足跡のかげ
一話
祖母の家は、小学校の通学路の坂道を、右に抜けたところにありました。ささやかに植木の植えてある小さな白い家に、祖母は祖父と二人暮らしていました。
私と翔は帰り道、祖母の家に遊びに行きました。少し悪い子になった気がして、得意な気持ちになったのを覚えています。
祖母はいつも私と翔を歓迎してくれました。「よく来たねぇ」とドアを開け、笑顔を向けてくれました。祖父は無愛想で口べたなひとでした。だから、私たちが来ると、「来たか」というとむっつりと黙り込み、新聞を読むふりをしたり、部屋にこもったりしていました。
私たちは祖母が大好きでした。祖母は私たちにいつもあたたかな笑顔を向けてくれたからです。
二話
私が六年生になる頃、母はもう祖母の家に遊びに行かないようにと言いました。理由は、「おばあちゃんは病気になったから」ということでした。
祖母が足を折るけがをして、それまで入院していたのが、ようやく退院できたころのことでした。母の連れていってくれる時にしかお見舞いに行けなかったので、翔はようやく自分で会いに行けると、喜んでいたばかりです。
その時には私はすでに、友達と遊ぶことが楽しかったので、祖母の家を訪ねることは少なくなっていました。けれど三才下の翔はまだまだおばあちゃんっ子で、祖母が入院するまでは、ことあるごとに、祖母の家を訪ねていました。
「あの子はちゃんと友達がいるのかしら」
とは母の口癖でした。それくらい、翔は祖母の家を訪ねていたのです。祖母も、変わらず翔をあたたかに迎えていました。
けれど、その日母の制止が入ってから、翔は祖母の家を訪ねることができなくなりました。
「病気なんて、おばあちゃんは元気だったよ」
「元気に見えても病気になったのよ。だいたい翔、元気だったって言うけど、いつ遊びに行ったの。いつまでそうしておばあちゃんの家に遊びに行っているの。友達と遊びなさいと言っているでしょう」
思わぬところから、責められて翔はぐっと詰まりました。
「でも、病気なんだったらお見舞いにいかなきゃ」
「行ってはいけない病気なの。とにかくこれからは母さんに黙って、行かないこと」
いいわね、母は言い話を終わらせました。母に厳しく言われては、気の弱い翔はのみこむしかありませんでした。私は翔に、少し同情しました。けれど同時に、母の言うことが妥当にも感じていました。
私は、母の言う祖母の病気とは、翔に祖母離れをさせる口実だと思ったからです。翔は祖母から離れるべきだと、私も思いました。
祖母が心配でなかったわけじゃありません。ただ、祖母が本当に病気だなんて、現実と思えなかったのです。
母は、私と翔に祖母の家を訪ねないように言いました。しかし、代わりに祖母の家によく通うようになりました。翔にはそれが不満だったようで、何度もお見舞いにつれていってくれるよう頼みました。
「だめだと言っているでしょう」
母はとりつく島もありませんでした。しかしある日、翔が泣きそうになっているのを見かねて、父が母を取りなしました。
「翔は義母さんが好きなんだから、何も知らないで会えないのはかわいそうだ」
と言いました。母は全くきのりしない様子でしたが、父と話し込んだあと、ようやくうなずきました。翔は喜びました。私もまた、翔が喜んだので、嬉しく思いました。
三話
「聡! おかえり」
祖母は翔を見て、そう言いました。ベッドに寝ていた体を起こして、翔を手招きしました。翔は、ぽかんとして立ち尽くしていました。私もまた、動くことができませんでした。祖母は翔を誰かと間違えたのかと思いました。でも、祖母が私たちを間違えたことなんて、一度もありませんでした。祖母は少しやせていて、顔つきが変わって見えました。
「おばあちゃんは忘れてしまう病気になって、もう、あなた達のこともわからないのよ」
祖母の家を見舞う前に、母は丁寧に私たちに教えてくれました。けれど、その意味を実のところ全くわかっていなかったのです。祖母が私たちを忘れるはずがないと信じきっていたのです。
祖母は笑って翔を出迎えました。けれど、呼んだのは翔ではありませんでした。私は、祖母に「なにいってるの、おばあちゃん。間違えてるよ」と言いたかったけれど、何も言葉が出ませんでした。それくらい、祖母が自然な顔をしていたからです。この祖母の反応は予想外のことだったのか、母も顔をこわばらせ固まっていました。その母の顔を見て、私はもっと不安になりました。
翔は、何もわからないまま、おずおずと祖母のもとへ行きました。そして、祖母が
「学校は」
と尋ねるのに、
「うん」
と答えました。
「それじゃあ、わからないじゃないの。本当に口べたなんだから」
祖母は笑って、話を促しました。翔は何も言えないでいるのに、母がようやく
