夜は嘘にふるえてる 【後編】

八話 カップラーメン


 家に帰れば、そこは無人だった。
 朝に母が陣取っていた場所はがらんとして、窓から差し込む外の光を反射していた。茶色の四人掛けのダイニングテーブル。席が全部埋まることは本当に数えるほどしかなかった。
 姉が家に滞在する頻度は低く、たとえ帰ってきても、姉はいつだって自分の部屋でご飯を食べていたからだ。
 そして姉が家の、自分の部屋で食べる時は、母もいつもここにはいなかった。
 母のあたたかでかいがいしい声を、姉の部屋の向こうに聞きながら――私と父は、斜め向かいの席で、母の手作りの飯を食べた。
 姉専用の席は、ただそこにある名ありの席だった。正しくその用をなすことはなかったに等しい。
 それは、椅子の上のクッションを見ても歴然だった。
 私のクッションは、私の重みと時間を受け止めて、経年劣化を正しく行っている。
 姉のクッションを改めて見る。
 私の隣で窓から差し込む光の陰にひっそりとあり――使われずにいても、毎日埃が払われ、私と同時期に新調されるそれ。劣化を誘うのは、主の体重ではなく、緩やかな時と、埃を払う母の手のひらだけ。
 ずっと固そうで、何にも馴染まない様子で、椅子の上にのっかっていた。
 ――もう、これは私とそろいで新調されないのだろうか。
 ぽつりと心中に落ちた独白は冷たい後味だった。
 その味に、妙な心地になる。
 私は今までだって、あの真新しさをじっと見てきたはずだ。けれど、今日は妙な胸騒ぎがする。
 とても妙で――変な話だと思う。今まで、何にも気にかけていなかったのだ。
 いざ、姉が死ぬなんて聞いたら気にして、こんな気持ちになるというのは、いかにも嘘臭くて、合成っぽかった。
 そんな自分は嫌いだ。薄気味悪くて嫌だった。
 そうだ、そもそも食卓にそろわないのは姉だけじゃないではないか。
 私は思い直す。
 父もそうだった。父だって、私が中学に上がったころくらいから、ご飯の時間にほとんど帰ってこなくなった。父の存在は、もう長らく、ドアの鍵が閉まる音だけだった。
 今回の長期入院が決まってからは、もう陰もない。
 理由は知らない。仕事が忙しいのか。三人の――もしくは私と二人の食卓に飽きたのか――母と私、三人でいるときの、痛いような沈黙か、はたまた、ぴりぴりと頬の皮膚が捲れるような空気に耐えがたくなったのか。
 理由は尽きない。
 何が言いたいかというと、そもそも四人そろうなんて幻想だったっていうことだ。
 病院に母が行っているなら、私は一人でご飯を食べていた。いつだって。
 一人じゃなくても、母か、父と二人きりで食べていた。
 数のそろわない食卓なんて、当たり前だ。今までもこれからも変わらない。姉がこれから先、永遠にいなくなったとしても。

 部屋が見えなくなって、私はずっと立ち尽くしていたと知る。
 部屋の電気をつける。テーブルの傷も、醤油さしも塩も何もかも変わらない。いつも通りの家の食卓だ。
 変わらない、変わらない。
 変わらないなら、どうして私が、何かを変える必要があるんだろう。
 それはとてもバカらしいことに思える。そしてそれ以上に、とても卑怯なことのような気がした。
 今更、今更何を変えるというのだ。

 台所で手を洗う。洗面所に向かうのも、着替えるのも億劫だった。
 このままの格好で何か食べて、そして部屋に直行した方が賢い。
 たぶん母は病院だ。食事は一人でとることが出来る。
 カバンをテーブルの下に置いて、何を食べようか、ぼんやりと考えた。とはいえ選択肢は特になかった。
 ご飯は腹が満ちればいいから、何でも構わなかった。何でもいい時に、何を食べてもいいから、一人きりの食事は楽だった。

