好きだよ。

紫。
 あなたに芽生えた感情をなんと言おう。
 紫。
 それは小さな革命だった。

一話

 高校の入学式、私は紫と出会った。
 紫はとてもきれいな女の子だった。ただ立っているだけなのに、何もかもが違った。周囲にぼかしをかけたみたいに、圧倒的に光っていた。
 ボブの髪にかかる光の輪は、いやらしくなくて、その髪に覆われた顔は彫刻のようにきれいだった。白い肌に落ちる影は、いっそ青かった。
 誰もがおそれるように、紫に見ほれていた。平然としているのは、当人だけで、紫は退屈そうに小首を傾げ、目を伏せていた。
 容姿には自信があった。
 人一倍気を使ってきたし、クラスで可愛い女子と言えば、私の名前は必ず挙がった。 けれど、紫を見たとき、それは小さな世界での出来事だったのだと、思い知った。
 紫の美しさは、私の世界を崩していった。
 崩れた何かは、私に再起を求めた。

「どこ中?」

 私は気づけば、紫に声をかけていた。
 紫は全く動じなかった。眠りから覚めるように、私に視線を移すと、

「南です」

 と答えた。

「そうなんだ。うちは北だよ」
「そうなんすか」

 そうしてまた、視線を戻す。私は焦って言葉を続けた。

「てか、めっちゃ髪きれいだよね」
「はあ」

 寒気がするほど下手な会話。けど、私は必死だった。
 紫は全く動じなかった。

「どうも」

 と答えて、視線を戻した。ほんの少しだけ、微笑しながら。
 その笑みを見た瞬間、私は打ち砕かれるように、思った。
 紫と友達になりたい。絶対に。
 絶対に、紫に、私を好きになってもらいたい。
 その気持ちは、もはや、渇望と言ってよかった。
 紫が目を伏せる、視線を横に流す。何気ない仕草も紫がすると、何か意味ありげなものに感じて、私の胸は苦しいような高揚感で満たされた。
 紫、ねえ、好き。
 だから、私のことも好きになってよ。
 紫への気持ちは、日増しに強くなっていった。

二話

「沢田」

 ある日のことだった。
 紫が休み時間、私のもとへふらりとやってきた。
 私はそのとき、別の友達と話していた。紫から訪ねてくるのは初めてのことで、周りもざわついた。

「何ー?」

 私は、つとめて余裕たっぷりに返した。胸の内があふれるようにはやっていた。
 周囲の視線が、心地よく私を撫で、かき立てていった。

「次の授業、抜けるんで。適当に言っといてください」
「えっ、何で? どしたの?」

 紫は本当の平静だった。私はそれに倍以上の親しみを込めて返す。紫はとことん動じなかった。

「うーん……頭が痛い」

 やわらかく曲げた中指の背で、自分の眉間をなぞる。少しひそめた眉と、まつげの影のおちる目元がぞっとするほどきれいだった。やわらかな風が起きたみたいに、皆ひきこまれている。

「――気がするんで、寝てきます」
「えっ平気?」

 私は立ち上がり、紫の袖を引く。あくまで対等に見えるように。

「保健室行く?」
「うーん、入れてもらえないんで。適当に」

 紫は首を傾げると、すっと私の手から腕を抜いた。それから、カーディガンのポケットに手を突っ込んで歩き出す。
 ポケットからおもむろに取り出したイヤホンを耳に突っ込み、ゆらゆらと――不思議な波に乗るみたいに行ってしまった。不思議な歩き方。それでも、紫は痛い人にならない。皆、紫を見ていた。

「沢田、どしたの?」
「あっ、頭痛いんだって」
「そっか。心配だね」

 さっきまでつるんでいた友達が、私の袖を引き尋ねる。興味はもちろん、紫だった。 すごい、あの桑原紫と友達なんだ。
私への羨望のまなざしが、透かさなくても見えた。その視線は、私にざらついた優越感を与えた。


三話

 紫はとことんマイペースな子だった。

「桑原、そりゃあないだろ」

チョークが置かれると同時、数学教師の杉原が紫にため息をついた。心底困っているという体ながら、どこか色めきたったまなざしで、紫を見つめる。紫はチョークを持っていた親指と人差し指を、軽くこすって払っていた。
 紫が首を傾げて杉原を見る。杉原は大股で問題か――紫か――どっちもか――に近づいて、赤のチョークで続きを書いた。

