよ」

 この言葉の方が、自分の気持ちに正直に思えた。事実、わたしはひどく傷ついていた。手のひらから、受け止めきれなかった雫が落ちる。わたしの目からも、溢れるかと思ったけれど出なかった。

「どうしてこんなことするの」

 声はひどく涙に混ざっていても、一滴も涙は出てくれなかった。それがまたわたしを悲しくさせた。

「ひどいのはそっちでしょ」

 彼女は暫くして、何かもぞもぞと呟いたあとにそう言った。

(今ふとわかった、やっぱりねと言ったのだ)

 教室は暗くなり始め、窓の外だけまだ白く明るかった。二人の姿は、互いに影になって見えなくなった。わたしの腕から落ちた血が、床に点々と水玉模様を作った。それがまた、むなしく悲しかった。

「どうして」わたしはもう一度呟いた。答えはやっぱり返ってこなかった。

 数日して彼女と会った。わたしの気持ちとは裏腹に、傷は治り始めていた。よほど深く切られたと思ったそこは、別段特別な処置も必要もなく、いつもより大きな跡を残して塞がり始めている。だからといって、彼女が手加減したとは思えなかった。
 彼女は、比較的穏やかでわたしはかまえていた力を抜いた。久しぶりに彼女と話せた気がした。あんなことがあってから、会ってもどこかぎこちなくて、何より彼女のことがもうわからなくなっていた。そして彼女の空気はぴりぴりとわたしを拒絶していた。

「ルクセンブルクの空がみたいな」

 彼女が言った。

「それってどこかな」

 わたしが言った。

「わからない」

 だからみたいの、そう言って彼女は目を閉じる。机の上、仰向けに寝転んでいた。

「知らないところの空は、知らない色をしてるのかな」

 目を閉じたまま、彼女が言った。わたしは嬉しかった。前のように彼女の心に触れられた気がした。

 彼女が目を開ける。

(わたしは思わず自分の手をぎゅっと握った)

 彼女は(それに気づいたのか気づいていないのか)興味のないような顔をして、また目を閉じた。

 それが彼女を見た最後になった。

 彼女が死んだのは冬の日のことだった。クラスも違い、わたしたちの関係を知るものは誰もいなくて、わたしがすべてを知ったのは、週明けの学校でのことだった。

 何を聞いたのかわからなかった。


 それからも日常は続いていた。膜がはったように曖昧に過ぎる日々のなかで、ふとしたとき感覚が鮮明になる。

 それは雑踏のなか一人佇むとき、人と手を振り別れた後、夏の木陰が、顔に模様を描くとき――――柑橘類の強く乾いた香りがよみがえるのだった。


(それは彼女のつけていたフレグランス)


そのたびにわたしは自分の腕を見つめ、または傷跡をおさえてひどく苦しくなるのだった。

 次第にわたしは学校に行かなくなった。行けなくなったのが正しいけれど、対外的には、行かなくなった。

 彼女はわたしをひとりにした。ひとり、置いていった。
 裏切られた。傷つけられた。それに相応しい最後だった。そう思った。まとっていた心地よい空気はわたしの首を絞めるようになり、胸のうちでひどく暴れた。

 すべてが幻想だった。

 何もすることのない中、そう思うようになるのに、さして時間はかからなかった。何もすがなかったから、わたしはひどくその空気に疲れはてていた。

 それでもまだよみがえる。


 憎んでやりたかった。事実、わたしは憎んだ。絞め殺してやるとさえ思った。


 それでも結局、わたしは彼女を抱きしめていた。

 (抱きしめられた時のあの体温が今でも体に残る)

 彼女のことをずっと、抱き締めたかった。


(Luxembourg no sora ga mitaina...)



九話

 そう、本当はあの時、キスすべきだったのだ。共になれない苦しさに、押し潰されるくらいなら、ふたりのこれからの違うかたちを、すがり付いても乞うべきだった。

 そう、ありし日の歌のように記憶は頭の中を流れていく。


 風が流れる、耳に吹き込む、わらべ歌のような不思議なしらべの鼻歌が聞こえる。そうあなたの歌声だ、引き込まれるように脳の内に四角に入り込んでカクカクと次第に自分自身が回転しているような心地になってくる。すると白い残像が目の端を掠める。脳裏なのか視界なのか白はちらちらと左、右の端に斜め後ろからフェードインしてはとらえるまえにアウトする。つかまえようとはするが、手足なき思考の内、わたしはただ振り回される。突如、ぶつかるように、顔が私の視界に映りこんだ

 焼き付いたに等しい印象で出てきたそれは逆さで、どこか違うところを見ていた――――ちょうど私の向こうの天井辺り――それでもどこかちがう――

(そうだ、あなたはいつもそうやっていた)

 そうこうしているうちに、それは体をつけ、さっきの白は制服のブラウスになった。くるくると回って上体をそらしながら、けたたましく無音の笑いを叫びながらくるくるくるくる回りながら、地面でもまた弧を描いている、――そうして


 唐突に!そう唐突に何かが私の胴体を掴んだ。骨ばった感触から少しして、それが両手だと気づいた――また顔が近くなる、脱色した髪は振り乱されており、大きく開いた口しかその顔を見せないでいた

 そうして気まぐれにまたくるくる回り離れていく、

「あっ!」

 私は声をあげ手を伸ばした……――その瞬間、全てがカランと凍えた喧騒に戻り、教室に一人ぽつんと立っているばかりになった……チ、チ、チ、といつの間にか点けられていたストーブの音が響いた。振り返る余裕もなくただ、伸ばしたままの手を下げることもできずボウと立つばかり

目前の机や窓を眺めながら尚、脳裏には白い残像がコマ送りに回り過ぎ行く……

 胸の内に溢れたのは、悲しみとも喜びでもつかなかった。ただ、紛れもない感傷であった。


 わたしは戻ってきていた。呆然としていた。ストーブの炎の音が耳の奥へと入り込んでくる。

(――今、わたしは彼女の手を握りたいか?)


 わたしは涙が出てくるのを、今度こそ止めはしなかった。灯油の匂いがあたりに満ちて、そこにささやかに残る柑橘の香りはわたしの陰だった。

 もう陰でしかなかった。


fin.

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