「ご飯くらい作って待てないの! 本当に冷たい子ね」

 二人きりのご飯では、母はたいてい私を叱りながらご飯を食べた。
 叱らない時はひたすらに無言で、箸の音だけがうるさかった。
 どちらにせよ、「どうしてお前はそうなの」といった様子だった。
 思い出して、私は胸やけする。ドライアイスを押し付けられたような気分になった。
 あれは変わるんだろうか。ヤカンに水を入れながら、考える。
 苦しみながら生きている姉を見守り続け、だからこそこんな私を不快に思う。
 それなら、姉が母の見えない場所、私と見比べられない場所に行けば、私は母に色々と言われなくなるんだろうか。
 それとも、もっとひどくなるのだろうか――わからない。死んでも人は、永遠なんだろうか。
 あれが変わったらどんなにいいだろう。でも、もっとひどくなるのはごめんだから、別に変わらなくてもいいとも思う。
 そんなことがとりとめもなく、熱されてヤカンの底から上がってくる水泡みたいに表面に浮かんでは消えていく。私はコンロの前に突っ立って、それらを何度もはじけさせていた。
 湯が沸くと、棚にあったカップラーメンにそれを手早く活用した。慣れによるカンが働くから、タイマーを使わなくてもちゃんと食べられる固さで作れる。
 部屋で一人、ラーメンをすすった。
 この部屋で、ちゃんと機能しているのは、家電と明かりくらいだ。
 私というものは、いつもどことなしに浮いている。
 想像すると何だかみっともなく感じて、すするペースを少し上げた。化学調味料のきいた味は、舌を刺して麻痺させていく。
 姉はカップラーメンを食べた事ってあるのだろうか。
 そんなことを思い立ち、打ち消した。ありえない。
 一口すすれば、コショウとしょうゆの味と、よくわからないコクが口の中に広がり侵食する。
 母は姉に、これは食べさせないだろう。食べたとしても、家で作った胃に優しいラーメンだろう。それは、もはやラーメンなのかわからないけれど。
 そもそもそんな優しいラーメンさえ、姉は口にしたことがないかもしれない。
 何で、今、こんなどうでもいいことを考えているんだろう。
 やっぱり、死ぬからだろうか?
 無性に腹がたった。だらだらと紙みたいな麺をかみ砕き、飲み込む。


九話 お弁当

 玄関の鍵の開く音がした。
 あーあ。
 私は心の中で、大きく脱力する。心臓が心構えをするみたいに、胸辺りがぎゅっとなった。
 ドアを開けて、母がリビングに入ってきた。予想はついていたから、驚かない。ああやっぱり、そう思った。
 母は、黙っていた。空気が重くて仕方がない。
 息がつまる。
 母の回りに、私から空気を奪う装置でもついているみたいだ。母のところだけ、重力が異様にかかっているのかもしれない。
 何となく、手に持っていたカップ麺を隠した。疚しいことはしてはいないつもりだった。けれど、現に私は隠してしまった。なので、これは疚しいものなのだと自分に気付かされる。
 スープはまだ残っていた。体の中を重く占領するこの味を、私は結構気に入っていて、だから是非最後まで飲みたかった。
 しかし、もう飲めない。むしろもっと早くに片付けておけばよかったと思う。
 そっと腰を浮かして、椅子を足に引っかけて体ごとテーブルに寄せた。
 母は、身構えた私をちらりと見て、すぐにそっぽを向いた。
 疲れた顔、――ひどくやつれた顔。
 
