夜は嘘にふるえてる 【前編】
一話 報せ
「麻衣、今度こそ、もうだめかもしれない。」
それは、数日前のことだ。
病院と学校――それぞれの帰り道から、たまたま鉢合わせた電車の中でのことだった。
母は、石を水面に投げるように言った。向かいの椅子の足元の、そのまた遠くを見ながら。喉に無理に力を込めて、少し上ずって震えた声で、確かにそう言った。
麻衣、今度こそ、もうだめかもしれない。
赤い目元、目じりには涙がべっとりと光っていた。少しのしわと、しみが浮かんだ肌がファンデーションの影からのぞく。水分と握力の為にぐしゃぐしゃになったハンカチが、手の中でしなだれていた。
私はそんな母を隣で、黙って見ていた。
とうとう来たか、そんなことを考えながら。
二年前、姉の麻衣の長期入院が決定して、私たちの生活は激変した。
――なんていうことはなかった。
母の病院へ行く頻度がさらに増して、父が家に帰ってこなくなっただけだ。
そもそも姉が体調を激しく崩すことは、うちではそう珍しい事ではなかった。姉の体調が悪いほど、母も父もこの家から姿を消したから、もう慣れっこだった。
姉はもともと体が弱くて、私は姉の元気な姿を見た事がない。それでも姉だって、本当に時々、登校日くらいの頻度で学校に行っていたこともあるし、近場に家族旅行に行った事もあった。
けれど、私が姉を思い出す時はいつだって、青白い顔で本を読んでいるところか、窓の外を眺めているところだった。
「由衣ちゃん」
姉の部屋に入ると、姉はいつも笑って迎えてくれた。
いつだってそうだった。それは病院の部屋でも、家の部屋でも変わらなかった。
当時、まだ幼かった私にとって姉は、距離のある二つの部屋を、定期的に行き来している人、という認識だった。
ただ、薬臭くっていやに真っ白な病院の部屋よりも、暖色に包まれた家の部屋の方で、迎えられる方がずっとよかった。
私は、どうして姉が病院の白い部屋と、家の暖かい部屋を行き来しているのか、その理由がよくわからなかった。
いや、違う。何となくはわかるけど、何だかよくわからない――これが一番、当時の私に近い感覚だ。
姉は体が悪いのだと言われても、ぴんと来なかった。
私自身は具合が悪くても、白い部屋に行って眠ったことがなかったから。私は健康だった。だから、姉のようにわざわざ行って眠ったからと言って、何か意味があるとも思えなかった。
家で休めばいいのに、どうしてわざわざあんな遠くて臭くて白い部屋に行くんだろう?
なんて不思議に思っていた。
「どうして、おねえちゃんはうちでねないの?」
いつのことだったか、疑問に思って聞いたことがある。姉は困ったように、眉を下げて笑った。
「ここにいる用事があるの」
この姉の言葉に、どう答えたか私はあまり覚えていない。
けれど、「ふうん」だとか、「じゃあはやくようじ、おわらせて」とかそんなことを言ったのだと思う。
私は病院に行くのが好きじゃなかった。知らない人ばかりだったし、遊ぶこともできない。何もわからないのに、ただ静かに座っているしかできない。私を連れてきた母は、姉の世話をしたり看護師さん達と話をしたりしている。私は、母の背を、じっと見ていなきゃいけなかった。
要するにひどく退屈だったのだ。「ここはつまらない」と、姉にも、何度か文句も言っていた。
だから、きっと、私の答えは、この予想であっているだろう。
二話 惣菜
「お姉ちゃんは、いたくて病院にいるんじゃないのに、なんてひどいこと言うの!」
ある日、母が私をぶった。姉のいる白い部屋に行くのを
「めんどうだからやだ」
と渋った時の事だった。
首が吹っ飛んでいくような張り手だった。
さっきも言ったけれど、私は病院が嫌いだった。それにその日、私は幼稚園の友達に遊びに誘われていたのだ。なのに、断らされて、へそを曲げていた。
姉が白い部屋にいる時は、大抵私は母と一緒に行かなければいけなかった。特に何か私に出来るわけでもないのに、意味も教えてくれないのに、強要され続けるそれに、もうかなりうんざりしていたのだ。