「ここ。ここまで、解けたらもう答えだろ。全くもう少し踏ん張れ」
「っす」

 紫が頭を下げる。杉原は眉を下げてあきれたふりをした。

「お前はできるのに、本当に覇気がないなあ」

 戻れ、言われて紫はゆったりと席に戻った。
 杉原は決して優しい教師じゃない。さっき出した問題だって、やさしくなかった。
 紫はそれを五分の四くらい、流れるように解いて、飽きたみたいに止めたのだ。
 あれなら、解けなかったからやめたと思わない。皆そう思っている。杉原だって、そう思ったから、紫を叱らなかったのだ。
 でも、杉原は、紫だからあれを許したんじゃないかとも思わなくもない。同じようにしても、私なら怒られたんじゃないだろうか。
 得だと思った。
 紫は、いつでもマイペースだ。よく、それで生きてこられたと思うくらい。
 けどすぐに答えは出た。
 あのきれいさと独特の雰囲気、そして何でもそつなくこなせる能力の高さ。
 それがあるから、誰におもねらなくても紫は紫のままでいきてこられたのだ。
 うらやましかった。友達としては誇らしくって自慢だった。
 けれど、また友達として、私は――疑問だった。
 確かに、すべてそろっているけど、それでもあんな風にできるのは、ただ運がよかったからじゃないかと思うのだ。
 ずっと、あんなに自由に生きていけるはずがない。きっとどこかで紫は頭を打つだろう。それを思うと私は落ち着かなかった。とても心配だった。


四話


「なあ、菜摘。お前、桑原さんと友達なん?」

 初夏の頃、幼なじみの栄太が私に聞いた。

「な。紹介してよ」

 私はうなずくしかできなかった。だって幼なじみだから。そして、その瞬間、私はずっと栄太のことが好きだったことに気づいた。
 私は栄太を紫に紹介した。

「大切な友達を紹介してあげるんだから、感謝しなさいよ」

 精一杯笑って茶化して、栄太の腕をひじで突いた。栄太は照れくさそうに、明らかに浮かれて紫を見て――なのに、ずっと見ていられないのか顔を逸らすを繰り返していた。
 紫は、いつものように、ポケットに手を突っ込んだまま、突っ立っていた。私を見た。私が笑顔で促すと、栄太を見た。栄太は硬直した。紫は動ぜず、図鑑を見るみたいに、栄太を眺めて、それから目を伏せる。

「どうも」

 
と頭を下げた。栄太ははじかれたみたいに話し出した。紫は浅くうなずきながら、それを聞いていた。
 私は紫に気づいてほしかった。
 ねえ、私、栄太のこと好きなんだよ、紫。気づいてくれないの?
 それとも、気づいてるの?
 その夜は、眠れなかった。真っ暗な部屋で、ずっと天井をにらんでいた。

「栄太って、まじいい奴だよ。小さい頃もね」

 私はそれから、栄太の話ばかりした。
 ことあるごとに、栄太のことを持ち上げて、売り込んであげた。私の声は、上擦ってて、無理してるのが、ばれないか怖いくらいだった。
 紫は、音楽でも聞くみたいに聞いていた。時々、うなずくから、聞いているとわかるくらいの熱量で。
 それでも時々、私の顔を、あのきれいな顔と目で、じっと見つめるから、私は期待が捨てられなかった。
 ねえ、紫、気づいてよ。でも、「気づいてる」なんて、言わないで、そっとわかって、「ごめん、嬉しいけど付き合うとかはまだ」って、栄太を絶対に下げないで言ってよ。
 私に対して申し訳ないとかじゃなくて、私のことが好きだから、つき合えないっていう温度を含ませて、ちゃんと断ってよ。ねえ、できるでしょ。
 だって、友達だよ?