「お姉ちゃんが、あんたの名前を呼ぶの」

 母は、目を閉じて、そう言った。

「お見舞いに来なさい」

 言葉の後に連なったのは、見舞いの誘いだった。
 たったひとこと。付け足してふたことみこと。
 それだけ告げると、母はリビングから出ていった。放り出されるように閉められたドアの向こうで、もう一度ドアの開閉音がした。そして、水の流れる音。
 母は大抵、台所で手を洗う。
 だから私は背面にあるキッチンの洗い場に、充分なスペースが出来るように、さっき椅子ごと移動した。
 けれど、今日は違うらしい。
 さっき一瞬だけ、私の手にしたカップ麺を見た気がした。けれど、それもやはり気のせいかもしれなかった。
 結局、母はリビングに戻ってこなかった。どうやらそのまま寝たらしかった。


「えー、忙しいのにお弁当作ってくれてんの?」

 大島さんのお母さんってすごいねえっ。
 そう仲良くはないけど、私の家の事情を知っている子が何気なく言った言葉だった。
 それは、夏期講習の時だった。その子はパンで、私はお弁当の包みを開いていた。それで、私は母が、姉の事で忙しい時以外は、私のお弁当を作ってくれていることに気付いた。姉はお弁当を食べないのに、私のお弁当を、わざわざ。


十話 病院

 週末、電車に揺られて、県の総合病院へ向かった。
 隣に座る母は無言だった。
 私は、妙にひねった調子の車掌のアナウンスを、イヤホンから流れる曲でふさいだ。
 先月に一度、見舞いに行った。その時も、母と一緒にこの電車に乗った。
 前回は昼からで、今日は朝からだから、時間帯は違うけれど、つまりは、何も初めての道中ではない。
 しかし、先月か。考えると、たいそう自分の薄情さに驚いた。驚く思考も、気分が悪かった。
 電車の揺れが、盛り上がった横並びの椅子越しに定期的に伝わってくる。
 無言が気になる。電車内ではお静かに、がお決まりだ。
 だから喋らなくても当然だった。けれど、こういう時に何を話していいのか、いつも考えてしまう。そしていつだって、結局答えは出ない。
 家から数駅離れたところにある、少し大きめの駅――そこが、私達の目的地だった。灰色の建物以外、周りに何もないロータリーに降りる。
 立ち食いうどん屋と、遠くでウナギの焼ける匂いがしていた。
 でも、それを「いつもここいい匂いするね」なんて、母に言える空気じゃなかった。母はやっぱり、ずっと無言だった。
 いつも後をついて行っているせいで、朧気にしか道を覚えていない。けれど、母の背を追い、あたりの景色を見ながら歩いている内に、ふわふわとした土地勘を取り戻してきた。
 私はここを知っている。あの信号を右に曲がった先、いや、曲がる前から見えているあの建物が、姉の麻衣のいる総合病院だ。
 以前来た時も思ったけれど、綺麗な病院だと思った。
 私が普段予防接種に通っている病院とはひどく違った。とても清潔そうで、看護師さんは、いわゆる白のナース服じゃなくて、花柄の明るいそれを着ていた。
 ひたすらに清潔だ。中に入って、大きな窓からさんさんと光が差し込み白の壁や床を照らすのを見て、とにかくそう思った。
 清潔。病院とは本来こうあるものなんだな、と今更ながら感じるくらい。
 それでいて、暗すぎない。私の嫌いな、陰気な消毒液の匂いさえ、単なる清潔にしすぎた結果、ととれるくらいに。
 母がナースステーションで、看護師さんに声をかける。看護師さんは、にこやかでゆったりとした応対をした。母が会釈をして部屋に向かうのについていきながら、
「姉もここならよかっただろう」と思った。
 それは、初めてここを訪れた時と、同じ感想だった。

「わかってると思うけど、間違っても、変な顔しないで」

 病室の近くにやってきて、広めの道に二人きりになると、母は私に強い声で言った。
 それは、今日見舞いに来ると決まった時から、何度だって言われている事だった。
 母は、口を開けば、今日までそれしか言わなかった。なので、さすがに自分の信頼のなさに悲しくなったけれど、母は、後百回でも念を押したい様だった。
 そして今回は、ひときわ真剣な目で言った。
 ほんの少したじろぎつつも、私は頷いた。気迫に、心の底が、ほんの少しざわざわしてしまった。