母親の剣幕に私は呆然とした。はっきり言って、何が起きたのかよくわからなかった。
ただ、自分が何かを間違えた、ということだけはわかった。その何かを、私はすぐ理解することが出来なかった。思考が途切れて、道に迷ったような心地がした。
母は、私が答えをなにかしら出す前に、背を向けて部屋を出て行った。
ドアと鍵の閉まる、乱暴な音がそれを告げた。
私は取り残されたのだと思った。
実際はただ、母は一人で病院に向かったのだが、そのときは捨てられたと思った。
帰ってきてからも、母はずっと私に怒っていた。
そして当分、私という存在を無視した。全身から出ている空気は湯気みたいに熱くて、電気みたいにぴりぴりしていた。
「ごめんなさい」
怖くて、私はよくわからないままに謝った。それは反射といってよかった。
けれど母は、私を見てもくれなかった。聞こえていないように通り過ぎて、手を洗って、家のことをしていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
私はただおろおろとして、母の周りをうろちょろついて回っては謝った。そしてそのたび無視された。それを何度も繰り返していた。
そんな調子でも、不思議なことにご飯は出た。近所の惣菜屋のもので、そこはご飯も一緒に売ってくれていた。パック詰めされたそれを乱雑に置いて、母は出ていった。
最初は意味がわからなかったし、食べていいのかわからなかったから、我慢していた。
すると、母が帰ってきた。私は母に駆け寄るが、母は、まとわりつく私を払うように進んで、テーブルの上に置きっぱなしのそれを見た。
忌々し気な唸り声と共に、それはゴミ箱に投げ込まれた。
それで、私はそれを食べなければいけなかったと気付いたのだ。
以降は毎日、私はそれを食べた。子供には多い量だったけど、なんとか飲み込んだ。
今でも私はあのパックに入った緑の菜っ葉や、マヨネーズのかかった肉の絵面を覚えている。味は覚えていない、というか糊を食べているような記憶しかなかった。この時から少しして、気まずい思いと共にそれらを食べた時、普通においしくて驚いた。
けれど、私は今でもあの惣菜が大嫌いだ。
しかし、そんな私の気持ちなどつゆ知らず、あの惣菜には、今でも頻繁にお世話になっていた。母はこれを気に入っているのか、病院、またはパート帰りによく買ってくるのだった。
何も、母の料理が食べたいと言う気はない。けれど、重ねて言うと、私はこれが大嫌いだ。
あの苦い記憶を、いやおうなしに、思い出させるから。それも私だけではなく、母にまで。
「あんたあの時ひどかったわよねぇ」
母は、惣菜をつまみながら、にじったような笑みを浮かべて言う。
あの時とは、私の過ちを許してもらった日の事だ。
母は私に怒りながらも、ずっと出かけていて、いつも慌ただしく家のあちこちのドアを開閉していた。私は家に一人で、右往左往していた。外にだって出られたけれど、家にいた。母が家に帰ってきて顔を合わすたびに謝った。それでも、ちっとも許してもらえなかった。
「ごめんなさい」
ぶたれてから数日たったころ、母はその日も、あれこれと支度をしていた。
「おかあさん、もういいません。ごめんなさい」
「望み通り、放っておいてあげてるでしょ」
私の顔も見ず、冷たい声でそう言った。
その言葉の威力はすさまじく、私は異様に怖くなった。恐怖を持て余して、泣き出した。そんな私をよそに、母は、洗濯物を鞄に詰め始めていた。
「ゆるして! ごめんなさい!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
私はそんな母に縋り、何度も何度も叫び謝った。これで許してもらえなければ終わりだ、と思った。何が終わりかもわからないが、とにかく怖くて泣きわめいた。
それでも母は、返事をしなかった。怖くて悲しかった。悲しさも泣き疲れて流れ、悲しさの残骸に縋り始めたころ、母は、長くて唸るようなため息をついた。
「あんたは本当にしかたない子ね」
でもまあ、しかたない、もういいわ。
そう、言った。
「本当に、あんたはしかたないわよ」