「母さん」
と割って入りました。祖母は、一瞬「何」と母に怪訝な顔をしましたが、母のことはわからなくても見覚えがあったのでしょう、顔をじっと見て
「ああ」
と納得がいったようにうなずきました。母は、「外で遊んできなさい」と翔を促して、そして私に目で合図しました。私は翔をつれて、外に出ました。心臓がばくばくと鳴っているのを感じました。私は、わけもわからないまま、翔の背を押して、小学校へと向かったのです。背を向けた祖母の家になにかおそろしいものを感じながら。
それから私たちは、小学校の校庭で遊んでいました。二人とも、心ここにあらずでした。
「おばあちゃん、本当に僕のこと忘れちゃったのかな」
翔がブランコにのりながら、そう呟きましたが、私はなにも返す言葉がありませんでした。
母が迎えに来たので、私たちは祖母の家に戻りました。祖母の部屋に行くのは怖かったですが、祖母は祖父と一緒にいました。
「どこに行くの」
と翔に言う祖母に、「聡は遊びに行くんだよ」と祖父がなだめました。祖父の優しい声を、私は初めて聞きました。翔に祖母は「車に気をつけるのよ」と声をかけました。翔があいまいに笑ってうなずくのを、母が手を強く引きました。
四話
「おばあちゃん、翔のことを聡兄さんだと思っているみたい」
家に帰って、母は言いました。
聡とは、祖母の息子で、母の兄の名前でした。翔の年くらいの頃に、交通事故で死んでしまったそうです。そして翔は、聡伯父さんにそっくりだったのです。
「おばあちゃん、兄さんのことが好きだった。本当に悲しかったのよ。だから、翔のこと、本当にかわいがっていた」
母は言いました。とても悲しい声でした。私はその話を聞いたときの不思議な心地を忘れることができません。母の顔が、母じゃなく見えたからです。母が母ではなく、私たちのように子どもだったころなど、当時の私は想像ができなかったのです。
そしてまた、祖母の祖母以外の顔など、全く考えることができませんでした。
「お母さん、おばあちゃんに言ってあげた? 翔だよって」
私は尋ねました。けれど母は、目を伏せて首を横に振りました。
「違うって言っちゃいけないのよ。混乱してしまうから」
ごめんね。
母は、それきり黙ってしまいました。私もショックで黙っていました。祖母のことをかわいそうだと思いました。母のこともかわいそうだと思いました。何より、翔のことを思うと、どうしようもなく気がふさがりました。
けれど、このとき一番最初に明るい声を出したのが翔でした。
「おばあちゃんはずっとさみしかったんだね」
母が顔を上げました。
「翔。あのね」
「うん。わかってるよ。僕は大丈夫だよ」
翔は笑って答えました。翔の様子はとてもしっかりして見えました。私は翔が、翔じゃないようで、不思議な感慨を覚えました。
次の日から、翔の帰りは遅くなりました。学校の帰りに、祖母の家に通い始めたのだと、わかりました。母の手前、翔は何も言いませんでした。母が祖母の家にいるような日は避けていたようでした。けれど、私も母も何となく察していました。母は、何もないような顔をしている翔を、以前のように厳しく止めることはできないようでした。
私は不思議でなりませんでした。あの気の弱い翔に、このような一途さと強さがあるとは知らなかったからです。
私は、何もないふりをして帰ってくる翔の頬から、涙のあとを探しました。夜、いつも隣で寝ている翔の寝息にそっと耳をそばだてました。翔が泣いていないか、確かめるためです。けれど、翔が泣いているところを見つけることはできませんでした。
私が祖母に会いに行くのは、母や父につれられてのお見舞いの時だけでした。祖母は聡伯父さんの話をよくしました。
「私が寝ているから、起きて、っていつもこの窓を叩くの」
ベッドのそばの窓をさして、祖母は言いました。私は窓を叩く翔の姿を思い浮かべました。
家にいても、友達と遊んでいても、私はずっと翔のことが気にかかりました。翔は私がこうしている間にも、祖母と話しているのだろうか、聡伯父さんのふりをして。そう思うと、私は胸の奥が冷えたようになり、なにも楽しくなくなるのでした。
五話
それからしばらく経ったころ、翔は熱を出しました。熱は下がらず、母はつきっきりで看病をしました。
「これ、おじいちゃんとおばあちゃんのところへ持って行ってあげてくれる?」
母は疲れた顔で、私に頼みました。それは、その日の晩御飯の惣菜でした。祖母が病気になってから、料理のできない祖父のために、母がいつも持って行っているものでした。
その日はすごい雨で、私は傘をさしていましたが、それでもずぶぬれになりました。祖母の家に着いたときに、ちょうど雨がやみました。凍えるように冷たくなった体で、惣菜のはいった袋を抱えてインターフォンを押すと、祖父があけてくれました。