「麻衣ちゃん」

 来たよ。
 個室の扉を引いて開けると、そっとそよ風みたいに優しい声で、母は姉に挨拶をした。姉の声は聞こえなかった。カーテンで仕切られていて、向こうが見えない。先に入った母が、カーテンの隙間から、私を目で促した。
 よし。
 私は意気込み、足を踏み入れた。


十一話 死の予感

 気付けば、帰りの電車の中で、私は吊革につかまっていた。気付けば、というのは嘘で、実際にはここまでにくる記憶はある。
 けれど、ずっと同じ光景に脳内の視界が占拠されていて、ここまでの景色を全く見ていなかったのだ。
 たった一ヶ月で。
 私の胸の中に、そんな言葉が落ちた。それは、自己弁護だった。

 カーテンの向こうの姉は、もう私の知っている姉じゃなかった。
 姉は昔から、体が細かった。入院した時は、そこから少しやせていた。先月だって、ちょっとだいぶやせたな、と思った。
 かなりやせすぎ。それくらいの体で、まだいられた。

 でも、今は。到底そんな言葉じゃ括れない。
 姉にはもう肉というものがなかった。
 血色が悪い肌は、青を通り越して、黒に近かった。その肌が、骨を包んでいるだけの姿。
 それが今の姉だった。筋と骨の浮き出た喉に、太い管が刺さっている。
 母が擦っていたのだろう、青のストライプの入院着からむき出しになった足は、骸骨の標本そっくりで、骨の数を数えられるくらいだった。

 私も、ちゃんと母に言われたとおりにするつもりだった。カーテンの向こうへ入るまで、ちゃんといつも見舞いをしている時の自分を装っていた。
 わざとたらたらとベッドの方へ歩きながら、

「お姉ちゃん」

 そう、呼ぶはずだった。
でも、私のいつもどおりというものは、薄っぺらだった。


「ひさしぶり、お姉ちゃん」

 一応は、やり通した。
 根性で無理やり姉を平然とした様子で見て、元気にいつもと変わらない挨拶をした。
 けれど、だめだった。
 一瞬笑みを作った口の端がこわばった。出すはずだった声が止まった。
 小さく、「あっ」と呟いてしまった。
 自分を弁護するなら、本当に、たった一瞬だったと思う。
 けれどそのほんの一瞬で、私の思考は十分に表せてしまった。

「姉はもう本当にだめかも」

と。
 姉の姿は、五年前にがんで死んだ祖父の末期の姿とそっくりだった。
 祖父は、姉と同じように、喉に管が通されていた。
 虚ろな目で、何か話そうと唇を薄らと死にかけの金魚のように開閉していた。秋の終わりに見舞ったそれを最後に、祖父は年が明けた頃に死んだ。

 心臓がずっと縮こまったみたいに冷たくて、無性に怖かった。
 救いがあるなら、姉は祖父に比べてまだ顔がはっきりしているところだった。
 寝起きみたいにぼんやりとしていたけれど、「生かされている」様な虚ろさじゃなかった。
 だからこそ、私の嘘っぱちの笑顔に、気付かれなかったかも不安にもなった。
 姉は気付いているのか、いないのか寝起きみたいな目に、ほんの少し細めて笑った。おいで、とほんの少し、手と一緒に顎も動かして私をベッドのそばの椅子に招いた。
 姉の目は、落ち窪んでやつれて、老人のようだった。
 けれど、薄く瞼を開いて私を映す目は、いつも私を迎えてくれた時と同じ目だった。
 何を話したか覚えていない、というより、ほとんど何も話せなかった。
 今の姉に与えるべき情報が、私はわからなかったし、そもそも持っていない様な気がした。ただ、場を持たせるために、打つべき言葉のない相槌をうっていた。母がしきりに、姉の手や足を擦っていた。手持無沙汰になるよりましな気がして、少し動転したまま私も姉の手をそっと握った。肉のない手は、痛くて冷たかった。