あの惣菜を食べると、いつも、母は気紛れにあの話を持ち出して、私に聞かせる。
私が毎度忘れていると思っているらしい。
「おかしい人みたいにわめいてたわよね。わかってないくせに」
あの時みたいに、冷たい響きを持っているときと、笑い交じりでからかっている様なときと、多種多様に、私のあの時の様子を、飯の追加のオカズに話すのだった。
「本当にあんたって、根がつめたいのよねえ」
だから嫌いだ。一人で食べる分には、まあ気分の悪さも半減して、味がわかるが、それでも吐き気がした。
三話 孤立
母に怒られ、何とか許されてから、久しぶりに母と一緒にお見舞いに行った。行きたくもない病院でも、許された安堵の方が大きくて、楽しく感じていた。
「由衣ちゃん、どうしたの?」
泣き腫らした目を、頬や唇の上に残る涙と鼻水の跡を、姉は心配してくれた。
「ごめんなさい」
私は姉に謝った。そしてお行儀よくするように初めて頑張った。姉は不思議そうな顔をして、それから笑ってくれた。
そして、病院の帰り道に、私は姉が白い部屋にいる理由と、姉が自分とは違うんだということを改めて、母から聞いた。
それをちゃんと理解できたのはもうしばらく後だった。けれどその時から、私は子供なりに、黙るということを覚えた。この件に関しては、黙っていうことを聞くのが一番いいのだとわかったのだ。
そうして、頭が言葉に追いついた頃、あの地獄のような日々、姉の状態が危なかったということを知った。
知って理解して、私は、母が怒ったのも無理はないと思った。自分が恥ずかしいことをしたのだということも身に染みた。
けれど、あの時ぶたれた頬は痛かった。その事もしっかり覚えていた。
一人っきりの部屋に閉じ込められたのに、なぜか家から閉め出された気持ちが、異様に私の中に残った。
それでも、後からやってきた恥は私を地にめり込ませだ。
私は冷たい人間なのだ。体がもぎ砕かれるような、無能の感情が私を襲った。
それから私は、もし自分が優しい人間でいたいなら、姉の事で母に絶対に逆らってはいけないと、改めて心に刻んだのだ。
私の決意とは余所に、周りの生活はそう変わらなかった。姉は、家にいたりいなかったり、白い部屋と自分の部屋を行ったり来たり、母もそれに倣って行ったり来たりだった。
私だけが変化していた。
私は、年を経るごとに、病院へは母について行ったり行かなかったりになっていった。姉が自宅に帰ってきた時に、見舞うことはしていたけれど、幼稚園から小学校、低学年から中学年、中学年から高学年へと、私の年齢が上がるにつれ、母は私を病院への見舞いに連れて行くことはしなくなっていった。
それは、母も私の友人関係というものを考えるようになったからかもしれない。または、自分が家を空けている間、家事をしておく人が必要だったからかもしれない。
母が家にいないとき、私は適当に掃除機をかけ、洗濯物をたたみ、そして米を炊いた。
もちろん友達とも遊んだ。友達のお母さんは、私の面倒をよく見てくれたし、お母さんのいない子の家でも子どもだけで遊ぶのは楽しかったし、そんな日々は途方もなく楽だった。
それでも――いや、むしろそんな日々になったからかもしれない。
私はどうして母に「行くわよ」と誘われなくなったのだろうと考えた。あんなに面倒でいやだったのに、誘われないと不安になるだなんて不思議だ。けれど、ふと、何か思い出したように疑問に浮かぶようになった。
そのたびに、私は色んな理由を考えてみる。理由は喜ぶべきか悲しむべきか、たくさんあった。
けれど、いつだって最後にはあの、ぶたれた日に立ち返った。
もしかしてまだ怒ってるのかな、やっぱり私に愛想をつかしたのかな。
そんなことを、洗濯物をたたみながら考えていた。
四話 麻衣
姉は、私にとって優しい人間だったと思う。
二つの部屋を行き来する人生で、「人並み」の生活を送る私を、妬んだり僻んだりするような事は、けして言わなかった。
「あなたは元気でいいわね。感謝しなさいね」
むしろ、姉以外の人が、私に向かってそう言った。
