34.『遊びと人間』の感想と、現代における遊びの変化【雑記】
概要
ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(岩波書籍)を読了したのでその感想と、それを踏まえた遊びについて考察していきたいと思う。
前半部では本書の内容を、後半部では私なりの考えを述べる2段構成です。
なお、これは備忘録として残すことを主目的としている。そのため文章として読みにくい部分は多々あることを最初に断っておく。
もし気になる部分があればコメントいただければ幸いです。
本書の特徴
本書は2部構成に分かれており、第1部では遊びの定義と社会的役割、第2部では遊びの要素を複数加えて拡張したものとなっている。
第1章
第1部では遊びの定義から始まり、そのの定義は以下の6つから構成されている。
・自由な活動(強○されることもやめることもできる)
・分離した活動(時間・空間の範囲内に限定される)
・不確定の活動(結果がわからない)
・非生産的な活動(富を作り出さず、遊ぶ前後で状況が変わらない。仮に富が移動することがあればそれは遊ぶ人々の中で所有権が変わったに過ぎない状態となる)
・ルールのある活動(通常の法律を停止し、その中で新しい法律を一時的に立てる)
・虚構的活動(非現実であること)
またいわゆる遊びの4要素について述べられている。
その4要素こそアゴン(競争)、アレア(機会)、ミミクリー(模擬)、イリンクス(眩暈)である。
これらについてはわざわざ述べるほどではないので省略する。
また4要素は、さらにパイディアとルドゥスという要素が含まれている。
これはパイディアが高まるほどルールが希薄な原始的なもの、逆にルドゥスが高まるとルールというものが発生する。
例えばアゴンのパイディア寄りは単なるかけっこになるが、これがルドゥス寄りとなるとスポーツと呼ばれるようになる。
その他遊びを起点に人間の社会活動についても言及している。(むしろ本書としてはこれが主題ともいえる)
その枠組みとして次の3つを挙げている。
・文化的形態
・制度的形態
・変質
文化的形態は前述した6つの定義にあたはまるもの、制度的形態は文化的形態を基にしているが、遊びの定義を取り払ったものである。(「職業」と言い換えるとわかりやすい)
変質はそれが堕落したものであり、以下のようにまとめられている。
・アゴン⇒暴力
・アレア⇒迷信、占星術
・ミミクリー⇒狂気、二重人格
・イリンクス⇒アルコール中毒、麻薬
具体例を見れば一目瞭然だろう。
第2章
遊びの4要素は組み合わせとして現れてくることから始まり、その組み合わせの構成について述べている。
このとき、3つずつの組み合わせは意図したものではなく、あくまで偶発的に発生したものとも述べられている。
組み合わせの構成として次のものがある。
・不可解な結びつき:決して両立しない(アゴン-イリンクス、アレア-ミミクリー)
・偶然的な結びつき:相乗的に結びつく(アレア-イリンクス、アゴン-ミミクリー)
・根本的な結びつき:対照的な結びつき(アゴン-アレア、ミミクリー-イリンクス)
またこれらを現代社会へ再定義することも試みている。
そこではミミクリー・イリンクスを原初的な誘惑とし、仮面や宗教を抽象化して現代に当てはめている。
本書を読んだ感想
まず遊びと人間でいえば遊びの4要素が有名であるため、そのような本かと思っていた。
ただその4要素の分解は前提条件であり、本書は人間社会への定義づけ、人類史における遊びの役割を問うものとなっていた。
その意味では4要素からボードゲームについての定義付けは本書の意図とはずれていたと思うし、
以前述べたことは、本書では言及済みの内容だった。
(以前の感想:https://ci-en.net/creator/25744/article/1451710)
また本書を読了する前後の気づき、勘違いを以下にまとめる。
・遊びの4要素は平等ではない
・遊びは楽しさを提供するものではない
遊びの4要素は平等ではない
本書ではイリンクスを知覚の安定性を崩すことと定義している。
これはイリンクスは時に命を危機にさらすことを意味している。
その例として、本書ではサーカスについて説明している。
要約すると「法では命綱を付けるようにしているが、それではサーカスの醍醐味が薄れる」というものである。
また、儀式の一環として命を危機にさらすことで、スペクタクルを生むことについても述べられている。
ただし、これらの遊びは一定の技術を要する。
そのため、特別な訓練もなく、かつ安全に提供できるように現在では遊園地というものができている。
イリンクスは原初的な誘惑であり、それを得るには一定の危険が伴う。
その点でいえば、遊びというのはイリンクスを起点として考えることができる。
遊びは楽しさを提供するものではない
本書では、ヨハン・ホイジンガの著書『ホモ・ルーデンス』では文化は遊びから始まったことについて言及している。
カイヨワの主張としてはどちらが起点というより相互的に支え合っているような主張であった。
起点は別として、遊びは直接的な死に結びつかないだけで。その原動力は三大欲求に匹敵すると思われる。
これら欲求を安全に解消するために、遊びというのが存在する、と考えるべきだと思った。
そのうえで、遊びに意味を持たせたものは学問や発達理論など有意義なものとして社会的な役割を与えられた、と解釈できると思われる。
本書を通じた創作への活用
創作に対しては以下の手法をとっていきたいと思う。
1)人に遊んでもらうアプローチ
・イリンクスを起点
・アレアの受動的性質を受け入れつつ、アゴンを取り入れる
・ミミクリーは上記要素の補足
2)作りたいものを作るアプローチ
・アゴンを起点
・アレアを考慮して質を高める
2つの手法をとる目的は以下の通りである。
1):一般受けを狙うため、新たなアプローチを試みるため
2):私が作っていて楽しいものを作るため