 あの感触が、手から離れないまま、私は吊革を握っていた。
 そもそも立たなくてもいいくらい席は空いていたけど、立っていた。母も、同じように私の隣に立っていた。
 ふいに、母が背を縮ませた。顔を抑えて、前かがみになる。どうしたのだろうと思い見ていたら、ハンドバッグからハンカチを取り出して、顔をぐっと押さえた。泣いているのだと気付いた。
 押し殺したような泣き声は、いっそう深い嘆きの気配をもって響いた。
 母は、いつもこうして一人、電車の帰り道、泣いているのだろうか。
 母の顔を、毎日しっかりと見る事なんてないから、わからない。
 ふと私は、背を擦ってあげたい気持ちに駆られた。今の私なら、それができるのではないか。
 けれど、結局、何もせず隣に立っていた。
 私の気持ちなんて、結局一時の感傷でしかない。
 そういえば、入院したての頃の帰りの電車でも、あの日はち合わせた電車でも、こんな風に泣いている母を見たことを思い出す。
 母がとてもかわいそうだった。
 哀しみを発散する時、側にいるのが私みたいな人間しかいない。
 そんな私の心でさえ鈍く、沈鬱な気持ちに引っ張られているのに、母はどんな心地だろう。
 あの部屋を漂う死の気配はそれほどに濃かった。
 姉が危なかった時は、今回以外にもあった。
 だから、姉はいずれ死ぬだろうということは、漠然と私の中に常にあった感覚だった。
 それでも、私の中の姉は体が弱くても寝ていてもいつだってずっと存在していたので、「死ぬ」と思うと同時に「とはいえ、このまま生きてくんだろう」とも思っていた。
 けれど、それは楽観的な思考だった。
 姉は死ぬのだ。


十二話 お見舞い

 それから、私は少し病院に通うようになった。義務というより、強迫観念に近かった。私にもそんなものがあった。
 母とは別で、自分のペースで行くことにした。
 母はそれに対して、何も言わなかった。
 あの日、うまく演技できなかったことを怒られるかと思ったけれど、そんな余裕もないらしい。
 母は見舞いに行く以外は、ぼんやりと椅子に座るか、仏壇の前に手を合わせてずっとぶつぶつ何事かを願っていた。

 行かねばならない。
 電車に乗りながら、「やっぱりやめようかな」なんて思う日の方が多かった。
 だってすべて今更だから。
 今まで何も気にしないで、姉の事なんて放っておいた。
 なのに、いざ死ぬかも、というあの姿を見たからってこんな風に通うなんて、ひどい嘘っぱちで、自己満足の行動だと思った。
 本当に姉を心配する気持ちが、私の中にどれくらいあるというのだろう。
 死ぬとなると頑張れるなんて、いっそ死ぬのを待っているみたいだ。
 実際に、私はあの姉を見た時に、「この人は死ぬ人だ」と、少し姉から心を切り離し出した。不用意に、傷つかないように。

 それでも、結局姉の元へ向かった。

「気持ちはどうあれ、今行っておかないときっと後悔する」

と自分をごまかして焚きつけることで、病室の扉を開かせた。
 しかし、来たといっても、話すこともなかった。姉とはずいぶんしばらくちゃんと話していない。死が迫ってきたからと言って、すらすらと話せるわけじゃなかった。とても当たり前のことだったし、私はそこまでうそつきじゃない。。

