楔
序
あの日。
私は兄と、坂道の天辺にいた。
暑い夏の日で、蝉がひっきりなしに鳴いていた。のびた服は汗にべっとりとはり付いていた。
景色はくらくらと揺れて、日差しは私たちの肌を焼いていた。
汗がしみて、日差しにあぶられ、傷はねっとりと痛んだ。
それでも、まだ帰るわけにはいかなかった。今は怖い鬼が、暴れているから。
瞬きのたび、まぶたに汗が流れ込んだ。流れすぎた汗は、あまり痛くない。
兄は、私の手を固く握っていた。だから、私は動けないし、動かなくてよかった。
兄を見上げる。兄は、坂道の下をにらんでいた。
私たちの帰らなくてはならない場所を。
ずっとずっと、強い目で、にらんでいた。
一話
鍋の中で、湯が沸騰している。
私は粉末だしを入れた。だしの湯気が立ち、顔を湿らせた。
朝のサイレンは、まだ鳴らない。
私は首を回し、だしが火にあおられるのを見ていた。
味噌をいれてかき回していると、床がきしみが近づいてきた。
「兄ちゃん、おはよう」
生ぬるい熱が、私を後ろから覆うのと同時に、挨拶をした。
「うん……」
返事は、いまだ夢の中からだった。体中から、すえた汗のにおいがする。
「お風呂、はいる?」
熱っぽくてごつい手が、私の体をまさぐる。汗に湿った髪の毛が、私の首筋に寄せられた。
胸に手が当たって、私は小さくうめいた。
「兄ちゃん、痛い」
私は抗議する。硬く張り出し
た胸は、服がふれるだけで痛い。兄は聞かず、胸から手間でまさぐると、手を離した。
「風呂行ってくるわ」
そう言って、風呂場に向かった。ふくらんだフローリングが、ぎしぎしと粘着質な音を立てていった。
「仕方ないなあ」
私は火を止めると、兄の布団をたたみに向かう。
引き戸一つへだてただけでも、マヒした鼻は戻っているらしい。同じ部屋に寝ている時には気にならなかったにおいに顔をしかめる。
兄の布団はむちゃくちゃに蹴飛ばされ、上に酎ハイの空き缶が無数に転がっていた。
ひとつ、ふたつ、数えながら私はごみ袋に放り込む。また量が増えている。私はごみ袋を壁に投げおくと、布団をたたんだ。
何度も空中に泳がせて、空気を取り込む。においと汗が少しでも消えるように。畳んだ布団を、私のそれの隣によせると、ちゃぶ台を部屋の真ん中に寄せた。
窓を開けて換気する。
鳴り出したサイレンが、部屋に入り込んできた。
「兄ちゃん、今日も遅いんか」
「わからん」
味噌汁をすすりながら、兄は答えた。
兄は毎日働きに出ている。
「そうか」
「ほな、ごはんは作っとくで」
返事はない。もう慣れっこだ。私も味噌汁をすすった。
この家に兄と二人になって、もう五年がたつ。
五年の間に、私は中学生になり、兄は成人して三年が経っていた。
「これからは、自由や」
二人っきりになった部屋をながめて、兄は言った。私の手を固く握りながら。
夕日が赤くて、部屋も兄も、何もかも赤く照らしていた。
しゃがみこみ、私を抱きしめるとほおずりした。
「お兄ちゃんが、さとを守ったるからな」
私はうなずいて、兄にしがみついた。
それからの生活は、驚くほど穏やかだった。
もう鬼におびえることもない。殴られることもない、逃げなくてもいい。
非日常が、ずっと続く不思議さを、毎晩布団の中で抱きしめていた。
ときどき、しみついた恐怖があふれて泣くと、兄は布団を這って移動してきて、私のことを抱きしめてくれた。
「大丈夫や。もうなんも、怖いことなんかない」
「お兄ちゃんがおるさかい、大丈夫」
抱きしめて、私が眠るまでずっとあやしてくれた。
私には、兄がいる。それだけで、なんとなく落ち着いた。
せやけど、兄ちゃんは、どうなんやろか。
私は兄の顔を見る。
兄の彫りの深い顔は、少し青ざめていた。
「兄ちゃん、疲れてるな」
「いつも疲れてるわ」
兄は笑った。箸をふらふらと泳がせる。
兄の様子がおかしくなりだしたのは、私が中学一年の終わり頃からだ。
いつも笑っていたのに、黙り込むことが多くなった。
嫌っていたお酒を飲むようになって、日増しに量が増えていった。