母しかり、親戚しかり、先生しかり知らないご近所さんしかり。
姉の話になると、いや、姉の話にならなくても――私という存在が目に入り、彼らの中で何らかのスイッチが入る。すると、いつだって彼らは何か時間でも確認するように、私にそう言った。
もしかしたら、姉よりも誰よりも、私の健康な体をうらやんでいたのはその人達だったのかもしれない。私が人並みに健康であることを理由に、何をしていてもまた何もしていなくても、私に感謝や謙虚さを求めたし、私に人並み以上の努力を求めたがった。
「あなたは本当に覇気のない子ね」
結果、友達や同い年の子どもが許されることが、私は許されなかった。少し何かを面倒がることも、許されなかった。
つくづく変な世の中だと思った。理由はわかるけれど、理解はすすんでしたくなかった。
姉を知らない人はいい。けれど知る人は大抵、事あるごとに説教や世間話で姉を引き合いにした。
「もっと感謝して頑張りなさい」
「そんなに健康で恵まれているのに、お姉さんに申し訳ないと思わないの」
しかしいざ頑張ってみたら、皆が褒めてくれるわけでもなかった。
小学校の頃、満点のテストを手に、私は母に駆け寄った。
「お母さん、見てみて!」
母は、洗濯物をたたんでいた。物思いにでもふけっていたのか、私からゆったりと顔をそらした。私はもどかしく、回り込んだ。
「ほら、テスト、満点だよ」
さんざん、頑張れと言われた後のテストだ。私は気分が良かったし、褒めてくれると思った。今にして思えば、何でそんな浅はかな事をしたのかわからない。
「そう」
母は、少し苛立っていた。姉のことで、思うところがあったのだろう。なのに、無神経に寄る私が、気にくわなかったのだろう。私は、気付かずに、テストを母の前に置いた。
「よかったわね」
「うん!」
「あんたはなんでもできて、幸せ者ね」
そう言って、洗濯物を持って、部屋を出ていった。私は、部屋に取り残された。
また、間違えたことだけはわかった。それくらいには、大きくなっていた。
そしてそれは母だけじゃなかった。
「あなたは出来ていいわね、感謝しなさいね」
そんな馬鹿なことがあるか。彼らは、私が何をやっても気にくわなかった。
本当のところ、私の体は姉とくっついていて、私にはそれは見えないけれど、彼らには見えているのではないか、もしくは姉に張りついた何かに私が見えているのではないか――そう思うくらいには、私の評価の影に姉が潜んでいた。
面白いことに、私に近しい人ほどそうだった。
「あんたは本当、に無神経ねえ」
私が学校で起こったことを、姉にあまり楽しそうに話すと、母は怒った。
はっきり記憶にあるのは、ちょうど、姉が家に帰ってきていた日のことだった。病院に見舞うことはほぼなくなっていたけれど、家姉の部屋には、まだよく見舞っていた時期だ。
「お姉ちゃん、それでね、大なわ、皆で百回も続いてさ」
「百回も?すごいねえ」
「そうなの! それでね」
私はその日、とても気分よく話せていた。
姉も私の話に笑ってくれた。口と心が一体になったようで、いつの間にか姉より大きくなった体を存分に動かして、身振り手振りで伝えていた。
「みんなで毎日練習したんだよ。すごい大変だった」
「うん、うん」
今思えば、確かに少し、調子に乗っていたかもしれない。話の途中で入ってきた母に、「少し手伝って」と言われた。でも、気分が良かったし、姉も聞きたいだろうと、話を終えるまで、絶対に動かなかった。
「お姉ちゃんも早くできるといいね」
とか、何か英雄の様な気持ちで、姉を励ます言葉も言った気がする。言葉と気持ちが重なっていて、心をこめて言えたと思う。
すると、
「早く来なさい!」
と、追いやられるように部屋の外に出された。そうして言われたのが、「無神経」だった。
「よくあんな話できるわね。少しは考えなさいよ」
背をさりげなく強く叩くとか、腕をすれ違い様に強くつねるような、そんな言い方だった。
私は一気に恥ずかしくなった。楽しかった分、その落ち込みはすごかった。