「お姉ちゃん、来たよ」

 だから、そんな挨拶と、花瓶の水をかえるとか、少し換気をするなどの事務的な言葉と。
「具合どう?」

と言う馬鹿みたいな問いをして――後は話すことはもうなかった。
 だから、時間がくるまで、椅子に座ってじっとしている。
 久しぶりの見舞い以来、時々は顔を見せるようになった妹を、姉はどう思っているのだろう。
 少なくとも、不審でしかなく、私なら自分の病気の状態に不安を覚えるだろう。
 それがわかっているのに、私は会いに来ている。
 いい、どうせ私は、自分ばかりかわいいのだ。
 姉のうっすらと浮かべてくれる笑みからは、不安や怒りとか、そんなものが感じられないのが救いで、罪悪感のもとだった。
 太腿と椅子の間に手を突っ込んで、ぶらぶらと足を揺らした。
 何をするわけでもない。なのにここに来て、私は何をしたいのだろう。
 気まずさという退屈を覚え始めると、居心地の悪さから、自分に対する問いかけばかりになる。寺か山にでもこもるみたいに。
 私みたいな者が、姉に今、何を話してあげられるだろう。
 姉は今、何が聞きたいのだろう。
 好き勝手話すことはできる。どうせなら、自分が後悔しないためにも、話したいことを全部話してしまえばいいんじゃないだろうか。
 そう思うけれど、喉で詰まってしまって、何も言葉を発することは出来ない。
 ただ、風にそよぐカーテンを見たり、姉の姿をじっと見下ろしたり、靴の裏を合わせたりして、いつも面会は終わる。
 せっかく来てるのだから、今日こそ、と思う。
 けれど、もういっそ来ないでおこうと思いながら帰るばかりだった。

 そして何度目かの今日こそ、の時。
 ふと私は、

「前にもこんなことあったね」

 とつぶやいた。
 不意に、姉の部屋を避難所がわりにしていた事を思い出したのだ。



十三話 三つの言葉

 それは、小学校三年くらいの頃からだった。
 制御できない感情に振り回された時や、母が不機嫌で苛々している時など、とにかく気がふさぐ時。
 私は、姉の部屋に「お見舞い」に行った。
 姉の楽しみになってしまえば母は何も言えない。そんな打算からの始まりだった。

 姉はいつでも私を歓迎してくれた。
 きっと、姉は私が部屋を訪れるのは「お見舞い」なんかじゃないことを知っていただろう。私も、姉が私の為に、いつでも歓迎してくれているのも知っていた。
 ずるい人間になったなと思った。
 けれど、ちゃんと姉の具合のいい日しか行かなかった。
 だからいいじゃんという思いもあった。
 私は姉の部屋で漫画を読んだり、姉と話したりした。けれど、その頃には私はもう、姉に対してどう気安く話せばいいのかわからなくなっていた。だから、会話も適当にぶつ切りで続けていた。

「由衣ちゃんの話は面白いね」

 それでも、姉は私にそう言って笑って聞いてくれた。姉の言葉はゆっくりと優しい響きだった。でも、その端々にいつもごめんね、私に対するそんな気持ちが、にじみ出ているように思えた。私は頃合いを見計らって部屋を出る時、手をふる姉の笑顔を見て、振り返す時、どうも恥ずかしいような、同時にとても優しい人間になれた気がした。

「お姉ちゃん」

 考えるより先に、言葉がこぼれていた。しまった、と思ったけれど、すぐにこのまま吐き出してしまうことにした。

「ありがとう」

 言い終わって少ししてから、姉の顔を見た。姉は微睡んでいる様な、穏やかな笑みを浮かべていた。頷く様に少し顎を動かしたような気がしたけれど、ただの目の錯覚の様な気もした。
 その時、風が吹いた。
 そよ風と言うには、ほんの少し強い。窓を閉めた方がいいだろう。そう思って立ち上がろうとした時、姉が口を開いた。

「え?」

 明らかに意思をもった動きに、私は止まる。
 そして、おずおずと覗き込んだ。姉の喉には今、穴が空いているせいで、声はもう出ない。代わりに、唇の形で音を表していた。
 母は、それでうまく会話をしていたけれど、私には自信がなかった。
 頑張って聞かなきゃという思いが、勘弁してよ、という気持ちも呼んできた。
 私なんかに、こんなことをやめて。