家に帰ってきても、会話がない。
背を向けて座り込み、買ってきたお酒を黙々と飲んだ。
「兄ちゃん」
初めのころはわからず、よく兄の背にすがった。
だが、兄は岩のように動かなかった。静かに落ち込んでいくような、暗い影のような気配を背負っていた。
それが、拒絶だと知ったのは、背中で手を押し返されてからだった。
「ごめん」
兄は私を抱きしめて謝った。
「ごめん。ごめんな」
私は兄の背をさすった。兄の声が震えるのを初めて聞いた。ただ、不安でおそろしかった。
それからは、私は声をかけなくなった。
「せやけど、あのままやったら兄ちゃん、壊れてまう」
お酒は嫌いだ。鬼が出るから。
お酒は不安だ。鬼を殺したから。
嫌いなお酒を、兄がずっと飲んでいる。私にとっては不安でしかなかった。
二話
親父が死んで、さとと二人になったのは、さとが九、おれが十八のころだった。
もうとっくに働いてたし、施設にはいかなくてすんだ。
「ふたり」になった部屋で、さとは「ばんざい」した。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
おれに抱き着いてはしゃぐさとは、たぶん何もわかってなかった。
「江藤、こっち頼む」
運んできた荷物を置いて、呼ばれたほうへ向かう。ひとさまの床に、ぽたぽた汗が落ちた。
おれはひとつの仕事にいつけず、いろんな職を転々としていた。
今日は引っ越しの仕事をしている。
ひとつのことをこなしたら、また次をまかされる。はいはいを繰り返す歯車になって、毎日を過ごす。汗だくになって、得られるものはさして多くない。
けど、それがどうしても必要だった。
「江藤さん、お疲れ様です」
休憩になって、茶を飲んでいると三崎が笑いかけてきた。
大学生で、友達との旅行のために入ったらしい。
「やっぱり、人生経験つんどかなあかんやないですか?」
就活のためにも、そう言って笑った。
いつ見ても、きれいな髪と顔つきだった。
ずっと流れの強いところにいる。
そこを踏ん張っておれはやってきた。さとを抱えて、「大丈夫や」と言いながら――自分が流されないように。
さとは、おれが頼りないと泣くから、おれは必死で踏ん張る。
三崎とおれが寝たのは、それからしばらくしてだった。
何を思ったのか、三崎は俺が気に入ったと言って、何くれと世話をやいてきた。
「ちゃんと食べな、体に悪いですよ」
おにぎりとザバスを渡してきた。意味がわからなかった。
三崎の家には門限があって、送って行っても、家の近くで分かれた。
「お父さんがたぶん見てるから」
嘘だと思った。
もし本当なら、ずいぶんいい暮らししてる。そんなことは前からわかっていた。けど、まざまざと感じると肌の中が焼け付くようだった。
三崎の笑顔は、そもそも全部が遠いところにあった。
そう思うと、髪をひっぱって、顔をむちゃくちゃにしてやりたい、そんな衝動にかられた。
同時に、そんな三崎を大事にしなくてはならないと――脅しのようにおれの何かが言っていた。
だから、おれは、三崎の髪をなでた。できるだけ、優しく。
三崎とわかれて帰ってくると、さとが布団を二人分しいて寝ていた。
さとの顔を見ると、心の中心が、ちゃんとしたところに戻る気がした。
丸みのある頬を触ろうとして、やめた。
三話
兄は背を向けて寝ていた。腹の部分に布団がだらしなくしなだれている。
周りには、やっぱり空き缶が転がっていた。
私はそっと鞄をおいて、座り込む。膝を抱えたまま、兄の体へとにじりよった。
「兄ちゃん」
呼びかけても返事はない。
私は空き缶の一つをとって、そっと口をつけた。
何も出なかったけれど、においだけを吸った。
こんなものをなんで飲むんだろう。兄も――父も。
四話
酒を飲むのは嫌いだった。
親父は、酒を飲んでは怒鳴り散らし、暴力をふるった。
母親は、耐えかねて逃げ出していった。
残されたおれとさとは、二人で父に立ち向かわなければならなかった。