ついでに用を言いつけられたので、すぐに戻らなくてすんだ。けれど、用が済んでも、姉の部屋のドアを開ける気がしなくて、しばらく立ち尽くしていた。ドア越しの声がやけに怖かった。
「私が聞きたいって言ったの」
と、姉のゆっくりした調子の声が聞こえた。
それからは、もう学校の事や、楽しいことはあまり話さないでおこう、と決めた。けれど、話さなかったら話さないで、上手くいかなかった。姉は気をつかったし、母からは「つまらない子」と言われた。
「お姉ちゃんと違って、ちゃんと学校に行けているのに、何もいいことを起こせてないのね」
もったいない。私は流石に、ぽかんとしてしまった。それならと、また楽しい話をすると、やっぱり怒られてしまう。
「あんたは本当に気が利かない」
ならもうどうしたらいいのか教えてよ、と言いたくなった。
けれど、母の言い分を聞くに、これは話題そのものというより、私の話題の選択や姉へのフォローの下手さ、つまり気の利かなさが問題で怒っているらしい。
「考えなくてもできるでしょうに。本当にお姉ちゃんが心配じゃないのね」
でも、それをどうしたら直せるのかはまったくわからない。
何を話すべきかわからず、自分なりに考えて話しても怒られる。何度も繰り返して、自分でも呆れて、もうあきらめて黙っていることがほとんどになった。
しかし、そんな母が私に何か話すときは、いつだって姉がらみの事で、私用の話じゃなくても話題はいつも姉のことばかりだった。
私っていなくていいんだな。
そんなことを繰り返すうちに、段々面倒くさくなって、姉が家に帰ってきていても、母の知る所で、姉の近くへ行くことはどんどん減っていった。勿論、呼ばれたら行くけれど、自分からは率先して姉に会いに行かなかった。
母は、やっぱり私を「冷たい子」と言った。
いつだって私の頭の中にいるけど、何だかいつだって遠い。記憶の中の姉は、いつだって穏やかだった。
その姉が、死ぬ。死ぬ――本当に死ぬのだろうか。実感はそこにある気がするのに、今一つ伴わない。だって、いつだって姉はそう言われてきたようなものだ。
けれど、考えると胸の中が重い様な妙な気持ちになる。
私の事を母にフォローしてくれていた姉。
「麻衣に、あんたの事もかまってあげてって言われたわ」
母はばつが悪いというか、私に対して少し憎らしいような気持ちをにじませた口元でそう言った。そんな調子の母に、あまり構われても困った。けれど、姉が私を気遣ってくれている、という事実は申し訳なく、そして素直に尊敬した。
姉が死ぬ、死ぬのだろうか。本当に? 私はぼんやりと思考を繰り返した。
時間というのは恐ろしいもので、私みたいなものでも、姉の死を考えれば感じる重苦しさは、時が経つほど積もり積もって、嵩をましていった。
そうして、今では考えるだけで、その事実は胸を押しつぶすような圧迫を私に与えるようになっていた。
しかし、それでも母の涙や、肉親の別離に対する一般的な人間の苦しみにはとうてい及ばない気がした。
この感情を例えるに、悲しみだとヒロイックだし、痛みだと大げさだった。ただ、足元に穴が空いたような、頼りない心地――心もとなくて、曖昧な歩行を繰り返す。その程度のものだった。
五話 非常階段
校舎裏の非常口につながる階段。
そこに座って、おにぎりを頬張っていた。
そして母の言葉から何度目かの、回想を終えた。
長くて、でも時間にしたらほんの少し――私の半生なんて、そんなものだった。
麻衣、今度こそ、もうだめかもしれない。
あれから、まだぼんやりとしている。悲しい、といえば悲しいような、不安定な気分をずっと抱えていた。
そんな状態で数日、あの日母と乗ったのと進路逆の電車に揺られて、私は学校まで来ている。
コンビニで買ったおにぎりは暑い日でも、どことなし冷えていた。
私は練梅より、カリカリした梅の方が好きだ。練梅のおにぎりを頬張りながら、思った。
家を出る前の母の顔を、私は覚えていない。キッチンに向かってテーブルに一人、重く座っていた。いつも何かしら、忙しなく動いている母の背中を、久しぶりにちゃんと見た気がした。行ってきますの言葉は、届いたろうか。