 姉はゆっくりと形をつくってくれた。
 そうして私がわかるまで、ゆっくりと何度も繰り返した。
 私はというと、そんな風に気遣われると余計にナースコールを押したい衝動にかられた。かられながら、できる限り早く解読しなきゃと躍起になっていた。
 姉と同じ唇の形をして謎解きの様に当てはめていく。母音とカンを頼りに繰り返していると、数回目かに、ようやくそれらしいものが浮かんだ。

「か・ん・で・い……」

 私が声に出すと、小さく頷いて、新しい形を作った。一度わかると、私も自信がついたのか、今度はそう時間はかからなかった。

「あ・め」

 姉がわずかに口角をあげた。そうして、疲れたのかもしれない。
 一度目を閉じてしばらく力をたくわえるみたいに静止した。
 しばらくして、姉はまた、、唇を動か始めた。

「ど・せ・い……」

 私の声に、正解だと、それまでと同じように笑って見せた。
 姉は本当に疲れたらしく、姉は枕に頭を預け直した。
 そうしてゆっくりと目を閉じた。咄嗟に顔を覗き込むと、どうやら寝ているらしかった。
 ナースコールを確認しながら、私も丸椅子に座り直した。中腰になっていたから、背中が痛かった。
 揺れるカーテンに、窓を閉めようとしていたことを思い出す。ちゃんと見舞い人としての行動をする。
 けれど、私は姉の唇の動きと、そこから生まれた言葉にずっと気をとられていた。

 かんでぃ。あめ。どせい。――キャンディ、あめ、土星。

 それは私の秘密だ。
 あの頃、姉の部屋に避難しながら、姉にそれを話したのだろう。
 いつ、どんな気持ちで? 問うてみても、答えは出ない。
 どこまで話したのだろう。
 ただ、チュッパチャップスが好きだって話をしただけかもしれない。
 何も、土星が丸くなる寂しさまで、話したとは限らない。
 ただ、話すことがなさすぎて、話したのかもしれない。
 そんなくだらないことを――そう、とてもくだらないことだ。
 窓を閉め、閉めようとしたカーテンを掴んだまま、私は外の景色をにらんでいた。

 泣く様なことじゃなかった。何も、泣くほどのことじゃない。
 ざわざわと感情に這寄る感覚を、唇をかんでこらえる。
 私は、絶対に泣いてはいけなかった。
 けれど、冷たい熱がじわじわと胸からしみ出して、心臓を握られるような心地に、体は末端までしびれが走るような気がした。
 頬が痙攣している。気持ちをうまくあらわし発散する行動が、思いつかなかった。地の味がする。
 ぴくぴくと震える手で、カーテンの触感を、窓に映る、しかめっ面のなりそこないみたいな自分の顔を見た。

 キャンディ、あめ、土星。言葉を反芻し、感情をぼかしていきながら、私はじっと窓を見つめていた。



十四話 日常の中

 冬が来る前に、姉は死んだ。
 それは予想よりも早かった。
 通夜、葬式は慌ただしかった。
 母の肌はガサガサで、白髪の増えた髪はほとんど全て白くなっていた。
 父は、最期に間に合わなかった。ものすごく久しぶりに顔を見たせいか、やつれているんだか、いないんだかわからなかった。
 ただ、老けたなと思った。
 家に帰ってきて、寝かされている姉の枕元に、父は、じっと座っていた。
 私は驚かなかった。
 いつだって姉は死ぬものと、思いながら過ごしていた。
 時々心のどこかが、何かに引っ張られているように引きつるけれど、ずっと、あっさりしたものだった。
 姉の骨は細くて、白くて、子どものようだった。
 これは姉ではない、何かべつのものではないかと、私でさえ思った。
 泣くことももはや出来ない母の前で、その骨が砕かれる。
 そして、砕いたそれを箸でつまみ壺にいれる。
 事務的な行為は、残酷といっても足りない気がした。