1)について、これはイリンクスを安全に提供することを目的とする遊びを心掛ける。
現代はありとあらゆる娯楽があふれており、一生かけても遊びきれないほどのものがある。
その中で少しでもより良いものを体験しようと時間(タイパ)を意識する傾向にある。
それは文字通り眩暈を起こしていると言える。
それが行き過ぎた結果、日常生活とイリンクスが密接になり過ぎていて、より強い刺激を欲しているように思える。
この流れには抗えないので、短時間で満足度の高いコンテンツを提供することを心掛ける。
そのうえで、アレアの受動的な、本質的な面白さを取り込みつつ、それらの整合性をとるためにアゴンを活用する、という流れだ。
一例として、正体隠匿系で説明する。
これは「正体があてられるかもしれない」、という緊張感と「他人の正体を暴く」という暴力性、両方から陶酔をもたらす。
その正体(配役)は運(アレア)として決まる。
あとはそのルールにどこまで深みをもたらせるかにかかってくる。
…難しくいったが、この手の枠組みを産み出すのは難しいので、既存のものに乗っかって創作していくことになるだろう。
上記でいえば『人狼』がまさにそれだが、一方で『BANG!』などのゲームも要素の程度はあれ同じようなゲームである。
また1プレイの時間を短くすることも重要である。
他者を攻撃する、途中脱落があるゲームは人を選ぶ傾向にあるが、プレイ時間が短ければまだ受け入れられると思うからである。
また、イリンクスを前面に押し出したものでいえば、体験型ゲームなどもある。
VRは手軽にイリンクスを押し出せるので、それを主軸に置くことも検討する。
2)については私が作りたいものの傾向である。
もちろん遊べる質を担保するのは前提だが、それよりも作りたいものを優先して作る。
これは私が「創作活動を遊ぶ」ためである。
なので正直なところ作品として残さなくてもいいのだが、他者の目に晒されることを意識するだけで、作品の質が上がるためそのようにしていこうと思う。
総評と自分が思うこと
『遊びと人間』を踏まえて遊びについて理解するとともに、自身の創作活動について振り返ることができました。
そのうえで、私が思ったことを書いていきたいと思います。
これまでは自身が作りたいものを作っていて提供していた、今後はみんなが遊べるものを作りたい
『シャイニングシティ』は「ドミニオンの圧縮って面白くなくね?」『ぱぴぃ☆すたあず』は「トリックテイキングって難しい、マストフォローって嘘つけるじゃん」
というところから作ったゲームです。
それぞれ目的とその解決はできており面白いゲームにはなっています。
ただ残念ながら「遊び手のことを考えられているか」という点では課題は残る形になりました。
これはつまり「そのゲームを遊ぶ意味はあるか」という点です。
今やアナログ・デジタル、商用・非商用(同人)問わず、遊び=面白いのは当たり前となっています。
これは現代では(少なくとも日本では)衣食住の確保はできており、余暇の時間が増えていると思います。
(明確なエビデンスは提示できませんが「手取りが少ない!」「長時間労働!」などの話ではありません)
そのため、急速にエンタメが成長、結果として遊びの水準が高まったことは容易に想像できます。
私たちはボドゲを「手段」と捉えていました。
それは私たちの活動が、以下のものを原動力としているからです。
はやと🐧:創作意欲の発散
楓子🐣:やりたい(好奇心)を実績にする
なのでアプローチとして上記の通りになるのは仕方なく、そのため遊び手のことを考えられておりませんでした。
なので、ボドゲの「プラットフォームとしての強み」を活かしつつ、ボドゲを「目的」として活動していきたいと思います。
つまり、「1)人に遊んでもらうアプローチ」は「目的」、「2)作りたいものを作るアプローチ」は「手段」ということですね。
遊びは楽しむことが目的であり、ルールに則ることが目的ではない。楽しいのであればルールを破壊してもよい
昔の同人はいろいろなゲームがありました。中には「微妙だな…」と感じたものもありました。
それらは「こっちの方が面白い」ということで、オリジナルルール(ヴァリアントルール)を追加して遊んでいました。
遊びはそれくらい自由であるべきだと思うのですが、一方でそれらを許さない風潮になっていると感じます。
その一例をあげます。
・デジタル:バグやグリッチ、MODを許さない
・TRPG:シナリオ改変を許さない
ただ、それらの背景もわかります。
・デジタル:オフライン、オンラインの境目がなくなっている
・TRPG:製作者の望まない改変をされて本来の楽しさを提供されないと制作者の評価が落ちる
これらは遊びの安全性が保たれていないことに由来しており、特にTRPGはSNSと切っても切り離せない(知名度、金儲けが関係する)ために、発生していると思います。
これは非生産性という定義から外れてしまっているので、健全ではないと思うのですが、
資本主義な現代において、遊びがマネタイズに組み込まれているのは仕方ないとも言えます。
相互監視の目から解放されて、自由に遊べるようになれば嬉しいなと思います。
幸いなことに、ボドゲはそこに集まった人によって構築されたクローズな環境かつ、TRPGほどSNS(相互監視)の影響を受けていないので、比較的ルール破壊(身内向けのヴァリアントルール)がやりやすいと思います。
最後に
こちらのCi-enは自身の活動方針をまとめることを主題に書きました。
まだまだ書き足りない部分はありますが、そうしていると一向に公開できないので、区切りをつけるためにもここで公開したいと思います。
もちろん、遊びとは何か、というのは常に考え創作していきたいと思います。
前半部分は「堅苦しい言い回しって文豪っぽくてかっこいいよね!」という遊びをしたため、少々読みにくい部分があると思います。
疑問点はもちろん、自説がある方是非お話ししたいと思います!