お母さん、大丈夫だろうか。
不意に浮かんだ言葉を、慌てて打ち消した。うすら寒くて、気持ち悪かった。
「何食べてんの」
ふいに私の背に、声とそれなりの重さが乗っかってきた。
思わず咀嚼もまばたきも止めると、重みは私の首元に手を回した。茶色のカーディガン。オーバーサイズ気味で、だぼついたそれから伸びる細い手首が、目の前で交差させた。
「汐里」
「私にもちょうだい」
振り返れば、大きく開いた口が至近距離で目に入る。伸びた唇に塗られたグロスが、きらきら光っていた。
「ん」
おにぎりを持っていた手を、その口にめがけて伸ばす。すると、頭を下げて、汐里はそれにかぶりついた。
「うー、すっぱい」
口をもぐもぐ動かしながら、汐里が顔をしかめ、高い声でうなった。私は、一口半くらい減ったおにぎりを見る。グロスが移って、断面が薄いピンク色に光っていた。見ないふりをして、自分の口へと運んだ。言うほど酸っぱくはない。
「どうしたの」
「由衣がいないから探してたの」
よっぽど酸っぱかったのか、私の背中に頭をぐりぐり擦り付けながら、言う。
「ふうん」
「一緒に食べようと思ってたのに」
ほら、と一度体を離して、汐里は私に白の袋を見せた。よく見るコンビニの名前が書いてある。おそろいだな、と何となく思った。
「うーん」
汐里は隣に座るが早いか、デニッシュのパンを袋から取り出す。勢いよく頬張って満足げにうなる。
うなるというにはずいぶん可愛らしい声だ。最初聞いた時は、わざとやってるのかな、と思ったけど、このテレビの食リポみたいなリアクションが、汐里の通常だった。おいしそうに食べるね、と言ったらおいしいもんと返してくる。
汐里のそういうところが、結構好きだ。私もまた一口おにぎりを頬張った。
「でさぁ」
しばらく、互いに食事に集中していたら、汐里が急に話を切り出した。パンを頬張ったままの口で、発音が不明瞭だった。「さ」が「は」の音と混じっている。
「何?」
「ん。なんかあった?」
手で口元を押さえながら、パンを飲み込むと、汐里は私を見てそう尋ねた。汐里の目は、さっきまでのふわふわしたものとは違って、真っすぐだった。
「何か?」
「うん。なんか、由衣、最近元気ない」
聞き返せば、間をおかず答えて、またパンを一口頬張る。私は、何となくぎくりとして目をそらした。虚を突かれたというか、胸が重苦しいような、そんな感覚が落ちる。
「うん、まあ」
「やっぱり。……大丈夫?」
私はとっさに言葉を濁した。汐里は私をじっと見ていた。
でも、何も聞かなかった。私は、その事にいたく安堵とした。
「うん。まあ、たぶん」
「そっか」
気まずくなって、口の中に含んでいたおにぎりが、薬みたいな味になる。汐里は、口をもぐもぐさせながら、カフェオレを一口含んだ。ごくん、と喉を通り過ぎる音が、つっかえてずいぶん大きく聞こえた。
「ありがと」
ここでお礼を言う自分がずるいと思った。
もやもやとした気持ちが胸の中でずっと渦巻いている。かと言って、ごめん、という殊勝な気持ちにもなれない。それでも吐き出す勇気はなかった。
とにかく、話を終わらせてしまいたかったのだ。
「そろそろ戻ろうか」
食べ終わってからもほとんど無言だった。予鈴がもうすぐ鳴りそうで。教室に戻ろうと立ち上がった。
「由衣」
その時、先に階段を降り始めた私の背に、汐里の声がぶつかった。振り返れば、汐里が私を見ていた。ごみを後ろ手に隠すように立っていて、きれいに整えられた眉が下がっている。
いつもの汐里と違う顔。
「いやになったら、言ってね」
私は、汐里の目を正面でとらえた。レモンティーみたいな色の瞳は確かに私を真っすぐにとらえていた。
心配、不安――そんなものにゆらゆら揺れている、そんな気がした。
そんな汐里に、どう答えたものだろう。私は正しい返し方がわからなくて、ぎこちなく口角を吊り上げた。
「わかったよ」
ありがとう、そんな風に答えて、教室に戻った。
汐里は隣のクラスへ帰っていった。小さく手を振って、去っていった汐里の後姿はふわふわと頼りなさげに見えた。
いやになったら。
――何に?
