雪の花

前編

 秀子の兄の清作が帰ってきたのは、年の暮れのことであった。秀子がもう寝ようと、戸締まりの確認をしようとした時である。遠くから、砂を踏む音が聞こえた。戸を開けると、薄暗がりから、身にしみるような寒さとともに、一人の青年がこちらへ向かってくる。

 秀子は、はじめそれが誰だかわからなかった。

「秀ちゃん」

 懐かしく、優しい響きで青年が自分を呼んだ。秀子は駆けだした。

「兄さん」
「秀ちゃん。大きくなったね」

 大きくお辞儀をした秀子に、清作はまぶしげに言った。秀子は得意な気持ちになった。秀子と清作が離れたのは、秀子がいまよりうんと背も低かったころであった。

「兄さん、会いたかった」
「うん、僕も会いたかった」
「ひとつも帰ってきてくださらないんだもの。さびしかった」

 清作は微笑した。冬の空のような、さびしい笑みであった。秀子は打ち消すように、努めて明るい声を出した。

「どうです。秀子、大人になったでしょう」

 秀子の言葉は、問いの形を取っていたが、ほしい答えは決まっていた。

「ああ。もう立派なレディだね」

 清作の言葉は、秀子の願い通りのものであった。秀子はうれしくて仕方がなかった。清作が学校に行ってからのこの数年、大人になるように頑張ってきた。母は、秀子を家から出すことを嫌ったため、秀子はずっと一人でいた。村の子どもたちとも遊ばなかった。元より秀子の家は余所より少し大きく、離れていたので、自ら行かねば誘われることもなかった。秀子はさびしさを紛らわすように、病気の母を看病し、家のことをした。ずっと一人で退屈なので、掃除をしに行くふりをして、隠れて本を読んだ。清作の部屋に残された本である。読んだといっても、書かれている字を、絵のようになぞるだけであった。秀子は字が読めない。秀子が清作の本を読むことを、母はたいそう嫌ったが、秀子は学校にも行ってみたかった。

「お前には、何としてもいい嫁ぎ先を作ってあげますからね」

 それが母の口癖であった。秀子は嫁になど行きたくなかった。ただ、この村の外、いや、家の外から出ていきたかった。そうして友達の一人でも作れたら、どれほど幸せだろう。

 清作が帰ってきたのは嬉しかった。

「兄さん、いつまでいられるの」
「うん。明日の朝まで」
「明日」

 秀子は落胆した。嬉しかった分、さびしさが大きくなった。気落ちしたのが見えたのだろう、清作が励ますように重ねた。

「今夜はここにいるとも」

 秀子は顔を上げ、笑って見せた。清作は、今夜はここにいる。秀子は少なくとも、今夜は一人ではないのだ。秀子は励まされた。

「母さんは」

 清作がとうとう尋ねたのに、秀子はぎくりとした。

「母さんは、もう休んでおられるわ」

 おずおずと遠慮がちに、そう答えた。母は清作の名を出すのを嫌っていた。二人が会うことで、清作が帰ってしまうのが怖かったのである。清作は秀子をじっと見ていたが、

「うん。そうか。それなら明日挨拶をしよう」

 と答えた。清作がすぐに引き下がったのに、秀子はほっとした。

「さあ、兄さん。中へ」

 そうして自分たちがいまだ外にあったことを思い出し、秀子は急ぎ招いた。

「兄さん、学校の話、聞かせてくださいな」

 同じ部屋に寝たいという願いを、清作は聞き入れてくれた。秀子は清作の部屋に布団を運び込み、しきりに話しかけた。清作はひとつひとつ丁寧に答えてくれた。このように人とやりとりするのは数年ぶりで、秀子は寝られなかった。

「僕は、秀ちゃんの話も聞きたい」
「秀子の話なんてなんにもないですもの」
「それでも聞きたい」

 秀子はためらった。清作の話に比べて、秀子の毎日は何とも味気なかった。秀子の心は弱った。その弱気を清作に打ち明けてはならぬと思った。秀子には話せる人は一人もいない。本当は聞いてほしかったが、今度いつ会えるかわからぬ兄に、弱音を吐くのは決まりが悪かった。