さとは、酒を飲んだ親父のことを親父とわからなかったのだろう。いつも「鬼が出た」と言って泣いていた。
白い唾を飛ばし、赤黒い顔で拳を何度も振り下ろす親父は、確かにもう人間じゃなかった。
あの血が流れてる。
そんなことはずっと知っていたはずだった。
けどある日それが、たしかな実感としておりてきた。
ひげをそるために、鏡を見ていた時だった。
ぞっと足先から、のぼるように血の気が引いた。
一度知ると、それは必ず、おれに襲ってきて、思い出さないほうが少なくなった。
おれは、必死で逃げた。
そういう時は、いつもみたいに踏ん張るんだ。
気づいたのは、酒に手を出してからだった。
酒を飲むおれを、さとは不思議そうに見ていた。怒らなかった。何もさとは知らないのだ。
三崎は、おれがすさんでいくのを、心配し、恐れていた。
三崎の父親は、正体をなくすほど、酒なんか飲まない。だから、仕方ない。わかっていた。
わかっていたから、もっと飲んだ。
何も考えたくない。そんなおれの気持ちを、誰もわかってはくれない。
太陽はのぼって、金は必要で、さとは何もわからなくて、三崎はとてもやさしく心配している。
吐き気がしそうな怒りがおそってくるのを、ずっと耐えねばならなかった。
五話
おなかが痛い。そう思ったら、やっぱり生理だった。
トイレットペーパーで応急措置をすると、保健室に向かった。
「江藤さん、また来たの」
先生は嫌な顔をした。最初はまあまあ優しかったが、私がナプキンをたくさんとってから冷たくなった。
「あなたのものじゃないのよ。ほしかったら頼みなさい」
先生は私に叱った。意味がわからなかった。
生理なんて頼んでもないのにくるものを、なんで頼まなきゃならないんだろう。先生はえらぶりたいんだと思った。
私が黙っていると、先に来ていた生徒と目が合った。休んでなさい、先生は優しくその子に声をかける。
「ほら、早く帰りなさい」
先生は一番小さなナプキンを渡すと、私を追い出した。
こんなもので家まで持つだろうか。家にナプキン、残りあっただろうか。そんなことを考えながら、廊下を歩いていると、足音が追いかけてきた。
「江藤さん」
さっきの子だった。その子は、カバンからそっとポーチを取り出すと、三つナプキンを取り出した。
「あげる」
私が黙っていると、悲しそうに顔をしかめた。
「先生ひどいな」
「ありがとう」
こう言うのが正しいんだろう。そう思った。その通りで、その子はほっとしたように笑った。
「困ったことがあったら言ってな」
そう言って去っていった。入っていった教室を見て気づいた。同じクラスだ。
なんてやさしい子なんだろう。見れば、たいそう、いいナプキンだった。さっそく使うことにした。
六話
さとの体が女になっている。
そのことに気づいたのは、眠っているさとに、布団をかけてやろうとした時だった。
さとの平坦だった体は、あちこち丸く張り出していて、思えばにおいも甘酸っぱかった。
おれはさとの首筋をじっと見た。なだらかで、腕につぶされた胸の谷間が、Tシャツの隙間からのぞいていた。前髪が流れて、目元を隠している。
知らない人間のようだった。
おれは、なんだか怖くなって、目をそらした。
考えると嫌なことばかりだ。おれは、考えないように努力した。
久しぶりに会うのに、三崎はずっと黙っている。おびえているのが見てとれた。今日だって、おれが待ち伏せていたから、逃げられなかったんだろう。
三崎といる時は、できる限り普通にふるまおうとしているのに、なんでだろう。わからなかった。
がちがちと手がふるえるのを感じた。唇がけいれんする。
おかしかった。最近、ずっとおかしい。頭がぼんやりして、視界が曲がる。
踏ん張らなければならない。
落ち着かなければ。
おれが手をのばしたら、三崎はびくりと身をすくめた。
「あっ……」
三崎は、ごまかすような、ひきつった笑いを見せた。
その瞬間、頭の中でなにか大きな音がして――おれの意識ははじけた。
七話
私は眠っていた。