六話 友達
眠い午後の授業を聞きながら、ついさっきの汐里の目と、言葉を思う。
汐里の態度は、今、私の起きていることへの心配と、そしてある種の――私への確認に思えた。
――ねえ、私たち、友達だよね?
汐里の目はそう言っていた。ゆらゆら揺れる目は、私の心をのぞこうとしていた。
少なくとも私にはそう見えた。
そうだとしたら、言うまでもなかった。
私は汐里を友達だと思っている。
でも、どうして汐里が、私が汐里を友達と思っていないなんて思うのか――その理由もちゃんとわかっていた。
答えはとても単純で、私が何も汐里に話さないからだ。
それをちゃんと、理解している。ありがたいとも思う。でも、それだって私は悪気があってしているんじゃない。
ただ話したくないのだ。
その為に、片道二時間近くかかるこの高校へ進学した。
一度だけでいい。
姉のことを、誰も知らないところへ来たかった。
快適だった。何もかも自分の結果だと言えることが、どれだけ私を安堵させただろう。一度手に入れたら、もう、誰にだって知られたくなかった。
すると不思議なもので、話したいような気持ちになる時もあった。とりわけ、好きな友達なんかには。
けれど、そんな一時の感傷に負けて、これからを失いたくなかった。
話した後どうなるのかなんて、私にはわからない。
どうするかを決めるのは、私じゃなく汐里だからだ。
話さないのは、快適さを守るためと――友達を失いたくないからだ。
なのに、ここにきて、とうとう岐路に立ってしまった。
秘密を話した風に話をつくろって、ごまかせばいいのかもしれない。
けれど、姉という存在は、もう深くに根を張っていて私の中から簡単に切り離せない。切り離したら、もう私の心とは言えない。
それを私として話すということは、汐里とほぼ永遠に「さよなら」するのと同じだった。
それがいやなら、全部、正直に話すしかなくなる。
結局、選択は一つに絞られていた。
けれどそうやって話したところで、本当に友達でいられるのだろうか?
汐里は、それでも、私を友達と言ってくれるのだろうか。
そんな躊躇が、私の口を尚ふさいでいた。
私の心の中にあるそれが、話せば大抵の人に顰蹙を買うものだということを、とうに知っていた。
それがわからないほど、もう無鉄砲じゃなかった。
誰だってわざわざ否定されたくはない――とりわけ好きな友達なんかには。
「どうしたの?」
ある時、汐里が尋常じゃなく落ち込んでいるので、尋ねた。
「ん……実は弟が、風邪なんだよね」
「大丈夫?」
私は問いを返す。すると、汐里は、うつむいて目元を拭いだした。泣いているのだ、と気づくのに時間を要した。
「すごい吐いてて、つらそうで、本当に心配。私、なんもできないんだ」
「そっか」
私はとりあえず、汐里の背をさすった。私は少なからず汐里に同情し、心配な気持ちがわいていた。しかし、どうにも居心地が悪かった。
それから汐里は、弟が回復するまでテンションがそれは低かった。
「よかったあ。元気になってくれて、本当にうれしー!」
「本当によかったね」
弟が回復して、大喜びの汐里に、私は半笑いで返した。
汐里の弟がよくなって、安堵した。けれど、私は汐里が元気になったことの方が嬉しい。それに、
「おみやげ買って帰ってあげよう」
とはしゃぐ汐里を、半分くらい「嘘だろ」と、絶望的な感慨で見ていた。
そんな汐里にどうして、私のこの気持ちが話せるっていうんだろう。
まして、肯定されると思えるっていうのだろう。
何で私だけ、怪我するってわかる道を歩かなきゃいけない?