「二人、絶対お似合いだと思うな!」

 それでも、私は二人を応援し続けた。

 紫は、栄太と付き合うことに決めたようだった。

「お前、何泣いてんだよ」
「うるさい、だって嬉しいんだもん」

 私はうそをついて、ひたすら泣いた。思いを殺して、笑うことにもなれてしまっていた。私の祝福を、紫はすこし目を細めてみていた。

「決め手ってなんだったの」
「んー……」

 二人きりになって、私は紫の手を握り尋ねた。紫は、まったくいつもどおりだった。彼氏ができて、好きな人と結ばれて喜んでいる顔じゃなかった。

「まあ、付き合ってみるのもいいかなって」
「……そうなんだ」

 紫は最後まで、気づいてくれなかった。

 紫の髪をほめた時、紫は「どうも」と言って微笑した。私はそれが嬉しくて、嬉しくて――すぐに髪を紫と同じ色に、染めた。

「染めたんだ」

 紫は興味深げに目を見開いて――

「似合ってる」

 と笑った。私は舞い上がらんばかりだった。
 でも、紫は次の週に、髪の色を変えてしまった。

「変えちゃったんだ」
「うん。金が入ったんで」

 紫は機嫌良さげに、毛先をもてあそんだ。私は残念だった。それ以上に、無性に恥ずかしかった。
 けれど、だからこそ、なんてことのないようなふりをして、

「似合ってる」

 と笑い返した。紫は笑っていた。

 そのときと同じ、同じ。おんなじ。
 私は笑って、何でもない風に笑った。
 付き合ったってうまくいくかなんてわからないし……そう思ったけど、それでも、うまくいくようにって、基本思ってることにして。


五話

「ゆーかーり。栄太、そろそろ、誕生日だよ。何かしないの?」
「そうなんすか?」
「ええっ、聞きなよ、もう! 栄太も何で言わないかな!」

 私は変わらず、二人の応援をしていた。

「ねえ、栄太はね、こういうの好きだよ」

 通販サイトの商品のスクショを見せる。紫はそっと長い首を伸ばして、のぞき込んで「はあ」とうなずいた。

「もう、紫!」

 紫はとことん消極的な彼女だった。私が水を向けないと、何もしない。水を向けられることへの不快感もなく、全部私の言うとおりにしていた。
 信頼されてるんだ。そう思おうとしたけど、

「電気、部屋を出る前に消してね」

 って、頼んでるような気持ちだった。
 栄太がかわいそう。
 ねえ、紫、何考えているの?
 深い茶色の瞳はのぞき込んでものぞき込んでも、奥が見えない。
 私のことだけじゃなく、栄太も見ないの? 栄太のことだけじゃなく、私も見ないの?
 馬鹿にされてるの? ――私も、栄太も。


「大丈夫?」

 紫が栄太に呼ばれて行って、友達が、私の肩にそっと手をおいた。

「桑原って、無神経だよね」
「気づくよ、普通さ」
「やめてよ」

 私は、その瞬間、燃え上がるような羞恥に前進を覆われた。汗があふれる。それは、激しい怒りに転じた。
 無神経なのは、あんたたちも変わらない。毒づいてやりたかった。でも、同時にその言葉に、救われてもいた。
 だから、怒りは全部、ひとつの方向に向くしか
なかった。

 何で、紫は気づかないの。皆気づくのに。

六話

「紫に拒まれた」

 栄太が元気がないので、訳を聞いたらそう言った。
 キスしようとしたら、「待った」をかけられたらしい。栄太はうなだれていた。
 私はひどく安堵していた。けれど、栄太の屈辱へ、激しく共感もしていた。だから、ことさら優しい気持ちになった。

「あいつのことがわかんねえよ」
「何も、俺に興味がないみたいなんだ」
「何も言わないし。なら、せめてキスくらいさ」

 ひたすら、暗いよどんでかすれた声で、紫への思いを吐き出す栄太が、激しくいとおしかった。嫉妬もある。憎らしさもある。でも何より、戦友のような気持ちになった。
 ふと、「もう我慢しなくていい」と思った。

「栄太がいいやつなの、私はわかってるよ」

 私は栄太に寄り添って、そっと膝に手をおいた。

「菜摘」
「大丈夫、私がついてるよ」

 世界で一番、優しく笑えた気がした。栄太の手を取り、両手で包んだ。
 心臓が、恐怖と切なさで、一杯になっていた。
 栄太は私を見たことのないような瞳で見つめた。私は息が詰まった。