「ああ」
と、祖父は私が来たのに少し意外そうな声を上げ、それから「すまんな」と付け足しました。祖父は渡した惣菜の袋を台所に持っていっていき、私の着替えの服を探していました。その間、私はストーブの前に座っていましたが、ふと、話し声が聞こえて、呼ばれるように私は祖母の部屋を訪れました。
祖母は窓の外をずっと見ていましたが、私に気づくと、怪訝そうな、うろんな顔をしました。
「おばあちゃん」
「だれ?」
「奏」
祖母は首を傾げましたが、「ああ」としばらくして答えました。わかっているのか、わかっていないのか、わからないその言いように私はじれったくなりました。
「翔ね、熱がでたの。下がらないの」
「翔?」
祖母はぼんやりと聞き返しました。
「翔ってだれ?」
「翔だよ。おばあちゃんの孫でしょ」
「ええ?」
私がきつく言うと、祖母はさらに怪訝な顔をしました。私は自分に、落ち着け、と念じました。私は自分がいらいらとしてくるのを感じました。祖母が私に意地悪をしているように感じたのです。私は祖母に、ずっと意地悪をされていると思っていたのです。
「奏」
そのとき、祖父が私に声をかけました。手には、タオルと着替えを持っていました。そして、部屋の前に立ち尽くしている私の代わりに、中に入っていきました。「どうだ」と祖母に、祖父は尋ねました。祖母は祖父に気づくと、にこにこと祖父に話しかけました。
「あのね、聡と話していたの」
窓を指さして、祖母は言いました。祖父は「そうか」と言いました。
「寒いから、入ってくるように言って」
「入ってくるわけないでしょ!」
信じられないくらい大きな声がでました。私は胸の真ん中から頭のしんまで熱がのぼったようになって、言葉をおさえることができませんでした。
「翔は熱なんだってば!聡じゃないよ!ずっと来てたのは翔だよ!何でわかんないの!」
いいかげんおもいだしてよ!
私は叫びました。心がいっぱいいっぱいになって狭くなった視界に、祖母の困惑した顔が移りました。その瞬間、私はうずくまって泣きました。六年生になって、こんなに泣いたのは久しぶりのことでした。
祖父は私を部屋から出しました。ついでに渡されたタオルが、あたたかくてよけいに涙がでました。
私はくやしくてなりませんでした。間違われてもずっと通い続けた翔が、思い出してくれない祖母が、言ってしまった私が――私たちから祖母を奪った病気が、にくくてなりませんでした。
六話
しばらくして、祖父が部屋から出てきました。祖父はなにも言いませんでした。タオルと着替えを抱えたままの私から、タオルをとり、頭をふいてくれました。それからあたたかいコートを私に着せて、「今日はおかえり」と言いました。
祖父に促されて、私は外にでました。外は悲しいくらい晴れていました。まだ涙が頬あたりにわだかまっていました。家に帰るまでに泣きやまなければ、と私が鼻をすすった時でした。
祖母の部屋に続く窓が目に入りました。ここから、いつも翔は窓をたたき、祖母に声をかけていたのかと思うと、悲しくなりました。
そこで私は目を見開きました。
足跡を見つけたのです。
ぬかるんだ地面に、小さな足跡が、家の門から祖母の部屋の窓のところまで、ずっと続いていました。
私はその足跡を見て、急いで家に帰りました。
家に帰ると、翔の姿を探しました。私たちの部屋へ入ると、翔は布団の中で寝息をたてていました。母がそばにいて、しっと口元に指を立てました。
「翔は外にでた?」
私が尋ねると、母はいぶかしげに、
「なに言ってるの。外なんてとんでもない。ずっと寝ていたわよ」
と答えました。私は混乱しました。しかし、そこで、母に濡れた服を見咎められ、着替えさせられました。
着替えて母がお茶を温めてくれている間、私はふらふらと玄関に行って、翔の靴を見ました。靴の底はなにも汚れていませんでした。
七話
それからほどなくして、祖母は亡くなりました。翔はその時、ようやく泣きました。私は翔の背をずっとさすりながら、どこか空虚な気持ちでいました。
きっと治ると、そして祖母がまた私たちに「よく来たねぇ」と言ってくれるのを私はどこかで信じていました。けれど、それはかないませんでした。世の中にはかなわないことがあるのだと、きっと私はこのとき初めて知ったのでしょう。
時を経て、今の私はあの日の祖母に寄り添えるようになりました。
けれどもあの足跡――あの日のびていたあの足跡。あれは、いったい誰のものだったのでしょうか。そもそも、祖母のもとを訪れていたのは、本当に翔だったのか――祖母の面影も遠くなった今もなお、あの足跡だけが、私の中でずっと心の中に跡を残しているのです。
了.