 母は今、ぼんやりと骨壷を抱えていた。

「納骨はしないといかんよ」

と目を赤くした伯母が、母の肩を抱いて言った。

「お母ちゃんを支えてあげなさいよ」

 と、ついでに私の両肩を強くつかんでいった。おどしのような目だった。大して見舞いにも来なかったくせに、そんなことを、熱を込めて言えるなんて。
 私なんかに何ができるというのだろう。
 母は、抜け殻のようになってしまった。
 姉の骨の前に座る母は、ずいぶん小さく見えた。
声をかけても、返事は返ってこない。父もまた、帰ってこなかった。

「どうして言ってくんなかったの」

 通夜、葬式があけて、学校に行くと汐里が待ちかまえていた。

「由衣の担任に聞きにいって、そんな大事なこと、事務的に知らされてさ。ショックだよ」

 汐里は泣いていた。
 私のことを支えたかったのだと言う。
 それは例え、私が汐里に伝えていても叶わなかった夢だと思う。

「何か言ってよ」

 汐里が、私の手を握る。私は黙っていた。
 何が友達だよ。
 誰に向けてか、わからないけど、そんな言葉が出た。
 幸い、音になることはなかった。
 大切な秘密を話さなかった私は、もう汐里の友達じゃないかもしれない。
 次第に、汐里は私のそばにいなくなった。

 姉の死から、私以外、それぞれは変わっていくらしい。
 私が一番変わっていくと思っていた。けれど、そうではなかったみたいだ。
 私は家の掃除機をかけ、洗濯物をたたみ、米を炊いた。
 飯が炊けたら専用の器に飯を盛り姉に供えた。
 死んでから、姉に飯をよそうるなんて不思議だった。
 姉の茶わんは、まだ食器棚にしまわれている。
 それは今までと変わらない。機会がこれから、一生ないだけだ。
 父と母の分のご飯を残して、私は自分の茶わんに飯をよそった。

「お母さん、ごはんだよ」

 食べ始める前に、私はもう一度だけ母に声をかけた。
 けれど、やっぱり返事はなかった。
 私は一人、席に着いて手を合わせた。

「いただきます」

 いつまで続くのだろう、そんなことを考える。
 ずっとと言うのは、簡単だった。けれど、そんな簡単なものでもない。
 ただ、この家には、光があったのだ。それは、もう失われた。
 日の光だけ射す、部屋の中は、暗い。
 確かに、同じ光が、指していたはずなのに。



十五話 夜は嘘にふるえてる


 姉の四十九日の夜、私は夢を見た。
 小さな私が、姉のベッドの近くに座って、何事か話している。うつむいているくせに、何か一生懸命に。

「あのね、チュッパチャップスの、土星のなりそこないみたいな形が好きなの」
「うん、そうなんだ」

 姉が優しく笑う。私は顔を上げる。嬉しかったのか、笑って、言葉を続けた。

「だから、舐めて丸くなっちゃったのを見ると、むなしいような、さみしい気持ちになるんだよね」
「うん、うん」

 姉はうなずく。ひだまりのような微笑を浮かべて。

「由衣ちゃんは素敵な感性を持ってるね」

 おぼれるように、目が覚めた。
 私はひどく泣いていて、息がつまったのだ。
 むせかえって、顔を覆った。
 どうしても、これを止めなければいけなかった。
 けれど、体が異常なほどに跳ね返って、止まらなかった。

 お姉ちゃん!

 叫びそうになるのを、私は必死に耐えた。のどから、ひーっと息が漏れた。足がベッドを蹴る。

 一人で行ってしまった。

 嘘だ。こんな気持ちは、全部嘘っぱちなんだ。
 だから私は、誰にこの事実を伝えられるだろう。
 嘘を混ぜずに、寸分違わず、誰に。
 薄暗い部屋の中。私は布団の中、ずっとふるえ続けた。

 夜は、もうすぐ明けようとしていた。


了.



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