 それから、私と栄太は二人でこっそり会うようになった。

 紫は全く気づかなかった。
 あまり気づかないから、私はあえて紫の前で、机にスマホをおいて、栄太とメッセージのやりとりをした。最初は、恐怖と期待と緊張で、頭が一杯だった。
けれど、やっぱり紫はきづかなかった。誰から、とも聞いてくれなかった。
 私はひどく自分がみじめで、傷ついていくのを感じていた。
 自分勝手なことくらい、わかってる。けれど、紫は、本当に何も疑ってくれなかった。
 私と栄太は、紫を裏切ってるの? でも、傷つけているのは紫の方だ。
 紫につけられた傷を、私たちはひたすら慰め合った。
 ほしかったものは、これだと言い聞かせながら。

 栄太とキスしているところを、紫に見られた。
 紫はその日、バイトのはずだった。

「なんで」
「……バイト、シフト変わったんで」

 嘘だ。それじゃ、栄太に会いに来たみたいじゃない。そんなはずはない。いや、仮に、そうだとしても、たった一回きりの栄太への善行だ。たいしたことじゃない。
 なのに、私はひたすら泣いていた。怖かった。終わった、そう思った。
 何が終わったかもわからなかった。

「二人は付き合ってるの?」

 紫はいつも通り、無表情で、何も変わらない声音だった。怒りも冷たさも、何もなかった。
 その瞬間、私の中で、ぷつんと何かが切れた。

「どこまで、馬鹿にすんの!?」

 とんでもない声が出た。栄太でさえ、少しひるんでいた。

「うそつき! 本当は気づいてたくせに」
「え」

 紫はポケットに手を突っ込んだまま、首を傾げた。そこにいっさいのいらだちも怒りもなかった。私は悔しくて、悲しくて、仕方がなかった。

「気づいてもないなら、むかついてもないなら、もっと悪いっ! 最低っ!」

 私はいてもたってもいられなくて、走り去った。栄太が、紫に何事か叫んでいるのが聞こえる。
 栄太は、私を追いかけてきてくれた。

「紫と別れた。俺はお前だけだ」

 栄太は私を抱きしめてくれた。私は栄太の胸で泣きじゃくった。
 うれしかった。でも、それ以上に悔しくて、むなしくて、空虚だった。

七話

 次の日、私は友達にかばわれて、クラスにいた。私達の間に起こったことを、皆知っていた。私をとがめても、皆、私の応援をしてくれていた。
 紫は一人、私達に向き合っていた。

「時期が重なってたことは、いけなかったと思うよ」
「でもさ、桑原も友達がいなさすぎ」
「普通気づくよね?」

 友達が、口々に紫に言う。私はひたすらうつむいて座っていた。泣きはらした目を知られたくなかったし。
 友達の思いやりある言葉は私を心地よく、またみじめにした。
 私はこの場の中心だけど、中心じゃない。ひたすらうつむいて、私は怯えて、怒っていた。