 清作は秀子の顔をじっと見ていた。秀子は、俯きがちに、そっと清作の顔を見た。

 灯りもない夜中だというのに、清作の顔がはっきりと見えた。清作は神妙な顔をしていた。秀子は不安になった。

「秀ちゃん」

 清作はようやく口を開いた。落ち着いた声が、しんと静かな部屋に落ちた。

「強くおなり」

 秀子はその言葉に、とっさに反発を覚えた。しかし、兄の目を見ていると、怒りは形になることをやめた。

「秀ちゃんは、きっときれいになる。幸せになる。だから、強くおなり」

 そう言うと、手をのばして秀子の頭をなでた。手つきは慈しみに満ちていた。秀子は俯き、それから何度もうなずいた。清作は、それに満足げに笑った。


 その日は手をつないで眠った。清作の手は冷たかったが、秀子はかたく握って離さなかった。

後編

 翌朝、「秀ちゃん」と呼ばれた気がして目をさました。しかし清作はそこに居なかった。母にもう挨拶にいったのだと、秀子はあわてて身支度をした。朝餉の用意を手早くし、秀子は母に粥を持っていった。

「おはようございます」

 二人に声をかけたつもりであった。しかし、そこにいたのは母だけであった。

「おはよう。秀子。どうかしましたか」

 清作はどこに行ったのであろう。視線をさまよわせているのに、母が気づき尋ねる。

「兄さんは、挨拶に来ていませんか」

 母の眉間に深いしわが寄った。もしやすでに諍いが起きたのであろうかと思った。

「来るわけがありません」

 ぴしゃりと言うのに、秀子は反論した。

「明日の朝に挨拶すると、言っていました」
「何を言っているんです。ふざけるのはやめなさい」

 母の声に怒りがにじんだ。

「ふざけていません」

 秀子も負けじと返した。母は、何か言おうと口を開いては、首を振って閉じる、という行為を繰り返していた。

「清作は来ません」

 そうしてようやく吐き出された言葉はそれだけだった。秀子は、その様子に母も兄が心配なのだと少し嬉しくなった。

「来たんです。昨日の夜、母さんがお休みになった後に」

 母の眉がぴくりと動いたのに励まされ、秀子は言葉を続けた。

「清作が」

「はい。たくさんお話ししました。もちろん、母さんにも挨拶すると言っていました」

 母の顔がこわばった。秀子は、ようやく通じたと安堵したが、母のこわばりが尋常でないことに気づいた。

「追い出して」

 ぽつりと母が呟いた。え、と聞き返そうとしたとき、母は狂ったように叫びだした。

「追い出しなさい! 早く追い出して!」

 秀子は何を言われたかわからなかった。母は力の入らぬ体を無理に起こそうともがいた。

「母さん、やめてください!」

「追い出さなければ! 清作を早く!」

 抑えようとした秀子の頬を張った。秀子が動揺している隙に、秀子を支えに、母はよろりと身を起こした。そうして、壁を支えに歩き出した。母のどこにそんな力があったのか、秀子は呆然と見ていた。

「母さん、無理をしてはだめです! それに兄さんはいません!」

 秀子はとっさに叫んだ。先とは真逆の言葉だった。

「馬鹿おっしゃい」

 母は止まらなかった。家の中を這うように進み、部屋を確認していく。秀子は、わけもわからぬまま母を支えることしかできずにいた。

 しかし清作はどこにもいなかった。秀子の心中は安堵と不安がないまぜになっていた。

「もう逃げたのかしら。とんでもないこと。もしかくまったと言われたら」

 ひゅうひゅうと危うい息をしながら、ぶつぶつと母は繰り返し、今度は玄関に向かった。秀子は母の言葉の意味を尋ねたかったが、それより先に、母は全身を使って玄関を開けた。

 一面の白が広がっていた。

 雪が、見渡す限り深く降り積もっていた。

 秀子は母を支えながら、その光景に釘付けになっていた。母もまた、呆然としていた。

 どれくらいそうしていたのか、遠くから、

「おうい、おうい」

 とよぶ声で、秀子達は我に返った。体がしびれるほどに凍えていた。声の主は駐在で、声のあとを追って、その大きな体を現した。

「大変だ。奥さん。しっかりしておくれよ」

 手紙を持って、広げるより先に、駐在は内容を読み上げた。

 清作が獄死したとの報せであった。

 秀子にはその言葉の意味がわからなかった。ただ、視界の白を見ていた。白は曇りなく、ただ駐在の足跡のみが残るばかりであった。


了.

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