話さなければ、すこし嫌な思いはさせるけど、もう少し友達でいられる。汐里と友達でいたいから話さない。これは、汐里を友達と思っている証明にはならないんだろうか。
話すばかりが友達って、そんなのずるくないだろうか。
汐里には悪いと思っている。けれど、同時に私自身、やりきれないような自己嫌悪で嫌な気持ちにさせられていた。それで、イーブンにならないのだろうか。
……友達さえ、まともにできない。
「大島」
教師が私を指名した。教科書を手に立ち上がる。指定された場所を適当に読み、「結構」という、教師の声を受けて、席に着く。座る直前、クラスを見渡せば。寝ていたり、「内職」をしていたり、真面目にノートを取っていたりと、様々だ。
真面目な生徒はすごく少なかった。
私は細くため息をついた。一度指名されたから、もう授業を聞かなくても支障はない。
窓から見上げた空は澄んでいて、すごく青かった。高くて、綺麗だなと思う。
飛行機が飛んで私の視界を横断していった。青地に、白い軌跡を描いていく。
その光景を、いいな、と思う。
汐里は優しい、とも思う。
青く澄んだ空も、優しい好意も、掃きだめみたいな心の風通しをよくしてくれる気がした。
それでもずっと、姉が死ぬという事実は、私の胸の底に沈み根を深く張っていた。
喉につかえて吐き出せない気持ちが、胸の骨の中にべったり張り付いている。心臓とか、肺とかを覆ってしまいそうなそれは、きっと医学的なかんじの何かではない。それなら、保健室に行っても、誰に言っても意味のない事だった。
七話 キャンディ
授業が終わると、放課後、教室で汐里と適当に時間をつぶした。
空が真っ赤に染まったころ、汐里が「バイトだから」と教室を出て行った。
私はそれを見送り、赤く染まった時計を、ぼんやりと見上げた。
見送ってはみたものの、実際残る用事もなかった。ただ、一人で帰りたかった。窓の外から、何部か知らないけれど、かけ声が聞こえる。
部活に入ればよかったかもしれない。
部活は楽しいだろうか?
入ったら、母に絶対にいい気はされない。でも入らなくたって同じで、覇気がないとかなんとか言われるだけだ。
それでも、パートから帰ってきて疲れて苛ついた様子の母に、「何がしたいです」とか、「何がほしいです」とか、一生懸命プレゼンして、納得してもらう労力を考えれば、その方がましだった。
「そんなに覇気がないなら、お姉ちゃんと代わってあげて欲しいわ」
ティッシュを捨てるくらいの調子で母が言う。
それならそれでいいような気もする。
辛い思いをして死ぬのなんて、絶対に嫌だ。けれど、私にはやりたいことがない。情熱がない。何もないのだ。
真っ赤に燃えた空を見上げ、歩きながら思う。
汐里がくれたイチゴミルク味のチュッパチャップスは、頬の内側をしびれさせた。長時間、キャンディを押し付けてしわしわになったそこを、味わうのが好きだ。
口から取り出して、何となく形を見てみる。凸凹が無くなって、正真正銘の、球体になっている。
いつもこの変化に、がっかりするような、夢が覚めてしまうような、残念な気持ちになる。
まだずっとずっと、小さな頃からそうだ。
私は、チュッパチャップスの下手な土星みたいなこの形が好きだった。
なのに、球体になった姿を、いつも見てしまう。
がっかりするってわかっているのに。
こんな時の気持ちを誰に向かって、言えばいいのかよくわからない。
そもそも言う必要があるのかどうかさえ、私には判別できない。
くだらない――でもくだらないとは言われたくない、相反するウェットな気持ちをはらんでいる。自分でもくだらないことだと思うのに、変な話だった。
けれど、こういう気持ちは年々ひどくなっていて、激しく胸の中にへばりついて意固地になっている。
それで結局、私は口をつぐむのだ。
たとえば今、「しょせんキャンディ一つの事だし」そんな風に切り捨てたみたいにして。
口の中に、キャンディをまた放り込んだ。
空を見れば、赤が群青に溶け込み始めていた。ずいぶん、ぼんやりしていたみたいだ。歩いていたつもりなのに、まだ帰り道の半ばまでしか来ていない。
――母は、まだ病院だろうか。それとも、まだ、あのまま座っている?
出がけの母の姿が脳裏によぎった。
こんな時に、私みたいなものが母にかける言葉なんて、見当たるはずもなかった。家の中の沈黙は、息を詰まらせて痛いだけだった。
帰りたくない、何となく思った。
でも、この気持ちだって、キャンディの時のそれとまた、同じだ。
そんなことを思ったって、私の帰る場所が変わるわけじゃない。そもそも私の帰る場所、なんていうものがあるのだろうか。
――ない。少なくとも、今は。
それなら、早く感傷は切り捨てて、足を進めなきゃいけない。止まれば、きっともっともっと重くて苦しくなるのだから。
【後編に続く】