「沢田は、栄太君と付き合うの?」

 紫はずっと黙っていた。友達たちの話がとぎれたところで、紫は尋ねた。
 私は顔をこわばらせ、友達たちの空気は一気に冷え込んだ。

「別れろってこと?」
「ううん」

 攻撃的な問いに、紫は首を横に振った。静かに目を伏せて、うなじに手をやりいつもみたいにけだるく首を傾げた。

「なら、お幸せに」

 一言。
 立ち上がると、自分の席に向かう。当てつけもなにもない、いつも通りのふわふわした足取りで――

「何それ」

 私のつぶやきに、紫が振り返った。

「自分だけ、いい子ぶるのやめなよ」
「……え?」
「そう言ってさ、本当はむかついてるんでしょ。なら、怒ればいいじゃん」
「いや、もういいんで」

 紫の単調な切り返しに、私は体が大きな波にさらわれるような、吐き気を催す激しい怒りを覚えた。

「なら、紫は冷たいよ!」

 あたりがしんとなる。関係ない。私はもう何の音も聞こえなかった。紫以外見えなかった。

「私のことも、栄太のことも、どうでもよかったんだよね!」

 もう止まらなかった。涙がどっとあふれる。

「紫はずっとそうだった! いつも私ばかり! 髪の色も変えちゃうし、栄太のことも、私まかせで、何も自分で考えないでっ、私の気持ちにも気づかなくて……!」

 息が切れる。感情で頭がちかちかするのなんて初めてだった。

「確かに、今回のことは私が全部悪いよ! でも、紫は、ずっとずっと私を傷つけてた! 人のことなんて、何も興味ない冷たい紫には、わかんないだろうけど……!」

 涙の向こう、紫が私を見てる。けど、そこには、やっぱり何の感情もなかった。
 胸が痛かった。

「紫は結局、誰のことも好きじゃないんだよ! 私は、紫のこと大好きだったから、だからっ」

 そう、大好きだった。言葉にすれば、するほど、実感できた。よけいに泣けた。

「だから、振り向いてほしかった。気づいてほしかったのに」
「沢田……」

 私の涙は、皆にどう映ったんだろう。みっともない涙のはずなのに、皆私の背をさすってくれた。私は勇気づけられて、最後の言葉を吐く。

「友達だと思ってたのは、私だけだったんだね」

 さよなら。さよなら紫。私はくずおれた。
 友達たちは、皆紫をにらんだ。紫はポケットに手を突っ込んだまま、何も答えなかった。答えずに、席に戻っていった。

「ありえない」
「冷たすぎ。本当最低」

 友達が私の為に怒ってくれた。あたたかかった。

八話

 紫はずっとああして、生きていくんだろう。自分がどれだけ人を傷つけるか、知りもせず……。
 それは許し難かった。紫は、紫の為にもそれをわかるべきだった。
 皆で、紫の無視をした。

「うっざ」

 ある時は、紫が通り過ぎると、口々にささやいた。それについては、どうかとも思ったけど、止めきれなかった。紫は傷つかなくてはならない。
 友達の一人が紫の足をひっかける。転んだ紫を、笑った。

「ほんとじゃまだよね」
「消えてほしい」

 紫は、何も言わず、起きあがって、スカートを払った。そしてくるりと振り返り、

「なんかごめんなさい」

 と言って去っていった。
 頭にかっと血が上った。

「なにあれ」
「まじ頭おかしいんじゃないの」

 友達の顔も赤い。

「こえー」
「桑原さんも災難だな」

 クラスの男子が、ささやいていた。
 何もわかってないと思った。本当に人を傷つけているのは、紫の方なのに。
 私達が、どれだけ攻撃しても、紫は終始無関心だった。

 私達は止まれなくなっていたけど、空回りする自転車みたいに、空虚で……だから、クラスが変わって、紫と離れると、皆どこかほっとしていた。
 でも、私はまだ忘れられなかった。
 だって、私が見ていないと、紫はまた誰かを傷つけるから。だから、どれだけ傷ついても、やめるわけにはいかなかったのに。
 でも、本心ではもう疲れ切っていた。もう戦うのはやめたかった。相反する気持ちに、いつも私は宙ぶらりんだった。

 廊下で紫とすれ違う。そのたびに、私は悔しくて、悲しかった。
 でも、もうだんだん怒ることはできなくなっていた。悲しいことに、物理的な距離は私を救っていた。
 私はずっと、紫にできる限り、不幸になってほしかった。でも、思い知ってほしいだけだから、取り返しはつく程度で……

 私は、紫にただ、わかってほしかったのだ。

九話

 栄太と歩いているとき、紫とすれ違った。
栄太が一瞬気まずげにしたので、私の中で、紫への怒りが再燃して、紫を凝視させた。
 その時、目に入った。
 紫の鞄についた、キーホルダー。
 一年の遠足に行ったとき、おそろいで買った……。

 わき上がった感情の波は、何なのだろう。
 ただ私は、通り過ぎる紫の腕をつかんで、強くつかんで、

「好きだよ」

 と、言いたくなった。

「ねえ、今でも大好きだよ」

 言って、紫のきれいな目を見て、そうして、泣き出してしまいたかった。
 けど、それは叶わず、紫は過ぎ去っていく。
 栄太が、その後ろ姿を、目を細めてみる。私は、栄太の手を握った。
 同じ痛みを持つ戦友――栄太は私の肩を抱いた。
 紫が、廊下の突き当たりの角を、曲がって消えていくのを、見送る。
 もう、すべてがばかばかしい夢想だった。
 

了。

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