兄が、そっと布団にすべりこんでくるのが、寝ながらでもわかった。
夢が白くなっていく。兄の手が、そっと私を包んだ。
兄の手はふるえていた。がたがたふるえていて、寒いんだと思った。
私は寝返りを打って、兄に抱き着いた。
「にいちゃん」
ずっとここにいてほしかった。
強く、かたく抱きしめられるのを感じた――
八話
殴ってしまった。ずっと、ずっと踏ん張ってきたのに。
気づいたら、三崎が顔をおさえてひきつった泣き声をあげていた。
手で覆われた頬は、どうなっているのかわかった。だって、思い切り振り切ったのだ。重い肉の感触が手に残っている。
もうおしまいだ。
あたりが騒がしくなってきた。なのに、いまいち音が聞こえない。
「二度とつら見せんな」
おれはその場を後にした。
気づけば家に帰っていた。さとが二人分の布団をしいて、眠っている。
おれは、布団にもぐり込んで、さとを抱きしめた。
ふいに、さとが目を覚ました。身じろいで、おれに向き直る。
ぼんやりと笑って、おれを抱き返した。
「にいちゃん」
はりだした胸があたる。硬くてやわらかい体だった。もう昔とは違う。
吐くように漏れ出てきた嗚咽をこらえる。
何もかも変わってしまった。
そう思えたらよかった。けど、さとだけは変わらなかった。
九話
兄が家にいる時間が少し増えた。兄は、私の話を聞いてくれるようになった。
相変わらずお酒は飲むけれど、やけを起こしたみたいな飲み方ではなくなっていた。
よかった。私は嬉しかった。
安心したので、ちょっと遠い業務スーパーにやってきた。兄の好きな餃子でも作ってあげよう。そう思って、皮を手に取った。
「ママ!」
子どもの甲高い声が、私の向こう側に投げられた。声と一緒に子どもはそっちへかけていく。
「ほら、走らへんの」
「ママ」と呼ばれた女は、子どもを抱き込んだ。
女を見て、私は思わず声をあげる。女は、顔を上げ、私を見た――。
十話
――夜。
ときどき、眠っているさとを抱きしめて眠るようになった。
いつまで、こんな風にして、おれは生きていくんだろう。
これからは、あまりに長くて遠い。だから、さとを抱きしめていなくてはならない。
さとは、おれに気づくとおれを抱きしめ返す。
胸に顔を埋めると、何か遠いところに還る気がした。
「母ちゃん……」
やわらかい腕は、おれをじっと撫でていた。
私は眠る兄の、髪を撫でる。窓からこうこうと月がさしていた。
なぜだか頬がぐっしょり濡れて、息がうまくできないでいた。
兄ちゃん、兄ちゃん、お母ちゃんはもうおらんで。
「お母ちゃん」
私はなつかしいそれを口にした。
その時の女――母の顔――を、私はなんと言えばいいだろう。私まで黙ってしまった。
私たちはしばし見つめ合った。
「ママ、どおしたん?」
下の子どもが、母の上着の裾を引っ張った。母は、はっとなり、子どもに笑顔を作った。
「何でもないよ。いこか」
そう言って、向こうに歩いて行ってしまった。
手の中の餃子の皮は、汗をかいて濡れていた。
母は綺麗な服を着て、肌も髪の毛も、つやつやしていた。子どもも傷一つ、ついていなかった。
母は、違う世界の人だった。ナプキンを三つくれるような人になっていた。母は自分だけ、あっちへ行ってしまったのだ。
体が布団を抜けて、落ちていくような気がした。
十一話
あの日――ゲロをつまらせた親父を無視して、おれは家を飛び出した。何も知らず、泣いているさとを引っ張って。
死ねと思ったわけじゃない。
でも、もうどうなってもいいと思った。
さとの手をかたく握りながら、おれはうまくいきますようにと願っていた。
その通りうまくいって、嬉しかった。もっとはやくこうしてればよかったと、思った。
でもそうして今、おれになにがあるんだろう。
だから、おれは――
兄の腕が私を抱きしめる。私も兄を抱きしめ返した。
そうだ。
私達は、どうあっても今ここにしかいられない。
だから、かたく互いを抱きしめて、楔にするしかない。
みにくい太陽に、これ以上置き去りにされないように。
了.